藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件とは
藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件
1987年(昭和62年)2月26日の朝、神奈川県藤沢市のアパートで、無残に切り刻まれた死体が発見され、その死体の傍らにいた2人の男女が藤沢北署に逮捕された。捕まったのは、その部屋の住人で、不動産業のS(当時39歳)と主婦で元看護婦の茂木M(当時27歳)。殺されたのはMの夫で、コミックロックバンド「スピッツ・ア・ロコ」のリーダーの茂木政弘(32歳)と分かった。
悪魔はどこにいた
1987年2月25日夜、神奈川県藤沢市のアパートの一室で、2人の男女が遺体を切り刻んでるのが発見された。死体は頭、胴体、足に切り離され、さらにコマ切れにされ、敷かれたシーツは真っ赤に染まっていた。床には肉片が詰められた大量のビニール袋が置かれていた。男はちょうどカッターナイフで頭蓋骨の肉をはぎ、女はハサミで足の肉を切っているところだった。
通報を受けた藤沢北署員や家族が駆けつけても、2人は一心不乱に作業を続けていたという。
殺害されたのは横須賀市のミュージシャン・Xさん(32歳)。
Xさん殺害と死体損壊の容疑で逮捕されたのは横須賀市の不動産業・S(当時39歳)と、Xさんの妻・M子(当時27歳)だった。
「Xに悪魔が取り憑いたので、それを祓うために殺した」
Sはそう供述した。
出典:藤沢・悪魔祓い殺人事件
3人の男女
SとXさんは従兄弟同士。家も2軒隣りだった。子供の頃から仲がよく、XさんはSを「兄貴」と呼んで慕っていた。Sは横須賀市の定時制高校を卒業し、家業の不動産業を手伝い始めた。79年には宝石関係の取引で詐欺事件を起こして逮捕されている。その後も詐欺まがいのトラブルを起こしたり、ブラブラしてX家に金を無心しに行くなどしていた。
Sは横浜市に本部のある神道系の新興宗教「大山祇命神示教会」に入信、Xさんにも勧誘した。
Xさんは30歳までに芽が出なかったら家業のビル清掃を手伝うという両親との約束で音楽活動を始め、「スピッツ・ア・ロコ」というバンドで83年にデビューしている。2枚のシングルと1枚のLPを出し、横浜を中心としたライブハウスで活躍していた。ステージではメンバーが祖父母、父母、子供に扮するという変わったパフォーマンスをしており、ドラムスのXさんは娘役で女装していたという。Xさんは「和製マイケル・ジャクソン」と評されることもあったようだ。
M子は中学3年の時、秋田県から横浜に移ってきて、中学を卒業すると、鎌倉市の総合病院で勤務しながら、准看護婦の資格を取った。そして今度は正看護婦の資格を取るために、病院で働きながら県立高校の定時制高校に通って、高卒資格を取った。
准看護婦として勤務していた79年頃、Xさんの弟がオートバイ事故を起こし、総合病院に入院した。そうしてM子はXさんと出会い、交際を始めた。M子は彼の勧めで「大山祇命神示教会」に入信するようになった。しかし、Xさんの音楽活動が忙しくなってくると、教会に足が遠のき、会費滞納で脱会となった。
86年4月、XさんとM子は結婚。Xさんの実家で同居したが、病気のXさんの父親を看病するなど、仲良く暮らしていたという。
出典:藤沢・悪魔祓い殺人事件
救世の曲
86年10月、埼玉にいたSが帰ってきて、藤沢市のアパートを借りた。Sは幸せに暮らしていたXさんとM子の元へやって来て、「この世は悪魔でいっぱいだ。やがて、核戦争が起き、世界は滅亡するだろう」「悪魔を祓い、救世の曲を作れるのはお前しかいないんだ」「自分には神が降りた」などと2人に説き始めた。そうした教義は「大山祇命神示教会」にはない。Xさんはもちろん最初からその話を鵜呑みにしたわけではなかったが、「救世の曲」のことはずっと心に引っかかるようになった。テレビ出演も果たした87年、Xさんはバンドのメンバーに「救世の曲」のことを相談する。すでにその頃には解散話も出ていたため、メンバーとの離縁は決定的なものとなった。
「俺の部屋で曲を作れ」
2月15日、Sにそう言われたXさんは藤沢のアパートにこもり、曲を作り始めた。SとM子も一緒である。バンド仲間やM子の両親が「もう帰ろう」と訪ねて来ても、彼らは耳を貸さなかった。
2月19日、XさんとM子をSから引き離そうと、事態を深刻に見たバンド仲間やXさんの両親が3人と話し合った。そのなかで、M子は横浜の実家に戻るのがいいということになり、M子もその通りにした。M子の親は離婚するように言ったが、当のM子は「この世を悪魔から救わなくちゃ」とこぼすだけだった。
「ぼくにも悪魔が取り憑いた」
Xさんがそう言い始めたのは翌20日のこと。M子も実家から舞い戻ってきた。
2月22日、Sは「悪魔祓いの儀式」が始めた。
2人はまずXさんの体に塩をすりこみ清めた。
そしてSはXさんとにらみ合う。Xさんが目をそらせば、悪魔が出ていったということになるが、Xさんは目をそらさなかった。
「悪魔を追い出すには肉体が死ななければだめだ」
SはM子に手伝わせて、Xさんの首を絞めて殺害した。その後、「救世の曲」をかけっ放しにし、3日間ほとんど寝ずに遺体を切り刻んでいたという。頭や内臓にまで悪魔が取り憑いていると思っていたからである。
バンド仲間や両親がその異様な光景を目にしたのは25日夜のことだった。
出典:藤沢・悪魔祓い殺人事件
バンド「スピッツ・ア・ロコ」とは
「スピッツ・ア・ロコ」は、1983年(昭和58年)6月、『キープ・オン・ラブ』『愛論人(アイロンマン)』のシングル2枚とLP『人情』を出し、デビューしていた。ロックではあったが、どちらかと言えばニューミュージックに近い路線で、誰でも楽しめるポップスロックを演奏。ステージでの彼らはそれぞれ祖父母、父母、子どもに扮して、「家族」を演じ、政弘は娘役の女装をした。このユニークな演奏スタイルが注目され、横須賀をはじめ横浜などのライブハウスに出演するようになった。物珍しさもあってライブハウスはいつも満杯だった。政弘のパートはドラムで、作詞や作曲も担当した。
容貌がマイケル・ジャクソンに似ていて、「和製マイケル」と呼ばれ、1987年(昭和62年)1月、神奈川テレビに出演した。だが、政弘の表情がいまひとつパッとしなかった。自己紹介も小さな声でボソボソ答えるだけで、あとは笑顔を見せず、一人浮いたような状態だった。その後はライブハウスの出演が2、3本あるだけで、メンバーの中には「いつまでもライブハウスでもあるまい。この辺で脱退して他の仕事にでもつく」と言う者も出てきていた。
裁判
判決までに,従兄につき合計3つ(甲乙丙。それぞれ鑑定人を表す),妻につき合計2つ(乙丙)という鑑定結果がそれぞれ異なり,鼎立・対立する各鑑定書が提出されていた。 妻につき,乙鑑定は「三人精神病」で責任無能力,丙鑑定は宗教的支配観念にとらわれ,責任能力は多少の(著しくない)低下(責任能力あり)であった。従兄につき,甲鑑定は,精神分裂病で,「犯行時,理非善悪を弁別し,自らの行為を人倫に照らして冷静に判断できる自我の能力が障害されていた」(責任無能力)としながら,感応精神病(乙鑑定)に近いが厳密には異なる,側頭葉てんかん(丙鑑定)の点は,脳波及びけいれん誘導薬であるメジマイド賦活の結果からは否定できるとした。 乙鑑定は,「三人(感応)精神病の心因反応状態にあり,責任能力に著しい障害がある」(心神耗弱)としながら,精神分裂病の点は,精神分裂病らしさ(プレコックス感)がないこと,症状は心因反応,詐病で理解可能であるとして否定し,側頭葉てんかんの点は,甲鑑定と同様の理由で否定した。
丙鑑定は,側頭葉てんかん患者で宗教的な支配感にとらわれていた,責任能力は存在していたが,その程度は多少の(著しくない)低下であった(責任能力あり)としながら,被害者を含めた3人が共有した「神の曲」を書くという観念は,感応精神病の定義として要請される「妄想」というよりは宗教的な「支配観念」であったとして感応精神病を否定し,精神分裂病の点は,「連想弛緩」もないとして否定した。
1992年5月13日、横浜地裁は,事実関係を詳細に認定するとともに,合計5つの精神鑑定及び各鑑定人証人尋問の結果も踏まえるなどした結果,いずれの鑑定結果も採用できないとした上で2人とも責任能力ありと判断したことから、従兄に懲役14年、妻に懲役13年を言い渡す。妻は控訴せず確定。従兄は控訴するが、東京高裁で控訴棄却となり確定。
92年5月13日、横浜地裁は「2人には善悪を判断する能力があった」とする精神鑑定の結果を元に、Sに懲役14年、M子に同13年を言い渡した。
出典:藤沢・悪魔祓い殺人事件
続く信仰殺人事件
この藤沢での事件に続いて、翌3月から5月にかけ、次のような「信仰殺人」事件が続いた。1987年(昭和62年)3月、千葉県野田市で、新興宗教を信じるA子(当時57歳)が孫で男児のBちゃん(1歳)を絞殺するという事件が起こった。A子が新興宗教に入ったのは1984年(昭和59年)ころで、毎週の集まりにもほとんど欠かさず参加するほどの熱心な信者だった。A子は若い頃、息子と娘を出産後、精神状態が悪くなったことがあるが、年月とともに回復した。ところが、息子のC(当時32歳)のすし店が経営不振になってから、また精神が不安定になった。Cはすし店を閉店し、自分の妻と3人の子どもを連れて、母親のA子と一緒に暮らすことになった。しかし、それ以降、A子は夜眠れない状態が続き、「悪霊がいる」と口走るようになった。一緒に暮らし始めてから数日後の午前6時過ぎ、A子は放心状態で「子どもの悪霊を取り除いた。Bは血しぶきをあげてあの世へいった。みんなで拝め」と口走っていた。驚いたCはBちゃんの布団を上げると、すでに冷たくなっていた。取り調べに対してもA子は、「孫が可哀相」と言ったかと思うと、「家に帰らなくては」と突然、立ち上がったりするなど、精神が不安定であった。
4月14日、長崎県で、両親が見守る中、長女(当時32歳)と長男(当時47歳)が次男(41歳)を殴る蹴るの暴行を加え、出血多量で死なせている。調べによると、長女は自称祈祷師で、次男が炭鉱が閉山になったために3日前に帰省、この日未明、首が痛いと訴えたために「これは狐が取り憑いている。悪霊を祓わなくてはならない」と、長男と2人で次男を押さえつけ、胸や腹などを足で踏みつけたり投げつけたりして肋骨骨折による心臓内出血で死亡させた。午前4時ごろ、次男の様子がおかしくなったので慌てて病院に運んだものの、約1時間後に死亡した。
5月18日、北九州市で、女祈祷師(当時56歳)が自宅で体の不調を訴えた信者を次々と放置したまま死なせた遺体が発見された。死後1年半経った女性(74歳)の白骨死体が見つかり、さらに翌日には、なんと「祈祷で生き返る」と信じていた家族がこの祈祷師に預けていた女性(65歳)の遺体が見つかった。さらに、2日後、白骨化した男の乳児の遺体も見つかった。この日、祈祷師のマンションを訪ねた人が「部屋の中から異臭がする」と警察に届け出て事件が発覚した。祈祷師は事情聴取に対し「自分たちは神の子である。死者を蘇生させる儀式をしていた」「自分は猿田彦の生まれ変わり」と語り、3つの死体と同居し、誰にも知らせずに祈祷を続けていた。祈祷師は内縁の夫(当時57歳)とともに、1982年(昭和57年)ころ、不動明王、大日如来などの祭壇、仏像などを部屋に備えて信仰生活に入り、信者も約8人いた。今回、死体で見つかった2人の女性も信者であった。いずれも病気を抱え、祈祷師宅に熱心に通っていた。遺体で発見された男の乳児の母親も信者で、祈祷師や信者たちの手伝いのもとに長男を出産したが、その際、生まれた長男を祈祷師が「この子は猿田彦の神の子、私に預けなさい」と自宅のマンションに引き取っていた。祈祷師は預かったこの乳児を祭壇の前に寝かせ、おしめを取り替えたり、水やリンゴジュース、重湯などを与えていたが、生後1ヶ月ほどで急死。だが、その死体を祭壇の前に置いたまま、「猿田彦の神が私の体内に入っている。蘇生させる」と祈祷を続けていた。この間、乳児の母親は何度も「子どもに会わせて」という電話をしているが、「神のお告げで誰も来てはいけない」と来訪を拒否、子どもが死んだことも知らせていなかった。
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