ほめられたら要注意!?京都人の「ウラとオモテ」を楽しむ 世界の中心は「京都御所」
「いけず? ちゃいます、ちゃいます。何事も、角が立たんようにするのがよろしおすやろ」――京都人の内面は、なんとも複雑怪奇。でも、知れば知るほど味が出てくる。さあ、覗いてみよう。
ほめられたら要注意!?京都人の「ウラとオモテ」を楽しむ 世界の中心は「京都御所」 (現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
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「いけず? ちゃいます、ちゃいます。何事も、角が立たんようにするのがよろしおす
東京に「下る」と言う
京都人。およそ1億2700万人の日本人の中でも、彼らが最も「ウラとオモテ」を使い分けるのに長けた人々であることは、間違いない。京都の街が、たまに訪れるだけの観光客にはなかなか味わい尽くすことができないように、かの地に住む人々もまた、「よそ者」に気を許そうとはしないし、めったなことでは本音など表に出さない。それらしき言葉が出てきたとしても、十中八九は「いけず」である。
そんな心性を、当の京都人が「告発」した新書が異例のロングセラーとなっている。京都市にある国際日本文化研究センター副所長・井上章一氏が、昨年9月に著した『京都ぎらい』(朝日新書)だ。
井上氏のもとには、京都人からの反響が続々届いている。
「この本を出した後、洛中の人たちにこう言われました。『あなたの書いたことは事実だが、それが何か問題なのか』『いろいろ言いたいことはあるかもしれんけど、やっぱり嵯峨は京都やないでしょ』と。きっと、怒っているんでしょうね」
『京都ぎらい』は、京都のみならず全国で話題となり、2月には今年度の「新書大賞」にも輝いた。
京都市西部の嵯峨で育った井上氏は、長じるにつれて、ある違和感を抱くようになったという。それは京都市中心部――すなわち「洛中」の人々が、同じ京都市民であるにもかかわらず、どうも嵯峨のような「洛外」の人々を見下しているらしい、ということである。
学生時代、研究のため洛中のある名家を訪ねた際の体験を、井上氏はこう記している。氏が、その家の当主(故人)と話していたときのことだ。
〈「君、どこの子や」たずねられた私は、こう答えている。「嵯峨からきました。釈迦堂と二尊院の、ちょうどあいだあたりです」この応答に、杉本氏(注・当主)はなつかしいと言う。嵯峨のどこが、どう思い出深いのか。杉本氏は、こう私につげた。「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」(中略)そこに揶揄的なふくみのあることは、いやおうなく聞きとれた〉
関西圏以外の住人は、
「洛中も嵯峨も、同じ京都としか思えない」
「寺社がたくさんあって紅葉もきれいな嵯峨は、いかにも京都らしい場所だと思っていたのに」
といった感想を抱くのではなかろうか。
だが、「本当の京都と呼べるのは洛中だけ」というのは、関西、少なくとも京都府内においては常識に属すること。それどころか、「京都市の中でも中京区だけが洛中」、さらに「室町幕府の『花の御所』があった地域だけが真の洛中」という「過激派」の京都人さえいるという。
井上氏が続ける。
「この『洛中中心主義』は、有名人にも容赦ない。たとえば、歌手の倖田來未さん(京都市伏見区出身)がデビューしたとき、全国的には『京都の歌姫』と紹介されましたが、洛中の人たちは『あの子は伏見の子やから京都人やない』と当然のように言い切っていました。
洛中には、室町時代から代々同じ場所に住み続けている豊かな商人の末裔が多く、彼らには、『京都の代名詞』ともいえる祇園祭などの文化を支えてきたという自負がある。中には、未だに東京に行くことを『東下り』と言う人も少なくありません」
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滋賀? ゲジゲジみたいやな
これを聞いて、「京都の名士は、さぞプライドも高いのだろう」
「人前ではお上品な洛中の人が、ウラでそんなことを言っていたなんて」
と済ませるのは早計である。この「洛中中心主義」は、洛中から離れるにつれて「京都市中心主義」そして「京都府中心主義」と裾野を広げ、まるで目に見えないピラミッドのように、京都府全域を覆っているのだ。
例えば、同じ京都市でも、洛中からは山をひとつ越えた先の山科区に生まれ育った、30代男性はこう言う。
「よその人から見ると、電車で1駅やからすぐやん、と思うでしょうけど、洛中と洛外は世界が違いますからね。『餃子の王将の社長が殺された事件、まだ犯人捕まれへんのやろ? 怖いわあ』(注・事件が起きた王将の本社は山科区にある)とか、未だに洛中の知り合いに言われますもん。
でも、僕らも亀岡や滋賀と一緒にされたら『そりゃ違うやろ』となる。京都人にとっては、京都御所が世界の中心。そっからどれだけ近いかで、順位が決まるんです」
では、もう一段階範囲を広げて、彼に「一緒にされたくない」と言われた京都市のお隣・亀岡市民にもご登場いただこう。同市在住の40代男性はこう述べた。
「確かに、私は京都市内に勤めているので、市内で亀岡出身だと言うと『遠いとこからよう来てはるなあ』と言われることがありますね。京都市以外の京都府民は、同じような扱いをされてると思います。
でも、これは亀岡に限らないと思いますが、非・京都市民の京都府民も、関西の他の県に対しては優越感を持っている。『大阪はゴチャゴチャうるさいとこ』『兵庫はただの田舎。神戸だけは、まあ認めたげよか』『滋賀? ゲジゲジみたいな字ぃの県な』という感じですね。
滋賀県民を面と向かってバカにすると、必ず『京都人は誰のおかげで生きてると思っとるんや。琵琶湖の水、止めたるぞ』と凄まれます。もっとも、亀岡の水源は琵琶湖ではなくて自前ですが」
なんといっても、京都は「世が世なら日本の首都だった」街。それどころか、内心は「今でも、真の首都は東京ではなく京都」と思っている京都人も決して少なくはない。
2月末に方針が固まった文化庁の京都移転など、彼らに言わせれば「人と博物館が多いだけで歴史の浅い東京が、今更『本家』にお返ししようやなんて、100年遅いんやないの」といったところだ。
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ほめられたら要注意
京都人の内面を考えるうえで、もうひとつ絶対に欠かすことができない要素が、冒頭でも触れた「いけず」である。これまた非・関西人にとっては、あまりピンと来ない言葉かもしれない。辞書を引くと、「(関西方言)意地が悪いこと・人。ずうずうしいこと・人」(講談社国語辞典)とある。ただ、厳密に言えば、この説明はちょっとニュアンスが違う。
洛中に残る唯一の日本酒蔵元・佐々木酒造の佐々木晃社長が言う。ちなみに、氏は俳優・佐々木蔵之介の弟でもある。
「たとえばお隣のピアノの音がうるさいと思っても、『うるさい』とは言わずに『お上手ですなあ』と言ったり、強引な営業マンが来ても、直接『イヤだ』とは言わずに『お元気な人ですなあ』と言ったりすることはあるでしょうね」
京都人が言うことには、ウラの意味があるから信用できない――。有名な「ぶぶ漬け」のエピソード(京都の家を訪れて「ぶぶ漬け、いかがどすか?」と言われたら「長居してないで帰れ」の意味)のせいか、そんなイメージがすっかり定着して久しい。
前述の『京都ぎらい』の中で井上氏が書いている「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」というのも、紛れもなく、よそ者に対する「いけず」だ。
今回、京都人から聞いた「いけず」の実例をもう少し挙げてみると、
「まあ、きれいなネクタイしてはるなあ」
→「派手なネクタイして、あんた何考えてんの」
「何を着ても似合わはりますなあ」
→「そんな格好して、恥ずかしゅうないんかい」
料亭などで、うんちくを垂れる客に「お客さん、よう知ってはりますなあ」
→「つまらんこと言わんと、黙って食べたら」
子連れの親に「まあ、元気のええお子さんやな。子供は元気が一番や」
→「静かにさせなさい。どんな躾してるんや」
京都の外から移住してきた家の庭先を見て「きれいにしてはりますなあ」
→「毎朝掃除せんかい。草ぐらいむしれ」
などなど。彼らはこうした「いけず」をニコニコしながら言ってのけるので、勝手を知らぬ非・京都人は、思わず「ありがとうございます」なんて返してしまう。しかし、おそらくこの瞬間、目の前の京都人の目はまったく笑っていないはずだ。前出の佐々木氏が続ける。
「こういう言い回しは、よその方には分かりにくいでしょうし、人によっては『嫌味を言われた』と受け取るかもしれません。でも京都人からすると、あくまで相手を気遣っているがゆえの社交術。『察してください』ということなんです」
しかしながら、佐々木氏も認めるとおり、こうした言い回しはヘタをすると相手を怒らせるばかりか、怒りを増幅することもあり得る。
「褒めたふりをして嫌味を言うとは、失礼な」
「率直に言ってくれた方が、まだマシだ」
と、「いけず」の洗礼を受けた非・京都人が思ったとしても、文句は言えまい。事実、非・京都人にはそう感じている人が少なくないからこそ、「京都=いけず」というイメージが定着したのだろう。
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いけず=パリのエスプリ
ではなぜ、それでも彼らは「いけず」を言わずにいられないのか。背景には、やはり京都の「都」としての来歴があるのではないか、と言うのは、京都市出身の歴史作家・金谷俊一郎氏である。「京都の歴史は、戦乱の歴史でもありました。室町時代の応仁の乱、幕末の蛤御門の変など、戦のたびに京都は『よそ者』に破壊されてきた。だから京都人は、自分の身は自分で守る、という思いが強いのだと思います。
もし京都人の態度がしゃくに触っても、決して偉そうにしたいわけじゃないんだ、ということをどうか分かってください」
また、兵庫県出身の経営学者・長田貴仁氏も、こう指摘した。
「私自身、若い頃に京都出身の人から『上洛の際にはぜひお立ち寄りください』と書かれたハガキをもらって面食らった覚えがあります。
ただ、『いけず』にも、それなりの理由がある。京都の『いけず』としばしば対置されるのが、フランス・パリの『エスプリ』、つまりユーモアです。京都やパリのような古都では、多くの市民が無用な衝突を生まないように、ほどほどの距離を保つ会話術が昔から発達してきたのでしょう」
東北・岩手育ちだが、すでに20年以上洛中に住んでいる宗教学者の山折哲雄氏は、「私は外から移り住んできた『番外』の京都人ですが」と前置きし、こう語った。
「私は『いけず』を優れた文化だと考えています。よそ者を排除するためのものではなく、逆に『いけず』があるからこそ、京都では知らない人同士でも深いやりとりができるのだ、ともいえる。『いけず』は、京都という街の奥行きを端的に示していると思います」
日本のどこを探しても、京都人のように繊細で、複雑な心を持つ人々は他に見つからない。彼らから、もし「オモテとウラ」がなくなってしまったら、京都の魅力は一気に薄れてしまうことだろう。
「週刊現代」2016年3月19日号より
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これは一種のとんち合戦の側面もあります、どんだけ「かしこく」切り返せるか。歌を詠むような気持ちで楽しんでみるのもいとをかし。
私も筆者と同じく、実家が嵯峨野なので、同じような「いけず」を言われる...
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