【死刑判決】日光中宮祠事件とは

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日光中宮祠事件とは


日光中宮祠事件(にっこうちゅうぐうしじけん)とは1946年(昭和21年)に発生した強盗放火事件である。当初警察は一家心中として処理したが、9年後に真相が明らかになった。なお事件名はこの事件を元に松本清張が執筆した小説及びテレビドラマの題名であり、現在ではこちらの事件名で呼ばれることが多い。

中宮祠とは

日光国立公園の中核となっており,湖畔は華厳滝とともに国の名勝に指定され,国際的観光地として知られる。 男体山は古代に僧勝道が開いた山岳信仰の霊場であり,山頂に二荒山神社の奥宮,中禅寺湖北東岸の中宮祠(ちゆうぐうし)に中宮(中宮祠),日光市街に本社がある。現在のいろは坂上り口から上は女人の登山を禁止し,〈峰禅頂〉の僧が湖の東岸歌ヶ浜などを拠点として修行した。

出典:中宮祠(ちゅうぐうし)とは - コトバンク

	

経緯

昭和21年5月4日未明、栃木県日光市中宮祠の星野屋旅館から出火。焼け跡から経営者の星野寛さん(当時46歳)、妻・まつさん(当時42歳)、三男(当時11歳)、次女(当時8歳)、三女(当時5歳)、まつさんの実父・田村両右さん(当時72歳)の6人の焼死体が発見された。警察が調べたところ、6人は寝床に入ったままで、頭部には刺し傷が見られた。だが、日光署は一家無理心中として処理した。

それから9年後の昭和30年5月、埼玉県久喜署はA(当時30歳)を強盗の疑いで逮捕した。Aは31件の強窃盗と5件の殺人を自供したが、その中に中宮祠事件もあった。その後、Aは「取り調べの待遇が良くなると思って偽をついた」と一転して犯行を否認した。この新聞記事を読んだ星野寛さんの長男(26歳)が、日光署の処理に不満を持っていたため改めて埼玉県警に事実確認を要請した。


同県警では、被害者の長男の要請に基づきAを再調査した。その結果、Aは刑務所に服役していた時、金城という男から「日光中宮祠事件は俺の犯行だ」と聞かされていた事を掴んだ。また、星野さんが当時持っていた小切手が都内の銀行で金城という男に払い戻されていることが判明した。

出典:

	

事件の発覚

1955年5月に埼玉県で逮捕された犯人Cが、強盗31件、殺人5件を「自供」したが、これらはCが捜査員の歓心を買うことで取調べでの待遇が良くなると考えてのウソであった。この時に「自供」した事件の一つに中宮祠の一件があったため、Hの長男が埼玉県警察に再捜査を依頼していた。再捜査によりCは刑務所で知り合った男から聞いた話であること、盗まれた小切手が東京都内で払い戻されていたことが判明した。1956年7月30日に暴力団狩りで神奈川県の川崎警察署に逮捕されていたA(逮捕時30歳)が真犯人であったことが判明した。取調べにより共犯のB(逮捕時31歳)も判明し、Bは北海道の工事現場で働いているところを8月21日に逮捕された。

出典:日光中宮祠事件 - Wikipedia

	

事件のその後

推理作家の松本清張は、別冊週刊朝日1958年4月号でこの事件を題材にした短編「日光中宮祠事件」を発表し、1959年12月8日に殿山泰司、冨田浩太郎主演でテレビドラマ化された。

犯人のAとBであるが、1957年7月22日に宇都宮地方裁判所で2人とも死刑が言い渡され、1959年1月28日控訴棄却、1960年6月10日に上告棄却で死刑が確定した。しかし、死刑執行は当時としては異例の長期間行われず、2人の死刑執行は判決確定後14年、事件発生から28年後の1974年6月6日におこなわれた。

この長期の死刑執行モラトリアム後の処刑に対し、当時東京拘置所で同房であった帝銀事件の死刑囚平沢貞通が大きなショックを受け、自らの死刑執行に対する恐怖により一ヵ月後に心臓麻痺で倒れる事態も発生した。

出典:日光中宮祠事件 - Wikipedia

	
1957(昭和32)年7月22日、宇都宮地裁は朴、崔2人に対して死刑を言い渡した。

1959(昭和34)年1月28日、東京高裁は控訴棄却。


1960(昭和35)年6月10日、最高裁は上告を棄却して2人に死刑が確定した。


1974(昭和49)年6月6日、死刑執行。

出典:ERROR!!

	

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