江戸時代には多種多様な英才がいた・・・それだけ優れた社会だった! 「運は食なり」と喝破し、食事を少なく粗食にすれば運がひらけると断言した水野南北
「黙って座ればぴたりと当たる」と言われる程の腕を持ち観相に関しては必ず食事の内容と多寡を訊ねたそうです。
水野南北とはいったいどのような人物だったのでしょうか
水野南北(1757~1834)は江戸時代中期から末にかけて、大阪・京都にて活躍した人相見です。幼名を鍵屋熊太といい、札付きのごろつきとして酒・博打・喧嘩に明けくれていました。
ある日天満橋の大道易者より「貴公、面上に剣難の相あり、気をつけぬと災いが一年以内に起こる」と告げられます。
実に覚えがある熊太は死にたくない一心で、一年間を何とかすべく禅寺を訪れて入門を乞いました。
禅寺の和尚はやくざ者の熊太に修行の厳しさを説きます。
そして「これから一年米の飯を口にせず、白豆ばかりで過ごせたら入門を許そう」と言いました。
元来思い立ったら行動をする熊太は、これより一年大豆と麦のみで過ごしました。
そして1年後再び大道易者に出会い、剣難の相が消えていることを告げられます。
何ゆえかと考えたところ、一年米飯を口にしなかったがゆえに、天地に陰徳が積まれ天録が書き換えられたのでした。
この事件に興味を覚えた熊太は、大道易者にして密教の僧である海常律師より相法を授かります。
その後諸国を巡って観相の修業をし、仙道や呼吸法・神仏の教えを学び水野南北と改名し京都にて家を構えました。
後年になって観相がときおり当たりそこなうことを悩み、伊勢にて水垢離や断食の修行を行います。長期にわたる修行の最中、伊勢神宮の外宮にて祭りたる豊受大御神(とようけのおおみかみ)の神託を受けて「命こそが運なり。食こそが命なり。すなわち食こそが運なり」との悟りを得ました。
ちなみに豊受大御神(とようけのおおみかみ)は記紀神話より五穀を司る食の神です。
こののち南北は観相は一人に対して一生に一度と決めました。
全身を観察してから食の内容と多寡を聞き、相の悪き者には運を開くよう食事を指導し、相の良い者にはそれを維持するよう食事を指導したといわれています。
水野南北の人相学を現した「南北相法」、南北の食による開運法を現した「南北相法脩身録」は、今をもっても全く色あせることのない名著です。
とりわけ「南北相法脩身録」儒・神・仏の三教を学び食による運の改善を何度も何度も強調しているため、およそ運気の高まることを望む全ての人々に益ある書物といえるでしょう。
水野南北の言った開運の要点は、少食・粗食で運気が開くというもの
南北はこれを衆人に広めるために、米を一切口にせず麦一日1・5合と野菜類のみを常食としていました。好物の酒も1日1合とし、しかも美味におぼれないよう水で割って2合として飲んでいたほどです。
少食が積陰徳の観点から運を開くということは解りました。
ではどうして粗食で運気が開けるのでしょうか。それには天禄について知る必要があります。
天禄とは天が与えてくれた幸いです。この天の恩恵のうちで最も価値があるのは生命です。
その生命は「食」が養ってくれるものです。
ゆえに天禄は「食」とも考えられます。
すなわち人の食はその寿命とともに、一生の食い分が天に記録されていて、これを天禄というのです。
そして南北は「天は無禄の人を生ぜず」と言います。
誰しも量の多寡はあれど、その人相応の天禄をもっているのです。
人が日常的に美食や過食をすると、天禄を浪費することとなります。天禄の量は決まっています。
そしてそれを使い切ってしまうと、天に対して借金が起こります。
「人は催促をすれども天は乞わずして取り立てたまう」と南北は言います。
天に対して借金をしたとき、本人の健康・財産・寿命から取り立て、足りなければ子孫の健康・財産・寿命からもっていくのです。
逆に日ごろから粗食かつ少食であれば、天禄を節約することとなります。
余った天禄は財や出世・健康・良好な子宝などに形を変えて、天から戻ってくるのです。
南北の時代は白米が美食でした。ゆえに白米を食わず、麦を食べることにより粗食としたのです。
現代ならば肉類・大きな魚類・脂の多い料理・砂糖の多い食べ物・菓子類などが美食に当たるでしょう。
それらを日常的にかつ過分に食べていると、天禄を消費して運気を下げることとなります。
値段的に安いかもしれませんが、ファストフードや牛丼なども開運の観点からは美食となります。またゼリー飲料や栄養補助食品は、そもそも食事ではありませんので論外です。
もしも食事の内容で運をあげようと思うのならば、分付き米や雑穀米を主食として、みそ汁を飲み菜食に小魚を入れるような食事が良いでしょう。
つまるところカタカナのない昔の和食です。外食でもうどんや蕎麦などの和食がお勧めです。
またグルメの食事を取るのならば、多くとも2週間に一回程度がよろしいでしょう。
まったく食べないのは人生の無駄遣いですが、多すぎれば健康を損ねるとともに運気も落とします。
健康に良いことは同時に運気を開くことにもつながる:水野南北 『相法修身録』
○人間の生命の根本は食である。たとえどのような良薬をもちいても、食べなければ生命をたもつことはできない。だから人にとって本当の良薬は食である。○食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」ということばがあるが、その身ほどによって天より与えられた一定の食事量がある。みだりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。食べ物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、ことごとく食によって決まるといっても過言ではない。
○三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。
○いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。その美食癖をあらためなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮し楽にならず」で、一生苦労する。
○大いに成功・発展の相があっても、怠け者でずるく、酒肉をたのしみ、自分の本業に精を出さない者には成功・発展はない。
○子供の相が貧相で悪くても、その親が食に慎しみをもつならば、みだりに貧相悪相というべきではない。子供は、その親のなすところによって悪相から善相に一変することがある。子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。もっとも、過去世の因縁を解いてやるのは親の務めであり、親が解けないほどの因縁の場合は、子が成長して自ら解くほかない。 悪因を解き善因を積むには、陰徳を積むほかはない。世に慈善事業や放生をして陰徳を積んだつもりになっている者があるが、これらはみな人に知られる行為であり、真の「陰徳」とはいえない。
○仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起るからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。不動心を得れば、その道(仏道)を得ることはたやすい。
○千日千夜祈ってもあなたに実がなければ神明はどこにもおられない。また実を持って祈ろうとのぞむなら自分の命を神に献じ奉ることだ。食は自分の命を養うもとである、これを献じ奉るということはすなわち自分の命を献ずるのと同じである。
○万物ことごとく妙法でないものはない、また相でないものもない。また相には有無の二つあって無相はかたがないといってもその全体像ははっきりしている。これを微妙という。すなわち心であって簡単にはいいあらわせない。また有形は形であって、かたちのあるものは法であり、体もそうである。法あるものは滅びて行く。これが法の道であり相法の道である。性ことごとく微妙より来たって、はっきりと法形を生ずる。
笑真笑銘の健康法‥あなたの人生は食で決まる!
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