日本の珈琲文化は大正時代に開花した!日本人はみなハイカラだった!!
今も現存する日本一古いカフェは創業100年を迎える老舗
当時、“写真は魂が抜き取られる”“トマトを食べると発狂する”と信じられた時代。コーヒーは日本人の味覚とはかけ離れた飲み物で、それを嘲笑する歌までが大流行していました。
予想以上に苦労しながらも、異国の同胞の辛苦を想い、どうしたら受け入れてもらえるか知恵を借りながら様々な模索を繰り返した水野は、「コーヒーはそもそもどんな場所で飲まれているのか?」という疑問にたどり着きました。
聞くと、西洋には【カフェー】という場所があり、そこで皆コーヒーを飲んでいるといいます。
水野は、フランスはパリの有名なカフェー・プロコプへ視察に向かいました。
日本初の珈琲を飲める店として大正2年10月に東京銀座に開店した
白亜3階建ての洋館
「カフェパウリスタ 銀座店」当時としてはお洒落な社交場だったのでしょうね。
まさにハイカラな感じがします。
今はもうない日本初の喫茶店「可否茶館(かひさかん)」
日本初の喫茶店は同じく東京上野広小路にあった
「可否茶館(かひさかん)」今は記念の跡地が残っています。
東京上野広小路にあった「可否茶館(かひさかん)」跡地にある記念レリーフ
大正から明治にかけて珈琲を嗜む喫茶店は文化人のサロンでもあった
1911年3月「カフェー・プランタン」銀座に開業。「日本初のカフェ」とされるカフェー・プランタン
(フランス語: Café Printemps)は、
かつて存在した日本の飲食店である。
1911年(明治44年)、銀座に開業し、
「日本初のカフェ」とされる。
カフェ・プランタンが銀座に開業したのは明治44年の春、銀座で最初のコーヒーと洋酒の飲める店として一世を風靡しました。ちなみに、同じ年の夏に料理店ライオン、師走にはカフェ・パウリスタ(銀座でブラジルコーヒーを・・・と宣伝している店)が開店しました。明ければ大正元年、デモクラシー時代の幕開けでした。カフェ・プランタンを作ったのは松山省三という洋画家で、そのせいかカフェの内装は、行ったこともないパリ風に飾ったのだそうです。
松山の思惑はパリ風の店を作って、絵描き仲間が集まって大騒ぎすることだったようです。思惑どおりそういう店になったのですが、絵描き仲間だけでなく、文人やら学者やらが集まって、ハイクラスで自由気ままなコンパ場になってしまったのです。
当時カフェで働く女給さん(従業員)は高給だった(@@)
当時の女給さん服装が今でいうメイドカフェの原型ですね洋酒や洋食をメニューの中心とした
カフェー・ライオンの特筆すべき点は、女性給仕(ウェイトレス)のサービスにあった。
和服にエプロンを纏った若い女給が
客の話相手となったこの店は、
いわゆるカフェーを代表する存在であった。
築地精養軒の経営であり、規模が大きく、一般客にも入りやすかったという。美人女給が揃いの衣裳(和服にエプロン)でサービスすることで知られたが、当時は女給が客席に同席することはなかった。ビールが一定量売れると、ライオン像が吠える仕掛けになっていた。
また、グランドホテル(横浜)出身の名バーテンダー・浜田晶吾がおり、
「ライオンの宝」とも評された。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災後はバラックの平屋建で営業を再開、
後に本建築に建て替えた。
1924年、斜向かいにカフェー・タイガーが開業し、目立つ女給が引き抜かれるなどして、
次第に勢いを失った。松崎天民には「女給の美的素質の上から言えば、第二三流」、
「どれもこれもが、所帯染みている」と酷評され、また、タイガーなどに倣い、
女給が客席に同席するようにもなった。
カフェの女給さん面白い話
この一枚の絵が当時の事情を語る貴重な資料でもある・・・
今も喫茶店で飲む珈琲はスタバやタリーズとは別格
今は気軽に飲むコーヒーといえばスターバックスやタリーズ、ドトールなどのチェーン店がありますがやはり喫茶店で飲む本格ドリップコーヒーは別物です。客層もお店の雰囲気も違いますが
深く芳しい珈琲の香に酔いしれながら
まったりと時を過ごすなら私は喫茶店を選びますね^^
珈琲最高!!
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