全て実話! 世界の野生児たち(オオカミ少年、犬少女)
野生児とは
野生児(やせいじ、feral child)とは、なんらかの原因により人間社会から隔離された環境で育った少年・少女のこと。野生人(やせいじん、feral man)とも。特に狼に育てられたと伝えられる事例は多く、wolf child(日本では狼少年、狼少女、狼っ子(おおかみっこ))といわれる。
野生児の分類
野生児には次の3種類がある。【動物化した子ども】
つまり、獣が人間の赤ん坊をさらったり、遺棄された子供を拾ったりして、そのまま動物によって育てられた場合。育てていた動物としては、狼・熊・豹・豚・羊・猿・ダチョウといった事例が報告されている。育て親の動物については地域によって特徴があり、東欧では熊、アフリカでは猿、インドでは狼の報告が多い。代表例は狼に育てられたとされるアマラとカマラ。
【孤独な子ども】
つまり、ある程度は成長した子供が森林などで遭難したり捨てられたりして、他の人間とほとんど接触することなく生存していた場合。絶対的野生児。代表例はアヴェロンの野生児。
【放置された子ども】
つまり、幼少の頃に適切な養育を受けることなく、長期間にわたって幽閉されていたり放置されていた場合。擬似野生児。野生で育ったわけではないが、幼少期に十分な人間社会との接触が得られなかったという意味で野生児と同等に扱われる。代表例はカスパー・ハウザー。
それぞれの代表例として挙げたアマラとカマラ、アヴェロンの野生児、カスパー・ハウザーについては資料が比較的しっかりと残っており、野生児の研究ではよく取り上げられる。ただし動物が人間の子供を育てるのも、子供が動物の乳を消化するのも科学的にありえないことであり、「動物化した子ども」のカテゴリーはアマラとカマラを含め大半の話が捏造である(実際は発達障害等のため捨てられた「孤独な子ども」を動物と結びつけた創作話)というのが定説となっている。
野生児の特徴
もともと野生人という概念は生物学者のリンネが著書『自然の体系』において初めて科学的に扱った。リンネは野生児ピーターやクラーネンブルクの少女、ソグニーの少女などの実例をいくつか挙げ、野生人の特徴として四つ足
言葉を話さない
毛で覆われている
の3つを指摘した。このうち3つ目の多毛という特徴は妥当でないことがわかっている(多毛であると報告された野生児の事例の方がわずかである)。ただし、正常な歩行が困難・音声言語を持たないという特徴は多くの事例に適合する。
このほかに、野生児には
暑さや寒さを感じないなど感覚機能が低下している
情緒が乏しく人間社会を避ける
羞恥心が無く衣服を着用しようとしない
相応の年齢になっても性的欲求が発現しにくいまたは発現しても適切な対象と結び付けられない
生肉・臓物など調理されていない食品を好む
といった特徴がしばしばみられる。
野生児が発見・救出されたあとは、共通して痴愚的な状態となっているが、このことからもともと野生児たちは知的障害児あるいは自閉症児であり、だからこそ親に捨てられて野生化したのだと考える人もいる。実際にディナ・サニチャーの事例などは先天的な白痴であったと考えられている。しかし、救出されたのちにほぼ完全に知的に回復した野生児の事例も存在するほか、「何人かの野生児は野生で生き延びるための手段・技能を自力で開発しており、先天的な知的障害であればそういった知恵が働かなかったはず」という反論もある。
主な事例
チンパンジーに育てられた少年(ナイジェリア)
ナイジェリアのチンパンジーボーイこと、ベロは1996年に森の中で見つかった。正確な年齢はわからないが、発見されたとき2歳くらいだったと言われている。生後6ヶ月ほどで捨てられたようで、もちろん、ひとりでは生きることはできない。ところがどういうわけか、森のチンパンジーが彼を拾って育てたのだ。ベロはチンパンジーのように歩き、彼らの仕草を多く見せた。ベロの発見は当時発表されなかったが、2002年になって初めてマスコミがこの事実を知り、本人がカノにある身よりのいない子供たちのための家に住んでいることを突き止めた。当時、ベロは物を投げつけたり、夜に飛んだり跳ねたりして、まわりを悩ませていたという。発見から6年もたつと、だいぶおとなしくなったが、それでもまだチンパンジーのような行動を見せ続けたという。ホームで人間との関係ができたのに、ベロはついにしゃべることを学ばず、2005年、原因は不明だが亡くなった。
オオカミに育てられた少年(インド)
犬と猫に育てられた5歳の少女(ロシア)
ロシア・東シベリア南部のチタで「野生の少女」が保護された。少女の名前はナターシャ(Natasha Mikhailova)ちゃん5歳。ナターシャちゃんは、アパートに父親と祖父母と共に暮らしていたのだが、家族とは別の、犬と猫の部屋の中で暮らしていたのだという。近所の人はナターシャちゃんの姿をほとんど見たことがないのだそうだが、ナターシャちゃん一家を不審に思っていた近所の人がチタの児童権利委員会に通報、今回発見されることとなったのだそうだ。
発見された当初のナターシャちゃんは、人間の言葉を話すことができず、動物のようなうなり声をあげ、ご飯も四つんばいになって手を使わずに口で食べていたという。歩くときも四つんばいで「動物的特性」を持っていたそうだ。
警察関係者の話によると、ナターシャちゃんの発見された部屋は不衛生で、悪臭が漂う中、たくさんの犬と猫に囲まれていたという。洋服も一度も着替えられた形跡もなく、警察がナターシャちゃんを連れて行こうとすると、犬たちがナターシャちゃんを守るように一斉に吠えたのだという。
また、このアパート自体暖房設備や下水施設が整っていなかったそうで、寒いときはナターシャちゃんは犬や猫たちに暖められながら寝ていたのだろうと思われる。
ナターシャちゃんを育児放棄した母親は別の場所に住んでおり、ナターシャが保護された後に逮捕された。検査の結果ナターシャちゃんの健康状態は正常だそうで、現在、心理学者の監視のもと、児童養護施設に預けられているという。
実年齢より幼く、2歳くらいに見え、食欲旺盛だが、テーブルを使わず、スプーンで食事をとることを拒否。一緒に住んでいた犬や猫たちと同じような仕草を見せている。
それでも、花の絵を見せると大喜びするといい、専門家はナターシャに集中的教育を施すことで、“人間的回復”を期待しているそうだ。
ジャングルで育った少女(カンボジア)
2007年1月23日、ラタナキリのジャングルの中で、ひとりの少女が見つかった。この通称カンボジアのジャングルガールは、19年間もジャングルの中で暮らしていた。近くの村の家族が彼女が自分たちの娘で、1979年に失踪したロチョム・プニンだということを明かした。見つかったとき、彼女は裸でひどく怯えていた。ロチョムは8歳のとき、ジャングルの中で牛の世話をしている途中、妹と共に行方不明になっていたのだ(妹は見つかっていない)。発見後、普通の生活に戻そうとさまざまな治療が施された。胃痛、母親、父親という言葉しか話せず、ほかにも言葉を知っているようだったがはっきりわからなかった。空腹だったり、喉が渇いたりすると、ただ自分の口を指し示すだけだった。立って歩かずに這いずり回ることが多く、服を着るのも嫌がり、何度もジャングルに逃げ帰ろうとした。
鳥と同じ扱いを受けていた少年(ロシア)
ロシアのバードボーイことイワン・ユージンは、2008年にケースワーカーによって発見されたとき、7歳だった。しゃべることができず、鳥のようなチュッチュという声を出すか、両腕を翼のように羽ばたかせることしかできなかったという。イワンは母親の飼っている鳥だらけのふた間のアパートに閉じ込められていて、母親から話しかけられることはなく、ほかの鳥と同様、ペットのように扱われていたという。イワンは精神病院に入れられて、普通の人間の生活に戻れるよう治療を受けた。のちにさらに社会性を身に着けるために、心のケアを受けるセンターに送られた。
野良犬に育てられた少年(ルーマニア)
ルーマニアのドッグボーイ、または『ジャングルブック』のメインキャラクター、モーグリこと、トライアン・カルダラーは2002年に発見された。4歳のときに家族と離れ離れになって、7歳で見つかったが、栄養失調で3歳児ほどの体格しかなかった。母親はDVのために家を出てしまい、その後でトライアンも家を逃げ出したようだ。森の中で暮らし、ルーマニアのブラショフで発見されたとき、ダンボールをシェルター代わりにしていたが、くる病、血行不良、負った傷から感染症になっていた。発見者によると、どうやらトライアンは野良犬に育てられたようだという。発見されたとき、トライアンのそばに犬の死骸があり、その肉を食べて生き延びていたらしい。すぐに保護されたが、ベッドの上ではなく下で寝たがり、しょっちゅう食べ物を欲しがった。食べ物をもらえないと、怒りっぽくなった。
2007年、トライアンは祖父の保護の元、人間らしい生活を取り戻し、3年生のクラスに入った。学校のことを訊かれると、絵を描いたり、遊んだり、読み書きを覚えたりしていて、おもちゃもたくさんあり、食べ物もおいしくて気に入っていると答えたという。
8匹のヤマネコに育てられていた1歳の男の子(アルゼンチン)
アルゼンチンのミシオネス、クリストキング地区の運河近くにて、8匹のヤマネコに育てられている生後1歳の男の子が警察官により発見され、保護された模様です。医師の話によると、ヤマネコたちがこの男の子のまわりを囲み暖めてあげなければ、寒さでとっくにこの男の子は死んでいただろうとのこと。男の子はヤマネコたちが持ってきた残飯を食べている姿や、男の子の体をペロペロと舐めてあげていた姿も目撃されていたそうです。
発見した警察官、Alicia Lorena Lindgvistの話によると、ヤマネコが排水溝付近で集団で寄り添っている姿を見かけたので、めずらしいなと思い近寄ってみると、その中心には人間の男の子がいて、ヤマネコたちが皆でその男の子を舐めあっていたそうなのです。
この子の父親は無事見つかりましたが、ホームレスだそうで、数日前にダンボール集めをしている最中この子がいなくなったということです。いなくなる前からヤマネコたちはこの男の子に非常に感心を持っていて、この子を守るそぶりをみせていたそうです。
イギリスの動物保護団体の話によると、猫や犬は暖かいものに集まる習性があり、また、猫の群れは身ごもった母猫に餌を集める習性もあるそうで、暖かいこの子を保護が必要な母猫のように思いみんなで世話をしてのではないかと話しているそうです。以上リアルすぎるジャングルブックのお話なのでした。
猿に育てられた少年(ウガンダ)
ウガンダのモンキーボーイこと、ジョンは3歳のとき、父親が母親を殺すのを目撃してしまい、家を飛び出した。ジャングルの中に入り込み、アフリカミドリザルに育てられたと言われている。1991年、木に隠れているところを地元の女性に見つかった。女性は村に戻って男たちにこのことを伝え、男たちがジョンを捕えようと捜索に乗り出すと、ジョンはサルたちと共に抵抗した。しかし、ついに捕まって、村に連れて行かれた。
村で体をきれいにされたが、ジョンの全身は毛に覆われていて、いわゆる多毛症だった。野生で暮らしていたせいか、腸に50センチ以上もの長さの寄生虫がいて、全身傷だらけで、サルのような歩き方をするせいか、特に膝に傷が多かった。孤児院を経営しているポールとモリー・ワスワ夫妻に預けられた。家を逃げ出す前に、しゃべることはできていたようで、ジョンは現在、子供たちの聖歌隊に入っていて、動物的な行動はほとんど見せないという。
オオカミに育てられた2人の少女(インド)
このふたりの少女はもっとも有名な野生児だろう。1920年、インドのミドナプールのオオカミのすみかから発見されたとき、カマラは8歳、アマラは1歳半だったと言われている。ふたりは姉妹ではなく、捨てられてたまたま同じ時期にオオカミに拾われたようだ。発見される前、地元の村人の間では「ベンガルのジャングルでオオカミと一緒にいるふたつの幽霊」として恐れられていて、ジョゼフ・シンというキリスト教伝道師が真相を探るよう依頼された。シンはオオカミの棲む洞窟で見たものを、人間のような姿形をしているが、恐ろしいものと記録している。少女たちは四足で走り、とても人間とは思えなかったという。
深夜、やっとのことでふたりを捕えたが、少女たちは体を丸めて一緒に眠り、服を着せてもはぎとってしまい、生肉以外は口にしない。遠吠えのような声をあげ、手足の腱や関節がもろく、立って歩くことができない。人間との関係にはまったく興味を示さず、聴覚や視覚、臭覚はかなり鋭かったという。
やがて、アマラは病気で死に、そのせいでカマラもずっと元気がなかった。カマラはシンのリハビリで立って歩き、いくつか言葉を話せるようになったが、1929年に腎不全で死んだ。
森の中に置き去りにされた少年(南フランス)
アヴェロンの野生児として知られるヴィクトールは、世界で初めて自閉症として報告されたが、野生にひとり置き去りにされた子どもとしても知られている。1797年頃、フランス南部ラコーヌの森の中でさまよっているところを目撃され、捕えられた。当時12歳くらいだったと言われている。全身傷だらけで、発見当時は完全に人間らしさを失っており、言葉をしゃべることができなかった。町に連れていかれ、噂を聞きつけた多くの人が彼の調査に続々とやってきた。ヴィクターは雪が降るような寒い中、裸でいても平気だったが、能力はあるのに教えられてもきちんとしゃべることはなかった。最終的にパリに送られ、マダム・ゲランという世話役と一緒に暮らすことになり、40歳で亡くなった。
オオカミに育てられた少年
ロシア警察は現在、狼に育てられた「狼少年」(推定10歳)を探しているそうだ。この少年は、中部ロシアのKaluga地域の荒野で、狼の群れと一緒に彼らのねぐらいるところを村人たちにより発見され、モスクワの病院に連れてこられたのだが、その一日後に病院から脱走。人間を見ると噛み付いたり吠えたりするそうだ。誰が名づけたのかはわからないが、村人たちは彼の名を「Lyokha」と呼んでいる。「この少年は非常に危険である」とロシア警察のスポークスマンは語る。「彼の行動は典型的な狼そのものであり、彼は非常に硬い歯を持っており、動物特有の感染症を持っている可能性もあり、噛み付かれると死に至る危険性もある。」一見普通の子どもに見えるが言葉はまったく理解できなかったという。
ロシアでは、親に捨てられた子どもが動物たちによって育てられる『Mowgli』と呼ばれるこどもたちが少なからず存在する。この少年は狼に育てられたようで、森の中では狼のように走り、狼集団と共に狩りを行っていたという。クリニック内では看護士さんたちに吠えたり噛み付いたり引っ掻いたりと、その診察は大変困難を極めていた模様。
犬に育てられた少女(ウクライナ)
1991年、ウクライナで見つかった8歳のオクサナ・マラヤは、3歳のときから家の裏にある犬小屋で犬に囲まれて暮らしていたという。吠えたり、唸ったり、犬の群れを守ろうとしたり、四足で歩き、食べる前に食物のにおいをかいだりと、まるで犬のような仕草を見せた。人間がオクサナを連れて行こうとすると、ほかの犬たちと一緒になって威嚇した。イエス、ノー以外の言葉は話せなかったという。人間としての生活や言葉を取り戻すためのセラピーを受けさせられ、話すことはできるようになったが、人とのコミュニケーションや自分の感情を表現することは難しいかった。現在、彼女はオデッサのバラボイ病院で生活していて、病院の農場で牛の世話をしているが、犬と一緒にいるときが一番心休まると言っている。
デビルズリバーの狼少女
デビルズリバーの狼少女(The Lobo Wolf Girl of Devil"s River)は1845年にメキシコで目撃された野生児である。1845年、デビルズリバー(Devil"s River)の近くで、ある少年がヤギを襲っているメキシコオオカミの群の中に10歳前後の女の子がいることを目撃した。それから1年も経たない内に、サンフェリペ(San Felipe)でメキシコ人女性が2頭の大きなオオカミと女の子が殺したばかりのヤギをむさぼっているのを発見した。すぐに女の子は四つ足で逃げはじめ、やがて二本足で走って逃げ去った。
捜索3日後、散々暴れた末、女の子はハンターに取り押さえられ、近くの牧場の納屋に連れて行かれ、保護された。すると彼女は遠吠えのような声をあげ始めた。やがて数多くのオオカミの群れが現れて牧場の家畜を襲いはじめた。驚いたハンター達が銃で応戦している最中、女の子は混乱に乗じて逃げてしまった。
1852年、エルパソの住民が川の砂州で2匹のオオカミの子に授乳している少女を目撃したが、すぐにオオカミを連れて逃げてしまった。それを最後に、行方不明となってしまった。
彼女は1835年5月に、デビルリバーで産まれたデント夫婦(John Dent & Mollie Dent)の子と推測されている。夫婦は不慮の事故で亡くなり、娘はオオカミに襲われて死亡したとされていた。
エルンスト・ベーコンのピアノ曲『The Lobo Girl of Devil"s River』(1967)はこの実話を元に作曲された。
13年間部屋に閉じ込められていた少女(アメリカ)
ジーニーは13歳になるまでひとつの部屋に監禁されていた。おまるに縛りつけられ、寝るときは寝袋に入れられ、父親はジーニーがなにか言うと怒鳴り殴りつけておとなしくさせた。父親はジーニーの母親や兄弟たちがしゃべることも禁じていた。おかげでジーニーは「やめて」とか、「もういらない」というような簡単なフレーズ以外ほとんどしゃべることができず、20前後の語彙しかなかったという。1970年に発見されたが、彼女が本当は13歳で虐待の被害者だとわかるまで、ずっと自閉症だと考えられていた。今では孤立児の最悪のケースとみなされている。
ジーニーはロスの子供病院に収容されて治療を受け、イエスノーで質問に答えたり、自分で服を着ることを覚えたが、うさぎのような奇妙な歩き方はなかなか治らず、やたらものをひっかいたりした。セラピストのデイヴィッド・リグラーと4年間暮らし、言葉を話さなくてもコミュニケーションがとれるよう手話や絵を描くことを教わった。
それから母親と暮らすようになったが、新たにひきとられた新しい里親に虐待されてまた言葉が退行し始めた。現在、ジーニーには南カリフォルニアのどこかで生活しているという。
野生児ピーター
野生児ピーター(Peter the Wild Boy、独:Wilder Peter von Hameln、? - 1785年2月22日)は1725年の春、ドイツのハーメルン付近の森で発見された男児。後にジョージ1世により大英帝国に招かれ、教育を受けたが殆ど言葉を話すことが出来なかった。彼はスウィフトの小説のモデルともなった。発見された当時、彼はおよそ12歳で、裸で動物のように四つんばいになって歩いていた。人が近づくと奇声をあげて木々の間を逃げ去った。草と葉を食べて生きていたとされている。発見された当時「裸の、褐色がかった、黒い髪の生きもの」と報告された。
ピーターの生い立ちに興味を抱いたジョージ1世によってイギリスに連れてこられた。 ピーターは正装をさせられて王宮の会食のテーブルについたが、マナーを理解できなかったため、大騒ぎとなった。彼はパン以外、野菜、果物、生肉を大量に食したと記録されている。
1726年の春、森へ逃げ込み騒ぎを起こしている。彼が連れ戻された時、キャロライン王女の近くで暮らすことを望み、王女のはからいで、王室のペットとして、王女のウエストエンドの別荘で暮らすことが許される。ピーターは毎朝スーツを着込む事には熱心だったが、夜は床に丸まって寝たとされている。
ピーターに関する興味と憶測はロンドン中を騒がせ、懐疑的なジョナサン・スウィフトによって風刺とからかいの対象となった。彼の肖像画の入ったポスターは今も残っている。
彼に対する教育は目立った成果がなく、言葉も殆ど話せなかったとされている。1728年には王女の別荘を離れ、ハートフォードシャーのノースチャーチにある農家に移り住むこととなり、ピーターは農家の手伝いをして暮らした。生活費として王家から年35ポンドが生涯の間、支給されつづけた。
ピーターはジンと音楽を好み、疲れるまで奇妙なダンスに熱中したとされる。そしてあちらこちら徘徊し、何度も不審者として逮捕されてしまうため、ついに名前と住所入りの頑丈な革の首輪がつけられてしまった。
ピーターは1785年2月22日に亡くなった。推定70歳没。彼の墓はノースチャーチにあるセントメリーズ教会の入り口に現存している。
幼少の頃地下牢のような場所に幽閉されていた少年
カスパー・ハウザー(Kaspar Hauser、1812年4月30日? - 1833年12月17日)は、現在においても未だその正体と背景が不明なままのドイツの孤児。16歳頃に保護されるまで長期に渡り地下の牢獄に閉じ込められていたため、その性質からしばしば野生児に分類される。発見後に教育を施されて言葉を話せるようになり自己の生い立ちを語り出すようになったが、それが明らかになる前に何者かによって暗殺された。特異なまでの鋭敏な五感を持っていたことでも有名。文献も多く、殺害現場となったアンスバッハでは現在、祭礼が二年毎に行なわれている。聖霊降臨日の翌日の1828年5月26日、ニュルンベルクのウンシュリットプラッツ(Unschlittplatz)で16歳程の少年が発見される。彼はものを訊ねられたがほとんどまともに言葉を話せず、警察に連れてゆかれた。少年はそこで紙と鉛筆を渡され「カスパー・ハウザー」という名前を書いた。
少年が携えていたニュルンベルク駐屯の第6軽騎兵隊の第4中隊の大尉フリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒに宛てた間違いだらけの文の手紙には、同様にカスパーというファーストネームが出ていた。宛てられた本人には何ら心当たりがない手紙には、少年の誕生日を1812年4月30日と記しており、この少年の両親は既に死去していると説明し、手に余れば殺して欲しいと書かれていた。
彼の保護者で養育者でもあった法学者アンゼルム・フォイエルバッハによると、カスパーは当初、肉や牛乳は口にしても吐いてしまい、パンと水だけを採ることができた。さらに本人は鏡の中の自身を捕らえようとするなど、通常の人間らしさを失っていたという。これによりフォイエルバッハは、カスパーがかなりの長期にわたり孤独な状態で地下の監獄に囚われていたのではないかと推測している。このような特別な人間について記録された数多くの伝記には、そのような者は生まれながらにして暗い小部屋で外部との交渉を絶たれて生活することを余儀なくされ、人間らしさを失っていたとある。この残忍な仕打ちがおこなわれた地下牢は、ニュルンベルクのノイマルクトにあったと推測されている。
法学者、神学者、教育学者たちは彼に関心を持ち、彼らはカスパーに数多くの検査をし正しい言葉を教えようとした。彼は宗教哲学者ゲオルク・フリードリヒ・ダウマーの下で読み書きを学んだ。しかしダウマーは彼に死ぬまで神の概念を理解させる事はできなかった。
カスパーの感覚機能は発見当初はほとんど麻痺状態であったが、やがて外界のものを知覚できるようになる。が、そこで発揮された知覚の鋭さは異常とも言え得る程のもので暗闇でも聖書を読めたり色彩を判別できるのみならず、握った金属が鉄か真鍮かそれとも何かを区別したり、遠隔地のクモの巣に獲物がかかっている事を言い当てるなど並外れていたとされ、本人のこの能力は特殊な視覚など一部を除き、一般の食事や生活に順応するにつれ消失していったと記録されている。
この奇怪な出来事に興味を持った民衆の眼前に彼が披露される機会があったが、カスパー本人はこれに対し視覚や聴覚の刺激に過敏さゆえ過剰に反応してしまうようになった。その際カスパー自身は感覚の過敏さゆえ経験したことのない光と騒音によって痛みを受け苦しんだという。
彼の苦痛が慣れによって徐々に軽減するとともに人々の前に姿を知られたが、同時にかつてこの地を治めていた王と顔が似ていると噂されることになった。これが後の暗殺と関係が深いとされる「バーデン大公後継者説」に繋がる。
隔離児アンナ
アンナ(Anna、1932年3月1日または3月6日[1]-1942年8月6日)は、5歳まで物置に監禁されていたアメリカの少女。広い意味での野生児(人間社会から隔離された環境で育った子ども)に相当する。アンナは1932年3月1日または3月6日に生まれ、その後しばらくの間、住む場所を転々とすることになった。出生後2週間の時点で祖父の農園に連れてこられたが、アンナは非嫡出子であり、祖父が彼女のことを嫌っていたため、母親の友人の家に移されることになった。その後さらに複数の養育院や乳児院をたらい回しにされ、生後の5ヶ月の時点で最終的に祖父のもとに戻された。しかし、あいかわらず祖父はアンナを嫌っていたためアンナの母親は彼女を部屋に閉じ込めたままにした。ミルクを与えられるだけで、日光にも当たらずほとんど世話はされなかった。また、ときおり兄の虐待の対象にもなっていた。アンナが4歳になる頃に母親はオートミールを食べさせるようにしたが、あいかわらずそれ以外はほぼ放置されていた。
アンナが5歳のときにペンシルベニア州付近の農家の物置に閉じ込められていたところを救出され、1938年2月6日の『ニューヨーク・タイムズ』によって報じられた。
隔離児イザベル
イザベル(Isabelle、1932年4月-)は、6歳半頃まで部屋に母親とともに監禁されていたアメリカの少女。広い意味での野生児(人間社会から隔離された環境で育った子ども)に相当する。なお、イザベルは仮名である。イザベルの母親は右目の視力・聴力に障害があり、知的能力にも難があった。読み書きや話すことはできず、身振りでしか家族とも意思疎通ができなかった。22歳頃に母親は妊娠し、1932年4月にイザベルを産んだ[2]。その後、イザベルは母親とともに日光の当たらない部屋に監禁されていた。1938年11月に母親はイザベルを連れて脱出に成功し、保護された。母親はほとんど話すことができなかったので、イザベルは生まれてから6歳半になるまで話し言葉をほとんど聞かずに育ったことになる。実際、救出された直後はイザベルは言葉を話すことも理解することもできなかった。また、日光が遮断された部屋で育ったためかくる病のように両足が曲がってしまっていた(これについてはのちに手術が行われた)。11月16日、オハイオ州の病院に収容される。警戒心が強く、牛乳とクラッカー以外は食事を受けつけなかった。
幼いころから40代までジャングルの中で父とともに殆ど社会と隔絶した生活を送った男性
ホー・バン・ラン(英語:Ho Van Lang、ベトナム語:Hồ Văn Lang、1971年 もしくは 1972年 - )は、ベトナム戦争の戦火のため、2歳のころに、父親ホー・バン・タイン (Ho Van Thanh) とともにジャングル(密林)に避難して、社会と隔絶された自給自足の生活を送り、そして約40年ぶりにジャングルでの生活から保護された男性である。2013年の保護当時、ランは41, 42歳であり、父親タインは82歳だった。1970年代初め(1973年という報道もある)、ベトナム戦争当初のホー親子は、ベトナム中部・クアンガイ省のベトコンの集落(村)に住んでいたが、アメリカ軍の爆撃、又は地雷により、自宅のそばで、父タインの妻(ランの母)と、タインの4人の子供のうち2人を殺される。タインはショックや悲しみから、当時2歳だった息子のランを連れて、ジャングルに身を隠すようになった。
10年後の1980年代初め、村人によりホー親子が生存していることを発見されると、タインの生き残った別の息子ホー・バン・トライ (Ho Van Tri) が2人を訪ねて、文明社会に戻るように説得したが、聞き入れられなかった。 また2004年には、2人はいったん山を下ろされたが、故郷の村の生活になじめず、「山が恋しい」と再び戻った。 その後、トライは毎年、塩と油を届けていた。
2013年8月7日、地元の発見者の通報を受けて、地元の捜索隊が2人の保護をした。約40年の歳月が流れていた。
この歳月の間、クアンガイ省・テイトラ地区(英語版) (Tay Tra) の森の中を約40 Km (25 miles) ほど入った場所で、2人は社会との関係をほぼ持たず、地上約5 - 6メートル (20 feet) の木の上に、木の枝と葉で作った手製の小屋に住んでいた。樹皮で作った腰蓑(ふんどしの形状)だけを身に着け、ベトナム戦争の砲弾が材料の[2]、手製の斧(山刀)で薪をとっていた。キャッサバ(イモ)やトウモロコシを栽培し、野草と果物、弓矢とナイフで狩り(狩猟)をした肉などを食べて過ごしていた。
発見時、ランは、出身民族の少数民族・チョール族(英語版)(コル族)の単語をわずかしか話せない状態で、意味のある会話ができない状態であった。 父タインは話をする習慣を忘れており、そのうえ、高齢のタインは自力で歩けぬほど衰弱していた[1]。
また、住んでいた小屋の中には、父タインが過去着用した兵士のズボンが折りたたまれて保管され、ランが幼い頃に身に着けていた小さな赤いコートとが残っていた。
サハラのカモシカ少年
1960年にサハラ砂漠でカモシカと暮らしているところを発見された少年。捕獲はされず、ジャン・クロード・アルメンによってその様子が観察された。ただし、詩人であるアルメンによって物語的に報告されているので、実証性のある科学的資料とはいえない。1966年と1970年にアメリカ軍による捕獲作戦が行われたが成功していない。
クロンスタットの野生児
トランシルバニアとワラキアの間で発見され、クロンスタットに移送された22~25歳程度の青年。少なくとも1784年には生存していたとされるが、同年クランスタットを離れ、その後は不明。女性を見かけるとすぐに喜びの大声を上げて欲望を表現したとされるが、これが本当なら成熟した野生人が示した唯一の性的行動の記録といえる。
ソグニーの少女
1731年9月、フランスのシャンパーニュ地方のソグニー村で発見された少女(ただしそれまでに別の場所で捕獲されたり発見されたりしている)。発見当時9~10歳程度。魚やカエルを生のまま食べ、しゃべるかわりに金切り声をあげた。その後、野生児の例としては珍しくある程度言葉を話せるようになり、尼僧になった。伝記作家のラ・コンダミーユは、彼女が2度海を渡ったことがあると話したことから、彼女はエスキモー出身だとしている。
オーバーダイクの救貧施設で保護された野生児
ドイツのオーバーダイクにあったレッケ伯爵の救貧施設では、2人の野生児が保護されていたとされ、文化人類学者のタイラーの論文によって1863年に報告された[27]。1人目の野生児は、血を流した状態で救貧施設にたどり着いたところを保護された。保護されたときは、ほとんど言葉を話せなかった。その後精神発達がみられ、豚といっしょに生活をしていた過去を語った。
2人目の野生児は、鳥とその習性について高い知識を持っていたとされる。木に登って鳥や卵をとって食べるのがうまかったという。
野生児サニチャー
1867年にカジャール族の男性によって狼の巣穴から発見されたインドの少年。もともと白痴であったと考えられている。資料は比較的豊富に存在し、本人の写真も残されている。発見後、1895年に死去するまでシカンドラ孤児院で過ごしていたが、この孤児院ではサニチャーのほかにも野生児を保護していた事例が報告されている。
日本での隔離児の事例
1970年代に日本でも、3.3平方メートル程度の囲いの中に2年間以上監禁されていた女の子が救出された事例がある。発見当時は6歳だったが発達は1歳半程度とされ、言葉も数語程度しか話せなかった。しかし救出後には専門家の予想を上回るペースで回復していき、3年後には運動能力は年齢相応の水準に達した。学習面でも、短期記憶力に難はあったが、中学卒業後には無事に県立高校に合格することができた。
日本での隔離児の事例2
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