<昔の話ではない、済んだ話でもない・・・日本社会はいつも誰も責任を取らない。弱い者が責任を押し付けられる!> 【3月10日】東京大空襲 ~誰が責任を取ったのか?

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なぜ米軍は東京大空襲を機に無差別爆撃に踏み切ったのか?

先の大戦中の首都・東京への空襲は100回を超えるが、昭和20年3月10日の「東京大空襲」を機に、米軍は、一般市民をターゲットにした無差別爆撃に舵を切った。なぜ米軍は戦術を転換したのか-。


20年1月20日、後に「米空軍の父」と言われる米陸軍航空軍司令官のヘンリー・アーノルド大将(後に空軍元帥)は、爆撃で成果を上げられない日本空爆の指揮官、ヘイウッド・ハンセル准将を更迭し、欧州戦線などの爆撃で成果を上げたカーチス・ルメイ少将(後に空軍大将)を任命した。

ルメイ氏は、それまでの軍需工場への精密爆撃をやめ、一般市民を多数巻き込む無差別都市爆撃を計画した。


ルメイ氏は戦後、自著で無差別爆撃を「全ての日本国民は航空機や兵器の製造に携わっている」と正当化している。

さらにルメイ氏は、高度1万メートル近い高高度昼間爆撃から2千メートル前後の低空夜間爆撃に切り替えた。爆弾搭載量を増やすため機銃の大半は取り外させた。3月の時点で護衛戦闘機はなく、もし敵戦闘機に襲われても反撃のすべはない。B29搭乗員の多くは「死の宣告」と受け止めたという。

ただ、無差別爆撃の責任をルメイ氏一人に押しつけるのは酷だろう。

背景には、すでに日本陸海軍の組織的反撃は困難となり、米軍が日本本土上陸を想定するようになったことがある。無差別爆撃により日本の厭戦気分を高めるとともに、都市部を壊滅させることで速やかに占領しようと考えたようだ。根底には米陸海軍、そして陸軍から独立を企てる陸軍航空軍(後に空軍)の主導権争いもあったとされる。

防衛大学校の源田孝教授(軍事史)は「当時ルメイ氏は少将にすぎない。爆撃は全てアーノルド大将の命令で実行された。ルメイ氏は組織人として上官の期待に忠実に応えただけだ。無差別爆撃への転換には『米兵の死傷者を少なくしたい』という米政府の思惑がからんでいた。日本への原爆投下の正当化と同じ論理が見てとれる」と語る。

出典:【3月10日】東京大空襲 ~誰が責任を取ったのか?|日本と中国の真実に迫る! - Linkis.com

	

その証拠に

米国は1943(昭和18)年、ユタ州の砂漠に日本の木造長屋を再現し、焼夷弾による燃焼実験を行っている。やはり無差別爆撃は「米国の意思」だったとみるべきだろう。

「わが国政府並びに国民は、非武装市民への爆撃や低空からの機銃掃射、これら卑劣きわまる戦争行為を全力をもって糾弾する」


これはフランクリン・ルーズベルト米大統領が、39(昭和14)年にソ連軍がフィンランドに無差別爆撃を行った際、発表した声明だ。ルーズベルト氏は東京大空襲直後の45(昭和20)年4月12日に死去したが、日本全国で繰り広げられた無差別爆撃、そして広島、長崎への原爆投下をどう抗弁するつもりだったのだろうか。

出典:【3月10日】東京大空襲 ~誰が責任を取ったのか?|日本と中国の真実に迫る! - Linkis.com

	

この大空襲は、一般市民を殺傷することを目的として計画が立てられ、また実行に移されました。

戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)にて日本は「人道に対する罪」、「平和に対する罪」によって11人の国のリーダーが死刑に処せられました。

東京大空襲は、「非武装市民への爆撃や低空からの機銃掃射、卑劣きわまる戦争行為」ではなかったのか?

東京大空襲の責任者は、「人道に対する罪」、「平和に対する罪」により咎められることはないのだろうか?

戦後、71年たった今でも・・・誰ひとりとして追求されることはありません。強い疑問を感じます。

出典:【3月10日】東京大空襲 ~誰が責任を取ったのか?|日本と中国の真実に迫る! - Linkis.com

	

【閲覧注意】1万体以上の遺体が埋められていた【錦糸公園】東京大空襲最大規模

防空法で犠牲拡大 空襲時「逃げずに消火」

 一九四五年三月十日未明、東京の下町が炎に包まれた。米軍の長距離爆撃機「B29」約三百機が、千六百六十五トンもの焼夷弾(しょういだん)を落とした東京大空襲。無差別爆撃で約十万人が亡くなった。当時は日本政府の方針で防空法で「逃げるな、火を消せ」と定められ、これが犠牲者を増やしたと指摘されている。 (奥野斐)

 「兄さんはあの猛火の中で声をかけられ、消火活動をしたと聞いた。信じられない」。東京都江東区の築山実さん(86)は空襲の時、十六歳。四つ上の兄と炎の中で離れ離れになった。

 爆撃が始まると、築山さんは両親、兄、妹と家から逃げ出した。炎の勢いは想像以上だった。自宅前の通りを北へ走った。「忘れ物をした。すぐ戻るから」と兄が引き返し、それが最後の姿となった。


 当時、総武線の両側は強制疎開で空き地となり、そこに防空壕(ごう)があった。六歳の妹と母はそこに逃げ込み、妹は蒸し焼きのようになって亡くなった。母も終戦前に亡くなるほどの重いやけどを負った。

 築山さんと父は、ガード下に避難した。吸い込む空気は熱く、頭の鉄かぶとも焼けた。「真綿で首を絞められるような苦しさだった」。目の前で少年が力尽き、燃え上がった。二人は火の粉を払い続け、生き延びた。

 戦後、近所の人から兄の消息を聞いた。自宅に引き返した後、防火責任者から声を掛けられたようだった。「逃げるんじゃないと言われ、消火を手伝わされたのか」。ろくな装備もなく炎に立ち向かったという話が、今も納得できない。

 しかし当時は「空襲が来れば火を消すのが国民の務め」だった。国民に都市部からの退去を禁じ、消火に当たることを義務付けた防空法が、そんな空気づくりに一役買った。


 法令に従い、各地で住民がバケツリレーなどの訓練を繰り返した。築山さんの一家でも、隣組の組長だった父は訓練に欠かさず足を運んだ。

 築山さんも一、二度参加し、火に見立てた発煙筒に防空頭巾の女性たちとバケツで水をかけた。実際の炎には「焼け石に水」で、消火活動をしたため逃げ遅れた人も出た。

 「いざとなったら神風が吹くと国民は信じていた。大空襲の日も燃える家にバケツで水をかける人がいた」。空襲を体験し、「東京大空襲」を記した作家、早乙女勝元さん(82)が語る。「避難が許されていれば、十万人もの犠牲者は出なかったはずです」

出典:東京新聞:防空法で犠牲拡大 空襲時「逃げずに消火」:伝言 あの日から70年:特集・連載(TOKYO Web) - Linkis.com

	

防火せず逃げれば…

 庭先の小さな防火水槽、バケツリレー、床下に穴を掘っただけの防空壕(ごう)…。第二次世界大戦末期、粗末としか言いようのない空襲対策の背景には防空法令の存在があった。「逃げるな、火を消せ」。地域での訓練を通じて法の意図が徹底された。一九四五年三月十日、米軍の空襲で下町の約十万人が亡くなった。「逃げていれば、こんなに死ななかったはず。防空訓練がわざわいとなったのだ」。当時の警視総監の胸には後悔が残った。

 「広い隅田川を、炎が波のように渡った。浅草側からこちら側の隅田公園の桜の木に火が燃え移るのが見えた」

東京大空襲の夜、逃げ惑った赤沢寿美子さん


 大空襲の夜、深川区(現江東区)から北へと逃げ惑った赤沢寿美子さん(84)=葛飾区=の目には、炎を上げる下町の光景が焼きついている。

 庭先の壕へ避難しようと家を出ると、空は真っ赤に染まっていた。防空ずきんに水をかけられ、前を行く父の足を見て、人混みの中を母や弟と無我夢中で走った。その間も米軍の長距離爆撃機「B29」から焼夷弾(しょういだん)が雨あられと落ちてきた。風にあおられ、焼夷弾のかけらや火の粉が降り掛かった。

 劫火(こうか)に、バケツで立ち向かった人が少なからずいた。

 吉田八重子さん(88)=台東区=は母、弟と南千住駅近くの空き地にいた。機体の星マークが見えるほど低く飛ぶ米軍機を見上げ、「家を守る」と数百メートル離れた自宅に残った父を案じた。

 翌朝、家に戻ると、くたびれた表情の父がいた。玄関脇の防火水槽は空になっていた。縦、横、高さが六十センチほどの水槽は、今も家の前に残っている。「とてもこの水では足りないわよね」。家に火が回らなかったのは偶然だった。

バケツで水をかけた竹内静代さん


 城東区(現江東区)にあった竹内静代さん(83)=調布市=の自宅は、四五年二月の空襲で焼失した。母とバケツで必死に水をかけても、火は勢いを増すばかり。「水をかければ消せる」。そんな考えは間違いと思い知った。二週間後の東京大空襲でも焼け出され、両親とともに避難した。

 ◇ 

 開戦直前の四一年十一月、防空法が改正され、都市部の住民は地元にとどまり、空襲の消火をするよう義務付けられた。隣組や町会、学校などでの訓練を通じ、初期消火の重要性が説かれた。空襲の時に多くの人がバケツを手に取ったのは、このためだった。

消防署員だった中川慶吉さん


 訓練は無駄と気付いていた人もいた。

 中川慶吉さん(88)=台東区=は当時、浅草の向柳原消防署に勤め、町会の訓練などで消火の指導をしていた。「水のかけ方が悪い」「この火たたきの使い方ではダメだ」。そう町の人たちに声を掛けているうちに疑問が浮かんだ。

 中川さんは何度も火事場を経験していた。その目でみると、訓練は無駄な抵抗にしか思えなかった。「バケツの水では火は消せない。避難した方がいい」と訓練で諭すようになった。

 東京の下町では、防空壕も床下を少し掘っただけの簡素な造りだった。一時的に身を隠し、すぐ消火に出動できる「待避所」を造るという方針を内務省が取ったためだった。この中でも多くの人が亡くなった。

防空壕での体験を語る西尾静子さん


 空襲当日が六歳の誕生日だった西尾静子さん(75)=東村山市=も炎に追われた。深川区(現江東区)の自宅近くにあった国民学校はいっぱいで、母と墨田工業学校(現墨田工業高校)の壕に入った。

 ろうそくもない暗闇。足元は地下水が染み出していた。座ることもできず、西尾さんを背に母は立ち続けた。煙が入り込み、息苦しかった。外から「開けてくれ、中に入れてくれ」と怒号や悲鳴が聞こえた。空襲が収まった翌朝、戸を開けると、焼死体が山のように折り重なっていた。手を合わせ、その場を去った。

 西尾さんは幸運だった。最初に向かった国民学校の四百人収容できる壕には熱風が入り、半数が亡くなったと聞いた。

 ◇ 

 東京大空襲の直後、米軍は名古屋、大阪を本格的に爆撃し、その後は地方都市までも標的にした。被害は口づてに伝わり、法で禁止されていたにもかかわらず、地元を離れる人が増えていた。そんな住民の動きを抑えようと、行政が防空法を根拠に罰を振りかざしたこともあった。

 終戦一カ月前、米軍が青森に空襲を予告するビラをまき、避難する市民が相次いだ。当時の金井元彦県知事の発言を受け、青森市は「七月二十八日までに帰らないと町会から名前を消し、配給を受けられなくする」と通告。予告通り米軍は六十機余りのB29で青森を空襲した。七百人以上が命を失った。

 避難させていれば、助かった人もいたのではないか。東京大空襲の当時、警視総監だった坂信弥(のぶよし)は戦後、「わが生涯における最大の痛恨事」と空襲を振り返った。「東京大空襲・戦災誌」四巻(東京空襲を記録する会刊)に収録された「防火訓練がかえってわざわい-『私の履歴書』より-」と題した文章にこうある。「防火を放棄して逃げてくれればあれほどの死人は出なかっただろうに、長い間の防空訓練がかえってわざわいとなったのだ」 (奥野斐)

 <東京への空襲> 1944年11月以降、米軍の空襲が本格化した。当初は軍事施設を目標とし、45年3月10日の東京大空襲以降は、焼夷弾で無差別に市街地を焼き払う「絨毯(じゅうたん)爆撃」になった。東京大空襲・戦災資料センター(江東区)によると、東京の区部が被害を受けた空襲は60回を超えた。

 確認された遺体は計10万5000人余、焼失面積は区部の市街地のほぼ半分に当たる約140平方キロメートルに及んだ。

 <防空法> 軍でなく官、民での防空について定めた法律。1937年に施行され、灯火管制や防空演習への参加協力を義務付け、国民を防空態勢に組み込んでいった。41年の改正で都市からの退去禁止や空襲時の応急消火義務が加わった。罰則も強化され、退去禁止に違反した場合、6月以下の懲役または500円以下の罰金が科された。終戦後の46年に廃止。

出典:東京新聞:防空法で犠牲拡大 空襲時「逃げずに消火」:伝言 あの日から70年:特集・連載(TOKYO Web) - Linkis.com

	







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Sharetube