行方不明関係者への怪電話・怪文書

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鈴木俊之くん行方不明事件

事件は昭和40年7月3日午後4時ごろ。

静岡県伊東市宇佐美区に住む俊之君(当時7歳)が

自宅から「遊びに行く」と言って出たまま行方不明になった。

通報を受けた警察は、すぐに捜索隊を結成。


7月6日、捜索隊は子供たちの案内で俊之君が向かったという山を捜索していた。

(虫を入れる小箱をかかえて山へ向かった、と目撃情報があったため)

この日、Tくんの近所の鮮魚店に電話がかかる。

その家の4才の男の子が電話に出ると、

「なーに?トシちゃん?」と聞き返していた。

すぐに男の子の祖母が電話をとって応答したところ、切れてしまった。

行方不明2日後、近所のホテル・親戚宅・父親の勤め先の3ヶ所に女の声で不審な電話がかかってくる。また近所の鮮魚店に本人と思われる電話がかかってきている。


※電話の内容


ホテルに

『お宅の近所で子供が居なくなったそうですが本当ですか。それに間違いありませんね』


親戚宅に

『子供が居なくなったのは本当ですか?』

『ボクが誘拐した。今日3時ごろまでに熱海駅1番ホームで…』


父親勤務先に

『俊之くんの父親はいませんか?』

出典:主な行方不明関係者への怪電話・怪文書 - 未解決事件・失踪/行方不明事件・印象に残った事件

	

庄山仁くん行方不明事件

昭和44年2月23日に行方不明。

午後2時過ぎ制服、制帽姿で自宅を出る。


未だに未解決事件のままである。

行方不明当日に仁くんの制帽を持った男が訪れ「この制帽の子にお金を盗られた」と伝える。

翌日、無理やり書かされたと思われる仁くんからの手紙が届く。


※手紙の文面

「前略 心配かけてすみません。悪い友達にさそわれて、人のお金をとりました。

中には四十万以上も入っていましたが、僕は少ししかもらっていません。

学校の方は、僕の気持ちがおさまるまで、病欠にしていてください。

すぐに帰っておわびいたします。

どうかさがさないで下さい。仁」

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猪原修くん行方不明事件

昭和48に年7月3日失踪。

当時、熊本の新聞にし載らなかった事件なので知らない人も多い失踪事件。

行方不明数年後、「山に男児の遺体を埋めた」と書かれた手紙が届き、それに書かれた場所を捜索したが遺体は発見できなかった。

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安達俊之さん行方不明事件

失踪年月日:昭和56(1981)年6月20日

安達俊之さんの生年月日:昭和38(1963)年1月16日


金沢国際ホテルに勤務する当時18歳の会社員、安達俊之さんは女性とともに失踪。

交際中の女性を自宅まで送ると言って車で友人宅を出たまま2人とも行方不明。白山町交差点で友人が二人を見かけたのが最後という。

通帳も印鑑も所持しておらず、まとまった金銭も持っていない上に自動車が見つかっていない。


石川県警は例のごとくこの事件を駆け落ちとしたが、特定失踪者問題調査会が、北朝鮮による拉致の可能性がある特定失踪者として名簿に記載。

未だに行方不明のままである。

安達俊之さん

			
交際中の同僚女性を送るといって自動車で友人宅を出たまま女性とともに行方不明。

失踪数日後、幼い女の子のたどたどしい声で「俊之つかまているよ」と電話。その後無言電話も。

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山本美保さん行方不明事件

昭和54(1984)年6月4日、山梨県甲府市に住んでいた当時20歳の山本美保さんは「図書館に行ってくる」と家族に告げ、ミニバイクで家を出たまま「失踪」。彼女の手掛かりは、6日に甲府駅前で見つかったバイクと、そして8日に新潟県の荒浜海岸で見つかったセカンドバックだけだった。そのバックの中には、彼女の免許証と財布があり、お金は財布に入ったままになっていた。しかもこの場所は、蓮池薫さんたちが拉致された現場の近くである。
失踪半年後から無言電話が4年半ほど続く。無言電話はほとんど数秒で切れるものだったが、

 失踪から3年4ヶ月後と3年6カ月後の2回の電話は10~15分ほど続き、相手はじっと聞いている様子だった。

 3年6カ月後の電話はすすり泣くような声が聞かれた。

出典:主な行方不明関係者への怪電話・怪文書 - 未解決事件・失踪/行方不明事件・印象に残った事件

	

西安義行さん行方不明事件

1987年3月15日、兵庫県市島町(現・丹波市)の自宅から、西安さんは高校時代の友人、石川靖さん(42)とドライブに出かけた。

 二人は京都・舞鶴へ向かった。石川さんは運転免許を取りたてで、西安さんが運転した。「海を見て、食事をして帰った。変わったことはありませんでした」と石川さん。


 夕方、京都府綾部市の綾部駅近くで、西安さんは「列車で帰る」と、車を降りた。


 西安さんは約一時間後「無事着いたか」と、春日町(現・丹波市)の石川さん宅に電話してきた。


 それが、西安さんの消息の最後となった。

最初は87年5月。母の久子さん(68)が電話を取ると、小さな声が漏れてきた。「僕、学校の横」と聞こえた。震える声の主は息子と思えた。「義行やろ」。声をかけると、電話は切れた。

 93年3月ごろの電話は、女児がたどたどしく「歌うから聞いて」と告げた。「明かりをつけましょ、ぼんぼりに…」。ふと思いつき久子さんは問うた。「あんた、義行の子か?」。返事はなかった。


 98年、今度は来訪者があった。集落の区長の男性宅に、地下足袋を履いた男二人が現れ「西安義行3 件の両親の家はどこか」と尋ねた。今は亡き区長によると、二人は「西安さんが結婚する相手の近所の者」と名乗ったという。


 さらに昨年11月、女の子が「圭子さんはおられますか」と電話してきた。留守を告げると、電話は切れた。

出典:【未解決事件】西安義行さん失踪事件|王立 シュレヒト総合研究所

	

日高満男さん行方不明事件

漁船大昭丸に1人で乗り込み、元浦港南西漁場で操業。午後2時頃他の漁船に目撃されているのが最後。日没後も帰港しないので諏訪瀬島の漁船、海保巡視船、航空機による捜索を行った。翌24日諏訪瀬島切石港沖合で無人のまま漂流している船を発見。船は燃料切れだったが、トローリングをしていた状態で糸も垂れたままだった。
行方不明1~2年後に無言電話。モールス信号のような音が聞こえる。

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松岡伸矢くん行方不明事件

1989年3月7日、徳島県貞光町の親戚宅にやって来ていた松岡伸矢くん(当時4歳)が親の目の離した40秒の間に忽然と姿を消した・・・。

松岡伸矢くんの一家は茨城県牛久市に住んでいた。家族構成は父・正伸さんと妻・圭子さん、子供が長女、伸矢くん、次男(当時2歳)の5人暮らしだった。正伸さんはソフトウェア技術者として国産の電算機関関連会社に勤めていたが、牛久で家を買い、1989年はじめには外資系のコンピュータ会社に転職した。それまでは深夜残業・休日出勤ばかりで子供達と遊ぶ時間がままならなかったからだ。


 この年の3月5日、圭子さんの実母が急死し、6日に一家は徳島県小松島市で営まれた葬儀に参列した。そのあと一家は車で1時間ほど離れた貞光町の圭子さんの親戚宅を訪れ、この日はここに泊まった。


 翌7日午前8時頃、正伸さんは3人の兄弟と従兄弟の子供を連れて近所に散歩に出かけた。このあたりは標高200mほどの山間部の林道の終点近くにあり、公道から山の斜面に私道が延びて、その斜面に親戚宅は建てられていた。まわりに家はない。

 正伸さんは朝食前だったので10分ほどで散歩を切り上げている。子供達ははしゃぎながら、正伸さんについてきていた。家の玄関までの10メートルほどの石段を登った玄関先まで伸矢くんがついてきていたことを正伸さんは記憶している。伸矢くんはこの時、もっと散歩したそうだったため、正伸さんは抱いていた次男を家の中にいた圭子さんに手渡し、玄関先に戻ってみると、伸矢くんの姿はなかった。この間、40秒ほどである。

 伸矢くんの姿がみえないことに気づいた正伸さんは、すぐに周辺を捜したが、伸矢くんを見つけることが出来なかった。それから、家族・親類が近所を捜し回り、地元の消防団もこれに加わったが見つけることが出来ず、午前10時に警察に通報した。

 

 当初は山で迷子になっているのではないかと思われ、この日のうちに山間部で大捜索が行われた。貞光署からは全署員30名の半数が駆けつけ、県警機動隊、消防署員、地元消防団員に一般市民を加えた100人近くの人を動員、翌8日には200人を動員、その後3ヶ月捜索を続けたが、ついに伸矢くんを見つけることはできなかった。

 ちなみに伸矢 くんは4歳とは思えないくらい、しっかりしていた。自宅の住所も電話番号も年齢も家族の名前もみんな言えた。


・現場は町道の終点付近で外部からの出入りはほとんどない

・失踪時、100m離れた畑で農作業をしていた人は車を見かけなかった。

・松岡さん一家が親戚宅に到着したことや、伸矢くんがいたことは外部に知られていない

・周辺に交通事故の痕跡はない。

 貞光署ではそれでも以上の理由から「事件にまきこまれたケースは考えにくい」と徹底した周辺捜索を行った。

松岡伸矢君、当時4歳

			
捜索が空振りに終わり、自宅へ変える前日、親戚宅に母親宛に女性の声で電話が入る。

 女は「ナカハラマリコの母親」だと名乗り、「成蹊幼稚園(伸矢くん通園)の月組の父兄です。

 幼稚園で見舞金を集めたのですが、どちらに送れば良いのでしょうか。もう帰ってくるんですか?」と尋ねた。

 しかし幼稚園にはナカハラマリコなる園児はおらず、見舞金の事実も無かった。

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南埜佐代子さん行方不明事件

1990.4、ネパールを旅行中の大阪府堺市の近畿大生・南埜佐代子さん(当時29)が、

ヒマラヤ・アンナプルナ登山口の町、ポカラにあるホテルに、

衣類などの入ったザックを残したまま行方不明になった。

 佐代子さんは世界旅行中で、東南アジアから中国、ソ連、中近東、

アフリカ、インドを経て、今年3月末にネパール入りしていた。

ほぼ週に1度は家族に手紙を送ってきたが、4月3日にカトマンズから

「4週間くらいの予定でヒマラヤ・アンナプルナ方面へ山歩きに行く」

という内容の手紙を出したのを最後に消息を絶っていた。

ネパール旅行中に行方不明に。行方不明から4ヶ月あまり後、自宅に本人と思われる女性から電話がかかってくる

 ※電話のやりとり

 本人?『(泣きながら)ああ、苦しい。……悔しい……』

 母「どうしたの」

 母「どこにいるの」

 本人?『(泣きじゃくったまま切る)』

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石嵜容子さん行方不明事件

石嵜容子さん失踪事件(茨城県)

1990年12月31日、茨城県三和町の町立中2年の石嵜容子さん(14歳)が友人宅から帰宅途中に行方が分からなくなった。

 友人宅に出かけるさい、自宅2階から祖母が「大晦日だから早く帰ってくるんだよ」と呼びかけ、「はい」と答えたという。

その後友人宅から自宅に向かったが戻らず、行方が分からなくなった。

 友人宅から自宅までの道路の途中で、容子さんの自転車が発見された。

自転車は自宅ではなく友人宅のほうを向いて置かれ、前かごには容子さんの鞄が入っていた。

行方不明翌日、「大勢の人がいて帰れない」「新宿にいて帰れない」と本人から電話がかかってきた。

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加茂前ゆきちゃん行方不明事件

事件が起きたのは、1991(平成3)年3月15日、三重県四日市市豊田。 

家族構成は両親と3人の子供。 父、芳行さんは車の板金工場勤務。母市子さんはパート勤務。

3人の子供はいずれも女の子で、高校生の長女、小6の次女、失踪したゆきちゃんは三女で小2(8歳)。


■事件発生の経緯


父は夜勤を終え、事件当日の朝帰宅し、失踪発覚までそのまま寝ていた。


学校は卒業シーズンで通常よりも帰宅が早くなっていたいたため、ゆきちゃんの帰宅は午後2時頃。


ゆきちゃんは、友達から遊びに誘われたが、「約束がある」と断ってたらしい。


同2時半頃、が家に電話した際に、ゆきちゃんが出て「今日夜勤で遅くなる」「わかった」と会話。


同4時前頃 次女帰宅。まだ暖かい飲みかけのココアがテーブルの上にあるのを見たものの、ゆきちゃんは家にいなかった。


同4時半頃 父起床。ゆきちゃんはいなかったが、遊びに行ったものだと思い気にしなかった。


同 夕方 長女帰宅。父は夜勤へ。母帰宅。


午後8時頃 地元警察に捜索願を提出。


■捜査状況


ゆきちゃんは、普段学校から帰るとランドセルを置き、校庭などで友達と待ち合わせ 遊んでいることが多かった。

その際は自転車を使っていた。

しかし当日、自転車は家の前に置かれたままだった。


いつも着ているジャンパーが脱いだまま部屋に置いてあった。

加茂前ゆきちゃん

			
ミゆキサンにツイテ 

 ミユキ カアイソウ カアイソウ

 おっカアモカアイソウ お父もカアイソウ

 コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レ

 トオモイマス

 股ワレハ 富田デ生レテ 学こうヲデテ

 シュンガノオモテノハンタイノ、パーラポウ

 ニツトめた

 イつノ日か世帯ヲ持チ、ナンネンカシテ

 裏口ニ立ツヨウニナッタ

 イまハー ケータショーノチカクデ

 四ツアシヲアヤツツテイル


 ツギニ

 スズカケのケヲ蹴落シテ、荷の向側のトコロ

 アヤメ一ッパイノ部ヤデ コーヒーヲ飲ミナ

 ガラ、ユキチヲニギラセタ、ニギッタノハ 

 アサヤントオもう。

 ヒル間カラ テルホニハイッテ 股を大きく

 ワッテ 家ノ裏口ヲ忘レテ シガミツイタ。

モウ股割レハ人ヲコえて、一匹のメス 

 にナッテイタ。

 感激ノアマリアサヤンノイフトオリニ動い 

 タ。ソレガ大きな事件トハシラズニ、又カム

 チャッカノハクセツノ冷タサモシラズニ、ケッカハ

 ミユキヲハッカンジゴクニオトシタノデアル

 モウ春、三回迎エタコトニナル

 サカイノ クスリヤの居たトコロデハナイカ

 トオモウ


○ダッタン海キョウヲ、テフがコエタ、コンナ

 平和希求トハチガウ

 ミユキノハハガカ弱イハネヲバタバタ

 ヒラヒラ サシテ ワガ子ヲサガシテ、広い

 ダッタンノ海ヲワタッテイルノデアル


 股割れは平気なそぶり

 時ニハ駅のタテカンバンニ眼ヲナガス

 コトモアル、一片の良心ガアル、罪悪ヲ

 カンズルニヂカイナイ

 ソレヲ忘レタイタメニ股を割ってクレル

 オスヲ探しツヅケルマイニチ

股ワレワ ダレカ、ソレハ富田デ生レタ

 コトハマチガイナイ

 確証ヲ?ムマデ捜査機官に言フナ

 キナガニ、トオマワシニカンサツスルコト

 事件ガ大キイノデ、決シテ

 イソグテバナイトオモウ。

○ヤツザキニモシテヤリタイ

 股割レ。ダ。ミユキガカアイソウ

○我ガ股ヲ割ルトキハ命ガケ

 コレガ人ダ コノトキガ女ノ一番

 トホトイトキダ

出典:我が目の悪魔 未解決事件 加茂前ゆきちゃん失踪事件と怪文書

	

「加茂前ゆきちゃん行方不明事件」怪文書

			

増山ひとみさん行方不明事件

原町日の出町の職場を退社後(3週間後に結婚を控え、この日が最後の出勤だった)、行方不明に。

乗用車は同市内スーパーの駐車場に放置されており、所持品や餞別にもらった花束などが全て車内に残されていたほか、車体に中傷の落書きがあった。

婚約が決まってから自宅に無言電話が相次いでおり、失踪当日には職場に女性の声で不審な電話があったという。

その女は増山さんの婚約者の元愛人のようで、増山さんは彼女と何回か電話で話したことがあった模様。

また、翌年1月4日に、中年女性の声で実家に不審な電話があり、この時の会話が録音されている。

行方不明から1年あまりたった後、自宅へ年配の女性から不審な電話がかかってくる。

 ※電話のやりとり

 妹「はい、増山ですが(ひとみさんの妹が電話を取る)」

 女性『もしもし、お姉ちゃんだよ』

 妹「はい?」

 女性『お姉ちゃん』

 妹「誰ですか?」

 女性『お姉ちゃんだよ』

 妹「どちら様ですか?」

 女性『ひとみです』

 妹「は?」

 女性『(無言で電話を切る)』

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嵐真由美さん行方不明事件

1994年(平成6年)9月2日午後7時頃、主婦の嵐真由美さん(当時27歳)が、出産のため戻って 

いた墨田区の実家から外出、当時1歳半の娘を残し、そのまま行方不明・・・。


◆行方不明当日の真由美さんの不可解な言動

事件当日、「同級生と会う」と姉に言い残し家を出た真由美さん。

ところが、行方不明の翌日、真由美さんの姉が同級生に確認したところ、会う約束はしていなかったという・・・。

さらに父によれば、外出前真由美さんは「どこか落ち着きのない様子」だったという・・・。

◆残された“謎のメモ”

真由美さんが行方不明になった日の夜、知人を名乗る男性“A”から、複数回電話がかかって来る。

翌日、姉の洋服ダンスから真由美さんのメモが見つかり、そこには「“A”と付き合っていたかったが、

裏切られた」という内容の文と「ゴメンね」という言葉が・・・。

その日の夜“A”と会った姉が聞かされたのは、「行方不明になった日の昼間、真由美さんと会っていた」と

いうことと、「真由美さんが死んでいたら、罰として刑務所に入るのを望みます」という不可解な言葉だった・・・。

テレビのインタビューを受ける父親の後ろにある本棚に、「洋子のはなしは信じるな」(洋子は不明者の姉の名前)というメモが貼ってある。

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洋子のはなしは信じるな

			

佐藤順子さん行方不明事件

失踪日時:2000(H12).9.12 海外旅行先のスイス・ツェルマットでユースホステルに宿泊していたが、朝食後行方不明に。旅行中は活発に日記をつけていたにも関わらず、失踪前日の9月11日の日記には全く記載がなく、同宿者が普段と異なる順子さんの様子を目撃している。

北朝鮮による拉致の疑いがある特定失踪者リストに入っている。

スイス旅行中に行方不明に。実家に数回、決まって20時30分頃に無言電話がかかってくる。

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ユリア・ブローツカヤさん行方不明事件

北海道稚内市で、通訳をしていたロシア人女性ユリア・ブローツカヤさん(20)が

昨年7月から行方不明になっていることが20日、分かった。

昨年7月2日、住み込みで勤務していた会社事務所で、社長の知人のロシア人男性ら

数人と酒を飲んだあと、3日未明に会社社長の車とともに失跡。

稚内署は家出と事故の両面で捜査していたが手がかりがつかめず、今月13日に

公開捜査に踏み切り捜査を続けている。

同署では当初、車の運転を誤って海に転落した可能性があるとみて、稚内港を

中心に捜査したが、まったく手がかりはつかめなかった。

ブロードスカヤさんがパスポート、貴重品を残して失跡していることから、

何者かに拉致・監禁された可能性もあるとみている。

ユリア・ブローツカヤさん

			
行方不明後、本人から友人宅に「ウラジオストク出身の女性と一緒に監禁されている」と電話。

 また女性の声で別の友人宅に「イクトカ(実在しない地名)17番地にいる」と電話。

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田辺信子さん行方不明事件

信子さんは、義父が無くなった時の遺産相続(義母、義父の預金通帳の管理)のことから、親族の関係者の男性の一人に、たびたび、家に押しかけられ、「殺すぞ」との嫌がらせをうけていました。信子さんの友人といっしょに部屋にいた時にも、その「殺すぞ」と押しかけてきていたので、証言があります。信子さんは、こわくて、警察をよんだこともあります。そしてこわくてマンションを変わろうと別のマンションを探していました。・・・そんな中で彼女は、いなくなりましたが、限りなくその「殺すぞ」という脅しを実行した殺人事件のにおいがあります。しかし、警察は殺人事件の疑いがあるものとしてはとりあわず、その「殺すぞ」とおどしていた人のアリバイも調べていません
行方不明数日後、ワープロ書きの不審な手紙が届く。

 ※手紙の内容

 「私もやっと妻子と別れ、はれて信子と一緒になることが出来ました。ふたりを探さないで下さい」

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永島康浩さん行方不明事件

平成14年4月29日、仕事場を変わりたいような話をしていて、夕方求人広告を見ていた様子。ただ看護師そのものをやめたいとは言っていない。

  4月30日19時頃、本人が母に「レンタルビデオ屋にビデオを返してくるから夕食は帰ってから食べる」と言った。いつもと変わらない様子だった。20時頃、隣の部屋で携帯電話の相手に「今すぐ行く」と言っていたのを父が聞く。明るい感じの声で話していた。その後行方がわからなくなる。

行方不明数ヵ月後。「康浩さんが病院に運び込まれた」と電話があって連絡先を聞くが、その連絡先は繋がらなかった。

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光永マチ子さん行方不明事件

大分県日出町(ひじまち)の主婦・光永マチ子(みつながまちこ)さん(35歳主婦)が、2011年9月12日から消息を絶っている。同町では9月13日にも江本琴音ちゃん(2)が行方不明になっているが関連性は不明。

光永さんの住んでいた場所は今回江本琴音ちゃんの遺体の骨が発見された大神町である。


光永マチ子さんの行動


午前9時45分頃 

小学校から連絡があり、長女の前歯が欠けたため迎えに小学校へ。


午前10時すぎ

小学校で長女を引き取り歯医者へ。

一緒に歯科医院へ行って治療を終えた後、近くのスーパーへ寄っておりスーパーの防犯カメラには、2人がお茶などを買う姿が映っている。


午前11時30分頃

長女を小学校に送り届けた後、行方不明になる。


光永マチ子さんが失踪したときに自宅からなくなっていたものがある、それは自宅と車のカギ、いつも持っている、モノトーンのポーチ、財布などが入っていたバッグ、マチ子さんの使っていた枕、長女がタオルケット代わりに使っていたバスタオルである。

室内は荒らされた様子はないが、鍵が開いたままで普段から几帳面だったマチ子さんが鍵をかけずに外出することは考えられないという。

車の鍵はなくなっていたが、車はそのまま置いてあった、冷蔵庫にはスーパーで買ったお茶が飲みかけの状態で残っていたことなどを考えると、突然の来客があり、連れ去られた可能性が高いのではないか?

行方不明1ヶ月後、女性の声で「助けて…」という電話が自宅にかかってくる。

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