【死刑判決】栃木雑貨商一家殺害事件の「菊地正」とは

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栃木雑貨商一家殺害事件


栃木雑貨商一家殺害事件(とちぎざっかしょういっかさつがいじけん)とは、1953年(昭和28年)に栃木県の南東部、芳賀郡市羽村で発生した強盗殺人事件である。死刑確定から処刑までの期間が短かった事例でもある。また「死刑囚(未確定であるが)の脱獄」をした犯人としても有名である。

闇夜の襲撃

1953年3月17日、栃木県市羽村上赤羽(現・市貝町)で雑貨商の一家3人と使用人が惨殺されているのが見つかる。

 亡くなったのは女主人Y子さん(49歳)、母親(71歳)、長男(21歳)、使用人(18歳)の4人で、いずれも両手両足を縛られ、絞殺されていた。女主人と使用人には強姦された形跡があり、2種類の精液が検出された。部屋もかなり荒らされており、金品などが奪われていた。

 

 この雑貨屋は日用品などを扱う店であったが、女主人は商売上手で、小金を貯めているという噂が地元ではあった。被害者からは抵抗したあとが見られなかったことを含め、雑貨店の事情を良く知る者による金目当ての犯行と見られた。

 庭に続く畑にはゴム長靴や革靴とおぼしき足跡があり、自転車のものより少し太いタイヤ痕もあった。


 事件から1ヵ月後、郡内に住むある人物が逮捕されたが、取調べをして誤認逮捕と判断された。


 2ヵ月後、雑貨屋のすぐ近くに住む菊地正(当時27歳)が逮捕された。村の青年団長をつとめていた男である。菊地は捜査にも協力しており、自宅は捜査員詰所になっていた。また事件前日に婚約していて、逮捕時菊地は「結婚費用と家の改築費欲しさでやった」と述べた。

 逮捕につながったのは菊地が東京に住む8歳下の妹に渡した盗品の腕時計である。菊地は妹が村を離れていることで「バレるわけがない」と思っていたが、捜査員たちは執念で東京まで聞き込みに行った。


 菊地の単独犯だという自供から、同時に取り調べていた村内の男性4人は釈放された。矛盾した血液型についても、後の鑑定で「いずれもA型で、菊地のものと一致する」と出た。それでも地元では、「菊池が1人で罪をかぶった」という噂も根強くあった。この背景には村内では菊池の方が被害者よりも評判の良かったこともあるらしい。

出典:栃木・雑貨商一家殺害事件

	

母のために残虐な犯行を


菊地が2歳の時、母親は酒乱癖のある夫と離婚し、3年後に菊地を連れて再婚した。新しい父親は妻や継子にきつくあたったりして菊地は気兼ねして過ごしていたが、異父妹らのことはとてもかわいがった。そしてなにより母親思いの人間となった。

 菊地が22、3歳のころに母親は白内障を患ったが、菊地は母親を自転車に乗せて町の眼科に毎日通っていた。だが治療には金がかかる。父親は「失明ぐらい・・・」と叱り飛ばしたが、そのことに菊地は反発し、自分でなんとか医療費を工面しようと考えた。それが強盗殺人につながっていく。前日に婚約をしたのは自分が疑われないためであった。


 

 事件当夜、菊池は午後11時ごろまで友人を呼んで接待をしていた。これはアリバイづくりのためで、10時ごろに帰りそうだった友人を引き止めて話し込んだ。


 友人を見送った直後の11時半ごろ、自宅から300m離れた(と言っても、他に人家はなく、”隣家”となる)被害者の雑貨店に向かった。顔には覆面をつけ、麻紐、バールを準備した。しかし、何か物音がするたびに隠れたりして、また決心もつかなかったこともあって、午前3時ごろまでその近辺をうろうろしていた。


 その時、ニワトリが鳴くのが聞こえた。

「今入らないと、夜が明けてしまう」

 そう思った菊池は雨戸と障子を押し倒して一気に侵入。「金を出せ!」と大声を出したが、一家4人は怖がって誰も布団から顔を出さなかった。


 菊池は自分の声を聞かれたことで、「正体に気づかれた」と思い、ここで全員を殺すことを決めた。菊池は村では真面目な人間として知られていたから、あえて不良者のような残虐な犯行に見せかけようとした。何者かが室内で食事をしたかのように細工して、「流しの強盗犯」と見せた。しかも1人ではなく、何人かで襲撃したかのように。そして最後に2人の女性を屍姦した。だが本来の目的であった金品については、あまり発見できず、婦人用の腕時計と2150円のみであった。

出典:栃木・雑貨商一家殺害事件

	

自供

菊地は幼い頃から母親想いの優しい青年だった。母親が再婚した義父が、母子につらくあたり菊池も小学校低学年の頃から義父に「自分の食い扶持ぐらい自分で働けと」言われ、近所の農作業を手伝っていた。その母が、白内障を患い薄情な義父が治療するてだてをしなかった。このため菊池は、自分が母の病気を治すとの決意から金目当てに犯行に至ったことを自供した。

出典:菊地事件

	

脱獄

事実に対して争いがないため、裁判は迅速に進められ、一審は1953年11月25日に、二審は1954年9月29日にそれぞれ死刑を言い渡していた。最高裁に上告していたが、死刑が確定して死刑囚になるのも時間の問題であった。

しかし、兄から「お前のおかげで母親がいじめられて、たいへん苦しんでいる」という手紙を受け取り、母親思いの彼は脱獄を決意した。背表紙に金切り鋸を隠した本を差し入れてもらい、鉄格子を切断。1955年5月11日の夜に「まことに申しわけありませんが、しばらくのあいだ命をお助けください」という書き置きを残して[1]東京拘置所を脱獄した。彼は東北本線を無賃乗車で実家に向かっていた。

警察は脱獄囚を捜したが、目的地は明らかであった。脱獄から11日目に実家近くで張り込んでいた警察官によって、力尽きかけていた脱獄囚は確保された。この時警察官に「頼む、ひと目でいいからおふくろに会わせてくれ」と懇願し、その望みだけは大勢の警察官と新聞記者が見守る中で叶えられた。2人は涙の再会を果たしたが、これが今生の別れとなった。

この脱獄事件によって拘置所長が罷免されるなど関係者が処分された。また拘置所の鉄格子は金鋸で容易に切断できる鋳鉄から鋼鉄に交換された。

出典:栃木雑貨商一家殺害事件 - Wikipedia

	

死刑執行

この後、最高裁での審理は異例の早さで進められ、拘置所に戻った直後の1955年6月28日に最高裁は上告を棄却し死刑が確定した。当時の東京拘置所には死刑台がなかったため、11月21日に死刑台のある宮城刑務所へ護送され、その翌日に死刑が執行された。 大塚公子によれば、「再度の脱獄を心配して殺し急いだ印象を受けるのも無理ないことだ」という。

なお、Kの親族はKの脱獄を諦めなかったようで、死刑が確定した直後の7月末にKの実妹(当時19歳)が金鋸と安全剃刀を忍ばせた石鹸を差し入れようとして逮捕され、その後実家の家宅捜索によってもう一人の実妹(当時24歳)も逮捕されている。

出典:栃木雑貨商一家殺害事件 - Wikipedia

	

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Sharetube