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【山本勘助の生き様】川中島の戦いに学ぶ失敗の本質「不祥事」に際しての身の処し方とは? #歴史   #武田信玄 #上杉謙信

【山本勘助の生き様】川中島の戦いに学ぶ失敗の本質「不祥事」に際しての身の処し方とは? #歴史 #武田信玄 #上杉謙信

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【山本勘助の生き様】川中島の戦いに学ぶ失敗の本質「不祥事」に際しての身の処し方とは? #歴史   #武田信玄 #上杉謙信
戦国時代北信濃への武田信玄の進出を長年にわたり、立ちはだかっていた村上義清であるが、ついには、山本勘助の盟友・真田幸隆の謀略により、難攻不落を誇っていた戸石城を奪われてしまった。

以来、戸石城は信玄の北信濃攻略の前線基地となり、もはや、義清には戸石城を奪還する気力もなく、ついには天文二十二年(1553)に信玄に本拠地の葛尾城を攻められると、戦わずして、小県にある支城・塩田城に落ち延びた。

その塩田城も武田勢に攻められると、小さな抵抗を試みたものの、すぐに諦め、ついには信濃を放棄して、越後春日山城上杉謙信を頼って落ちて行ってしまった。

この一年前には、中信州で勢力を誇っていた小笠原長時も、信玄に追われて謙信を頼っており、さらには北信濃の高梨氏や須田氏、島津氏といった豪族たちも、こぞって謙信を頼っていくという、まるで北信濃の雪崩のような現象が起きていたのである。

ここまで多くの豪族に頼られた上杉謙信としては、もはや、武田軍による北信濃の蹂躙を見過ごしに出来なかったことは、言うまでもないだろう。

かくして、村上義清が越後に落ち延びた天文二十二年(1553)八月の、その月のうちに信州川中島に出陣しており、そこで第1回目の「川中島の戦い」が行なわれたのだ。

世に言う、「川中島の戦い」とは、実は12年間に渡って、5度に及んで繰り返されている長期戦であり、信玄のみならず、謙信にとっても、「宿命の戦い」だったのである。

そして、この5度の戦いのうち、最も、激戦となったのが、永禄四年(1561)の第4次「川中島の戦い」であり、この戦いにおいては、武田軍は信玄の実弟である。
武田信繁のほか、山本勘助をも失ってしまう大損害を蒙ってしまったのである。

この戦いでは、前半戦では上杉軍が勝利し、後半戦では武田軍が盛り返した結果、またもや引き分けとなったわけであるが、この前半戦での武田の敗因は、ほかならぬ、山本勘助の献策が、謙信によって、裏を掻かれたことによるものであった。

その献策の失敗と、山本勘助の責任の取り方は、いかなるものであったのだろうか?
今回は「失敗」に対する責任の取り方を戦国の名将から学んでみたいと思う。

教訓:責任の取り方

上杉謙信という男は、実際、何を考えているのか、把握しずらい面が多くあったようだ。

生涯不犯毘沙門天信仰、の人、キレやすい性格、唯我独尊、etc...。

これらの信仰やポリシー、性格や性質は、大なり、小なり、誰にでもあることだが、それが人智を超えたレベルであったり、もはや、狂気ともいえる状況に足を踏み入れていた場合、そういう上司を戴く部下の苦労は計り知れないものがあったことは、想像に難くない。

それが、上司であれば、部下として、従う組織に属している以上、ある程度の常識を超越したエキセントリックな言動に付き合わされるのは、致し方あるまい。

それも給料のうちだと堪えて、黙って従うほかないだろう。

しかし、そんなトップに率いられた敵軍と凌ぎを削る運命を強いられた側の苦労は、並大抵のものではなかったことだろう。

なにせ、越後を出陣し、川中島に到着したという急報を聞いて駆けつけても、相手は妻女山に陣を構えて、なんと、20日以上も動こうとしないのだ。

これも作戦のうちといえばそれまでだが、常識的に考えれば、1万3千もの兵団が20日以上も山上で野営しているという状況は、どう考えても、狂気の沙汰としか、言いようがないだろう。

この膠着した状況を打開する方策を提案せよ!と命じられた勘助が、武田軍を2つに分け、妻女山から追い落とした後、挟撃する作戦を提案したことは、まことに利に叶っている。

さらに、別働隊に1万2千もの兵力を割き、本隊を8千としたことも、上杉軍が1万3千であったことを考えれば、第一の主戦場を妻女山の山上と捉えれば、ほぼ互角の投入兵力により、戦局を有利に導こうとしたという事実も、また、合理的過ぎるほどの判断だったと認めざるをえない。

つまり、勘助が考えた「啄木鳥戦法」自体は、極めて合理的な選択であり、勘助の判断が間違っていたということはないだろう。

しかし、謙信は、海津城内のわずかな動きすら、見逃さなかった。これまた、狂気のなせる技だといえるだろう。

翻って、勘助の思考や思想は、常に合理的であり、常識的なものであったから、よもや、謙信が武田軍の奇襲を掛けるその日に限って、音も無く、妻女山を下って布陣するとは、夢にも思わなかったことだろう。

結果論からいえば、この時点で戦略を謙信に見抜かれていたことが、勘助の失敗といえば、失敗と言えるが、これはなにも、勘助1人の責任ではあるまい。

おそらく、これほどの大敗を期すれば、「啄木鳥戦法」を提案した勘助の責任は免れないだろうし、ひいては、それを受け入れた信玄にも責任論が及ぶことが考えられた。

「長篠の戦い」では、別働隊を軍義にて提案した酒井忠次は、信長より一蹴されたものの、軍議を終えた後、すぐに信長に密かに呼びつけられ、作戦の決行を命じられたという。

信長は、軍議の席には武田軍の間諜が紛れ込んでいるリスクから、その場では、敢えて、採用しなかったのであるが、おそらく、海津城内には、上杉の忍びが紛れ込み、この奇襲の情報を事前に謙信にもたらしたのだろう。

もっとも、「長篠の戦い」では、織田・徳川連合軍は、総数2万1千に対して、別働隊は4千であったから、隠密行動が行なえたが、「川中島」では主客転倒する配軍だったので、自ずと目立たざるを得なかったことは、致し方ないといえるだろう。

いずれにしても、これは武田軍全体の敗因であり、信玄より請われて献策した勘助が、命を賭して責任を取ることで、信玄の名誉は守られた結果となった。

原種永の制止の手を振り解き、「行くことは、川の流れの如し」という言葉を残して、敵陣へと馬を走らせた勘助の最期は、まさしく、勘助らしい、死に様だといえる。

おそらく、千曲川や犀川の川音を間近に感じながら、あたかも、水が高きから低きに流れるが如く、自分が敵陣に単騎突入して失敗の責任を全うすることは、ごく自然の成り行きだと主張して、運命の流れに従ったのだろう。

かくして、信玄の父とも言える存在だった、山本勘助晴幸入道道鬼斉は逝ったのである。

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著者プロフィール
 Pride of the Japanese

国際ボディガード歴20年。世界を飛び回るSharetubeトップキュレーターの一人。護身術師範。悪質なクレーマーや反日左翼と戦う某公的コンサルティング団体顧問。喧嘩上等。「I'm proud of the fact I was born in Japan.」