附属池田小事件の犯人「宅間守」とは
宅間守(吉岡守)について
宅間守が起こした附属池田小事件の概要
附属池田小事件(ふぞくいけだしょうじけん)とは、2001年(平成13年)6月8日に大阪府池田市で起こった小学校無差別殺傷事件(刃物によるスクールシューティング)である。実行犯は大阪地方裁判所平成15年8月28日付け判決(判旨)を伝える新聞記事によれば、宅間守(たくま まもる、1963年11月23日 - 2004年9月14日、犯行時37歳)による単独犯と認定されている。
児童8人が死亡、教師を含む15人が重軽傷を負った。
出典:附属池田小・児童殺傷事件
宅間守の生い立ち
宅間守は1963年11月23日、兵庫県伊丹市の工員Sの二男として生まれる。守が生まれる前、母親は妊娠を喜ぶ父親に対して「あかんわ、これ、堕ろしたいねん、私。 あかんねん絶対」と言ったという。母親が守を宿した時に何を感じたかわ分からないが、守は幼少の頃から三輪車で国道の中心を走って渋滞させたり、動物を虐待するなど 反社会的行動が目立っていた。
1963年11月23日、兵庫県伊丹市に生まれた同容疑者は物心がつくかつかないうちから父親に叱責、殴打、ときに木刀も不利折らされる環境で育ったという。安全地帯であるはずの家庭。そこですら安住できず、蓄積したストレスは、学校や小動物に向けられ、爆発する。
小・中学時代から強者に迎合し、自分より劣ると判断した同級生を「奴隷」と名指しした。「宅間さま」とかしずかせ、「調子に乗るな」と因縁をつけて暴行。女生徒が横切れば、唾を吐きかけた。そればかりではない。燃やしたドラム缶に生きたままの猫を入れたり、布団です巻きにして川に流す。成長するにつれ、些細なことで母親を殴り、家庭内暴力を繰り返したという。
宅間は、昭和38年11月23日に兵庫県伊丹市で生まれ、二人兄弟の次男であった。小学校6年の時に、地元ではハイレベルな中学校である大阪教育大学付属 池田中学校の受験を希望したが、宅間の成績ではとても無理ということで受験させてもらえなかった。宅間の心情として、「自分をもっと頭の良い人間として産んでくれなかった親が悪い。」と親を恨むようになる。結局地元の中学校に進学し、その後は工業高校へ進むが、学校で教師を殴り、40日くらいで退学となっている。
転職・結婚
宅間は中学校を卒業後、尼崎市の工業高校に入学するが2年で中退。そのあとパイロットになりたいと思い航空自衛隊に入隊するが、家出少女 に対する強姦未遂を起こし、除隊処分を受けた。その後、マンション管理会社、市営バス運転手、ゴミ収集、小学校の用務員、タクシー運転手、ダンプの運転手等、転々とする。 また、私生活では4回の結婚、離婚を繰り返し、自分より40歳以上年の離れた女性と養子縁組も結んでいた。
犯罪・詐病
宅間は池田小事件の前にも数多くの犯罪を犯し、15回の逮捕歴を持つ。時間順に並べると「家出少女に対する強姦未遂」「マンション管理会社の業務中に、マンションに住む女性宅に上り込み強姦」 「車のライトが眩しいと言いがかりをつけ、相手の車を破壊」「実兄の愛車を角材でボコボコにする」「検問を突破し高速道路の逆走」 「結婚した相手への暴行」「小学校教諭のお茶に精神安定剤を混入」等である。また、刑罰を逃れるため、たびたび精神病を装い入院を繰り返している。入院中には病院の屋上から飛び降り自殺をする騒ぎを起こし、運よく飛び降りた場所が 車庫の屋根であり大怪我ですんだが、後に母親に対してそのことで賠償を要求している。また、ちゃっかりと精神病を理由に傷害手当金、精神障害者年金を 受給している。
【そして附属池田小事件】悲鳴、パニック、無言の凶行
惨劇は突然起きた。「知らんおっちゃんが教室に入ってきた」。約15分間の無言の凶行。格闘の末、先生が男を取り押さえたが、8人の尊く幼い命が奪われた。悲鳴と泣き声で、教室はパニックとなった―。午前10時15分。学校では2時間目の授業が終わろうとしていた。1~2年生6クラスが並ぶ三階建て校舎の一階。北側は廊下、南側は校庭に面している。宅間容疑者(37)は通用門に車を止めた。金色に染めた髪、白いシャツに緑のネクタイ。校庭を横切り校舎東端の2年東組に包丁を持って乱入した。
「給食の人かな」。ある男児はそう思ったが、すぐに「違う」と考え直した。出刃包丁に気付いたからだ。「『ハァ、ハァ』と息が荒かった」と別の男児。佐藤裕之教諭(36)が「外に逃げろっ」と大声を出した。悲鳴を上げ走りだす児童たち。男は無言で、逃げ惑って転んだ児童を襲った。教諭がいすを投げつけ、男は校庭側のテラスに。4人が重軽傷を負った。
次いで隣の2年西組。包丁の赤い血の色が岩崎真季教諭(28)の目に飛び込んだ。児童が次々に刺され、8人が死傷した。
最も多い5人が犠牲になった、その隣の2年南組。既に休み時間で、教師の姿はなかった。そこを襲われた。「馬乗りで刺したとみられる傷もあった」と治療に当たった医師。
「包丁で刺してる」。助けを求める児童の声に、花壇に水をまいていた担任の河上洋介教諭(27)は教室に向かった。佐藤教諭と田辺義朗教諭(28)が懸命に男に追いすがるが、田辺教諭は刺され大けがをした。
無人だった2教室を飛ばし、男は西端の1年南組へ。音楽室で授業を終え、惨劇を知らないまま児童は教室に戻ろうとしていた。男児の1人は「教室に入ると、友達が倒れ『痛い、痛い』と泣いていた」。床は血の海。「入っちゃ駄目。逃げなさい」。先生の声に夢中で飛び出した。
背中を切られながらも、同教室内で河上教諭が包丁を持つ宅間容疑者の右手をつかんだ。顔を切られながらの格闘。矢野克巳副校長(43)が加勢し、包丁を取り上げ足を押さえつけた。10時25分ごろのこと。ふっと同容疑者の力が抜け、「しんどい、しんどい」と2回つぶやいた。凶行の間に、副校長らが耳にした同容疑者の唯一の言葉だった。
公判
「下関事件の模倣犯になりたかった」「命を持って償います」と初公判でのみ反省・謝罪の弁を口にしていた。このことに対し、大阪地方検察庁の検事が週刊新潮のインタビューに対して「この反省と謝罪の弁は本物だった」との証言をしている。公判後は「何も言えないよりは良かった。本当ならば4人の遺族を名指しで批判するつもりだった」「刑事責任能力がそこまで認められたなら(控訴しても)仕方ない」と述べている。2003年8月28日、大阪地方裁判所は被告人に対して死刑判決を言い渡した。死刑判決を言い渡す場合には主文を最後に述べる慣例があるが、今回はそれを破って主文を先に言い渡した。また、既に被告人は開廷時に騒いだことで退廷命令を受け、拘置所職員によって連れ出されており、死刑判決を読み上げる裁判長の声を自ら聞くことは無かった。また、この判決公判では傍聴希望者が多かったことから、特別措置として法廷にテレビカメラを設置し、別室に設けたテレビモニターで傍聴できた。