子供たちを拷問し続けた少年「ジェシ・ポメロイ」とは

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ジェシ・ポメロイ

ダリオ・アルジェント監督のホラー映画『フェノミナ』には、最後に兎唇で白眼のお子さま殺人鬼が登場する。そこで思い出されたのがこのジェシー・ポメロイである。この14歳の殺人鬼も兎唇で片目が白濁していたと伝えられているのだ。ところが、逮捕当時の似顔絵を見ると兎唇ではない。晩年の写真が残っているが、口髭のために兎唇であるかは判らない。一見普通の顔であり、『フェノミナ』のような化物ではなかったのだ、実物は。

出典:殺人博物館〜ジェシー・ポメロイ

	

ジェシー・ポメロイ

 Jesse Pomeroy (アメリカ)
ジェシ・ポメロイは1859年、11月29日にボストンで生まれた。

 ポメロイは赤ん坊の頃から体が弱く、また1歳にもならないうちに患った熱病のため、片目が真白に濁っていた。一説には兎唇でもあったというが、ともかく美しい子供でなかったことは間違いない。

 大酒飲みで癇癪持ちだった父親は、しばしば彼を、

「醜い、見るのもいやだ」

 と言って殴った。

 この虐待によりポメロイの肌にはストレス性の湿疹が吹き出し、頭痛と不眠にも悩まされるようになった。

 彼には4歳上の兄がいたが、兄もポメロイほどではないがやはり父親に殴られて育っていた。ただポメロイと違うところは、彼には憂さを晴らすためのサンドバッグである「弟」という存在があった。

 そしてこれは母親も同様であった。

 醜く、おどおどしたポメロイは父母と兄に殴られ、蹴られ、打ちすえられながら育った。

 つねに暴力への恐怖にさらされていた彼の体は緊張でこわばり、動作はぎこちなくなり、姿勢は極端に曲がって歪んだ。歩き方は「もつれるよう」だったという。

 本来ならばもっとも愛くるしい時期であるはずの4、5歳の時点で、ジェシ・ポメロイは、

「片目は真っ白く濁り、ぎくしゃくとロボットのようにしか動けず、肌は湿疹と瘡蓋だらけで、絶えず体の不調を訴える猫背の醜い子供」

 であった。


 父に殴られている兄と母が、ポメロイをサンドバッグにしたように、彼もやがて自分の怒りの捌け口を見つけるようになる。

 それはもちろん自分より弱いものでなくてはならなかった。

 5歳のポメロイは猫をナイフで刺し殺し、小鳥の首をひねって殺した。連続殺人者の幼児期によくみられる、典型的な小動物虐待行為である。

 シリアル・キラーの特徴としては他に「放火、夜尿症、過度の夢想」などがあるが、彼の場合は動物虐待と夢想癖が顕著であった。彼はひとりの友達もなく、学校をずる休みし、夢想にふけった。

 父親はそんな彼を見て激昂し、服を脱がせて、裸にした上で鞭打った。

 ポメロイは幾度も家出をした。しかしそのたびに連れ戻され、さらなる激しい折檻を受けた。

10歳になった時点で、ポメロイの夢想はすでにひどく嗜虐的なものになっていたようだ。

 彼は「カウボーイごっこ」をしている子供達の仲間に入り、インディアン役になってカウボーイ役の子供を拷問したがった。しかし明らかに彼の様子は異様で、拷問役が活躍するくだりになると奇妙な陶酔状態に陥ったため、すぐに子供達は彼を不気味がって近づかなくなった。

 仕方なく彼は遊びを諦め、母親の財布から金をくすねて、残虐なシーンの出てくる小説を買ってこっそり読みふけった。

 当時の同級生の言葉によると、彼は

「誰かをいたぶるとか、いじめるとか、そういう話題以外はまったく興味がないようだった」

 という。

 またこの時期、ついに夫からの暴力に耐え切れなくなった母親が家を出ていき、家には暴君の父親と、その小型版でしかない兄と、ポメロイとが残された。

 ポメロイはますますサディスティックな夢想の世界へ閉じこもっていくことになる。



 彼が最初に、年少の子供に拷問したのは1871年のことだとされている。

 ここであらかじめ説明させていただくが、ジェシ・ポメロイは19世紀の殺人者であるため資料が少なく、情報もまちまちである。

 拷問して片っ端から殺したという説もある一方で、ほとんどは拷問しただけで逃がし、殺害したのは2人だけだという説もある。今回は、より信憑性がある(と思われる)後者を紹介させて頂きたい。

12歳のポメロイは、3歳の男児を物陰に誘い込むことに成功した。

 彼はそこで男児の服を脱がし、手首を天井の梁へ括りつけて吊るした。男児が恐怖で泣き出すと、ポメロイは人生で初めての充足感を覚えた。

 自分より弱いものが今、自分の目の前で、自分に怯えて泣いている。

 これこそが彼の求めていたものであった。

 ポメロイは男児の裸の背を心ゆくまで棒切れで打ち据え、やがてオーガズムに達すると、逃げ去った。

 男児は、泣き声を聞きつけた通行人によって助け出されたという。わずか3歳の子供は犯人の特徴を言うこともできず、恐怖に震えるばかりであった。


 2ヶ月後、7歳の男児が被害にあった。

 前回と同じように天井から吊るしたが、ポメロイは狡猾さを増しており、今回は被害者に猿轡をかませることを忘れなかった。彼は声を発することのできなくなった犠牲の前で有頂天になり、高笑いし、嘲りの言葉を浴びせながら棒切れをふるった。

 男児は背中を血が出るほど殴られただけではなく、歯を数本叩き折られた。「性器を切り落としてやる」とも言われたという。


 さらに3ヶ月後。

 今度の被害者は8歳の男児であった。

 ポメロイは彼を池で溺死させたかったのだが、抵抗にあったので今回も物陰に引きずりこみ、柱に縛り付けた。そして被害者に卑猥な言葉を言うよう強要し、棒切れで所かまわず叩きまくった。

 ポメロイは彼を痛めつけながら自慰し、オーガズムに達すると、ただちに興味を失ってその場を去った。


 2ヵ月後。

 ポメロイはすぐ近隣の7歳の男児を襲った。

 すでにもう相手を選んではいられないほど、嗜虐の欲求が高まっていたのである。彼は「ボタンをはずすのももどかしい思いで、男の子の服を引き裂き」、やはりこれまでの被害者と同じように吊るして、打ち据えた。

 暴行の手口は明らかにエスカレートし、回を重ねるごとに被害者への虐待は苛烈なものとなっていた。

 このときもオーガズムに達してすぐ、ポメロイは被害者を残して逃げている。すぐ近隣の子供であり、ひょっとしたらこの男児はポメロイの顔を見知っていたかもしれないのだが――残念ながらこの犯行の1週間後、ポメロイは兄とともに母親に引き取られ、引っ越した。

当然のことながら、住居を変えてもポメロイの性癖は変わらなかった。

 前の犯行からほぼ1ヶ月後。

 彼は7歳の男児を捕まえ、服を脱がせて猿轡をかませ、縛った。今回は殴打するのに棒切れではなく、ベルトのバックルを使った。それはポメロイの父親がやるお気に入りの折檻の手口だった。

 ポメロイは「これからお前を噛んで、肉を噛み千切ってやる」と言いながら男児の顔や尻に噛み付き、「次はお前に針を刺してやる」と宣言してから、脇の下や腕の内側など、柔らかい部分を狙って縫い針を突き刺しまくった。

 なおベルトでの殴打以外のこの手口が、ポメロイ自身がされていたものなのか、それとも小説等で仕入れた知識なのかは不明である。


 犯行の間隔は次第に狭まっていく。

 2週間後、彼は6歳の男児を捕まえ拷問した。

 ポメロイはこの時はじめてナイフを使い、被害者を切り付け、性器を切り取ろうとした。だが幸いにもそれは成功しなかった。

 これで犠牲者は6人。ポメロイはまだ12歳で、孤独で学校嫌いではあったものの、まだ表面的には正常に見えた。


 翌週、7歳の男児が捕まえられた。

 この男の子は歯を何本か折られ、鼻骨を叩き折られ、ナイフで顔と太腿を切られたという。ポメロイは犯行の間じゅう、ずっと被害者を嘲り、狂ったように高笑いしていた。


 6日後。

 ポメロイは5歳の男児を線路のポールへ縛りつけ、服を引き裂いた。

 彼は男児の顔をナイフで切り付け、流れ出した鮮血によって明らかな興奮状態に陥った。ポメロイは「殺してやる、お前をこれから殺してやる」と言いながら、5才児の喉笛を切り裂こうとしたが、鉄道員に発見されて逃げ出した。

 そしてそのとき初めて、彼はその特徴的な外貌――特に白濁した片目――を目撃されることになる。

ポメロイのモンタージュは、あまりに特徴的に過ぎた。

 彼はすぐに逮捕され、あっけなく自白した。

 が、数時間後にそれを撤回し、「僕は無実だ」と訴えた。

 もちろんそれは誰にも信用されず、少年院送りに決定することになるのだが、ジェシ・ポメロイはもうすでに矯正不能なほどの嗜虐者であった。彼は院内で、懲罰の鞭を受けた少年のあとを付け回し、

「何回ぶたれたの。どんな感じがした? どんなふうに痛かった?」

 と執拗に訊いたという。そしてそんな時のポメロイは、明らかに傍目にも興奮していた。

 しかし異常者ではあるものの決して低能ではなかったポメロイは、模範囚となり、わずか17ヶ月で釈放された。



 院から戻った時、ポメロイはまだ14歳でしかなかった。

 彼は母親の洋裁店と、兄の新聞売りの仕事を手伝うことになった。彼は勤勉で、おとなしく、反省しきって弱々しくさえ見えたという。

 相変わらず彼は醜く、おどおどしていて、ひどい猫背でうつむきながら歩いた。

 彼は生涯、まともに大人の目を見ることができなかった。彼がまっすぐ見ることができたのは明らかに自分より非力な子供であり、特に「縛られ、恐怖に塗りつぶされた子供の眼」だけであった。


 退院後、たった1週間でポメロイは衝動に耐えられなくなった。

 彼は母親の洋裁店に買い物に来た10歳の少女を、「きみの欲しいものは下の階にあるよ」と騙し、階段を下っていく途中で彼女の喉を切り裂いた。

 ポメロイは少女の死体から服を脱がせ、幾度となく突き刺し、性器を切り取ってから、地下貯蔵庫へ隠した。

 これはポメロイにしては珍しい、まったく無計画な衝動的犯行である。それまでの彼は、子供を捕まえるときには必ず責め具一式(ロープ、猿轡用ハンカチ、鞭打ちに使うベルトや棒)を用意してから犯行に臨んでいたし、しかも被害者はすべて男児だった。

そのときまでポメロイの中で被害者はずっと、ただの「鞭打たれる無力なジェシ・ポメロイ」の延長戦上にしかなかったのかもしれない。

 だからこそ殴打されるのは男児でなくてはならず、嘲られ、侮辱されながら痛めつけられるのでなくてはならず、裸にされてから打たれなくてはならなかった。

 ポメロイに必要だったのは、「自分よりもっと無力な、自分の身代わりになるジェシ」であって、惨めな幼少期を過ごしながらも何とか生き延びた彼が、ここで適切な治療さえ受けていたなら、殺人までのエスカレートは有り得なかったのかもしれない。

 しかし、彼はこの犯行によって明らかに一線を越えた。

 過去の拷問事件を見てもわかるように、彼の暴行は回を追うごとに激しさを増し、間隔を狭めていた。止めるものは何もなかった。

 その犯行はあまりに幼い頃から始まっており、高まる性欲とともに、急カーブを描いて衝動は上昇しつつあった。

 ともあれ後年の我々としては、彼の犯行動機のほとんどすべてを想像の上で語るほかない。

 1870年代当時、彼を犯罪心理学的に分析してくれる者はまだ誰もいなかった。


 

 第1の殺人から5週間後、ポメロイは4歳の男児に目をつけた。

 男児は沼地に誘い込まれ、下半身を裸にされてナイフで切り裂かれた。ポメロイは被害者の睾丸をほとんど去勢しかけ、それから喉を切り裂いた。首が切断させるほどの勢いだったという。

 だが今度こそ、ポメロイは逃げることができなかった。

 小さい男の子の服を脱がせ、切り裂き、去勢しようとする――そうそうある手口ではない。

 警察はすぐに、過去に同じような前歴をいくつも抱えたポメロイを逮捕した。


 なお、19世紀当時ですらマスコミや世間は、彼の犯行の原因を「ポメロイが読みふけっていた、残酷描写のある小説」にのみ求めようとしたという。

 今も昔も、何ら変わりのない図式であると言えよう。

 新聞の一部では

「ジェシ・ポメロイの親がちゃんと彼に普段から懲罰を与え、鞭を惜しんでいなければこの犯行は無かっただろう」

 とまで評したらしい。

 現実には、ポメロイはこれ以上ないほどに絶えず打ちのめされてきた子供だったのだけれど。

収監後も、彼はやはり嗜虐的な夢想から抜け切ることはできなかったようだ。

 隣の房の囚人にせっせとメモを書き送り、

「学校ではやっぱり鞭打たれてたかい? 親には殴られた? どんな気持ちがした?」

 と執拗に尋ねていたという。

 ポメロイはあまりにも危険な囚人だったため独房に入れられた。彼はそこで2度脱獄をはかったが失敗し、3度目にはスプーンで壁石のひとつをゆるめ、ガス管に到達することができた。彼はガスを出し、耐えられるだけ耐えてから、隠し持っていたマッチを擦った。

 爆発が起こった。しかし彼も壁に叩きつけられて意識を失ったため、脱獄は失敗した。


 彼は独房で41年間を過ごした後、ようやく他の囚人たちとともに運動する権利を与えられたというが、これは恐るべき精神力と言わざるを得ない。

 40年もの間、独房での禁固生活を強いられたなら普通の人間は完全に発狂してしまう。

 長く孤独な状況に置かれると、チンパンジーでさえしまいには餌よりもコミュニケーションを欲するようになる、というのは有名な話だが、41年というのは実際、そんな実験も及ばぬほど途方もない年月である。

 しかしさらに12年間を、ポメロイはほとんど孤独のままに過ごした。

 彼には親しい囚人など、一人も出来なかったからだ。


 時代は1920年代に入り、世論は博愛をモットーとする理想主義的なものへ変わりはじめた。

 その一環として、ジェシ・ポメロイの待遇改善も求められるようになった。

 ただしこの移送をポメロイ自身が望んでいたかどうかは定かではない。彼は50年以上住み慣れた独房を退去したがらず、しばらくは頑として拒み続けていたらしい(もちろん待遇は転居後の方が格段に良かったのだが、生まれてからずっと快適な場所にいたことのなかった彼が、『どこにいたってどうせ同じだ。それなら住み慣れた場所の方がまだマシだ』という思考に到るのはさして不思議ではない)。


 

 ポメロイが精神科治療施設のあるブリッジウォーターの刑務所へ移送されたのは1929年のことである。

 すでに彼は70歳になっていた。そして明らかな異常者でありながら、この時まで精神科での治療を受けたことは一切なかった。


 彼は刑務所にいる間、誰とも仲良くならず、誰にも笑顔を見せず、精神状態は悪化の一途をたどるだけだったという。

 そして老化により体は弱っていく一方だったが、それにも関わらず、「脱走してやる。逃げてやる」と絶えず看守に脅し文句を怒鳴っていた。ポメロイの一生はただ悪意と敵意だけに染まっており、そのまま終わった。

 同じく強烈な敵意に人生を染めたシリアル・キラーにカール・パンズラムがいるが、彼は少なくともレッサーという知友を得て人生に最後の光を得ている。

 しかしポメロイの人生に、その光は絶えてなかった。


 ジェシ・ポメロイが息をひきとったのは1932年9月29日。

 73歳の誕生日を目前にしており、死因は心臓発作だった。

出典:

	

ジェシー・ポメロイ(晩年)

			

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