死に方が悲惨だった有名人まとめ
柳原尋美(アイドル)
緊張性気胸による急性心不全ため死去車の下敷きに
23日にデビューを控えていた女性3人組新ユニット、カントリー娘。のメンバー
柳原尋美さん(19=やなぎはら・ひろみ、本名同じ)が16日、
北海道で車を運転中に事故を起こし死亡した。
帯広署によると、柳原さんは16日午後5時すぎ、北海道河西郡中札内村の村道を、
自ら運転する三菱パジェロで走行中にハンドル操作を誤った。車が右に蛇行したため、
慌てて左に切り返したところ車が横転、柳原さんは車外に放り出されて、車の下敷きになったという。
救急車で帯広救急救命センターに運ばれたが、午後7時10分、
緊張性気胸による急性心不全で死去した。
柳原さんは、カントリー娘。をプロデュースするタレント田中義剛(41)が
同村内で経営するレストランから、観光牧場「花畑牧場」へ振り付けの練習に行く途中だった。
カントリー娘。 メガベスト |
1992年(平成4年)4月25日、早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。
体が傷だらけだったが診察した医師は深酒のみという診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。
しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が救急車を通報したが、
搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。
他殺の疑惑
尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、亡くなった日の状況が
きわめて不自然であることから、他殺とする説もある。
しかし警察は、状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。
尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた
再捜査嘆願書が警察に提出されたが、受理されなかった。
7年後の1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、
当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さが深まった。
だが、検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、
他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。
またそれを裏付ける、転倒したり暴れて転げ回っていたという証言がある。
だが、はっきりしたことがわからないため、今までに尾崎の生涯を描いた
多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。
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さらに、母冰冰の元に暁燕の半裸の写真と、彼女の切断された小指を送りつけ、
500万アメリカ合衆国ドルの身代金を要求した。
冰冰はなんとか身代金全額は揃えたが、行政院長連戦の差し金で警察からマスコミに情報が漏れ、
中華日報と大成報が報道したため、引き渡し現場に記者が殺到する事態となり、
犯人グループは身代金受け取りを断念する。
現金が渡れば家に帰れると信じていた暁燕は、戻ってきたグループの一味から
身代金受け渡しの失敗を聞いて泣き叫んだが、激昂した犯人グループは、
腹いせにさらに凄惨な輪姦・集団暴行を加えて暁燕を惨殺し、
遺体の手足を角材で縛ったうえ、重しをつけて台北近郊のドブ川に遺棄した。
4月25日に犯人グループのアジトを急襲し4人が逮捕されたが、
3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を捕り逃がしてしまった。
4月28日、暁燕の原形を止めぬほどにボロボロになった無残な全裸の遺体が発見された。
発見者は、最初はブタの死骸と思ったという。
直接の死因は窒息だったが、暴行による打撲で肝臓が破裂しており、
その内出血で腹腔は大きく膨張し、肋骨もほとんど折れており、両手両足の爪も全て剥がされていた。
顔も髪の毛はまばらにされ、両目はえぐり取られ、舌は引き伸ばされ、
両耳の鼓膜は爆竹で破られ、前歯は上下三本しか残っていなかった。
長年にわたり多くの死体を検分した検視係官が
「これほど凄惨な遺体を目にしたことはない」と衝撃をうけるほどだった。
さらに、遺体発見時の写真を一部のメディアが掲載したため、マスコミへの批判が高まり、
白母娘の住んでいた家の付近に、周辺の住民が「記者有罪」と書いた抗議の垂れ幕を下げた。
暁燕の葬儀では、顔にかつらと生前の顔を模した面を着けて納棺された。
坂本九(俳優・タレント・歌手・司会者)
1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた矢先の8月12日、日航ジャンボ機墜落事故に遭遇、43歳で死亡した。事故当日はNHK-FM放送での仕事を終えた後に、大阪府にある友人の選挙応援として事務所開きに駆けつける途中であった。九は本来、国内移動には日航ではなく必ず全日空を使っており、所属プロダクションや妻の由紀子も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった。そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていた。
しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝広、九のマネージャー)の名が出て、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。この事故で運命を共にした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。九、そして小宮の両名は、政治家や著名人が利用することの多いボーイング747SR-100の2階席、右列の前方から4番目に搭乗していた。事故の数日前、「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話が入っているが、当時電話をうけとった由紀子は忙しく、また勘違いをしていたこともあり、事故がおこるまでとくに気に留めていなかった(由紀子の後日談)。九は、ハンティング・ワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された。その中に録音可能なテープレコーダーが入っていたため、家族は遺言が残っていないかと期待したが、何も録音されていなかった(由紀子の後日談より)。
メモリアル・ベスト |
1988年4月に大学進学時に学業と芸能界活動との両立問題に直面してしまい芸能界を引退。ただし、1989年7月に開催されたスタジオぴえろ創立10周年イベントでは司会を務めている。
その後、語学勉強や元々好きな音楽ジャンルであったジャズの勉強のために
1989年8月よりアメリカカリフォルニア州に留学する。
ところが、たまたま旅行中だった11月23日(日本時間24日)、アリゾナ州フラッグスタッフ近郊にて
フリーウェイ上での事故に遭遇し、車から投げ出され全身打撲により急逝。
友人4人と一緒に乗っていた車の前に動物が飛び出し、それを避けようとして高速運転中に急
ハンドルを切ったために自動車が横転、窓から投げ出されて地面に激しく叩き付けられた
彼女は挫滅を伴うほどの酷い打撲を負い、救急隊が到着した時には即死状態だったという。
12月3日に日本への帰国を予定しており、20歳の誕生日を一ヶ月前にしてのことだった。
この事故では同乗していた友人4人も重軽傷を負っている。
mariko+3 | 志賀真理子 | J-POP |
23日午後5時50分ごろ、東京都練馬区羽沢、作家、黒田一郎さん(48)=筆名・村崎百郎=方で、「人を刺しました。捕まえてください」と男の声で110番通報があった。警視庁練馬署員が駆けつけると、1階で血を流している黒田さんを発見、病院に搬送されたが、死亡が確認された。同署は遺体近くにいた横浜市在住の無職の男(32)に事情を聴いたところ、殺害を認めたため、殺人の現行犯で逮捕した。同署によると、男は統合失調症で精神科の通院歴があるといい、「彼の本にだまされたことが分かり、殺すつもりで包丁を買って刺した。(黒田さんの)住所は(インターネット掲示板の)2ちゃんねるで調べた」と供述している。
逮捕容疑は23日午後5時50分ごろ、黒田さん方の1階で黒田さんの腹部などを包丁(刃渡り約17・5センチ)で20数回刺して殺害したとしている。発見当時、黒田さんはソファにもたれかかるようにして倒れていた。黒田さんは女性と同居していたが、当時1人だった。
黒田さんは、他人のゴミから捨てた人の人間関係などが分かると実例を挙げて解説した「鬼畜のススメ」や、時事問題を独特の切り口で批評した「社会派くんがゆく!」(共著)シリーズなどの著作がある。
村崎さんと面識のある雑誌編集者は「『鬼畜系ライター』というイメージとは違い、ごく普通の丁寧な印象の人。売り出すために敢えて刺激的な方向を打ち出したのだと思う。ご冥福をお祈りしたい」と語った。
(2010年7月24日 産経新聞)
村崎 百郎 | 本 |