【死刑判決】大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件

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大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件


平成6年9月28日から10月7日の僅か11日間に大阪、愛知、岐阜の3府県で4人の若者が凄惨なリンチで殺害される事件が発生した。犯人は、非行仲間で、いずれも無職の愛知県一宮市生まれの小林正人(当時19歳)、大阪府松原市生まれの河渕匡由(当時19歳)、大阪市西成区生まれの小森淳(当時18歳)の3人。この3人は同年8月から9月にパチンコ店などで知り合った。いずれも定職につけず通行人から恐喝して金を巻き上げたり、恫喝して建設現場に送り込んだ金で生活していた。

主犯格の小林は生後間もなく母親を亡くし母方の兄夫婦の養子となったが、幼稚園に入った頃から盗癖があり中学時代には救護院に入った。だが矯正どころか益々非行が増長し窃盗、恐喝、強姦などを繰り返し少年院に入った。平成6年2月に仮退院したが、間もなく強姦事件を起こして補導。8月には強盗致傷事件を起こして大阪へ逃亡。そこで、河渕、小森と出会い同じような境遇と知り意気投合した


この3人(実際には16歳の少女をはじめ複数の非行仲間が加担している)が引き起こした凄惨リンチ殺人事件は、それぞれ「大阪事件」、「木曽川事件」、「長良川事件」と呼ばれている。

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大阪事件


平成6年9月28日午前3時頃、小林と河渕の2人は大阪の道頓堀で通行中の元すし店員の川田正英さん(仮名、当時26歳)に因縁をつけ、小林らの溜まり場である同市内の組事務所に連れ込み暴行を加えた。その上で川田さんに飯場で働かせ報酬を強取しようとしたが、川田さんが拒否したため同日午後8時頃、小林、河渕、小森の3人は川田さんの首を絞めて殺害した。さらに死んだことを確認するためタバコを川田さんの身体に押し付けて確認するという冷酷で残忍な行為を平然と行った。

小林は殺害後、暴力団の組員に後始末を相談。その結果、午後10時頃、川田さんの死体を布団で包んで、翌29日高知県安芸郡奈半利町の山中に遺棄した。後日、警察の剖検で鎖骨、肋骨3本が折れ、内臓が破裂していた。


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木曽川事件

小林は川田さん殺害の発覚を恐れて、河渕、小森を伴って地元の愛知県稲沢市に戻ってきた。大阪事件から8日後の10月6日午後7時30分頃、同じ非行仲間の家でシンナーを吸引していたところ、地元の遊び仲間の建設作業員・田中秋雄さん(仮名、当時22歳)が突然訪ねて来た。

田中さんは、以前自分の彼女が小林に強姦されたことを恨んでいたため、殴り合いの喧嘩になった。そこで、河渕らは小林に加担し田中さんの頭部や顔面をビール瓶や棒で殴打した。リンチは翌日の7日午前2時まで続き、田中さんは意識不明の状態に陥った。


3人は、田中さんを尾西市の木曽川河川敷に遺棄しようと土手から蹴り落とした。さらに雑木林へ引きずりシンナーをかけてからライターで火を点けて逃走した。

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長良川事件


木曽川事件の翌7日の午後10時頃、小林は遊ぶ金欲しさに金品を強取することを企図。河渕、小森と共謀の上、愛知県稲沢市のボウリング場の駐車場で物色を始めた。そこへ中学校の同級生で一緒にボウリングをしようと会社員・原田幸夫さん(仮名、当時20歳)とアルバイト・西山和夫さん(仮名、当時19歳)が通りかかった。

小林ら3人は2人に因縁をつけて顔面を殴打するなどの暴行を加え、車の後部座席に無理やり乗車させ江南緑地公園木曽川左岸グランド駐車場から岐阜県こどもの国駐車場などを経て、岐阜県安八郡輪之内町の長良川右岸堤防へ連れ回した。


その途中、小林らは原田さんから8000円を強取した上、翌日の8日午前1時頃、2人を金属パイプで全身を滅多打ちして殺害した。死体は江南緑地公園木曽川左岸グランド駐車場に遺棄して立ち去った。2人は金属パイプから身体を守るため両腕で防ごうとした結果、両腕の骨は砕けてボロボロの状態だった。

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長良川事件

			

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件まとめ

			

主犯格


小林正人

愛知県一宮市生まれ。生後すぐ母親と死別し、親類の家に養子に行く。童顔であるが凶悪。中学時代から万引き、カツアゲを繰り返し、赤ん坊の顔にパチンコ玉を放ったこともある。中学時代の終盤は教護院で過ごす。

大倉淳(旧姓小森)

大阪府松原市生まれ。定時制の工業高校に進むが、1年で中退。ホストクラブで働いたのち、暴力団の準構成員となる。

芳我匡由(旧姓河渕)

大阪市西成区生まれ。7人兄弟。貧しく、放任の家庭。

 これ以外にも、グループは計10人にのぼり、中には少女もいた。リンチに加担したものの、仲間の名前すら知らない者も数名いた。

裁判焦点


検察側は公判で「少年犯罪史上、前代未聞の凶悪事件」と位置づけ、暴行の残虐性や執ようさを主張し「暴行や強盗の隠ぺいのためという殺害動機に酌量の余地はなく、矯正の可能性はない」と指弾した。

 これに対し弁護側は、非行臨床心理学者の心理鑑定を実施。3被告は不遇な環境で育ち、人格的に未成熟だったと指摘、「反省を深めており、更生は可能」と少年法の保護育成の精神に基づいて死刑を避けるよう主張した。

 また、検察側は「確定的殺意があり、事件で果たした役割に差はない」と3被告の刑事責任は同等と主張した。一方、被告側は4人を死亡させた責任は認めたが、確定的な殺意は否定。小林被告は木曽川、長良川両事件に関し「未必の故意を含め殺すつもりはなかった」と主張。小森被告は「大阪事件は暴行の途中で現場を去り、帰ったら被害者が死亡していた」と、起訴事実の一部を否認している。

 一審判決で木曽川事件については殺人ではなく、傷害致死を適用。小林被告は中心的な立場にあり、集団の方向性を決定づけていたとして死刑判決。小森被告は兄貴分でありながら小林被告に追従したとして、無期懲役判決。芳我被告はもっとも年下で格下であり、追従せざるを得なかったとして無期懲役判決が言い渡された。


 控訴審で検察側は、木曽川事件は殺人罪が成立すると主張。また、「3被告の果たした役割に差はない」として、改めて3被告に死刑判決を求めた。

 3被告の弁護側はいずれも各事件の殺意や強盗の犯意などを争うとともに、未成熟な少年たちが集団の中で虚勢を張り合い、犯行をエスカレートさせる少年事件特有の「強気の論理」や矯正可能性を重視するべきで、死刑は重すぎて不当だと訴えていた。

 また小林被告の弁護側は、「首謀者との評価は誤り。重要な場面では小森被告の役割が大きかった。未成年者が虚勢を張り合う中で起きた犯行で、中心的役割とした一審判決は誤りだ。死刑は重すぎて不当」と述べた。

 小森被告の弁護側は、「形式上は兄貴分だったが、小林被告に追従する立場だった。場当たり的な犯行で、殺意はなかった」と主張し、有期懲役刑を求めた。

 芳我被告の弁護側は、「集団の中で末端の従属者に過ぎない」などと述べ、有期懲役刑を求めた。

 判決で川原裁判長は、まず木曽川事件について死因を一審同様、明確に特定しなかったが「瀕死の重傷を負わせた事前の暴行を隠ぺいする動機で、約12メートルの堤防斜面を転がり落として河川敷まで運んだ。死期を著しく早める行為で、想定される死因のいずれでも、3被告の行為と死亡の因果関係は認められる」と述べた。大阪事件では、関与を否認していたK・J被告を含め、3被告の共謀を認めた。長良川事件については、強盗殺人罪が成立するとした。

 弁護側が殺意や共謀を争った点についても、3被告の言動や遺体の損傷状況などから「殺意と共謀は優に認められる」として退けた。

小林被告について、「終始、主導的に犯行に及び、グループの推進力として、際立って重要な役割を果たした」と指摘。グループのリーダーである小森被告は、「小林被告が前面に出る場面もあったが、総合的にみて、小林被告とともに主導的に犯行にかかわった」とした。また、芳我被告も、「グループの中での序列は一番下だったとはいえ、強制された訳でもなく、かえって積極的に犯行に及んだ」と認定した。


 2011年2月10日の最高裁弁論で被告側は二審で殺人と認定された愛知県の事件について「傷害致死にとどまる」と主張。「二審は、恵まれない環境で育ち、健全な発達を阻害された少年の精神的未熟さを十分に考慮していない。精神的に未熟な少年による犯行で、最高裁が示した基準に照らしても死刑は重すぎる」などと述べた。またその上で、一、二審とも死刑だった小林被告の弁護側は「遺族に謝罪の手紙を送るなど反省しており、立ち直りは可能だ」と述べた。一審は無期懲役だった小森被告の弁護側は「積極的に暴力にかかわっておらず、従属的だった。死刑を望まない遺族もおり、生きて償う努力をさせるべきだ」と主張。同じく一審は無期懲役だった芳我被告の弁護側は「果たした役割は従属的で、主犯とは言えない。心の底から反省、後悔しており、死刑は重すぎる」と訴えた。

 検察側は「残虐なリンチで4人の命を奪った責任は誠に重大。被告はいずれも根深い犯罪性があり、結果の重大性や遺族の被害感情などを考えれば、犯行時少年だったことが、死刑を回避すべき特別な事情にはならない」と反論した。

 判決で桜井龍子裁判長は「無抵抗の被害者に集団で暴行を加え、その痕跡を消そうと殺害に及んだ理不尽な動機に酌量の余地はない。執拗かつ残虐な犯行で、わずか11日間で4人の命を奪った結果は誠に重大」と指摘した。争点となった3人の役割については、小林被告を「犯行を強力に推進し、最も中心的で重要な役割を果たした」と認定した。一審では従属的とみなされた他の2被告については、小森被告を「小林被告とともに主導的立場で犯行を推進した」とし、芳我被告も「進んで殺害行為に着手するなど主体的に関与し、従属的とは言えない」と指摘、いずれも積極的に関わったと認めた。そして「3人が少年だったことや場当たり的な犯行、遺族に謝罪の意を示していることなどを最大限に考慮しても、死刑はやむを得ない」と述べた。

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大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件

			

死刑が確定した3少年

			

未成年者に対して死刑判決


犯行当時、未成年者に対して死刑判決を下したのは、「少年ライフル魔事件の片桐操(犯行当時18歳)」、「小松川高校・女性徒殺人事件の李珍宇(同18歳)」、「連続射殺魔事件の永山則夫(同当時19歳)」などの判例があるが、複数の被告に死刑判決を言い渡したのは過去に例が無い。

出典:連続リンチ殺人

	

他被告への判決

大阪事件で被害者の遺体を高知県内の山中に捨てたとして死体遺棄の罪に問われた暴力団組員の男性(判決時46)は1995年4月21日、大阪地裁で懲役1年8月判決(求刑懲役2年6付)。控訴せず確定。

 木曽川事件で殺人に加わった一宮市の少年(事件当時19)は1995年7月6日、名古屋地裁で懲役4-8年の不定期刑判決(求刑懲役5-10年)。控訴せず確定。

 大阪事件で殺人、死体遺棄に加わった東大阪市の少年(判決時19)は1995年9月12日、大阪地裁で懲役4-8年の不定期刑判決(求刑懲役5-10年)。控訴せず確定か。

 木曽川事件、長良川事件に関与した稲沢市の男性被告(判決時21)は傷害致死ほう助、監禁、強盗致傷の罪で起訴されたが、1996年3月20日、名古屋地裁で強盗致傷もほう助にとどめ、懲役3年執行猶予4年判決(求刑懲役7年)。判決では少年らに脅されていたと認定された。控訴せず確定。

 木曽川事件、長良川事件に関与した稲沢市の男性被告(判決時23)は殺人の罪で起訴されたが、1997年3月5日、名古屋地裁で殺人ほう助にとどまると認定され、懲役3年執行猶予4年判決(求刑懲役7年)。控訴せず確定か。

出典:mkobayasi"

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その他

小林正人被告は、「週刊文春」に実名に似た仮名で記事を書かれたことについて「少年法に反する」と損害賠償請求訴訟を起こした。一審、二審では請求を認め、文春側に30万円の支払いを命じたが、最高裁は「記事によって一般読者が元少年を犯人と推測できるとはいえない」として、少年法に違反しないと判断。審理を名古屋高裁に差し戻し、同高裁は改めて元少年の請求を棄却。2004年11月2日、最高裁第三小法廷(上田豊三裁判長)は、この元少年の上告を棄却する決定をした。

 最高裁判決時、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、共同通信、時事通信、NHK、フジテレビ、テレビ東京などは実名で報道した。日弁連の宇都宮健児会長は「少年法に違反しており、極めて遺憾だ」とする声明を発表した。毎日新聞は匿名報道を続けるというコメントを発表している。

 週刊誌「フライデー」(講談社)は2011年5月12日発売号で、死刑確定前の3月11日に名古屋拘置所で大倉淳被告と面会した際に撮影したとする写真を掲載した。面会したジャーナリストの青木理氏の記事とともに、元少年がアクリル板越しに涙をぬぐう様子など3枚を掲載した。フライデー編集部は「報道に意義があると考え、編集部独自の判断で掲載した。撮影方法についてはコメントしない」と話している。名古屋拘置所によると、面会時の撮影を禁じる法律はないが、拘置所の規定で撮影や録音を禁じており、一般面会者のカメラや携帯電話などをロッカーに保管させる上、金属探知機でも確認し面会室への持ち込みを認めていない。大倉死刑囚は5月12日、弁護人の村上満宏弁護士に「記事の内容に不服はない」との感想を伝えた。拘置所で接見した弁護士が明らかにした。死刑囚は撮影や掲載を事前に知らされていなかったという。

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現在


小林正人死刑囚は2011年12月16日付で、名古屋高裁に再審を請求した。弁護団は新たな証拠として、専門家に依頼し2008年春、小林死刑囚に対し独自に実施した精神鑑定の結果を高裁に提出した。申立書で「離人症を伴う解離性障害だったと診断された」と指摘しており、「事件当時は心神喪失状態で無罪だ」と主張している。

 名古屋拘置所は小林正人死刑囚(当時控訴中)から預かっていた大量の公判記録などを入れた段ボール10箱を預かって保管していたが、2005年4月、このうち3箱を廃棄した。中には少なくともA4用紙8400枚分の資料が入っていたという。拘置所によると、弁護人らから差し入れられた公判記録は収容者が所持できるが、大量の場合、預かることもあるという。拘置所は、死刑囚から記録の閲覧を求められて廃棄に気づき、同年5月に謝罪したという。

 小林正人死刑囚は2011年5月、「控訴審に臨むために必要不可欠だった資料を廃棄され、精神的苦痛を受けた」として、国を相手取り598万円の損害賠償を求める訴訟を名古屋地裁に起こした。

 名古屋高裁(柴田秀樹裁判長)は2013年2月4日付で、小林正人死刑囚の再審請求を棄却した。弁護側は精神鑑定を基に事件当時は責任能力がなかったと主張したが、柴田裁判長は「鑑定結果の信頼性には甚だ疑問がある。ささいな動機から殺人を繰り返しても精神障害とは疑われず、行動制御能力を失っていた疑いは生じない」と棄却を決定した理由を述べた。


 大倉淳死刑囚は2013年1月、名古屋高裁に再審を請求した。新証拠は大倉死刑囚の上申書と法医学者による遺体の鑑定書。上申書では自らの暴行と被害者の死亡に因果関係がないことなどを主張している。鑑定書は事件のうち1件について大倉死刑囚が暴行を加える前に「他の共犯者によって致命傷が与えられていた可能性がある」としている。新証拠は上告審でも提出されたが証拠調べはされなかった。

 名古屋高裁(柴田秀樹裁判長)は2013年8月19日付で、大倉淳死刑囚の再審請求を棄却した。柴田裁判長は、大倉死刑囚の殺意や共謀を打ち消す新証拠として提出された本人の上申書と鑑定書は「新規性を欠き、証拠価値についても信用性が乏しい」と判断。「確定判決は自白調書のみによって認定したものではない。自白調書の信用性を否定する理由は具体的根拠に乏しく、一般論にすぎない」などとして退けた。

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Sharetube