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刹那主義も悪くない~内向型 内気 対人恐怖症 人見知り コミュ障の生き方~ヒント27

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刹那主義も悪くない~内向型 内気 対人恐怖症 人見知り コミュ障の生き方~ヒント27

Author:
maverickmaverick
Posted date:
Update date:2017年05月08日
刹那主義も悪くない~内向型 内気 対人恐怖症 人見知り コミュ障の生き方~ヒント27
内向型 内気 対人恐怖症】
~内向型 内気 対人恐怖症 人見知り コミュ障の生き方~
ヒント27

刹那主義も悪くない

最近の大人たちはどうも「先へ先へ」と、神経を使って休むヒマがない。

その影響か若い人々なども、それが当たり前の人生態度だと思うようで、例えば若者から、「今は新入社員ですが、(定年後)はどうしたらいいのでしょう。あと三十年後に備えて今から何を準備すればいいのでしょうか・・」
などと真剣に相談したりするほどだ。

「ほう・・三十年先ねぇ。それならどうでしょう、五十年先を考えて(お墓の準備)をしたら・・。三十年先も五十年先も大して違いないじゃありませんかな」
私は笑ってこう答えたりしたが・・。

不透明な時代の企業は、よく分からぬなりに先の先までの長期計画を持つだろう。だから若者も、「企業人」として働き始めるや、いち早く、その「計画精神」の虜になってしまうのかもしれないが、これは妙だ。

むろん、私といえども人生計画を全面的に否定するものではない。(もし、生きていられたら・・)という前提の中で、二十代の頃はよく「己の三十歳の姿」や「四十代の生き方」を漠然と考えたり、ノ―トに書いてみたりした。そうして恐怖の未来を思って泣いたりもした。

しかし、大病を得てからは未来のことを殆ど考えなくなった。二十代後半からの意識としては、死が常に念頭にあったから、
「今日一日が最後の一日・・」
という思いのみ濃く、計画を立てることはやめたのだった。

すると、日増しにラクな気分になってきた。「これはいい・・」と思い、今日一日の来談者に対応し、今日一日の遊びを遊び、今日与えられた原稿注文のみ全力投球している。

この姿勢は自由業という仕事、病弱という身体の傾向からもたらされた「私の真実」とも言うべきもの。私が勤め人であり、大健康者であれば、やはり「三十年先の計画」を持って生きていたかもしれない。

つまり人は、その与えられた立場に合うような生き方をせざるを得ないわけで、いわゆる「亀はその甲羅に合わせた穴を掘る」ということの一つのようにも思える。

だが、未来に一大計画を持ち、(これが成るまでは・・)と歯を食いしばって生きていくのは、まことに切ない。遠大なる立派な計画を持つ人は、ゆとりがなくなるし、傍で見ていても気の毒になる。

時に自分で立てた目標が「己を縛るなわ」となって、キリキリと我が身を縛っている姿とも思える。
例えば若き日に「部長になろう」と決めた人にとって・・・係長の日々・課長の時代は、大した意味が感じられないだろう。

今日という日は「今日の充実」が必要なのに、常に常に「明日、未来のための」今日となってしまうのでは、これはつらい。

今日を生きる・・・これは、今のこの一瞬間に全身全霊を投入するということ。

それが大部分の人間にとっては(かなり正しいこと)のように思えるのだ。だが、これを言うと
「それじゃあ、刹那主義になってしまいますよ。アリとキリギリスの話で言うなら、キリギリス型人生ですよね」
と反論される人もあるに違いない。

刹那主義・・・過去・未来を考えないで、ただ現在の瞬間を充実させて生きようとする主義。辞書にはこう書いてある。この説明を読むとどうも、「快楽主義」というようなニュアンスが漂う。

だが、「刹那という用語」そのものは、一秒の何分の一かを意味する仏教用語であり、その用語そのものが作られた時には否定感はなかったように思う。
ただ、後代になって「・・主義」という言葉が付加されたため、妙なニュアンスとなったのではないか。

「今を充実させて生きる」と言えば、何だか自分の好き勝手なエゴを発揮するような感じであるが、実はもう少し幅広く「自分の今の務めを行う」と考えた方がよい。

一瞬一瞬に己の務めを全身全霊で行う・・・刹那主義をこう捉えれば、大方の人が納得するだろう。

私がいつも感動するのは、蝉の生き方。七年余も地中にいて、ほんの一週間、地上で全身全霊、あの声を出す。七日後に迫る死を知ってか知らずか、ジ―ンジ―ン・ミ―ンミ―ンと鳴き続ける。その鳴き声は別に人間界にプラスはもたらさないかもしれぬが、自然界の中ではそれが彼らの「役割」だし務めなのである。小賢しい私たちの考えの外に、蝉の声はある。

いや、私などは夏によく山へ入り、静かに蝉の声を聴いていると、その声が人間に対して「目覚めよ!」と言っているように聞こえてくる。

ツクツク法師は「尽く尽く法師」と聞こえ、命短い修行者の在り方を考えよ、というニュアンスで耳に届く。あるいは
「おお、惜しい、尽く尽く」
とも心に響く。「命が消えることはまことに惜しい」という囁きだ。

ニイニイ蝉やジイジイ蝉の声は、ニイニイ・ジイジイであるが、これは観音経の最後にある「繭時持地菩薩。即徒座起」(その時、持地菩薩は座から起こって・・)という文章そのものに聞こえる。
二―ジ―ジ―ジボサツ ソクジュウザキ・・と「仏の声」に私には聞こえるわけである。

「やがて死ぬ けしきは(見えず) 蝉の声」
とは芭蕉扇の句。樹下か寺の境内に佇んで芭蕉は蝉の声を味わって、この句をものにした。

この句を一歩進めてみると、
「やがて死ぬ けしきは(見せず) 蝉の声」
となるように私には思える。

動物たち、昆虫たちも己の死ぬことは知っているのだろう。

が、それだからこそなお、この一瞬に己の生命をぶつける。「見えず」は人間の目。「見せず」となれば蝉側の心。私の聞く蝉の声は・・・後者の感じである。

どうも私は、蝉型でありキリギリス型でもあるので、むろん、私の先行きは大したことなさそうに考えている。アリのように豊富な食い扶持を蓄積する方ではない。

しかし、私個人の実感からして、この生き方は合っていたと思う。

キリギリスの役割たる「今、演奏す」と同じように生きて、そして死んでいけばいいように思われるのだ・・・そう「今に全力投球」して・・。

内向型の仲間の皆さんは、いかが思われるだろうか。


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著者プロフィール
maverick

I'm proud of the fact I was born in Japan.国際ボディガード歴20年。 喧嘩上等。