世界で起こった謎の集団失踪事件まとめ

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1950年:ノースウエスト・オリエント航空2501便


ミシガン湖に沈んでいると思われるものの、機体は発見されていない。ダイバーたちによって座席などの残骸や遺体の一部は発見されたが、機体そのものは見つからず、当時ではアメリカ史上最悪の航空機事故となった。

 ニューヨークからミネソタ州ミネアポリスを経由し、ワシントン州シアトルに向かっていたダグラス社製DC-4機に搭乗していた乗客55名と乗員3名は墜落によって死亡したと思われる。現地のある歴史家は2008年、1950年代に事故の犠牲者と思われる遺体が多く岸に流れ着いたが、家族らに知らされることなく無標の墓にまとめて埋葬されたと証言している。

出典:

	

1950年:ノースウエスト・オリエント航空2501便

			

1962年:フライング・タイガー・ライン739便


フライング・タイガー・ライン739便失踪事故(Flying Tigers Line Flight 739)とは、1962年にアメリカ本土から南ベトナムに向かっていた、旅客機がグアムとフィリピンとの間を飛行中に失踪した航空事故である。機体が発見できなかったため結局真相がわからなかった。

フライング・タイガー・ライン739便(ロッキード・L1049H スーパーコンステレーション、機体記号:N6921C)はアメリカ陸軍空輸サービス(MATS)の委託を受け南ベトナムのサイゴンに兵士を送り届ける便であった。アメリカ合衆国カリフォルニア州にあるトラビス空軍基地を出発した739便には民間人である乗員11名のほかの乗客は全て軍人であり、アメリカ兵93名と南ベトナム兵3名が搭乗していた。

経由地であるグアムからフィリピンのマニラにあるクラーク空軍基地に向けて離陸後、夜間飛行をしていた最中に18000フィート(5500メートル)を巡航しているとの交信を最後に失踪した。ただちに大規模な捜索が多くの航空機と船舶を動員して1週間にわたり捜索したが一切の痕跡を発見することが出来なかった。そのため107名全員は死亡したものと判断された。

後にフィリピン東方1300kmを航行していた船舶の乗組員から、739便がその近辺を飛行していたと思われる1962年3月16日午前0時30分(現地時間)ごろ、空中で爆発し2つの火の玉になって海面に落下していったという証言があった。そのためなんらかの原因で墜落したと推定されたものの、機体という物証を得られなかったため、事故原因も特定されることはなかった。

出典:フライング・タイガー・ライン739便失踪事故 - Wikipedia

	

1962年:フライング・タイガー・ライン739便

			

1965年:アルゼンチン空軍C-54機


コスタリカのジャングルの奥地か、カリブ海の底か。11月1日に68名を乗せたまま姿を消したアルゼンチン空軍所有のダグラス社製C-54機の行方は今も分かっていない。

 乗員からは救難信号が発せられ、コスタリカの都市リモンを迂回するとの知らせがあったが、それを最後に交信は途絶えた。その後、ボカス・デル・トーロ列島で25個の救命ブイや乗員の所持品、機体の破片が発見されたが、機体の本体や乗員らが見つかることはなかった。

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1965年:アルゼンチン空軍C-54機

			

1979年:バリグ・ブラジル航空967便

成田空港から飛び立ったヴァリグ・ブラジル航空967便が、太平洋上で忽然と消息を絶った。 

967便は救難信号を発しておらず、また墜落後も電波を発し続けるフライトレコーダーやボイスレコーダーからの電波も検出されなかった。


なんの手がかりも得られないまま月日は流れ、967便は行方不明のまま捜索は終結し、乗員6名は全て死亡したものと認められた。

しかし、好天にもかかわらず大型ジェット機が救難信号すら発することなく墜落し、残骸も発見されないということが、本当に起こりえるのだろうか?


967便は、かねてより超常現象研究家が唱えていた「太平洋の三角地帯(ドラゴントライアングル)」で消息を絶ったことから、

次元の裂け目に迷い込んだとか、あるいはUFOが宇宙へ連れ去ったなどと、ミステリアスな説が語られていたが、

残念ながら根拠となるような情報は全く提供されていない。


また、967便にはブラジルのピカソとも称された日系人画家「マナブ間部」の絵画が搭載されており、

ハイジャックあるいは保険金目当ての偽装遭難との見方もあった。だが、失われた作品が美術市場に現れなかったことなどから、現在では否定されている。


また、ソ連(当時、現ロシア)の陰謀という説も唱えられた。極秘に搭載された軍事機密、あるいは新兵器を入手するため、

ソ連軍が967便を領内へ強制着陸させた、あるいは洋上で撃墜し、残骸などを潜水艦で回収したというのだが、これも根拠は全くない。


美術品目的でも機密目的でも、乗員が協力しなければ救難信号を発せずに機体を乗っ取ることは困難だが、

967便の乗員は6名とも身元がしっかりしており、私生活にも問題を抱えていなかった。


中でもジルベルト=アラウージョ・ダ・シウバ機長は会社から名誉金賞(ブルベ・ド・オウロ)を授与され、

親族にブラジル空軍の士官がいるなど、真面目な上に航空界とも深い縁を持つ人物で、軽々しく犯罪やスパイ活動に手を染めるようなことは考えられなかった。


では、967便はなぜ、忽然と姿を消したのであろうか?

出典:

	

1979年:バリグ・ブラジル航空967便

			
その他、未だに解明していない世界の集団失踪事件

メアリー・セレスト号事件

1872年12月5日の午後、ジブラルタルに向け、ポルトガルのリスボンから西に700kmほど離れた大西洋上を航海中の英国船、「デイ・グラシア号」のモアハウス船長は、一隻の奇妙な帆船が漂流しているのを発見した。奇妙というのは、その船が理由も無く右舷開き(帆を左側に広げること。風が右から吹いた時にこの状態になる)で帆走していたからである。明らかにおかしいと感じたモアハウスは、船に呼びかけ、信号を発したが、船からは何の返事も無く、船上に人影すら見当たらない。船体には、「メアリー・セレスト(Mary Celeste)」(注1)とあった。

 メアリー・セレスト号は、アメリカ船籍を有する全長31m、282トンのブリガンディン型帆船で、原料アルコールを積み、11月5日にニューヨークからイタリアのジェノヴァに向けて出帆していた。乗組員は、ブリッグズ船長とその妻セアラ、2歳の娘ソフィアに、乗務員7人を加えた計10人。モアハウスはこの船を知っていた。彼はブリッグズ船長と友人で、出帆前に会食をしたばかりか、ニューヨーク港では互いの船を隣り合わせに接岸していたからである。デイ・グラシア号がニューヨーク港を出帆したのは、メアリー・セレスト号が出帆した10日後であった。


 モアハウスは一等航海士のオリヴァー・デヴォー他2名に命じ、メアリー・セレスト号を調べさせた。ボートで接近し、船によじ登る3人。船上には誰もいない。救命ボートが失われており、乗員は何らかの理由で船を棄てたのだと考えられた。しかし何故か? 甲板は嵐で傷んでおり、甲板の下には海水が侵入していたが、全体として大きな損傷は見られず、船を棄てる理由が見当たらない。


 続いて3人は船内を調べ始める。暴力の形跡は無い。食料は十分、衣服も残ったまま。積荷の原料アルコールも残されたままであったが、樽の一部が壊れて中身が流出していた。船長室には航海日誌が残されていたが、アゾレス諸島の西160kmに位置しているという11月24日の記述を最後に途絶えていた。また、経線儀や六分儀といった航海計器類が失われており、やはり――人影は見当たらなかった。


 乗組員失踪の謎は不明のまま、モアハウスはデヴォーに命じ、メアリー・セレスト号をジブラルタルに入港させる。海難救助料が手に入ると思っていたモアハウスを待っていたのは法廷であった。ジブラルタルの官憲が疑惑を抱いたのである。「ブリッグズとモアハウスが共謀して事件をでっちあげ、救助料をせしめようとしているのではないか?」。一方、この説を自国民に対する愚弄と受け止めたアメリカ側は、こう反論する。「ブリッグズは高潔な人格者である。それに船の売却益は海難救助料を上回る(ブリッグズはメアリー・セレスト号の共同所有者の一人であった)……」。その後の調査で共謀の疑いが弱まると、今度はモアハウス達がメアリー・セレスト号に海賊行為を働いたのだという説まで飛び出した。最終的にはいずれの疑いも晴れたものの、モアハウスにしてみれば船を救ったつもりが、とんだ大迷惑を被った格好であった。


 米英両国を巻き込んだ論争が繰り広げられたものの、結局、メアリー・セレスト号の乗組員の行方は不明のまま、やがて事件は忘れ去られていった。ところが、デビュー前のアーサー・コナン・ドイル――シャーロック・ホームズの生みの親――がこの事件に目をつけた。彼は事件の細部に手を加え、白人に恨みを抱く一人の黒人が船を乗っ取るという筋書きの短編小説、『J・ハバカク・ジェフスンの遺言』を書き上げる。もっともらしい書きぶりのこの小説は、メアリー・セレスト号事件の主任検察官が「J・ハバカク・ジェフスンなる人物は存在しない」と大真面目に反論したこともあって大きな評判を呼び、ドイルは作家としての地歩を固め始める。


 同時に、メアリー・セレスト号事件も再び蘇った。以後、メアリー・セレストの名は史上最も有名な幽霊船の名として、虚実を合い混ぜつつ今日まで語り継がれている。

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メアリー・セレスト号

			

ロアノーク植民地集団失踪事件


1584年、時のイギリス女王エリザベス1世の寵臣、ウォルター・ローリーが率いるアメリカ大陸探検隊が、ロアノーク島に辿り着いた。およそ6週間の滞在を経て、この地が植民に適しているという感触を得たローリーは、帰国後、早速植民地建設計画を練り上げ下院へ提出する。女王はローリーに対し、サーの称号と、発見した地域を自身にちなんでヴァージニアと呼ぶ許可を与えてこれに報いた。

 1585年7月、ローリーのいとこのサー・リチャード・グレンヴィルと、アイルランド戦役で経験を積んだラルフ・レーンが率いるおよそ600名からなる探検隊が、再びロアノーク島に到着する。ローリーの報告とは裏腹に、ロアノーク島近辺は決して植民に適しているとは言えなかった。近海は島だらけで、浅瀬が多く、常に座礁の危険があったのだ。取り敢えず一隊はロアノーク島北部に砦を建設し、グレンヴィルは進捗状況を報告するため帰国。一方、107名の男と共に砦に残り守備を担っていたレーン達は、現地のインディアンと衝突して激戦を繰り返していた。彼らは戦いには長けていたものの、植民に関しては素人同然であったため、食料の欠乏を如何ともしがたく、すっかり植民の意欲を失っていた。サー・フランシス・ドレーク率いる大探検隊に救出されると、これ幸いとばかりに一緒に帰国してしまう。


 ロアノーク島への最初の植民はみじめな結果に終わったが、1587年5月8日、今度は前回の航海に測量士兼画家として参加していたジョン・ホワイトが率いる一団150人が、再度ロアノークへ向けて出発する。ロアノーク島に到着した一団は植民を進め、ホワイトの娘が女児を出産し、植民地にちなんでヴァージニアと名づけられるといった慶事もあった。ちなみに彼女は植民地で生まれた最初の白人である。しかし、インディアンとの衝突が数を増すなど、状況は深刻になる一方であったことから、ホワイトはローリーに救援隊派遣を求めるべく帰国する。ところが当時のイギリスは、来るべきスペイン無敵艦隊との決戦に向け一国を挙げて準備が進行中。遥か西の植民地などに余計な船と人員を割いている余裕などあるはずもなく、救援は先延ばしとなる。


 ようやくホワイトが救援隊と共にロアノークに到着したのは1590年8月17日。しかし島は山火事がちらつく他は不気味に静まり返っていた。イギリスの音楽を演奏し、何度も呼びかけるも、全く返事が無い。翌18日にホワイト達は島に上陸、捜索を始めたが、小屋や防護柵は雑草に覆われているばかりで、娘も、孫娘も、他の仲間も、誰一人姿を見出せない。


 一体、皆はどこに行ってしまったのか。やがて一つの標識が見つかり、きれいな大文字ではっきりこう記されていた。

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アイリーン・モア灯台事件

西暦1900年12月15日、灯台の光が突然消えました。場所はスコットランドのヘブリデス諸島から西に30キロほど離れた島、アイリーン・モアです。ここでは、3人の男性職員が泊まり込みで働いています。漁船の連絡を受けた別の職員ひとりが灯台へ行きましたが、3人の姿はどこにもありませんでした。時計は止まっており、暖炉の灰も冷たくなっていました。しかし、室内はきちんと整頓され荒らされた様子はまったくなく、灯火用のオイルも準備されていたのです。ただ、雨具3人分と工具箱ひとつが室内から消えていました。テーブルに置かれた日誌は、12月15日の午前9時で終わっています。この日、いつも通り仕事の準備をしていた3人に、「何か」が起きたのです。


翌日、調査隊がアイリーン・モアに上陸。さらに詳しく調べたところ、島の西側の断崖付近に暴風雨の形跡が発見されます。そこにはロープやライフベルトも残されており、3人が雨具を身につけ工具箱を持って、ここまで来たのは確かでした。ただ不思議なことに、彼らが消えた12月15日、アイリーン・モアの近辺は完全な無風の快晴だったのです。何かが発生してひとりが海に転落し、それを助けようとしたふたりも落ちてしまったのでしょうか。とすればライフベルトを装着するので、崖の上に残されるはずはないのです。この謎と、晴れていたのに暴風雨の形跡があった謎。何より、3人の男性はどこへ消えてしまったのか? アイリーン・モアには、侵入する者を歓迎しない妖精がいるという伝説が、古くから語り継がれているそうです。


ヒトが消えるお話では、船の乗組員が消失した「メアリー・セレスト号事件」がよく知られています。ただ、これは実際には原因が解明されていて、超常現象的なお話はのちに付け加えられた創作です。しかし「アイリーン・モア事件」は現実に発生した出来事であり、現在もその謎だけが語り継がれる人間消失事件なのです。

出典:灯台職員3人が消失した「アイリーン・モア事件」 ( 都市伝説...

	

アイリーン・モア灯台

			

ノーフォーク連隊集団失踪事件

第一次大戦中の1915年8月28日、連合国軍は、同盟国軍側であるオスマン帝国の首都イスタンブールを制圧すべく、ガリポリ半島に軍を展開しつつあり、イギリス陸軍ノーフォーク連隊三百余名もサル・ベイ丘の第60号丘陵の占拠を目指し歩みを進めていた。以下はオーストラリア及びニュージランドの連合部隊、通称アンザック軍団が目撃した奇妙な出来事である。


 その日は快晴であったが、丘の上には複数の奇妙な雲の塊が漂っていた。不思議なことにその雲はどれも形が似通っており、風に流されることもなく一箇所に固まっていた。丘の上へと行軍を続けるノーフォーク連隊の将兵は次々に雲の中へと消えていき、やがて最後の一人も姿を消した。


 およそ1時間後、雲は空に流され消えた。当然、雲の向こうにはノーフォーク連隊が展開している筈であった。ところが雲が去り、アンザック軍団が目撃したのは、無人の丘陵地帯だったのである。ノーフォーク連隊の誰一人として雲から出てきていない以上、彼らはそこに居なければならなかった。だが、居なかった。

 やがて戦争が終結し、イギリスはオスマン帝国にノーフォーク連隊将兵の返還を要求した。イギリス政府は、消息を絶ったノーフォーク連隊はオスマン帝国軍の襲撃を受け全滅、多数が捕虜にされたと考えていたからである。だがオスマン帝国は、そのような部隊との交戦記録は無いとしてイギリスの要求を否定。一部始終を目撃していたアンザック軍団の将兵も、当時いかなる戦闘行為も行われなかったと署名つきで証言、オスマン帝国の見解を裏付けた。


 結局ノーフォーク連隊は「行方不明」として処理された。彼らに何が起こったのかは今日でも不明である。

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イヌイット村人集団失踪事件

1930年12月、北カナダのモウンティ町から北の方へ600㎞ほど行ったところにある小さなエスキモーの村を、一人の猟師と騎馬警官隊が訪れた。

だが、不思議なことに、この村には大人と子供を合わせて30人くらいのエスキモーが住んでいたはずなのに、人っ子一人おらず、村は完全に静まり返っていた。


そして村の小屋や、テントの中には、火にかけて、食べかけの鍋の中身がそのまま残っていて、すでに凍りついていた。また、エスキモーの人々が、寒さをしのぐアザラシの毛皮の上着もそれぞれの小屋に全部残されていた。


また、エスキモーにとっては命綱とも言えるライフル銃も全て残されてあり、数十頭の犬は木につながれたまま餓死していた。また、ソリや船もそのまま残されてあり、これら、生活にとって大変貴重な物を全て残したまま、30人全員がどこへ消えたのか今だに判明していない。

出典:カオスちゃんねる

	

イヌイット村人集団

			

フィラデルフィア計画

1943年10月28日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの海上に浮かぶ「エルドリッジ」を使って、遂に大規模な実験が秘密裏に行われた。

当時は第二次世界大戦の真っ只中であり、実験は新しい秘密兵器「磁場発生装置テスラコイル」を使い、「レーダーに対して不可視化する」というものであった。 エルドリッジの船内には多くの電気実験機器が搭載されており、そのスイッチを入れると強力な磁場が発生 駆逐艦がレーダーからはもとより、肉眼でも認められなくなった。実験は成功したかのように見えたが、不可思議な現象が起こる。実験の開始と共に海面から緑色の光がわきだし、次第にエルドリッジを覆っていったのである。次の瞬間、艦は浮き上がり発光体は幾重にも艦を包み、見る見る姿はぼやけて完全に目の前から消えてしまった。

「実験開始直後に、駆逐艦はレーダーから姿を消す」、ここまでは実験参加者達の予定通りであった。しかし直後にエルドリッジは「レーダーから」どころか完全に姿を消してしまい、おまけに2,500km以上も離れたノーフォークにまで瞬間移動してしまっていたのである。それから数分後、またもや発光体に包まれ艦はもとの場所に瞬間移動した。

再び戻ってきたエルドリッジだが、驚くべきことに乗員は、次のような惨状に陥っていた。


体が突然燃え上がった

衣服だけが船体に焼き付けられた

甲板に体が溶け込んだ

発火した計器から火が移り、火だるまになった

突然凍り付いた(冷凍化)

半身だけ透明になった

壁の中に吸い込まれた


また、生き残った乗組員も精神に異常をきたし、エルドリッジの内部は、まさに地獄絵図の如くであった。唯一、影響を受けなかったのは、鉄の隔壁に守られた機械室にいた、一部のエンジニアたちだけだった。

こうして実験自体は成功したが、「行方不明・死亡16人、発狂者6人」という、取り返しのつかない結果になった。このことに恐れおののいた海軍上層部は、この極秘実験を隠蔽したといわれている。

出典:カオスちゃんねる

	

フィラデルフィア計画

			

ハーメルンの笛吹き男


1284年、ハーメルンに「鼠捕り」を名乗る色とりどりの布で作った

衣装をまとった男がやって来て、報酬と引き換えに

街を荒らしまわるネズミの駆除を持ち掛けた。

ハーメルンの人々は男に退治の報酬を約束した。

すると男は笛を取り、笛の音でネズミの群れを惹き付けると、

ヴェーザー川におびき寄せ、ネズミを残さず溺死させた。

ネズミ退治が成功したにもかかわらず、ハーメルンの人々は約束を破り、

笛吹き男への報酬を出し渋った。

怒った笛吹き男はハーメルンの街を後にしたが、

6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び戻って来た。住民が教会にいる間に、

笛吹き男は再び笛を吹き鳴らし、ハーメルンの子供達を街から連れ去った。

130人の少年少女が笛吹き男の後に続き、洞窟の中に誘い入れられた。

そして、洞窟は内側から封印され、

笛吹き男も洞窟に入った子供達も二度と戻って来なかった。

出典:カオスちゃんねる

	

ハーメルンの笛吹き男

			

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