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【あなたの知らない歴史】戦国インテリジェンスのプロ=「軍師」事始め in 日本。 #基礎講座   #山本勘助
殿堂

【あなたの知らない歴史】戦国インテリジェンスのプロ=「軍師」事始め in 日本。 #基礎講座 #山本勘助

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【あなたの知らない歴史】戦国インテリジェンスのプロ=「軍師」事始め in 日本。 #基礎講座   #山本勘助
近代戦における戦略・戦術研究のプロまでも納得させた戦国時代の「インテリジェンス」であるが、実際のそうした活動は、どういう人物によって、行なわれたのであろうか?

そこで、頭に思い浮かぶのは、「軍師」という存在である。

そして、その「軍師」のイメージとして、最も連想し易いのは、古代中国史でいえば、『三国志演義』の諸葛亮孔明であり、日本戦国史では、山本勘助であろう。

今回はその山本勘助が実在したかどうかについて、詳しい情報をご提供しようと思う。

「戦国インテリジェンス」のプロ=「軍師」

もちろん、場合によっては、この山本勘助と並んで、「日本三大軍師」と称される、竹中半兵衛や、黒田官兵衛を思い浮かべる人も多いだろう。

彼ら「軍師」の特徴は、名将と名高い戦国武将の参傍らに侍し、困難な戦局を冷静に分析し、適切な戦略・戦術を進言することにより、彼らの覇業を補佐した「軍事顧問」としての存在にある。

彼らに共通するのは、明晰な頭脳と豊富な知識や経験を持ちながら、世に認められる機会を得られなかったことから境遇に恵まれず、主君に巡り合うまでの長い年月には、放浪や隠棲生活を余儀なくされていたことである。

「士為知己者死、女為説己者容」とは、史記・刺客伝の中に出てくる有名な言葉であり、
「士は己を知る者のために死し、女は己を説ぶ(よろこぶ)者のために容貌を整える」という意味である。

まさに「軍師」は、己の価値を正しく評価してくれる戦国武将と出会い、自らの英知を試す機会を与えられた結果、文字通り、身命を賭して、主家を勝利へと導くために、粉骨砕身の働きをするのである。

そして、何よりも「軍師」に共通することは、そのほとんどが不自由な体や不健康を抱え、主家の繁栄を見ずして、志し半ばにて、病に倒れたり、戦場の露と消えているのである。

中には、黒田官兵衛のように、智謀の将として、戦国大名にまで上り詰めた名参謀もいるが、彼の場合は、倅の長政の勇猛さによる軍功に負うところが大きいので例外といえよう。

いずれにしても、「軍師」は薄命であることが、成立条件となっているようだ。

■「軍事研究」事始

さて、この「軍師」であるが、実のところ、その存在自体がフィクションに近いと見做されている厳しい現実がそこにある。

なぜなら、「軍師」とは、天下泰平の世となった江戸時代以降に、武士階級の教養として、広く嗜まれた軍事研究、すなわち「軍学」における一種の武士の理想像だったからである。

この「軍学」とは、戦場における戦術・戦略などの戦闘法を指す「兵法」や、難攻不落の城を築くテクニックである「築城術」などを体系化し、研究された「軍事学」である。

古くは、「孫子の兵法」に始まり、日本においても、南北朝期に楠木正成が、千早赤坂城に篭って、幕府軍を相手に縦横無尽のゲリラ戦を展開した「楠木流軍学」や、忠臣蔵の討ち入りの際に、轟いた陣太鼓の「山鹿流」も、「軍学」の一派である。

そうした「軍学」は、太平の世にあっては、次第にマニアックな「机上の空論」と化し、それぞれの流派の祖とされる「軍師」は、ますます崇められる結果となった。

「軍学」で語られるような合戦の話や、戦国武将の武勇伝に惹かれるのは、武士階級のみ
ならず、庶民の間でも、いわゆる「軍記物」といわれる講談や歌舞伎などの演目として、
好んで取り上げられることが多くなり、それらがさらに「軍師」の神格化に拍車を掛けた。

たとえば、「軍師」のルーツと言われる『三国志演義』の諸葛亮孔明は、森羅万象のあらゆる知識に精通し、陣形から方策までを立案したり、運気や勝機を読むなどの能力に長けていたことから、時には呪術まで駆使できるほどの超人的な存在として、今なお、歴史小説などに描かれるのは、その好例といえるだろう。

このように「軍師」のカリスマ化が進む中で、日本の歴史上、「軍師」と聞けば、おそらく誰もが最初に思い浮かべるのが、「山本勘助」であることには、まず間違いないだろう。

徳川家の家臣には、武田の遺臣が多く召抱えられていたという事情もあり、武士の間では、
神君家康公すら、脅かした戦国最強の武将・武田信玄の名参謀として、山本勘助の人気は、
すでに江戸時代の初期から、根強いものであった。

しかし、実は、この山本勘助という「軍師」は、武田家中には存在していなかったという、
日本の歴史学の常識があるのは、ご存知だろうか?

■山本勘助は実在しなかった!?

では、ここで山本勘助という「軍師」の人物像について、詳しく検証してみよう。

山本勘助といえば、2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』で主人公として、脚光を浴びたことは、私たちの記憶に新しい。

特に、“越後の龍”こと、上杉謙信と、“甲斐の虎”こと、武田信玄が、互いに雌雄を決しようとした「第四次・川中島の戦い」において、自らが招いた戦略ミスの責任を取る形で、戦場の露と消えた悲劇的な末路とあいまって、その生き様は、多くの小説やドラマ、映画などで繰り返し描かれている。

そうした山本勘助にまつわるエピソードは、『甲陽軍鑑』という歴史書に克明に記されている。

『甲陽軍鑑』とは、武田信玄による版図拡大の事跡を中心に、武田家やその家臣団の逸話を紹介し、のちに織田・徳川連合軍の侵攻による武田勝頼の滅亡までを描いた一大軍記である。

この『甲陽軍鑑』には、武田信玄や勝頼の合戦の記事を中心に、武田氏の戦略・戦術、軍法、刑法などを記している軍学書という側面もあることから、江戸時代を通じて、日本中の武士階級の間で親しまれた。

信玄の兵法や築城法は、「甲州流軍学」として崇められ、その始祖である山本勘助の事跡を記すバイブル的存在が、他ならぬ、『甲陽軍鑑』だったのである。

しかしながら、その記述には明らかな誤謬が散見されることから、その信憑性については、同じく、江戸時代から大いに疑問視されてきたという経緯もあった。

さらに明治以降になると、近代的な実証主義歴史学の観点から、その史料的価値は低いとみなされ、長らく、学術論文などへの引用や論証とすることは認知されてこなかった。

そして、致命的なことに、江戸時代以降、人口に膾炙されてきた山本勘助という武将名は、この『甲陽軍鑑』以外の史料では見られないことから、日本の歴史学においては、長らく、架空の人物とされてきたのである。

■逆転!山本勘助は実在した!!

ところが、昭和44年(1969年)に、NHKの大河ドラマで「天と地と」が放映されると、北海道釧路市在住の視聴者から、自宅に伝わる古文書の鑑定依頼が寄せられた。

この視聴者の先祖は、武田家の家臣であり、後に米沢藩士となり、さらに明治時代には、屯田兵として北海道へ移住した由緒があったことから、この古文書は『市川文書』として
新たな論争を呼ぶきっかけとなった。

そもそも、この『市川文書』とは、弘治3年(1557年)の第三次川中島の戦いに際して、
信濃国衆の市川藤若という戦国武将が、上杉謙信への備えとして計見城を築城したことに対して、信玄が感謝の気持ちを伝えた書状であった。

そして、なんと、その口上を述べる使者の名前に「山本菅助」の文字が書かれてあったのである。当時の手紙や書状などの文書には、当て字や誤字は日常的であったから、「勘助」が「管助」と書かれていたとしても、そう不自然な状況ではない。

この新発見は、武田ファンのみならず、大勢の歴史ファンにより、歓声と共に迎えられた。
なぜなら、「山本勘助」の「非軍師説」は、江戸時代の元禄年間に書かれた「武功雑記」という書物の中で、すでに、『甲陽軍鑑』の贋物説と共に、有力に証言されていたからである。

実際、山本勘助ほど、謎に包まれた人物も珍しいといえるだろう。

例えば、山本勘助の墓とされる史跡は、いくつか存在しているし、生家とされる屋敷や、
位牌が伝わる山本家も実在している。

さらには、江戸時代には、勘助の子供や、ひ孫までが名乗り出たという記録も伝わっているのである。

そして、なにより、『甲陽軍鑑』に記されている彼に関する情報が、あまりに膨大であることに対して、他の史料からは、一切、その存在の痕跡が伺えないという、アンバランスが
一層、謎を掻き立ててきたのである。

一度は灰燼に帰した武田家の歴史だけに、かつての栄光や業績を偲ぶのは難しい。

それゆえに、この『市川文書』の出現は、まさしく、歴史的事件だったのである。

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著者プロフィール
 Pride of the Japanese

現役キュレーターの中でトップのアクセス数を誇るSharetuber。世界を飛び回る国際ボディガード歴20年。護身術師範。悪質なクレーマーや反日左翼と戦う某公的コンサルティング団体顧問。喧嘩上等。「I'm proud of the fact I was born in Japan.」