死刑が確定したあとに再審によって無罪となった冤罪事件

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旧刑事訴訟法では「自白は証拠の女王」とされ、警察による取り調べでは拷問に近い自白の強要が行なわれていたが、1949年(昭和24年)1月1日施行の新刑事訴訟法319条「強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない」、319条2項「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない」というように改められた。


だが、警察による自白の強要は改められることがなく、見込み捜査や別件逮捕、代用監獄(警察の留置場)の問題、物的証拠の無視や偽造、科学捜査の欠如、警察との癒着による誤った鑑定、社会的弱者に目をつけ、弱点を責めて犯人に仕立て上げていくやり方など、ズサンな捜査によって冤罪は作られていった。1949年(昭和24年)から1955年(昭和30年)にかけて起訴後に真犯人が現れた事件だけでも46件もあった。


死刑が確定したあとに再審によって無罪となった冤罪事件に免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件の4件がある。

出典:死刑確定後再審無罪事件

	

免田事件

-経緯-

昭和23年12月30日午前3時頃、熊本県人吉市の祈とう師、白福角蔵(当時76歳)、妻のトキエ(当時52歳)、長女(当時14歳)、次女(当時12歳)の一家4人が、就寝中に何者かに鉈(なた)でメッタ打ちにされたうえ、包丁で喉をつかれて両親が即死、娘二人も重傷を負っているのを、夜警見回りしていた次男が発見した。


翌年の昭和24年1月13日深夜、人吉警察署は同県免田村の免田栄(当時23歳)を窃盗容疑で別件逮捕する。免田は当時、植林の仕事を手伝っており、山小屋で就寝中に刑事が上がり込んで来て逮捕された。

何故、免田が容疑者として捜査線上に浮上してきたのか、今でも明確になっていない部分が多い。が、当時の状況から(鉈=植林)、(事件内容を周囲の人間に詳しく話していた?)などの噂話しがあり重要参考人としたことが推測される。


-凄まじい拷問と脅迫-

免田に対する取り調べは想像を絶する厳しさで、2日間はまったく食事をさせず、不眠3日間。取調べは、免田に殴る蹴るは勿論のこと、「地獄に落としてやる!」、「早く自供して楽になれ!」などと免田を脅迫した。不眠4日目、暖房の無い極寒の独房室で免田は、意識がもうろうとしていく。もう、限界で楽になりたいという気持ちから「犯行を自供」したのだった。


-証拠隠滅-

免田は、一審の第三回公判で「拷問によって自白を強要された」として、以降の公判では「全面的に容疑を否認し無罪」を訴える。検事側は、白福一家殺しで使われたとする鉈や免田が犯行時に着ていたとする血痕が着いているズボン、マフラーを熊本地検で保管中に破棄するなど証拠隠滅を行う(その後の鑑定を恐れた警察側が隠滅した可能性が極めて高い)。


-アリバイの争点-

警察は、犯行は12月29日の深夜から翌日の午前3時の間と断定した。そこで、免田の12月29日のアリバイの有無が焦点となった。免田は、29日午後、丸駒という特殊飲食店に宿泊し、接客婦(当時19歳)と一晩を過ごして翌30日は友人宅に泊まった(前述の山小屋)と証言した。


ところが、警察は接客婦に対して「免田と宿泊したのは30日だ」と誘導し供述書を取った。従って、犯行日の29日の免田のアリバイは成立しないと主張。これで免田の29日のアリバイが完全に葬られた。


-冤罪活動-

免田は無実を訴えるが、昭和25年3月23日一審の熊本地裁八代支部は免田に死刑を言い渡した。昭和26年3月二審の福岡高裁は免田の控訴を棄却。昭和27年1月5日最高裁は免田の上告を棄却して死刑が確定した。


だが、免田は「自分は絶対に無実である」と獄中から訴え続ける。昭和27年6月10日の第一次再審請求をかわきりに第6次まで再審請求を続けた。この間、免田を支援する日弁連や市民団体の活動もあり、昭和54年9月27日福岡高裁は再審開始の決定をした。


-無罪確定-

昭和58年7月15日、熊本地裁八代支部(河上元康裁判長)は、免田に対して無罪を言い渡し、即日釈放を命じた。日本裁判史上初めての《「死刑囚の再審無罪判決》だった。


河上裁判長はこの判決で、免田の自供は強要されたものと認め、免田のアリバイは成立していると断じた。

①29日、免田は丸駒に入り接客婦と一夜を共にしたことが、この店主の職員手帳に記載されている(免田は1100円を支払って、この内接客婦が300円を取り、残りの800円を丸駒の店主に預けた)。河上裁判長が、この職員手帳を取り寄せて仔細に確認すると、確かに昭和24年12月29日に800円と記載されていた。


②30日、友人宅に宿泊したとする証言では、免田が友人宅に向かう途中、知り合いのAさんと出会った。Aさんは、その日が米の配給日の30日だったと証言。そこで、Aさんの米配給手帳を取り寄せて確認すると確かに昭和24年12月30日に米配給を受けていたことが判明した。


さらに、検察側の主張する免田の逃走経路に不自然な行動が目立ち、動機も明確になっていない。これらの事実を鑑みた時、免田が犯行に至ったことはありえないと断じて完全無罪を言い渡した。


再審請求は、「針の穴にラクダを通すようなもの」と言われるほど難しい。これは、再審開始の要件は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見した時」とされているからだ。明らかな証拠=明白性の要件、あらたな発見=新規性の要件。この2つの要件は、真犯人が現れるか、アリバイを完全に立証できなければならない。よって、この無罪判決は法曹界では画期的な出来事だった。


弁護団は言う。「警察(検事)は2つの大罪を犯した。1つは、1人の無実の人間を死刑台に送ろうとしたこと、2つは真犯人を永久に取逃がしたこと」。

免田は無実を勝ち取るのに34年と6ヶ月を要し、出所した時には、頭髪に白いものがまじる57歳になっていた。

出典:

	

無実を勝ち取った免田さん

			

財田川事件

1950 (昭和25)年2月28日、香川・財田村(現・財田町)の闇米ブローカ・杉山重雄(63)が寝巻き姿のまま惨殺された。発見者は買出しに来た高知の女性だった。が、この女性は事件に巻き込まれるのを恐れて、逃げ出す。財田駅前で、食堂を経営している杉山の妻(別居中)にこのことを告げ、一目散に地元へ帰っている。捜査記録では、19:00頃同じく買出しの男が第一発見者となっている。当時は食糧難で米ブローカの杉山には様々な人達が尋ねて来たのであろう。

(事件から28年後、ジャーナリスト・サクマ・テツ氏は、この女性を発見、インタビューをしている。それによると、買出しで杉山宅を教えてもらい尋ねた。だが応答が無いため上がりこむと、杉山が新聞紙をのせて寝ているので、取ってみると血だらけで死んでいた。口から「さす」が2寸(約6センチ)ほど出ていた。怖くなって一目散に逃げ帰ったと告白している。注:「さす」とは米鑑定に使う道具で、米俵などに突き刺して数粒の米を取り出すもの)。


早速、警察が現場検証を行う。杉山は、頭・喉・胸など全身に30箇所の刺創・切創を受けていた。上半身には5枚の衣類を着用していたが、下半身はメリヤス製パンツのみ。また、自分の枕以外に二つ折りにした座布団があった。杉山は家族と別居生活をしており、状況から「情交のもつれ」、「怨恨」の線が考えられた。が、捜査はまったく進展しなかった。


同年4月4日、財田村の隣の神田村(現・山本町)で、強盗傷害事件が発生する。この事件で逮捕されたのが、谷口繁義(19)と仲間の二人であった。当時、谷口と仲間は地元では有名な不良青年で、警察は本件とは別に杉山殺人の容疑で取り調べる。杉山殺人事件時のアリバイが焦点となったが、谷口の仲間は当日のアリバイが明確になり白となる。が、谷口のアリバイは明確にできず警察は谷口犯人説へ一気に傾いた。


取り調べは2年前の免田事件同様、過酷を極めた。谷口に対して殴る・蹴る・脅迫と2ヶ月間も続く。結局、谷口は心身的に限界がきて、ついに「自白」をするのである。8月22日、谷口は強盗殺人罪で起訴された。


公判中、谷口は「自白は強要されたもの」として容疑を完全に否定、無罪を訴えた。だが、1952(昭和27)年1月25日、高松地裁は「古畑東大教授」の血液鑑定その他の状況から谷口に死刑判決を下した。1956(昭和31)年6月6日の2審で死刑判決。1957(昭和32)年1月22日の最高裁で死刑が確定した。


1969(昭和44)年、高松地裁の判事に就任した矢野伊吉は偶然、谷口の無罪を訴える手紙を発見した。谷口の純粋な気持ちを読み取った矢野は、谷口を救済すべく判事を辞任。以降、谷口の弁護士として再審請求活動を行う。


矢野弁護士の活動で、当時の警察が谷口に対して様々な捏造工作をしていたことを暴いていく。まず、自白そのものは「拷問による強制自白」であること。そして、犯行当時、谷口が着用していたとするズボンに付着した血痕は、谷口を犯人とするため警察・検察側が被害者の血痕を後で付着させたのではないかという疑惑。また、谷口が獄中で書いた手記が、裁判で証拠にされた手記とはまったく違うものだった。谷口は小学校しか出ていなく、漢字は書けない。が、裁判に提出された手記は、漢字を多用し事実関係がよくできていた。これらも、後日警察によって捏造した可能性が極めて高い。


これら一連の活動で1984(昭和59)年3月12日、高松地裁は谷口に対して再審無罪判決を下した。無罪獲得まで、33年11ヶ月を要した。

出典:ERROR!!

	

無罪判決で挨拶する谷口さん

			

島田事件


1954年3月10日日曜日。

 この日、静岡県島田市の快林寺境内にある中央幼稚園で「卒園記念お遊戯会」が開かれていた。園には父兄や近所の人が来場し、屋台も出るなどかなりにぎやかだった。


 正午過ぎ、午後の出番待ちで園内で遊んでいたH子ちゃん(6歳)が若い男に誘い出され、行方不明となった。すぐに大掛かりな捜索が行なわれたが、12日になっても発見できなかった。


 連れ去りの目撃者は9人いた。H子ちゃんの友達、通行人、そして蓬莱橋の橋番である。蓬莱橋は大井川にかかる木造歩道橋。今では数少ない賃取橋である。事件当日、目撃者の橋番は、通りかかった少女を連れた男に橋銭を要求したが、「後で払うから」とそのまま行ってしまった。これが最後の目撃証言である。

 こうした目撃証言はいずれのものも、ほぼ一致しており、H子ちゃんを連れ去った人物として「若い勤め人風で、ネズミ色の洋服を着た男」というのが浮かんできた。


 13日早朝、隣村の大井川沿いの通称「地獄沢」の雑木林で、H子ちゃんは絞殺死体となって発見された。遺体はパンツ一枚で、シュミーズで顔を覆われており、左胸部の傷、外陰部裂傷のため血まみれで、左頬にもカラスについばまれたと見られる無惨な傷があった。

 警察医・鈴木完夫による遺体解剖の結果、犯人はまず首を絞め、半死半生の状態で陰部に加傷、H子ちゃんの胸を強打したということがわかった。姦淫があったかどうかは不祥だった。


 警察は目撃者の話をもとに痩せ型で色白の、七三分けの髪型のサラリーマン風の男のポスターを作成した。だがそれでも、犯人にたどりつく証言は得られず、5月に入って捜査は行き詰まりを見せた。


 当時、静岡県下では少女暴行事件が頻発していた。

 警察は地元の不良や猥褻常習者、ヒロポン中毒者、浮浪者、精神障害者を中心に230人を取り調べたが、それぞれにアリバイがあり、犯人はあがらなかった。

5月24日、岐阜県鵜沼町の町外れを放浪していた住所不定・赤堀政夫さん(当時25歳)が職務質問され、逮捕された。破れた黒の学生服、裾の切れたカーキ色のズボンというボロボロの風体の赤堀さんは、そのまま島田署に移された。


 赤堀さんは市内の出身である。警察の不審者リストにも名前が挙がっていた。

 3歳の頃に脳症にかかって軽度の知能の遅れがあり、学校でも仲間はずれにされた。小学校の学績簿には「精神的に劣る。何事も原始的の観あり、永続性なし。性温良なり、教師の命によく服従す」とある。次第に学校をさぼって仲間1人と空き巣をしたりした。

 卒業後は川崎市の工場へ旋盤工の見習として勤務したが、3ヶ月で島田市に戻り、そこで終戦をむかえた。失業すると、友人と野菜や鶏を盗んで捕まり、46年11月、懲役1年以上3年の不定期判決を受け、松本少年院に送られた。1ヶ月後、八王子少年院に移され、防火用水に投身自殺を企てたが未遂、刑の執行停止によって実家に戻った。

 それからはしばらく土木会社、土建会社に勤めるが、またも窃盗をはたらき懲役8ヶ月の刑で静岡刑務所に送られた。ここでも自殺未遂で刑執行停止となるが、分裂症とされて精神病院に1年間入れられた。退院後は静岡刑務所に戻され、府中刑務所に移され服役。53年7月、つまり事件の起きる8ヶ月前に釈放された。

 「バカ」の他に「前科者」というレッテルをはられた赤堀さんは定職にも就けず、家を出て各地を放浪するようになった。


 逮捕の翌日、赤堀さんはなぜかいったんは釈放された。これは犯人のモンタージュとはとても似つかなかったからであろうと思われる。新聞報道にも「赤堀はシロか」とあった。

 赤堀さんはそのまま帰宅となるはずだったが、警察から「職を世話してやる」と言われ「金谷民生寮」に送られた。赤堀さんはこの寮で農家の仕事や寮の掃除をして過ごしていた。兄・一雄さんが迎えに来ても、警察は所在を教えなかったという。

 

 5月28日、お賽銭を盗んだとする窃盗の容疑で別件逮捕。この逮捕は多数のカメラマンが待ち構えるなかで行われた。

 ここで激しい拷問を加えられたとされる。この時の県警スタッフは幸浦、二俣、小島、丸正事件を捜査指揮したメンバーだった。


 事件当日のアリバイについて聞かれた赤堀さんは、――流浪の身で、あの日どこにいたかを思い出すのは難しいのだが――神奈川県平塚あたりの神社でボヤ騒ぎを起して警察に調べられたことを思い出した。ところが平塚署に照会したところ、「そのような事実はない」とされた。

 

 5月30日、ついに赤堀さんは幼女殺しを自白。

「H子ちゃんの上に乗りかかって姦淫し、その結果同女に外陰部裂創等の傷害を負わせたが、同女がなおも泣き叫んで抵抗し、意のままにならないのでひどく立腹し、同女を殺害して犯行の発覚を免れようと決意し、付近にあった拳大の変形三角形の石を右手に持って同女の胸部を数回強打し、両手で同女の頚部を強く絞めつけ、窒息死させた」

静岡地裁で開かれた公判では、赤堀さんは一貫して無罪を訴える。自白は強要されたものとしたのである。


 赤堀さんは事件のあった日は、茅ヶ崎で知り合ったOという男と一緒に放浪し、秋葉原駅付近で屑物の回収をしていた。横浜のある神社で寝ていたという。

 この主張によりOの身元が探されたが、Oもまた放浪癖があり、妻は神奈川県藤沢市辻堂にいることがわかったが、本人の消息がわからないのである。

 また寝泊まりした神社はどこなのか、56年10月25日、赤堀さんも同行して現場検証がおこなわれたが、この時は神社を探し出すことはできなかった。このため供述の信用性が疑われた。


 12日、神奈川県平塚市にOと一緒にいたところ、祠でぼやを出し、近所の人に警察に突き出されて警察署に留置されたことも、大磯署の2人の警官の証言で立証された。この警官はこの時、赤堀さんが「島田出身だ」と聞いていたが、2日前の誘拐事件との関連は見止めず、釈放させていた。

 だがそれでも検察側は、「H子ちゃんを誘拐して殺害した後、大磯に行き、再び島田に戻った」としたのである。


 弁護側は赤堀さんを精神鑑定にかけることを要請。

 55年9月6日、赤堀さんは精神鑑定を受けるため、都立松沢病院に入院した。22日間にわたる鑑定が行われたのだが、鑑定人は「自白調書」のみを手元におき、結果も調書に沿ったものにしかならなかった。鑑定人が「中立」の立場を忘れたことは問題であった。


 事件前後のアリバイも証明され、自白と「死後に石で胸を殴った」とする鈴木完夫解剖鑑定に重大な矛盾があることなどを明らかにされた。弁護人は「赤堀氏は無罪」と弁論して結審した。

 だが裁判長は職権で弁論再開を決定し、「法医の天皇」とも呼ばれた古畑種基教授に再鑑定を依頼した。

 古畑鑑定は自白を裏付ける結果となり、裁判長は「被害者の死体の傷と自白は一致し、自白の信用性は裏付けられた」として、58年5月23日、赤堀さんに死刑を言い渡した。裁判長は赤堀さんの訴えを、「言にかまえて罪を免れようとする態度の表れ」と退けたのだった。


 60年2月17日、東京高裁、控訴棄却。


 60年12月5日、最高裁、上告棄却。死刑が確定した。赤堀さんは仙台拘置所に拘置された。


 61年8月、第1次再審請求。行動をともにしていたOを証人にアリバイを証明しようとするものだったが、「居所不明」で棄却された。


 64年4月、H子ちゃんの胸を打った石は現場には無かったことを理由に、第2次申し立て。これは「証拠が薄弱である」と棄却された。


 63年4月、第3次請求も、書類がそろわず棄却。


 この後、弁護団が増強され、66年5月、満を持しての第4次請求。申立理由は、3月10日夜に泊まった横浜の外川神社にいたアリバイを認めることと、「胸の傷は証拠の石でできるものではない」という太田・上田医師の両鑑定書をもとに、自白は作られたものであることを証明しようとするものだった。

 この請求に対しては、獄中本人尋問などが行われ期待されたが、77年3月、伊東正七郎裁判長は突如棄却した。だが東京高裁で即時抗告が認められ、5月23日、静岡地裁に差し戻しとなった。

赤堀さんは無罪なのだろうか。

 拷問を受け、自白は強要されたものだったのだろうか。県内では幸浦、小島、二俣、丸正と、冤罪の疑いがある著名事件がたびたび起こっていた。こうしたことが起こるのは捜査メンバーと関係がないとはとても言えないだろう。


◆自白の信用性

 赤堀さんは獄中で書いた手紙では次のように書いている。

「大ぜいの人たちがいやがる私の体と手を押さえつけて手に万年筆をニギラセテ、調書に名前を書かせて、ムリヤリ指印を押させたのです」


 赤堀の姉も次のように語っている。

「あの子は人のいう事を素直に聞く人でした。子どもの頃から頭が弱いので、人に向かっては『すみません』というのが口癖だったんです。警察でも、あまり『すみません、すみません』を繰り返したのだから、真犯人にされてしまったのではないでしょうか」


◆凶器

 凶器とされたのは、拳大の変形三角形の石で、ルミノール反応でも血痕はついていなかった。なぜこれが凶器とされたのか。現場は石ころなどが少なく、また川原の方の石も、丸みをおびたものばかりだった。そう考えると、前もって誰かがこの石を現場に持ってきたという疑いも出てくる。


◆目撃証言

 前述した通り、お遊戯会の日、H子ちゃん連れ去りを目撃した人が何人いた。だがそのいずれも「赤堀とは違うようだ」と申したてた。目撃証言も頭をポマードで整えたサラリーマン風の男であり、ヒゲが伸びっぱなしとなっていた赤堀さんとは一致しない。


 差し戻し審では検察側は太田鑑定に反発、鈴木医師にまで「胸の傷の部分を切開して断面を見れば皮下出血があったのではないか」と自身の鑑定を否定し、古畑鑑定を支持する証言をさせた。また九大名誉教授・牧角三郎の新鑑定も提出している。


 1986年5月30日、再審開始決定。弁護側の提出した鑑定を全面的に採用したのである。死刑判決の根拠とされた古畑鑑定が否定されたのは、これで3度目だった。静岡地方検察庁は即時抗告した。


 1987年3月25日、東京高裁、検察側の即時抗告を棄却。


 1989年7月31日、静岡地裁・尾崎俊信裁判長は「自白に信用性はない」と無罪判決を言い渡す。まもなく逮捕から34年ぶりに赤堀さんの無罪が確定した。

出典:島田事件

	

無罪を勝ち取り釈放される赤堀氏

			

松山事件


1955年10月18日、宮城県志田郡松山町の農家が全焼し、焼け跡からこの家に住む一家4人である家主(当時54歳)、家主の妻(当時42歳)、夫婦の四女(当時10歳)と長男(当時6歳)の焼死体が発見された。遺体解剖の結果、長男以外の頭部に刀傷らしきものが認められ、殺人および放火事件として捜査本部が設置。

事件発生後、1ヶ月で捜査は暗礁に乗り上げ、犯行当日以降に地元を去った人間を調査したところ、東京の板橋区に勤務していた斎藤幸夫(当時24歳)が浮上。12月2日、警察は斎藤の身柄を拘束するため、示談成立している喧嘩を傷害事件として別件容疑に、東京に勤務している事実を家出と偽り逮捕状を請求して逮捕。同月8日以降、斎藤は警察の厳しい取調べで自白しては、撤回を繰り返していたが、同月8日、警察は強盗殺人・放火の疑いで逮捕、12月30日に起訴。

1957年10月29日、仙台地裁で死刑判決。

1959年5月26日、仙台高裁で控訴が棄却。

1960年11月1日に最高裁で上告が棄却、死刑が確定。

斎藤は無罪を訴えて再審請求を開始。やがて第2次再審請求が認められ、1979年12月6日に再審が認められる。警察は留置所に前科5犯のスパイを送り込み、「警察の取調べで罪を認めても、裁判で否定すればいい」と斎藤に言って自白に追い込んでいたことが判明。また証拠とされた男性の掛け布団の血痕は、警察の捏造であるとされた。

1984年7月11日、無罪判決。28年7ヶ月にも及ぶ獄中生活に終止符が打たれて無罪となった斎藤は7516万8000円の刑事補償金を受け取るも、裁判費用の借金返済に消え、再審請求以降の裁判費用は借金ができず、支援団体のカンパでまかなっていた。その後、故郷に戻り、仙台市の弁護士事務所で一時期、働くなどした。その後、鹿島台町の自宅に戻り、母と暮らしながら清掃員などとして働いた。アムネスティ日本支部などの団体で講演活動をしていたが、長期間死刑囚として過ごした間の年金は支給されず、晩年は生活保護を受給していた。精神的苦痛を理由に1億4300万円の国賠訴訟を起こしているが、訴訟内容は裁判費用の請求でなく精神的苦痛による損害賠償であるため、2001年に棄却されている(一方、足利事件と布川事件の冤罪被害者は刑事補償金以外にも裁判費用を受け取っている。)。2006年7月5日に斎藤は死去。母も2008年12月24日、101歳で入所先の施設で亡くなった。

出典:松山事件 - Wikipedia

	

松山事件

			

オススメのまとめ

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Sharetube