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【歴史読本】~詩情豊かな神と人の旋律~『創世記』超・入門編 #解説 #聖書 #ユダヤ教 #キリスト 

【歴史読本】~詩情豊かな神と人の旋律~『創世記』超・入門編 #解説 #聖書 #ユダヤ教 #キリスト 

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【歴史読本】~詩情豊かな神と人の旋律~『創世記』超・入門編 #解説 #聖書 #ユダヤ教 #キリスト 
旧約聖書モーセ五書)の中でも、親しみを持って読まれている『創世記』。誰もが知っている物語には、様々な『』と『ユニークな仕掛け』が施されている。日本語訳ではなく、ラビ(教師・研究者)らのヘブライ語原典の解釈をもとに、古代ユダヤ教の詩情豊かな物語の背景を、超・入門編として少しだけ探ってみよう。

● 「はじめのはじまり」<序論部>

創世記』は、その名の通り、とても幻想的でセンセーショナルな物語である。
なにしろ、何の前触れもなく「世界の創り方」から始まっている。
「誰も見たことのない『世界の創造』を、いったい何を根拠に書いたのか」
こんな批判的で皮肉屋にも見える素朴な疑問を抱くのは、本場ユダヤ教のラビ(教師・研究者)たちである。私たちが「そんなはずはない」「どう見ても出来すぎだ」と思う箇所は、大抵ラビたちによって料理済みである。そんな『本場の解釈』と、編纂時の時代背景も併せて、『創世記』の意外な楽しみ方をご案内してゆきたい。

≪書物としての『創世記』≫

起源が大変古く、しかも複雑な経緯で編纂されている『創世記』は、『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』と並び<モーセ五書>と呼ばれる。全39編からなる旧約聖書の中でも最も古い書物(紀元前8世紀ごろ)のひとつである。

旧約聖書は、時代や記者が違うJ書・E書・P書・D書と呼ばれる書物が、お互いに重複した内容を記している。編纂後の『創世記』も、J書・P書の2つの時代・立場の話が混在しているからややこしい。冒頭部分は新しいP書であり、それに古いJ書が続く、といった具合になっている。

この『創世記』を含む<モーセ五書>は、別名「トーラー律法)」と呼ばれ、ユダヤ教徒はこれを研究して教義を固め、生活に反映させ、理想社会の創造を目指している。

聖書・教義というとお堅いイメージに映るが、そこにラビの解釈が加わると、物語は途端に鮮やかな彩を放ち始める。決してかしこまった解釈をしないのが、ユダヤ教のユニークさなのである。

● 「同時代の神々の姿」<総論部>

≪人々に親しまれる神々の登場≫

紀元前1850年ごろ、古代バビロニア人は、エル(いと高き神)、バアル(嵐と豊饒の神)、アシェラ(エルの妻・神々の母)を崇拝し、多くのジクラト(神殿)が築かれた。神々は、人間世界と全く違う所に住み、時折こちらの世界に降り立って交流する、というのが「普通」の考えであった。しかも人間は「神の身体の一部から創られた」という思想が広まっており、人々は神を身近な存在として捉えていた。

だから、神から「啓示」や「法」が一方的に降りてくるなどとは考えない。神と人間は同じ血を引く者であり、同じ悩みを抱える存在。決定的な違いといえば、神の方が力が強く、ちょっと不道徳だったことである(例えばアナトという女神は、バアルの妹であったが、同時に愛人でもあった)。

≪エホバ神の登場≫

そんな中、突然ユダヤ人の前にヤハウェ(以下、エホバ)がその存在を示した。
「私はお前たちに土地を与えて、どこにいても守ってあげよう」
非常に頼もしい神だったが、同時に「厳格」で「理解不能」でもあった。エホバの特徴は、それまでなかった「神は私だけ」という唯一絶対の存在を明言し、「私を理解してはいけない」として人間と深い溝を造り、「十戒」や「」という概念を使って人間の日常生活に首を突っ込むようになったことである。

恐らく当時の人々は「なんだそれは?」と首を傾げたに違いない。何せ身近には温和で親しみ深い神々がいるのに、エホバは優位性を宣言した上で、人間に厳しい律法を課し、罰も与えた。
エホバがどんな神で、何をしてくれるのかがハッキリしなかった。従って多くのユダヤ人は信じる訳もなく、相変わらずバアル神アシェラ神と仲良くやっていた。

やがてエホバは預言者モーセをして「わたしの言葉を伝えなさい」と細かく教えた。それがモーセ五書(『創世記』)の由来であり、エホバを信じぬ人々への挑戦状となる。

● 「無から生まれた不思議な世界」<創世記第一章>

「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、空しく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを覆っていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕べとなり、また朝となった。第一日である」

冒頭でも述べたとおり、『創世記』は大変センセーショナルな内容から始まっている。なにしろ天地創造の前に「神がいた」という思想は、当時ご当地には微塵もなかった。ギリシャ神話でもメソポタミア神話でも、まずそこに天地があってから神が生まれた。因みに日本神話も同じ向きである。
ところがエホバは、「私は天地の前から存在し、『無』から全てを創造した」と伝えている。

この『無から有を創る』という発想は、ユダヤ人に大きな恩恵を齎す。これを上手く扱う術を手に入れたユダヤ人は、数多くのノーベル賞受賞者や芸術家を量産する。それほど画期的で無限の力を秘めた原理だったのだ。

さて、では「それがどうして解ったのか?」という素朴な疑問が浮かぶ。人間の祖であるアダムが生まれるのは六日目……。ということは、そもそも人間には見た記憶がない。

これについてユダヤ教の伝説は、預言者モーセが十戒を受けたとき、神から詳しいレクチャーがあったとする。それを全て書き記したのが<モーセ五書>だ。その中で、神が「こうやって創ったのだよ」と教えてくれた内容が『創世記』になったという。

≪創造二日目以降≫

七日間に亘る天地創造は、二日目も面白い。
神は膨大な量の水を、天の水と地の水に分けている。二日目の作業はこれだけ。しかも途中で終わっている。その証拠に、二日目には「良しとされた」という記述が見当たらない。

一日目に光を創造したとき、「神はその光を見て、良しとされた」とある。その出来栄えに満足したのか思わず「よし! 上出来!」と安堵されたのだろう。それでその日の作業は終わっている。

一方、水の処理は翌日の三日目まで持ち越された。三日目の陸と海を分ける作業が終わったところで、ようやく「良し」とされたのである。この後を見ても、作業を翌日に持ち越したのは「水」だけ。この「水」の苦労話は、中東世界で「水」の存在が如何に重要であるかを示している。再三大きな洪水に見舞われる傍ら、乾期には土地がすっかり干からびてしまう。「治水」を行うには、神の力をもってしても相当の気配りと労力が必要だったことが窺え、物語の奥深さを今に伝えている。

≪神の一日は24時間?≫

その後、神は陸地に草木を生やし、飛ぶもの、這うもの、泳ぐものを創られた。人間の誕生は六日目であり、翌七日目には「ようやく出来たぞ!」と言ってゆっくり休むことにした(安息日)。
どうやら神は、率直に言えば、相当グッタリされたようである。

神は一日目だけで天地を分けている。「さすがは神様。やることが速い!」と思ってしまうが、ユダヤ教ラビはそうは思っていない。ラビらは二千年以上もの長きに亘ってトーラーを研究してきているが、常に素朴な疑問を大切にしている。だから「神様の一日は、わたしたちの24時間と一緒だったのだろうか?」との疑問を抱いた。

まず、神は一日目に「光あれ」と言った。これで光と闇は出来たが、太陽と月が創られたのは四日目になってから。だからそれまで24時間という時間(暦)は存在しなかったはず。
この疑問を感じたラビたちは、片っ端から聖書を捲って手掛かりを探した。これを解き明かすヒントは詩篇90篇にあった。

「神よ、汝の目には千年も昨日今日のように過ぎ行けり」

この一句で、神々の一日が千年ではないかと考えられるようになった。すると天地創造がかなり現実的な話に見えてくる。地球の歴史から考えれば、千年という時間は大した時間ではない。それは時間を超越した存在である神にとっても変わりないだろう。更に言えば、千年あれば、全体のバランスを見ながらの調整も可能となる。神は世界の反応と変化を常に観察・管理していたのだ。

ということは、神は六千年間ぶっ続けで仕事をされたことになる。

七日目は、さすがの神もお休みになった。この神の休息を模した安息日は、「決して仕事をしてはならない」「家事もダメ」「奴隷も働かせてはいけない」とされている。これは神からの指示であり、ユダヤ人の奴隷時代の苦労を慮った気遣いとも取れるが、むしろ神ですら七日目には身動きが取れないほど疲れきっていた、とも読める。天地創造は、私たちが思い描いている以上に苦労があった。そう考えると、自然と「地球はもっと大切に」と思えてくる。

● 「創世記の現代的意義」<帰結部>

冒頭にも述べた通り、旧約聖書は39編の様々な書物から構成されており、全体から見れば『創世記』はその一部に過ぎない。ところが『創世記』には「全ての始まり」が記されており、の真意と人間の過ちの根源が凝縮されている。

ユダヤ教において、『創世記』をはじめとするトーラー律法研究は、永遠に終わることがない。旧約聖書の醍醐味は、触れる人それぞれの感性が反映され、ひとつの解釈が生まれれば、そこから更に派生・発達してゆくことにある。だからその中にある物語も、長い時間と無数の人々の手によって新しく生まれ変わってきた。このように多くの想像力と創造力が注ぎ込まれた聖書は、わたしたち一般人にも多くの楽しみやインスピレーションを与えてくれる。

アダム創造時、神は「自由」を人間に与えた。ユダヤ教は、この「自由」の正しい愉しみ方をも見出してきた。旧約聖書後発生するキリスト教では、セックスなどを忌み嫌う風潮がある。しかし、日常生活を厳しく律することで有名なユダヤ教も、セックスやぶどう酒など、神が与えた楽しみはしっかりと守り続けている(勿論、守るための『上手い解釈』や『運用法』も発展することになる)。
ユダヤ人は毎年トーラーを読み返すが、読めば読むほど新しい疑問と発見にぶつかるという。

ただの「教義」「」と見れば味気ないが、どうもユダヤ人はそうは思っていないらしい。時には批判的に、時には皮肉たっぷりにトーラーを愉しむ。決して「宗教」という狭い世界に閉じ籠もらないのがユダヤ教の特異さであり、旧約聖書にもそうさせない奥深い魅力があるのだろう。

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著者プロフィール
 Pride of the Japanese

国際ボディガード歴20年。世界を飛び回るSharetubeトップキュレーターの一人。護身術師範。悪質なクレーマーや反日左翼と戦う某公的コンサルティング団体顧問。喧嘩上等。「I'm proud of the fact I was born in Japan.」