日本で起きたカニバリズム(食人)事件
意外に多い日本でのカニバリズム(食人)事件
カニバリズムとは
カニバリズム(英: cannibalism)は、人間が人間の肉を食べる行動、あるいは宗教儀礼としてのそのような習慣をいう。食人、食人俗、人肉嗜食、アントロポファジー(英: anthropophagy)ともいう。なお、文化人類学における「食人俗」は、社会的制度的に認められた慣習や風習を指し、一時的飢餓状態下の緊急避難的な場合や精神異常による食人を含まない。また、生物学用語では種内捕食(いわゆる「共食い」)全般を指す。
少年臀肉切り取り事件(1902年3月)
1902年3月27日、東京・麹町区下二番町で、同町に住む小学生・河井惣助(11)が圧殺され、臀部左右の肉を削ぎ取られる事件がおこった。
麹町署では、臀部・踵の肉は興奮剤や薬用として効果があるという迷信から削ぎ取ったのではないかとみて、
直ちに非常線を張って犯人の逮捕にあたったが、捕まえることができなかった。
約3年後の1905年5月25日、薬店店主殺し容疑で逮捕された野口男三郎(36)が、臀肉事件の犯人として浮上。
野口男三郎は大阪生まれ、東京外国語学校へ通っているうち、麹町区下六番町に住む漢詩人・野口寧斎の家に出入りするようになり、
寧斎の妹の婿養子となった。寧斎はレプラ(らい病)患者だった。
警察の取り調べに対して男三郎は、レプラには人肉を食べさせるとなおるという迷信を信じて、惣助を殺し、
人肉ス-プにして寧斎と妻に飲ませたと自供した。
ところがその後、その寧斎も不審な死に方をしたので警察は、男三郎が東京外国語学校を落第して
退学させられていたことを知った寧斎が男三郎と妹を離縁させようとしたため、
それを恨んで5月12日、病弱だった寧斎を病気で死亡したように装い毒殺したものとみて厳しく追及、男三郎も犯行を認めた。
1906年3月19日、東京地裁で行われた公判で男三郎は、無実を主張、臀肉事件と寧斎殺しについては犯行を否認。
5月16日、臀肉事件と寧斎殺しは証拠不十分、薬店店主殺しで死刑判決。1908年7月2日、死刑が執行された。
首なし娘事件(1905年7月/1906年8月)
1932年2月8日、愛知県名古屋市日比津野字野合(現在の中村区米野町)にある鶏糞小屋で、小屋の所有者の長男が、若い女性の腐乱死体を発見した。
遺体には首がなく、警察が検証のため遺体の着物を開けると
乳房とへそ、陰部がえぐり取られていた。
遺体のそばにあった遺留品から、遺体の身元は岩田ますえ(19歳)であることがわかった。
さらに、遺留品にあった和菓子職人 増淵倉吉(43歳)への手紙の文面から
二人は恋愛関係にあることが容易に推測でき、警察の聞き込み調査により
東京から舞い戻ってきた倉吉とますえが、最近旅館で頻繁に合っていたことがわかった。
警察は、倉吉を指名手配して行方を追い始めた。
2月11日、木曽川河原で、ますえの頭部を発見。
ますえの頭部は、頭皮と毛髪が剥ぎ取られている上
両目もえぐり取られているという凄惨なものだった。
そして、3月5日、掃除のために別棟の物置を明けた
茶店「見晴屋」の主人が、死後1ヶ月ほど経過している
腐乱した首吊り遺体を発見した。
ぶら下がっている遺体は中年男性であったが
その異様な姿には、誰もが目を疑った。
女性の毛髪が継いた頭皮を頭から被り
女性用の毛糸の下着と洋服を身に付け
手にはますえの遺留品である赤い手袋をはめていた。
ポケットに入っていた女性ものの財布の中には
眼球が入ったお守りが収められていた。
さらに小屋の中を捜索すると
冷蔵庫の中にますえの体から切り取った乳房と局部が置かれていた。
言うまでもなく、この首吊死体は倉吉であった。
出典:首なし娘事件(増淵倉吉)
少年生胆取り殺人事件 崔東雲(24) 愛知/天白(現名古屋)崔はカニとりをしている少年(9)に声をかけ自転車で連れ去り、殺害して胆嚢を取り去った。
崔はハンセン病にかかっており、胆嚢がハンセン病に効くという迷信から犯行に及んだものと思われる。
崔は逮捕直前に逃げ出して列車へ飛び込み自殺した。
小笠原(父島)事件(1945年2月)
戦争末期で空襲が激しく行われていた小笠原諸島・父島には、陸軍・立花芳夫中将指揮の混成第一旅団と、海軍の森国造中将指揮の父島方面特別根拠地隊が駐留していた。
陸海軍高級将校達は連日酒宴を開いていたが、ある日酒乱で気の荒い立花芳夫中将と的場末男少佐が、
墜落した爆撃機から捕えた米軍捕虜の肉を食べて戦意高揚を図ろうと、軍医に捕虜の解体を命じた。
針金で大木に縛り付け、「日本刀の凄みを披露する絶好の機会じゃ」と試し切りの希望者を募って殺害する。
その後解体して宴会のつまみにした。米兵の手足の肉や内臓を立花が食べると、
「これは美味い。お代わりだ」とはしゃいでいたという。
戦後事件が発覚し、立花ら4名の将校は絞首刑。他に関係した者が終身刑や懲役刑となった。
立花と的場は死刑執行されるまで、米軍から激しい虐待を受けたという。
なお、墜落した爆撃機のパイロットの中に後のアメリカ41代大統領、ジョージ・ブッシュがいた。
彼は海にパラシュートで落ちて、味方の潜水艦に救助されたことで、食べられることをまのがれたのである。
先妻知的障害連れ子殺人・人肉食事件(1945年2月)
夫婦で怠惰な生活を送っていて食べるものに困っていた江藤まつ(32)は、幼い子供たちからのおなかがすいたという訴えに窮し、日ごろから冷たくあたっていた夫の先妻の連れ子で、知的障害のある次女(17)を殺害して食べさせることを計画。夫が不在時に子供達を外出させ、次女を立たせて後ろから窒息死させる。バラバラに解体した後に、胴体をぶつ切りにして骨皮つきのまま鍋で煮込んで、山羊の肉とだまして子供と夫に食べさせ、自分も食べた。
内臓や頭・手足は庭に埋めた。肉は3日間に食べ続けた。11月になって次女の姿が見えないことを不審に思った駐在の追及から発覚。懲役15年。
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