【大和型3番艦】世界で最も短命となった航空空母信濃
大和型3番艦幻の空母信濃とは
大和型戦艦誕生の経緯:大艦巨砲主義
ワシントン海軍軍縮条約及びロンドン海軍軍縮条約
第一次世界大戦後締結されたワシントン海軍軍縮条約及びロンドン海軍軍縮条約で海軍力を制限された日本海軍は、国力・経済力で圧倒的優位に立つアメリカに対し量を質で凌駕するという発想から、46cm砲を搭載した大和型戦艦を計画する。
条約明けの1937年(昭和12年)、第1号艦大和・第2号艦武蔵
専用輸送船「樫野」撃沈
ここで問題が発生。大和型戦艦の象徴でもある46cm砲を呉工廠から横須賀工廠へ運搬するために必要な専用輸送船「樫野」が9月4日に米潜水艦グロウラー(USS Growler, SS-215) に撃沈され、主砲を第110号艦に設置することが難しくなり大和型戦艦として建造することも難しくなっていた。仮に第110号艦(信濃)を大和型戦艦として完成させる場合、46cm主砲塔を細かく分解して特務艦「知床」(戦艦砲塔運搬可能)で輸送するか、第110号艦(信濃)を横須賀から呉に回航して主砲塔搭載工事を行わねばならなかった。
またマリアナ沖海戦においても日本海軍は主力空母3隻(翔鶴、大鳳、飛鷹)を失い、特に第110号艦(信濃)の原型となった大鳳喪失は関係者に衝撃を与えた。その後、進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦(信濃)が必要との意見があがった。
7月1日附達212号をもって第110号艦は軍艦 信濃と命名され、航空母艦として登録される(以後、110号艦は信濃と表記)
1994年竣工の大和型戦艦・第110号艦を航空母艦への期待は高かった。
「信濃」は正式に横須賀鎮守府籍
出典:横須賀海軍工廠
信濃は過労や事故により10名以上の死者を出しながら軍艦として形を整えた。軍需省航空兵器総局総務局長大西瀧治郎中将は、110号艦(信濃)を油槽船に改造し、スマトラ島(インドネシア)より燃料を運ぶ計画を立てていた。 8月15日、日本海軍は阿部俊雄大佐(軽巡洋艦大淀艦長)を、信濃艤装委員長に任命する。 8月17日、横須賀海軍工廠に信濃艤装員事務所を設置。 10月1日、阿部艤装員長は制式に信濃艦長となる。 同日附で第一航空戦隊(司令官古村啓蔵少将)が新設される。当事は雲龍型空母3隻(雲龍、天城、葛城)という戦力だった
10月5日、信濃艤装員事務所を撤去。 同日午前8時から8時30分頃、ドックに注水を開始。予定では、ドックに半注水し艦を浮揚、その段階で艦のバランス等を確認・調整することなっていた。その作業中、注水予定10mのところ推定8mまで達したところで突然ドックの扉船が外れ、外洋の海水が流れ込んだ。この海水の奔流に乗って艦体は前後に動きだし、艦を固定する100本以上のワイヤーロープと50本の麻ロープが切れた。これにより甲板上にいた技術士官等が海上に放り出されると同時に、艦首のバルバス・バウがドックの壁面に何度も繰り返し激突する事態が生じ、バルバス・バウと内部の水中ソナー、プロペラ翼端が破損した。
調査の結果、単純なミスが発覚した。扉船内部のバラストタンクへおもりとして海水を注水しなければならない筈が、それを忘れるという人為的ミスであったとの記録がある。バラストタンクへも海水を入れなければならないのに、全く注水されていないという人為的ミスという異説もある
最初で最後の公試運転
最初で最後の信濃の航空公試
同年11月、信濃は航空公試で各種艦載機の離着艦実験を行った。戦況の悪化から東京湾外での実験は危険として湾内で実施、横浜本牧沖から千葉市の沖に向かい、その間に着艦実験をすることになったが、信濃が速いのですぐに千葉沖に達してしまい、何回も往復することになった。11月11日には零戦や天山艦上攻撃機などの在来機、11月12日には横須賀航空隊により局地戦闘機・紫電改を艦上型に改造した「試製紫電改二(N1K3-A)」や流星、彩雲等による発着艦実験が実施され、いずれも成功を収めている。ただし監督していた川西航空機の菊原静男技師は、信濃乗組員の技量や動作に不安の念を覚えている。これが本艦で航空機が発着艦を行った唯一の事例であった。11月15日、志賀淑雄少佐は信濃飛行長に任命される。
呉回航へ
1944年(昭和19年)、公試運転を経て性能審議委員会の承認をうけ、海軍に引き渡され、第一航空戦隊に編入。同隊は空母6隻(雲龍、葛城、隼鷹、天城、信濃、龍鳳)となった。 11月24日、連合艦隊司令長官豊田副武大将はGF電令550号にて「『信濃』及び第十七駆逐隊は、『信濃』艦長之を指揮し横須賀発、機宜、内海西部に回航すべし」と命じた。これは残された艤装や兵装搭載の実施と、横須賀地域の空襲から逃れるための呉海軍工廠回航を意味していた。なぜならば横須賀海軍工廠の上空をB-29爆撃機が飛行しており、近日中に空襲があることが予測されていたことも関係している。アメリカ軍が撮影した航空写真にも「信濃」の姿が映っていた。しかし、アメリカ軍は大和推測データや武蔵沈没情報は持っていても、本艦について把握していなかった。
呉回航を後押ししたもう一つの原因として徴用工の多用による横須賀工廠の技術力低下を懸念した日本海軍の意向がある。呉海軍工廠の技術力を用い艤装工事を検討していたのである。海軍の打診に対し大和型戦艦の造船主任である西島亮二海軍技術大佐は「信濃の残工事(艤装工事)は引き受ける」と意欲的だったこともあり、海軍は呉回航を決定したという。だが、西島大佐は自らの発言を後悔することになった。当時に於いて信濃内部では建造工事が続けられており、高角砲、噴射砲、機銃はほとんど搭載されていなく、機関も12基ある缶(ボイラー)の内8基しか完成しておらず、最大発揮速力も20-21ノット程度という状態であった。便乗した工員数は、信濃通信長伝記によれば約1000名前後である。
信濃の出撃が特攻にならなければいいが
呉海軍工廠へ回航に際して航空機は搭載されず、もしくは艦上爆撃機(機種不明)を3機搭載しているという状態であった。呉で最後の艤装を終えた後は、いくつか説があり、桜花を台湾へ輸送する予定、特攻機の桜花を50機、貨物として搭載していたという説や海洋特攻兵器震洋数隻を搭載したという説もある。これにつき「信濃の出撃が特攻にならなければいいが」という冗談があったとする作家の主張もある。
浜風〔司令駆逐艦〕
信濃を護衛する駆逐艦は第十七駆逐隊の陽炎型駆逐艦3隻(浜風〔司令駆逐艦〕、磯風、雪風)だったが、既に海軍艦艇の水中捜索能力よりアメリカ軍潜水艦の静寂能力が上回る状態であり、艦自体も、2隻(磯風、浜風)はレイテ沖海戦の損傷で水中探査機が使えず、特に「浜風」はレイテ沖海戦で被弾し28ノット以上を出せない状態だった。さらに悪いことに第十七駆逐隊は、捷一号作戦から日本への帰投時に護衛していた戦艦「金剛」および同駆逐隊司令駆逐艦「浦風」を米潜水艦シーライオン(USS Sealion,SS-315)の雷撃で沈められたため、第十七駆逐隊司令谷井保大佐も浦風轟沈時に戦死、駆逐隊も司令不在という状況であった。第十七駆逐隊(浜風、雪風、磯風)は戦艦「長門」(レイテ沖海戦で損傷中)を護衛して横須賀に到着、その後信濃の呉回航に同行することになった。
出航そして捕捉
バラオ級潜水艦のアーチャーフィッシュ(USS Archerfish, SS-311)より追撃を受ける
日本本土、静岡県浜名湖南100マイルで待機していたアメリカ海軍のバラオ級潜水艦のアーチャーフィッシュ(USS Archerfish, SS-311)は不時着B-29救援任務を切り上げ、商船を襲うべく東京湾へむかった。 そこへ艦長ジョセフ・F・エンライト少佐は、「島が動いている」というレーダー士官の報告を元に「信濃」を発見した。発見当初、アーチャーフィッシュでは信濃甲板上に飛行機の姿を確認できなかったことなどから艦種を特定しかねており、タンカーだと考えていた。エンライト艦長は目標を捕捉できない可能性を考慮し、友軍潜水艦の応援を暗に求め、最高司令部宛に以下の無電を発信する。アーチャーフィッシュより太平洋艦隊総司令部、太平洋方面潜水艦隊司令部ならびに日本領海のすべての潜水艦宛。我れ大型空母を追跡中、護衛駆逐艦3隻あり、位置北緯32度30分、東経137度45分、速力20ノット」。信濃に傍受される危険をおかした無線(実際に傍受された)に対するアメリカ潜水艦隊司令部の返電は「追跡を続けよ、ジョー、成功を祈る」。ニミッツ提督司令部からは「相手は大物だ。君のバナナは今ピアノの上にある。逃がすな」だった。
11月29日午前3時13分、浜名湖南方176kmにてアーチャーフィッシュは魚雷6本を発射した。日本側はアーチャーフィッシュの存在には気付いており、午前3時5分には「信濃」が第十七駆逐隊に潜水艦警報を発し、第十七駆逐隊も潜水艦と思われる電波を傍受したが、位置の特定はできていなかった。
魚雷4本が信濃右舷に命中
潜航状態(潜望鏡発射)、1,400ヤード(約1,280m)の距離から発射された魚雷は、調停深度水面下10フィート(約3m)で6本。3本ずつ角度をずらせる150%射法にて発射された。魚雷は重量物が水線よりも上に集中している不安定な空母を転覆させるために、命中深度を通常より浅く設定して発射された。午前3時16-17分、魚雷4本が信濃右舷に命中、命中深度を浅く設定された魚雷は、信濃右舷後部のコンクリートが充填されたバルジより浅い部分に命中し、ガソリン貯蔵用空タンク、右舷外側機械室付近、3番罐室即時満水、亀裂で隣の1番罐室・7番罐室に浸水、空気圧縮機室が被害を受けた。最初の報告では、後部冷却機室、機関科兵員室、注排水指揮所近辺、第一発電機室などに浸水、右舷6度傾斜というものである。 第三海上護衛隊司令部で被害無線を傍受。命中後、一時13度傾斜したが、左舷注水により右傾斜9度に回復したが・・・
信濃沈没原因
書類上、「信濃」は軍艦籍に入って完成艦として扱われているが、実際は建造中の未完成艦だった。例えば通路にはケーブル類が多数放置されていて、防水ハッチを閉められなかった。また防水ハッチを閉める訓練すら、軍令部が工期を急がせたため行ったことがなかった。かろうじて閉めることが出来た防水ハッチも、隙間から空気が漏れていることもあった。大和内務科士官として艦内防御を担当した士官の話によれば、竣工時の大和艦底でもマンホールには不具合点が約500ヶ所(ボルトやパッキン不備、脱落、緊締不良、ボルト穴開け違い等)があり、時間をかけて順次改善していったとの回想もある。工期を短縮し、徴用工の多用による横須賀工廠では不具合点はさらに多かったのではないかと筆者は思う。
さらに大和型戦艦の艦内は迷路同然で、慣熟するのに1年では無理とされる。それでも、被弾後、応急員達は注排水指揮所からの指令によって反対側への注水作業を実行した。少なくとも3,000tの注水実行が報告され、傾斜は若干回復した。しかし、注水開閉弁が故障してそれ以上の注水が不可能となる。 ただちに潮岬方面に向かったが、浸水は止まらず、次第に傾斜が増大して速力も低下する。沢本中尉によれば、13度に傾斜した時点で主ボイラーを止めてしまったため電気や蒸気が使えなくなり、やむを得ず手動ポンプで排水作業を実施した。機関科兵の回想では午前5時ごろに右舷タービンが停止。午前6時、復水器が使用できなくなりボイラー給水用の真水が欠乏したため、午前8時前には洋上で完全に停止するに至った。
10時57分(55分説あり)沈没
浜風(司令駆逐艦)は2隻(浜風、磯風)で曳航すると通信。阿部(信濃艦長)自ら信濃の艦首で作業を監督したが、駆逐艦2隻では浸水して沈下した巨艦を曳航することができずワイヤが切れてしまった。そこで駆逐艦の後部高角砲塔にワイヤをグルグル巻きにして再度曳航を試みたが、またもワイヤが加重に耐えれず切断してしまい、曳航は断念されるに至った。第十七駆逐隊戦闘詳報によれば、磯風と浜風が曳航索を渡したが千切れてしまったという。注排水指揮所の全滅と曳航作業が失敗した事で、喪失は確定した。10時57(55分説あり)、潮岬沖南東48kmの地点で転覆、艦尾から沈没した。
艦歴が世界の海軍史上最も短い竣工から10日、出港からわずか17時間
「信濃」の艦歴は、世界の海軍史上最も短いものとなった。竣工から10日、出港してからはわずか22時間であった。被雷時点での戦死者数名・負傷者同程度だったにもかかわらず、総員退去の命令が艦内放送装置が使えず巨大な艦内に伝わらなかったり、エレベーター穴や艦体と飛行甲板の隙間に落ちたり、低温の海での漂流と強い波浪により、多数の乗組員が行方不明となった。 生存者は準士官以上55名、下士官兵993名、工員32名。戦死者は「信濃会」の調査によると791名(工員28名、軍属11名を含む)沈没点は北緯33度06分、東経136度46分とされる。現場の深度は6,000 - 7,000mと深い。「信濃」の探索は実施されておらず、正確な沈没位置は確定されていない。嶋田繁太郎海軍大臣より信濃沈没の報告を受けた昭和天皇は「惜しいことをした」と述べたという。
坊ノ岬沖海戦
1945年(昭和20年)4月7日、坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」と第二水雷戦隊の5隻(矢矧、磯風、浜風、霞、朝霜)が沈没、駆逐艦「涼月」も大破、帝国海軍が決行した最後の大型水上艦による攻撃となった。それにともない、沈没した2隻(大和、信濃)および空母「葛城」(健在)は第一航空戦隊から除かれる事になる。4月20日、第二艦隊および第一航空戦隊は解隊された。 8月31日、戦艦4隻(山城、武藏、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された。
【問題点】注排水については、出港前に傾斜復元テストは行われず、電源がどの程度の震動で故障するかも不明であった。(実際に排水ポンプは故障で作動しなくなっている)
前述されてあるように2cmも隙間の空く防水ハッチ、右舷艦尾に命中した魚雷の衝撃で艦首部分の甲板リベットから浸水、さらに隔壁の気密検査が未実施など多数が挙げられた。
ちなみに大和型が撃沈されたときの被弾数を見ると、「大和」の被弾数は爆弾7発、魚雷10発(日本の戦闘詳報による。アメリカ軍戦略調査団資料では爆弾5発、魚雷10発)、「武蔵」の被弾数は爆弾17発、魚雷20発(記録員戦死のため、後日生存者など関係者の証言から作成された戦闘詳報による。アメリカ軍資料では爆弾44発、魚雷25発)とされています。
このような戦況の中で産まれた世界最大の空母 信濃は、もはや基準排水量が大きくても、どれだけ強大な装甲と防御力を誇っていても、すでに壊滅した日本海軍の中にあって、空母に載せる艦載機もなければ、艦載機を操縦できるような、熟練パイロットも充分にいなかった。
アーチャーフィッシュの乗員は、非常に大きな空母を攻撃したことは認識していたが、撃沈の確信を持つことは出来なかった。またアメリカ軍はB-29からの偵察写真に「信濃」が写っていたが本艦の存在を把握しておらず、アーチャーフィッシュの報告も半信半疑の扱いであった。上官コーバス中佐は日本の暗号解読で判明した「信濃」という艦名から、信濃川の名をつけた巡洋艦改造空母を撃沈したと判断し、それで満足しろとエンライト艦長を説得してい。エンライト艦長は「信濃」のスケッチを提出し、2万8000トン(2万9000トンとも)空母撃沈認定をもらった。当時世界最大の空母を撃沈したと乗組員達が知るのは、戦後のことである。信濃撃沈の功績に対して、殊勲部隊章がアーチャーフィッシュに与えられた。 またGHQはNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で「信濃」沈没について報道した。「信濃」は潜水艦に撃沈された最も巨大な船である。