「マスコミの前で犯行!?」豊田商事会長刺殺事件とは?

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豊田商事会長刺殺事件(とよたしょうじかいちょうしさつじけん)とは、1985年(昭和60年)6月18日に発生した殺人事件。


豊田商事

社名の「豊田商事」は、自動車メーカーの「トヨタ」とは何ら関係がない。これは「トヨタ」の関連会社と思わせることにより、顧客を信用させる為に考えられたものだったという。「豊田商事」は、主に高齢者に、「現金まがい商法」、「ペーパー商法」と呼ばれる悪徳商法により荒稼ぎを続け、急成長を遂げていた会社で、被害者は数万人、被害総額1150億円に上ると言われ、前代未聞の詐欺事件として世間の注目を浴びていた。

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永野一男と豊田商事

永野は1952年、岐阜県恵那市で生まれた。父親が障害者だったこともあり、彼が幼少の頃から農業を営む祖父が一家を支えてきた。ところが祖父が亡くなると、一家は困窮するようになり、永野が中学に入ったばかりの時、母親の実家の島根県に移った。やがて、母親は創価学会(※)の熱烈な信者となり、近所に借金を重ね、島根を出た。

 中学卒業後、集団就職で愛知県の日本電装仮谷工場に勤めたが、2年で退職。その後、消火器のセールス、不動産業、商品相場、金先物取引の会社を転々とした。

 76年頃、永野は大垣競輪場で競輪客のうしろポケットから164万円入りの財布をスリとるという事件を起こしている。ガードマンに取り押さえられ取調べを受けた際、永野は次のように話したという。

「俺は今まで何千万と競輪場に寄付している。競輪というのは基本的にゲームだ。スリとられる奴が悪い。スリとられるような人間は、自分の身を固めることについて弱い論理しか持っていなかったんだ」


※立正佼成会という説あり


 1978年頃、豊田商事の前身となる会社をつくり、81年4月には「大阪豊田商事」(翌年、豊田商事に社名変更)の代表取締役になった。この会社は純金ファミリー証券を販売をし、会員が純金を購入した形にして、豊田商事に預けると1割~1.5割分の賃貸料が入るという振れこみになっていた。ところが実際には金取引そのものも行われておらず、金を返還することもなかった。つまり、この商売は紙とインクさえあればできるペーパー商法だった。

 この当時はこうした悪徳商法に対して、人々は そこで豊田商事が目をつけたのは独居老人だった。年金暮らしの独居老人の家にセールスマンを送り込み、話し相手をさせたり、生活の世話を焼いたりしていた。営業の給料は「日給2万円+売上の5%」という歩合制だったから熱心に勧誘した。

 永野はこの高齢者の金を狙うやり方で、4年間で2000億円もの金を集めることに成功。会員は4~5万人いたとされる。潤沢の資金を得た永野は事業を拡大し、関連企業を設立してゴルフ会員券販売や、ダイヤモンド販売にも乗り出した。さらに永野は営業社員の歩合などで、営業すれば営業するほど赤字が増えていく構造の「純金ファミリー証券」に限界を感じ始め、次は化粧品の訪問販売に切りかえる計画を持っていた。

 

 85年に入って、いつまでたっても元金すら支払わない「純金ファミリー証券」の会員たちが豊田商事に殺到し、関連企業のセールスマン逮捕、財産を失った老人の自殺などのトラブルも表面化した。マスコミなどにも注目され始め、永野は”時の人”となりつつあった。この頃、豊田商事は営業成績もダウンし始め、1985年6月には営業停止状態となっていた。

 

出典:「豊田商事」会長刺殺事件

	

豊田商事の実体


永野は岐阜県・恵那市で昭和27年に出生した。中学を卒業後、職を転々とした永野は昭和56年4月に「豊田商事」を設立した。業務は、(純金ファミリー証券)の販売であった。しかし、この商売は実体がまったく無いペーパ商法であった。

まず、一人暮らしの老人をターゲットに豊田商事の営業が執拗な勧誘を行う。老人の家に上がり込み最低でも5時間居座る。中には、朝まで勧誘していたという例もあった。逆に、食事の支度をしたり掃除をしたり「自分を孫だと思ってください」などと老人の情に訴える勧誘もした。こうして老人に虎の子の金を捻出させて純金購入をさせた。


だが、実際はその資金で純金を購入する訳ではなく購入した老人には「ファミリー契約証券」を渡すだけで永野会長らは私服を肥やしていった。満期になると強引に継続契約を勧め途中の解約は一切応じなかった。こうして老人を中心に約5万人から、2000億円を巻き上げていた。

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殺害

1985年6月18日、大阪北区天神橋にある「ストークマンション」5階にある502号室の永野宅の前に、この日も約30人の報道陣がつめかけていた。ドアの前には、騒動の渦中にある永野の「親類」と名乗る男性と雇われた3人の警備員が立っていた。

 午後4時半後、年配の薄茶色のブレザーの男と、まだ若い黒ずくめの服を着たパンチパーマの男がやって来た。警備員が名前と用件を尋ねると、年配の方が言った。

「名前なんかどうでもええ。鉄工所を経営しとるもんや。永野に会いたいんや。おまえら、ようこんな奴のガードしとるな。給料なんぼもろとるんや。俺のとこで犬にエサでもやっとけ。給料払ろたるで」

 突然、男に毒づかれた親類の男性は「電話で聞いてみる」と言って階段を降りていき、警備員らもそれに続いた。


 2人は「被害者6人から、もう金はいらんから、永野をぶっ殺せと頼まれてきたんや」と声を荒げ、年配の男が報道陣が使っていたパイプ椅子を持ち上げ、それで玄関のドアを叩き始めた。だが、中にいる永野の応答はない。隣りではパンチパーマの方が数回窓のアルミサッシを蹴り、折れたサッシをはぎ取ると、窓を割って部屋に侵入した。この間、2人の行動を止めようとした報道陣はいない。この光景はワイドショーで生中継されていた。

 部屋の中では鞄から取り出していた銃剣を口に加えたパンチパーマ男が、「お前は死刑や」と永野の頭部を切りつけた。血まみれになって逃げる永野をベッドルームに追い詰め、刃渡り40cmの旧陸軍のごんぼう剣で胸や腹など13ヶ所をメッタ突きにした。道陣たちは永野の悲鳴や「助けてくれ」という言葉が聞こえてきても、「今、中で大変なことが起こっております」とレポーターは中継し、誰も中に入っていこうとしなかった。事件後、視聴者から「なぜ止めなかったのか」と抗議が殺到した。


 やがて部屋の奥から、銃剣を持った年配の男が出てきた。返り血をあびており、「殺ってきた。俺が犯人や。警察を呼べ」と言って、再び部屋の中に入っていた。侵入してから5分ほどの間の犯行だった。

 数分たって、今度は2人が出てきて言った。

「これで死んどらんかったら、またやったる。87歳のボケ老人を騙しくさって、850万円も取った奴やからな。当然の報いじゃ」

「ほれ、これが永野や」

 男は虫の息の永野の首に腕をかけて、窓際の寝室にまで引きずってきた。頭を割られ、血まみれの永野の姿に窓の外に控えたカメラマンたちは一斉にフラッシュをたいた。


 2人はまもなく駆けつけた天満署員に殺人の現行犯で逮捕された。ブレザーを着た男は自営業の飯田篤郎(当時56歳)、パンチパーマの男は建築作業員・矢野正計(当時30歳)と言った。飯田は殺害直後、報道陣に「人から頼まれたが、その人の名前は絶対に言えない」と話していたが、逮捕後は「豊田商事のやり方が気に入らないので、義憤にかられてやった」と供述。


 永野は病院へ搬送後死亡。所持金は700円あまり、会社の金庫にも現金970万円と純金700gしか残されていなかった。

出典:「豊田商事」会長刺殺事件

	

批判された報道陣


事件は衆人環視ともいえる状況の中で起きた異様さが大きな衝撃となった。カーテン越しに犯行の様子をとらえたテレビ映像がそれを倍化させた。批判は現場の報道陣にも集まった。

 「マスコミは見ているだけなのか」「なぜ殺人を止められなかった」。産経新聞にも報道陣を批判する手紙が殺到。大分県の弁護士からは報道陣に対し殺人幇助(ほうじょ)罪による告発までなされ、私も含めて検察、警察の事情聴取を受けた。もちろん起訴されはしなかったが…。


 あの時、確かにドアをたたいている段階では、「2人が被害者の代表なら、永野会長は会うかもしれない。取材のチャンスが生まれるかもしれない」とは考えた。そんな思いが、「制止」という行動を鈍らせたとの批判もあっただろう。が、窓に取り付いてからの2人の行動の早さについていけなかったというのが本当のところだった。殺害に及ぼうとしているときに、「やめろ」と叫んだが、室内に入るには危険すぎた。

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これだけの報道陣が居ながら殺人を止められなかった

			

飯田篤郎と矢野正計


飯田篤郎

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豊中市にある鉄工所「飯田工営」を経営していた。飯田は就職口の少ない高齢者や身体障害者を積極的に雇用していたが、工場は2984年9月に負債5億円を抱えて倒産していた。これは中国の製鉄所建設の下請けの仕事が入り、事業の拡張を図ったが、着工が大幅に遅れたためと、広島の倒産寸前の下請け工場に義理で融資した金がコゲついたためだと言われる。広島の工場は計画倒産だったとされ、信用した飯田はまんまと騙されることとなった。この頃から飯田は怒り、酒をよく飲むようになったという。それでも飯田の人柄を慕っていた従業員達は工場のシャッターを閉めずに細々と仕事を続けていた。

 飯田は一方で右翼思想を持ち、自身でも「まことむすび誠心会」という政治結社をの代表委員を名乗っていた。それ以前には「日本貧民党」なるものも名乗っていたこともあるが改名していた。


 飯田は高齢者を食い物とする永野のような人間は到底許すことが出来なかった。自身の工場も下請けに騙され、倒産させてしまったことも一因となっていたのだろう。

矢野正計


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建築作業員。恩のある飯田のために犯行に加わったとされる。

豊田商事の終焉

7月1日、被害者らの申したてから11日というスピードで、大阪地裁は豊田商事に破産を宣告した。

 7月4日、国会審議に参考人として出席した石川洋社長は「永野会長で動いていただけ」と発言。


 7月5日、裁判所の仮差押え直前に資産隠しを行なったとして、財務部長代行、財務部係長らが逮捕された。その後も親会社である「銀河計画」の専務、副社長、豊田商事常務らも逮捕された。


 その後の損害賠償請求訴訟では、豊田商事の集めた2000億円の大半は社員の給料や永野の相場資金、政治献金に消えたとされ、被害者に戻った金額はわずかなものだった。関連企業をまとめていた会長・永野の死でさらに真相は不明瞭なものになった。 


 事件後、訪問販売法が整理されるなどして、豊田商事のような商法はほぼなくなったが、それでも悪徳商法は跡をたたなかった。

 豊田商事の残党が設立した海外金融先物取引会社「飛鳥」(本社・東京)は1986年、負債総額15億円を残し、自己破産。さらに同じ残党グループの「フェニックス・ジャパン」(本社・福岡)も多数の客から4300万円を騙し取っていた。

出典:「豊田商事」会長刺殺事件

	

豊田商事会長刺殺事件の裁判


1986年(昭和61年)、豊田商事の残党がつくった海外金融先物取引会社「飛鳥(あすか)」の破産が決定。債権総額は約15億円であった。同じく、残党グループの「フェニックス・ジャパン」は4300万円を騙し取っていた。

3月12日、大阪地裁は飯田に対し懲役10年(求刑・懲役15年)、矢野に対し懲役8年(求刑・懲役13年)の実刑判決を下した。


1988年(昭和63年)、約1500人の被害者が「国が詐欺商法を放置したため被害が広がった」として、国に約24億8000万円の損害賠償を求めて大阪地裁に提訴した。


1989年(平成元年)3月、大阪高裁で矢野に対し控訴を棄却し、懲役8年の刑が確定。


3月29日、大阪地裁は豊田商事の社長の石川洋ら当時の幹部役員5人に対し、虚業そのもので詐欺にあたるとして5人の被告にそれぞれ、懲役10~15年の実刑を言い渡した。詐欺事件としては過去最高の厳罰となった。この事件においては、同社の元社員を相手取った約170件の民事訴訟や、消費者保護行政の怠慢を追及する国家賠償請求訴訟などが起こされ、元社員らの民事責任を認定する判決も相次いでいた。


1990年(平成2年)6月、最高裁で飯田の上告を棄却し、懲役10年の刑が確定した。


飯田は出所後、現場に居合わせた報道陣の野次による教唆があったとして4回、再審請求を起こしたが、いずれも却下されている。


1992年(平成4年)4月22日、東京地裁は「公正取引委員会が法的措置を怠ったために豊田商事の詐欺的商法被害が防げなかった」として都内の被害者ら52人が国や豊田商事の元社員らに計約5億円の損害賠償を求めた訴訟で、国に対する請求は棄却したが、元社員らに総額約3億800万円の支払いを命じた。


1993年(平成5年)、大阪地裁は被害者が国家賠償を求めていた裁判で、豊田商法を「違法な詐欺商法」と認定したが、「各省庁に違法な職務行為があったとは認められない」として請求を棄却した。原告側が最も違法性が強いと主張した警察庁の責任については「当時、強制捜査に必要な資料を入手していなかった」と判断した。


1998年(平成10年)、大阪高裁は被害者が国家賠償を求めていた裁判で、「各省庁は迅速に豊田商法の実態を解明して規制できなかったが、それが著しく不合理とはいえない」として、原告側の控訴を棄却した。


2002年(平成14年)9月26日、最高裁は被害者が国家賠償を求めていた裁判で、被害者側の上告を棄却した。消費者保護行政のあり方が問われたこの裁判は、提訴から14年で被害者側の敗訴が確定した。


2012年(平成24年)1月11日、架空のモンゴル開発事業名目で出資金を集めたとして6人が逮捕された詐欺事件で、3月初め、新たに男3人が金融商品取引法違反容疑で警視庁生活経済課に逮捕された。3人の中には豊田商事の元社員のS(当時60歳)も含まれていた。

出典:豊田商事永野会長刺殺事件

	

その他


当時、似たような悪徳商法事件として騒がれていた投資ジャーナル事件を起こした中江滋樹会長が、刺殺事件翌日の6月19日に逮捕された。これは、前日の「永野刺殺」の二の舞を避けるための駆け込み逮捕と言われた。

出典:豊田商事会長刺殺事件 - Wikipedia

	

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