94歳のばあちゃんの古いアルバム。関東大震災がいかに悲惨だったかが伺える

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若い世代というか体験していない世代にはわかりにくい関東大震災

かなり大きな地震があって大変だったんだろうな〜くらいにしか思ってない人も多いはず

だけど、この写真を見たら言葉が出てこないくらいの衝撃を受けると思う


実際自分なんか衝撃を受けて、防災はやっぱり重要だって感じた

94歳のばあちゃんが古いアルバムを出してきた

【防災の日】ということで、94歳のばあちゃんが古いアルバムを出してきた。ばあちゃんのお父さんが撮ったり買ったりした関東大震災時の東京や横浜の写真
資料的価値が高いと思うのでスキャンしました。その中から4枚ほど流してみます。

	

【防災の日】うちの94歳のばあちゃんのアルバムより
関東大震災(東京・吾妻橋)

	

【防災の日】うちの94歳のばあちゃんのアルバムより
関東大震災(崩れ落ちた横浜駅と桜木町駅)

	

【防災の日】うちの94歳のばあちゃんのアルバムより
関東大震災(市電通り)

	

【閲覧注意】【防災の日】うちの94歳のばあちゃんのアルバムより
関東大震災(公園に集められたご遺体)

	

迷ったのですが、ご遺体の写真も含めてツイートしました。まだまだカメラや乾板が高価だった時代に写真が趣味だったというばあちゃんの父上は、撮って残さなきゃ!(惨状を伝えるために)と思ったに違いありませんから。もっと強烈な写真もあり衝撃でした。
来るべき震災にもっと備えようと思いました

	

. ツイートしたのは比較的穏便なもの。もっと強烈な写真満載のアルバムです。原爆資料館の印象に近い衝撃。しかも横浜とか桜木町とか普段自分が使っている駅なので規模や場所がわかります。地表全面燃え落ちた壮絶火災。私達は、次回うまくやれるのでしょうか…

	

. かもね。だとしてもばあちゃんが居る間は彼女の宝物。
我々(の世代)はこの惨状を片付けてゼロから全てを築いたんだぞ!っていう自負や矜持を感じます。話を聞いていると凄いです。町内会での議題が町内どの順に水道工事すべきか0次調整だったりするから、調整の次元が違う

	

. 94歳ばあちゃんの話は内容が常にすごくて、確かに彼女のトークは映像か音声で残すべきなんじゃないかもと思う。

関東大震災
満州からの引き揚げ
町内会がインフラ整備をどう調整したか
傷痍軍人会・婦人会がどう機能したか

NHKドキュメンタリレベルの話ばかり

	

おっと出典云々のご時世ですから、メモしておきますと。どれが父君の録った写真で、どれが買った記録写真かは、ばあちゃんにももはやわからんそうですw

	

関東大震災

関東大震災

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒(日本時間、以下同様)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害である。


神奈川県・東京府を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。

被害190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。


津波:静岡県熱海市 6m。千葉県相浜(現在の館山市) 9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で300人余が行方不明。


人的被害

震災直後、尋ね人のビラが貼られた東京駅警備巡査派出所(1968年解体、1972年博物館明治村に移築)

2004年(平成16年)頃までは、死者・行方不明者は約14万人とされていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし、近年になり武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、理科年表では、2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千余」としている。


地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出し、さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。


火災

地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。一部の火災については、工藤美代子が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)及び軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、火薬類は保管していない)等、発火原因が不明な所があり、2日の午後に新しい火災が発生する等不審な点も多い」と主張している。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園。他、現在の墨田区立両国中学校や日本大学第一中学校・高等学校などもこの場所に含まれる)で起こった火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日10時頃とされている。火災による被害は全犠牲者中、約九割にのぼる(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5385人のうち、火災が9万1781人を占めた)ともいわれている。

ある被災者の手記では火災の凄まじさを生々しく伝えている。

出典:関東大震災 - Wikipedia

	

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Sharetube