サティシュ・クマール  今、ここにある未来

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ジャイナ教

ジャイナ教(ジャイナきょう、英: Jainism)とは、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。「ジナ教」とも呼ばれる。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。

日本国内には、兵庫県神戸市中央区に寺院がある。

ジャイナ教

ジャイナ教の旗

マハーヴィーラ

マハーヴィーラ

30歳のとき両親との死別に直面したヴァルダマーナは、兄から許可を得て全財産を分与し、出家して一切を捨て、ニガンタ派の沙門(sramana)の遊行者となって修行生活に入った。

人生を苦(duHkha)とみて、正しい信仰(正信)・正しい知識(正知)・正しい行い(正業)を通じて魂の救済を志し、13か月の瞑想を経てすべての衣服と履き物を捨てて裸形となった。これは、ニガンタ派の伝統から離脱する最初の革新であった。

裸のまま「空気をまとって」世俗にかかわる所有物すべてを放棄し、12年間激しい苦行と瞑想にその身を捧げた。苦行を持続するあいだ、かれは感覚に対する典型的な統制のあり方を示し、また、人間、動植物を含むすべての生物一切に極限と呼べるほどの注意を払い、あらゆる意味でこれらを傷つけないよう努めた。リジュクラ川(リジュパーリカー川)の河畔ジュリンビカ(ジャブラカ)村での修行を完成し、2日半にわたる瞑想のあとの夏の夜、ジュリンビカの沙羅樹の下で真理を悟って「全能の力」を獲得し、「ジナ」(Jina、「勝利者」)となった。ジャイナ教とは、この「ジナの教え」に由来する。

かれは弟子や信奉者によって「偉大な勇者」マハーヴィーラと称されるようになった。

マハーヴィーラの思想

アヒンサー

不殺生(アヒンサー)を説くのは、すべて生きものは苦を憎むものであり、それを殺せば必ずその憎しみは殺害者にふりかかって束縛の原因になると考えるからである。ジャイナ教における「生命」の範囲は上述のように幅広く、容器いっぱいの水は、容器いっぱいの蟻に等しいものとされ、ともに命あるものとされる。

そのためジャイナ教の不殺生戒は仏教よりも徹底しており、虫一匹殺さないものである。ジャイナ修行僧にとって、水こし袋、口を覆う布、鈴のついた杖、やわらかい箒などは生活必需品である。水こし袋は水中の微生物を除去するため、布は空中の微生物を誤って吸引することを防止するため、杖や箒は道行くときに足で踏んで殺さないよう虫たちをやさしく払いのけるために使用される。ジャイナ教徒用の店や市場では肉や魚類はいっさい扱わず、根菜類や蜂蜜なども忌避される。また、極度に小さな動物を殺してしまう危険があるため、日没後の外出は禁じられている。

カルパ・スートラ

ジャイナ教の経典
ジャイナ教 マントラ

無学な母親が語る偉大な哲学

 歩きながら、母は私に適切に呼吸をすることを教え、呼吸に細心の注意を払うようにいった。「注意を払うことが、瞑想なのよ」と母はいっていた。歩きながら瞑想するという考えを幼いうちから教えておけば、そのことで私がくじけたりしないだろうと母は考えていたに相違ない。

 私がとりわけ覚えているのは、母のこの言葉だった。「息を吸うときと吐くときの間の瞬間に気を向けなさい。息を吸ってもなく吐いてもいない一瞬を見つめるのよ。その瞬間を引き延ばそうとしたり、息を止めたりする必要はないわ、ただ見つめるのよ」

 母はこの技を、12年間瞑想を実践してきた尼僧から学んだ。ジャイナ教の尼僧や僧侶は毎日裸足(はだし)で歩き、それ以外の輸送手段は使わない。だからこそ彼らは歩く瞑想の達人なのである。私がたいした苦労もせずに母から瞑想を習うことができたのは、幸運なことだった。

「呼吸は、あなたと世界を結びつけるのよ。あなたは、同じ生命の呼吸を、同じ空気を、すべての人々と分かち合っているの。この目に見えない仲立ちを通じて、すべての人と結びついているのよ。動物、鳥、魚、植物、そして宇宙全体と同じ呼吸を分かち合っているのよ。呼吸を通じて私たちみんながつながっているとは、なんて素晴らしいことでしょう。空気には、どんな壁も境界も、差別や分離もないわ。呼吸に注意を払うことで、あなたの分離の感覚は消えてしまうのよ」

出典:古本屋の殴り書き: 歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

 :尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】

「お母さんのお裁縫はとても綺麗だけど、一つのものを作るのに半年や一年、ときにはもっと長い時間がかかるわ。最近は同じ事をあっという間にやってしまう性能の良いミシンがあるのよ。私が探してあげようか」と姉のスラジが尋ねた。

「どうして?」と母は聞いた。

「時間の節約ができるのよ、お母さん」

「時間が足りなくなるとでもいうの? ねえお前、永遠っていう言葉を聞いたことある? 神様は時間を作るとき、たっぷりとたくさん作ったのよ。私は、時間が足りないなんていうことはないわ。私にとって、時間は使い果たしてしまうものじゃなくて、いつもやって来るものなのよ。いつだって明日があり、来週があり、来月があり、来年があり、来世さえあるのよ。なぜ急ぐのかしら」、スラジは納得しているように見えなかった。「時間を節約し、労働を節約して、それ以外の事をもっとできた方がよくないかしら?」

「あなたは無限なるものを節約して、限りあるものを費やそうとしているのよ。ミシンは金属から作られていて、世界には限られた量の金属しかないわ。それに、金属を得るためには掘り出さなければならない。機械を作るためには工場が必要で、工場を作るには、もっと多くの有限な材料が必要なのよ。掘るということは暴力だし、工場も暴力に満ちているわ! どれだけ多くの生物が殺され、金属を掘るため地下深く潜るような仕事でどれだけ多くの人が苦しまなければならないでしょう! 彼らの苦しみの話を聞いたことがあるわ。なぜ自分の便利さのために、彼らを苦しめなければならないの?」。スラジは理解したように見えた。

 スラジがうなずくのに勢いづいて母は続けた。「私の体力が足りないっていうことはないから、いつだってエネルギーがあるわ。それに私は仕事が楽しいのよ。私にとって仕事は瞑想(めいそう)なの。瞑想は、ただマントラを唱えたり、静かに座禅を組んだり、呼吸を数えたりすることだけじゃないのよ。裁縫も、料理も、洗濯も、掃除も、神聖な心持ちでなされるすべてのことが瞑想なの。あなたは、私の瞑想を取り上げようというのかしら? 針仕事で忙しいとき、私は平和な気持ちになるの。すべてが静かで、穏やかだわ。ミシンは大きな音を立てて私の邪魔をする。ミシンがガタガタいっているときに瞑想するなんて想像もできないわ」

「それに、ミシンが仕事を減らすというのは、単なる錯覚に過ぎないかもしれない。年に一つか二つのショールを作る代わりに、年に10ものショールを作る羽目になって、材料をもっとたくさん使うことになるかもしれない。時間を節約したとしても、余った時間で何をするというの? 仕事の喜びは私の宝物みたいなものなのよ」

 これはまさに真実だった。刺繍をしているとき、母はほんとうに幸せそうだった。母が作るものに同じものは二つとなかった。母は新しいパターンやデザインを作り出すことに喜びを見出していた。もちろん母は、どんなパターンを作るか前もって考えたりはしなかった。母は作りながら即興的にデザインしていった。母の針仕事の最も驚くべき点は、母がそれから多大な喜びと幸せを引き出していたことだった。

出典:無学な母親が語る偉大な哲学/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール - 古本屋の覚え書き

【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

 :尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】

リサージェンス

リサージェンス誌は、スモール・イズ・ビューティフルを提唱したE.F.シューマッハらが始めた社会変革雑誌で、サティシュ・クマールさんが主幹。英国で創刊50年
1:24分ごろから

サティシュ・クマール 

今、ここにある未来











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Sharetube