戦後日本の女性死刑囚まとめ
小林カウ(ホテル日本閣殺人事件)
1908年、Kは埼玉県大里郡玉井村(現・熊谷市)の農家に7人兄弟の5番目の次女として生まれた[1]。小学校を4年で終えて、5年ほど家事を手伝ったのち、東京・本郷の旅館に女中奉公に出た。1930年、22歳の時、姉の口利きでH(当時27歳)という男と見合い結婚したが、Hはいくつも持病を抱えていた。2人は熊谷市内で雑貨屋を営んでいたが、そのうち経営が悪化、2人は東京近辺を転々としてまわった。
終戦後、2人は熊谷で自転車のタイヤのブローカーを始めた。またKは内職を始めたほか、観光地向けの土産物製造卸売りを始め、病気がちな夫に代わり生計を支えた。この頃からKは金を稼ぐ楽しさを知ると共に、品物を仕入れる際には代金の替わりに自分の体を提供するなど好色の面も芽生えていた。商才を開花させて金を溜め込むうちに物欲は膨らむ一方だった。
この頃、Kは近くの交番に勤務する巡査・N(当時25歳)と知り合い、恋仲になった。独身ですらりとしたNと関係を重ねるKは、彼と一緒になりたいと考えるようになる。
そんな中、1952年10月2日、Hが突然異様な唸り声をあげて急死した。その声に驚いた隣人が駆けつけると、KはHの死に顔を撫でていたという。Hのかかりつけだった医師は、保健所の医師立会いの元で脳出血と診断した。2人はたびたび派手な喧嘩をしていたことから、近所でもその死を疑う噂が流れたが、病死と断定され捜査は打ち切られた。
その後、KはNと自宅で同棲を始めるが、Nは以前からの素行の悪さを理由に11月に懲戒免職となってしまう。Kは翌年、Nの家に移り同棲を続けたが、その関係は2年で終結した。Nは母親ほども年の離れたKに嫌気がさしたのか、彼女を追い出して若い娘と結婚した。
その後、Kは姉の家が経営している辛子漬けの卸売を受け持った。積極的な気性もあって商売を順調に進めるKは近県の温泉地を訪れるうちに、1954年、栃木県那須塩原市の塩原温泉郷に落ち着いた。
Kは塩原の住人ともすぐ馴染みになり、商売も繁盛した。1956年の春、Kは町内の小店を一軒1年分の家賃を前払いして借り、物産店の商売を始めた。さらに翌年春には隣りの店を買いとって食堂を開き、姉夫婦に経営を任せた。両方の店の売上は伸びて預金や資産も増え、土地も買えるほどになっていった。しかし、Kはさらに温泉宿を所有したいという野心を持つようになっていく。
1958年秋、Kは「ホテル日本閣」が安値で売りに出ていることを知る。「ホテル日本閣」は名前こそ立派だったが、三流の小さな旅館だった。この日本閣が経営不振により300‐400万円で売却されるというもので、Kは早速主人のAと交渉したが、彼はKに売る気がなく、話はいったん立ち消えた。しかし、翌年になって経営がさらに苦しくなると、AはすぐにKに融資をもちかけてきた。この時の条件は、Aの妻・Bに対する手切れ金50万円を出してくれれば、後妻に迎えてやるというものだった。しかし、Kが手切れ金を30万円に下げたところ、Bは50万円を譲らなかった。そこで手切れ金を出すのが惜しいと考えたKはBの殺害を決めた。
1960年1月中旬、Kは日本閣の雑用係をしていたO(当時36歳)にB殺害を命じた。KはOに「手間賃2万円、成功したら抱いてやる」と言って手をとり股にはさんで誘惑したという。2月8日夜、Oはひとり寝ていたBを麻紐で絞殺した。遺体はOがさらに手間賃1万円を受けとって、元ボイラー室の土間に埋めた。
しかしこの後、町では「Bは殺された」という噂が流れ始めた。噂を聞いたKはOに命じてボイラー室の床をコンクリートで塗り固めた。すると今度は「ボイラー室に埋められている」という噂が流れた。3月中旬、K・O・Aの3人はコンクリートの床を再び掘り返し、遺体を裏の林の中に運んで埋めなおした。
だが、1960年の12月31日、今度はAがKとOにより殺害される。KがB殺害直後、登記所に行ってみると、自分の名義になっているはずの新館が旧館とともに近々競売にかけられることになっていることが分かったからである。増築などで200万円ほど注ぎ込んでいたKはこの裏切り行為に怒り、Aの殺害を決めた。今度は報酬と日本閣の亭主というエサでOを釣った。当初は毒殺を計画し、12月中旬、塩酸をAの食事や酒に混ぜたが、味がきつすぎたのか吐き出して失敗した。そこで次なる計画を立て、大晦日の午後5時過ぎ、Kは夕食の仕度で台所に立つふりをして忍び足で戻ると、背後から帳場の炬燵で寝ていたAの首を細紐で絞めた。そこへOがAに飛びかかって押し倒し、さらにKが差し出した包丁を必死に抵抗するAの首に刺し、とどめをさした。翌1961年1月1日、年賀の客がやってくると、Kは「Aは東京に金策に行きました」と話していた。
しかし、Aの殺害後、町では「AはKに殺された」という、前よりもまことしやかな噂が流れた。ついに新聞もAとBの失踪を取り上げ、警察も動き出した。2月19日、KとOは逮捕された。Kは2人の殺害だけでなく、かつてNと共謀して夫Hを青酸カリで毒殺したことも自白した。これによりNも逮捕された。Kは逮捕後も男好きの病気は治らず、取調官に「死刑だけはかんにんしてね」と愛嬌をこめて言うなどして誘惑していた。
杉村サダメ(女性連続毒殺魔)
1960年(昭和35年)、借金が16万円ほどあった杉村サダメ(当時46歳)は、その返済に迫られていた。姑B子の殺害
11月6日、サダメの家に姑のB子が訪ねて来た。サダメはB子の好物の乳酸飲料に農薬を混入して飲ませ、殺害。B子の持ち物を物色したものの、現金は持っていなかったため、金策には失敗した。
医者はB子の死を脳卒中と診断し、犯行は明るみに出なかった。
主婦C子の殺害
12月、サダメは隣家の主婦C子を殺害して現金を奪う計画を立てる。
12月14日、隣家を訪れて農薬を塗った馬肉を食べさせて殺害。しかし、この時もC子が現金を持っていなかったため、金策は失敗。
医者はC子の死を脳卒中と判断し、犯行は明るみに出なかった。
行商人D子の殺害未遂
12月17日昼頃、顔なじみの依頼行商人D子に農薬入りの鯛味噌を食べさせる。薬の量が少なかったためか死に至らなかったが、D子は植物状態になった。この時は1万3500円を奪う。
行商人E子の殺害
12月28日、行商人E子を農薬入り納豆で殺害し、15円を奪う。
逮捕、死刑判決、死刑執行
1960年
12月29日、警察による家宅捜索の結果、杉村サダメ宅の台所にあった納豆、鯛味噌から高濃度の農薬を検出した。また被害者の司法解剖で有機リン酸の反応を検出した。サダメは4件の事件の関与を自供した。
1963年
3月28日、死刑確定。戦後の女性死刑囚としては、1951年に確定した「菅野村強盗殺人・放火事件」以来、2人目である。
1970年
9月19日、死刑執行。戦後の女性死刑囚の死刑執行は、「ホテル日本閣殺人事件」以来、2人目である。
日高信子(夕張・保険金放火6人殺人事件)
暴力団誠友会系日高組の組長である日高安政(逮捕当時41歳)とその妻信子(逮捕当時38歳)は1970年より夕張炭鉱への労働者派遣を請け負っていたが、社長である安政は暴力事件や覚せい剤所持などで社会と刑務所を行き来し、倒産と再建を繰り返していた。そんな状況を一変させたのが1981年(昭和56年)10月に発生した北炭夕張新炭鉱ガス突出事故であった。派遣していた鉱夫の半数近くを失う大打撃を受けたが、事故後多額の保険金が会社に振り込まれてきたのである。鉱夫の遺族に支払われた分を除いても夫婦の手元に残った金は1億円以上に上ったという。突然取得した多額の金銭に麻痺した夫婦は海外旅行や高級車の買いあさり、自宅の新築などの浪費を重ね、わずか2年ほどの間に使い果たしてしまった。70年台から閉山が相次いでいた夕張の炭鉱業が新炭鉱での事故後一気に衰退したこともあって、夫婦は生活に困窮。保険金詐欺の計画を立案するに至る。1984年(昭和59年)5月5日夜、夕張市内の炭鉱労働者のための宿舎の食堂から出火し、宿舎内にいた子供2人を含む6人が焼死し、消火活動をしていた消防士1人も宿舎の崩壊に巻き込まれて殉職する惨事となった。
当初は不慮の事故として、保険会社は当該宿舎の所有者であった日高夫妻に対して火災保険金及び死亡保険金として約1億3千万円を支払った。
しかし実際には、日高夫婦が、同社の従業員男性I(本人も火災で重傷を負った)に報酬を約束した上で放火させた事件であった。しかし犯行後も約束された報酬は一部しか支払われず、Iはそのことに対する不満、また口封じされることへの恐れから警察に自首し、事件が明るみに出た。
山本宏子(兵庫・菅野村老婆殺人事件)
昭和24年6月10日午前1時頃、兵庫県菅野村の主婦・山本宏子(当時34歳)は同村の天見福松宅に忍び込み金目の物を物色中、福松の妻・かね(当時69歳)に「見られた」と思い込み持参した鎌で就寝中のかねを突き刺して殺害した。その後、現金1万8000円と衣類・雑貨類100点余りを盗んで逃亡した。その際、証拠隠滅のため近所から落ち葉を拾い集めて死体をかぶせた布団の上に置き火を点けた。山本は、父無し子として育った。福松は不憫に思い実の娘のように可愛がり、山本も実の父親のように慕った。福松は、事件以前から肺結核をわずらい自宅1階で病臥していた。妻のかねは、感染を嫌って2階に別居しており夫婦仲は冷め切っていた。
事件の1日前、山本は生活苦のため借金を頼みに福松宅へ訪問した。が、かねは山本を罵倒するだけで話にならなかった。足を棒にして心当たりを歩き回ったが結局金はできなかった。虚しく自宅に戻ると病身で失業中の夫から「また借金返済の催促があった」と告げられた。この頃、山本は4人の子供を抱えており、闇米屋などして窮地をしのいでいたが、万策尽きた状態であった。そこで、恩人である福松宅に窃盗目的で侵入し、かねを殺害したのだった。
自宅が全焼する前に逃げ出した福松は、犯人は「山本宏子」であると直感した。このため妻殺しと放火は「自分の犯行である」と警察に自供し山本をかばった。しかし、その福松は事件から3日後に病死した。
事件から5日後の15日、警察は山本の犯行とみて殺人及び放火の容疑で逮捕した。警察の取調べに山本は素直に自分の犯行であることを認めた。同年12月26日神戸地裁姫路支部は山本に死刑を言い渡した。昭和25年9月大阪高裁は山本の控訴を棄却。昭和26年7月10日最高裁も一審を支持して山本の死刑が確定した。ここに、戦後女性死刑囚第一号となった。
諸橋昭江(自殺偽装夫殺害事件他)
昭和49年8月8日夜、東京都江東区のバー経営者諸橋昭江(当時42歳)は、家庭内のトラブルから夫Aさん(当時47歳)を殺害しようと計画。愛人関係にあった店のバーテンBと共謀して、Aさんが就寝中であることを確認してからガスの元栓を開けて二酸化中毒死させた。更に遺体を風呂場に運び、入浴中に誤って中毒死したように偽装した。警察は、事故死として処理した。それから4年後の昭和53年4月24日、諸橋の店で働いているホステスから、内縁の夫Cさん(当時36歳)と別れたいと相談があった。そこで、諸橋は夫の殺害を事故死に偽装して成功したことを打ち明けて、Cさんを殺害し保険金を分配しようと持ちかけた。ホステスと同店のパーテンDが同意し、諸橋と諸橋の愛人Bの4人でCさんを江東区の埠頭に誘い出して、睡眠薬入りのドリンク剤を飲ませて絞殺。遺体は近くの草むらに遺棄した。
警察は、Cさんの遺体を検死した結果、殺人事件と断定。身元の確認を急いだ。その結果、ホステスと諸橋が捜査線上に浮上し逮捕した。諸橋は、警察の取調べ中にCさんの殺害を認め、更に元夫のAさん殺害も自供した。
昭和55年5月6日、東京地裁は諸橋に死刑を言い渡した。すると諸橋は一転して元夫のAさんは「ガス自殺で死んだ」と主張。夫殺害に関しては容疑を否認した。昭和61年6月5日、東京高裁は一審を支持して諸橋の控訴を棄却。平成3年1月31日、最高裁は一審、二審を支持して諸橋の上告を棄却。死刑が確定した。尚、バーホステスは懲役18年、パーテンDは同10年、愛人のパーテンBは同9年が確定している。
平成19年7月17日、急性心筋梗塞で入院していた諸橋は、肺炎を併発して病死した。享年75歳。
永田洋子(連合赤軍)
永田 洋子(ながた ひろこ、1945年(昭和20年)2月8日 - 2011年(平成23年)2月5日)は、日本のテロリスト、新左翼活動家。連合赤軍中央委員会副委員長を務めた。リンチ・殺人で死刑が確定していたが、執行前に病気のため獄死。東京都本郷区元町(現・文京区本郷)出身。生まれた2ヵ月後に横浜市港北区綱島に疎開し、小学校4年までは父親が勤務する電機会社の寮に住んでいた。調布学園中学校・高等学校(現・田園調布学園中等部・高等部)を経て1963年に共立薬科大学(現・慶應義塾大学薬学部)に入学、在学中に共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(社学同ML派)の活動に参加するようになり、1964年5月に社学同ML派に加盟する。1967年の卒業後は慶應義塾大学病院の研究生となり、同病院の薬局で無給の医局員を務めた後、東京都品川区の三水会病院や済生会病院に勤務。この間、1967年5~6月頃、かつて社学同ML派に参加していた縁で社学同ML派元幹部河北三男と川島豪による分派「警鐘」にオルグされ参加、女性解放問題やボーナス団交などの労働運動にかかわり一定の成果を挙げるが、その後組織からの指示と本人の希望で仕事をやめ活動に専念するようになる。
その後、「警鐘」と日本共産党を除名された神奈川県の親中国派が合同した日本共産党(左派)神奈川県委員会を経て、河北三男と川島を指導者とする日本共産党(革命左派)神奈川県委員会のメンバーとなる。革命左派(京浜安保共闘)では、石井功子、川島陽子とともに「京浜安保のおんな3戦士」と呼ばれた。「警鐘」に端を発する河北三男、川島グループの活動家としては古参に属するが、有力メンバーとは見なされておらず、正式な党員として認められたのは1969年4月の革命左派結成時とかなり遅かった。
1969年末の川島豪議長らの逮捕以後は、獄外指導部のメンバーの一人となる。1970年9月には指導部の投票により最高指導者となる。当時、永田は最高指導者にふさわしい人物とは見なされていなかったが、機関紙が書ける、重役についていないので余裕がある、(他のメンバーが)自分はやりたくない、といった理由で最高指導者に選出された。指導部は引き続き集団指導体制であった。永田はその後、指導部の最高責任者として上赤塚交番襲撃事件や真岡銃砲店襲撃事件に関与。印旛沼事件では元同志2人の殺害を指示したが、その際薬学の知識を生かして睡眠薬を手配・調合した。永田は印旛沼事件に際して、「中核派ですら内ゲバで人を殺しているんだから」と言いこれを合理化したことがあったという。
1971年より共産主義者同盟赤軍派との連携を指導し、7月には両派の合同による「連合赤軍」(当初は「統一赤軍」)を名目上結成。12月には革命左派獄外指導者として川島豪(獄中)との絶縁を宣言、赤軍派と「新党」を結成する。「新党」では副委員長に就任し、委員長の森恒夫に次ぐナンバー2となる。山岳ベース事件では同志12名がリンチ殺害されたが、この指示はもっぱら森によるとする見方と森と永田によるものとする見方がある(もっぱら永田によるものとする見方もあり、第1審判決もそのようなニュアンスの強いものであったが、これらについては女性への偏見に基づいているとの批判が関係者及び外部からなされている)。
1972年2月17日、森と共に一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところ、山狩り中の警官隊に発見され、激しく抵抗をした末、揃って逮捕された。
逮捕後、連合赤軍がなぜ同志12名の殺害という最悪の失敗に終わったのかを考え、連合赤軍を総括するため、川島豪(獄中)率いる革命左派に復帰する。しかし、川島による連合赤軍の「反米愛国路線の放棄」という総括に対しては、反米愛国路線に内実など無かったとして反発。連合赤軍事件のより深い考察を主張していた赤軍派議長の塩見孝也(獄中)寄りの立場を取るが、この塩見との接触を理由に革命左派から「永久除名」される。その後は塩見と連合赤軍総括を共にし、1974年の塩見による赤軍派プロ革派の結成に、赤軍派出身の植垣康博や坂東國男らと共に参加する。1980年には、連合赤軍事件を森・永田ら連合赤軍指導部の資質の問題と主張するようになった塩見と決別し、以降植垣と共に連合赤軍総括に取り組む。1982年発表の自著『十六の墓標』の序文では、川島豪と塩見孝也について、「(川島も塩見も)どちらも既に行っていた自分たちの総括を受け入れるように私をオルグするだけで、連合赤軍問題の事実報告を要求しようとはしなかった。」と書いている。
1983年の判決(死刑)では山岳ベース事件は永田が主導したものとされ、その原因を永田の「不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心」「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」だとした。永田は事実誤認があるとしてただちに控訴を決定、永田と歩調を合わせていた植垣、支援者の説得で控訴を決意した坂口と共に控訴する。判決は第二審・第三審でも覆されなかったが、永田は判決を受け入れないことを表明し続けた。なお、連合赤軍最高指導者の森恒夫(自殺)は印旛沼事件の圧力等を理由に同志殺害の原因は永田や革命左派だとしたが、具体的な同志の摘発・殺害については自身の理論を述べている。永田に次ぐ地位にあった坂口弘は事件は森主導で永田は森に追随したとしている。
脳腫瘍を患いながらの裁判の末、1993年2月19日に最高裁判所で死刑が確定。2001年に再審請求していたが、東京地裁は2006年11月28日に請求を棄却する決定をした。弁護人は刑事訴訟法の規定に従い、死刑を執行しないよう法務省に申し入れていた。
永田は再審請求棄却の半年前に脳腫瘍で倒れ、脳腫瘍の手術以降は寝たきりの状態になっているとされ、2008年に行われた世界死刑廃止デーの記念イベントで、拘置先で危篤状態になっていることが報告された。晩年は会話ができない状態となり[3]、2011年2月5日に東京拘置所で脳萎縮、誤嚥性肺炎のため65歳で獄死した。
宮崎知子(長野・富山連続誘拐殺人事件)
富山県での殺害1980年2月23日、富山県内で、帰宅中の女子高生が、ギフト店経営者の女・Mからアルバイトの話を持ちかけられ、Mが運転する日産のスポーツカー・フェアレディZに乗せられて誘拐される。24日と25日の2日間、女子高生は自宅に「女の人にアルバイトを誘われ、会社の事務所に泊めてもらった」と電話したのを最後に連絡を絶った。25日午後になって、Mから家族に身代金要求の電話があったが、具体的な金額を提示しなかった。26日、岐阜県のラーメン店で、M、Mの愛人の男性・A、女子高生の3人が目撃されている。ラーメン店を出てから数時間後、女子高生はMに車内で睡眠薬を飲まされて昏睡状態のところを絞殺され、雑木林に遺棄された。遺体は翌月になって発見。
長野県での殺害
同年3月5日、長野県で帰宅途中の信用金庫勤務のOLが、Mに言葉巧みに誘われフェアレディZに乗せられて誘拐される。翌日6日の早朝、OLは絞殺されて町道の脇に遺棄される。その数時間後の午前7時、Mが家族に電話。
「明日の朝10時、長野駅に3000万円持ってこい」
翌日7日の朝に長野県警は特別捜査本部を設置し、捜査を開始。10時、長野駅の構内放送で家族が呼び出され、Mからの電話を受ける。家族が10万円しか用意できなかったことを話すと、Mは怒って、昼まで待つと言って自宅で電話連絡を待つよう指示。昼過ぎにMから電話。
「2時に2000万円を持って長野駅に来て、4時38分発の列車に乗って高崎駅で降りて待て」
だが結局、Mは現れなかった。
警察は富山県と長野県の事件を同一犯の犯行と断定。どちらの犯行現場でもサングラスをした女が赤いフェアレディZを運転しているのを目撃されていたため、警察は「赤いフェアレディの女」を重要視する。警察の捜査ですぐにMとAが浮上、参考人聴取される。やがてMの声紋と身代金交渉の電話の声紋が一致したことなどから30日、MとAを逮捕。
捜査によってOLが車に乗せられる数時間前から、Mが若い女性に「お茶を飲みませんか」と声をかけていたことが判明。
犯行の動機
Mは富山県生まれ。生活保護受給家庭で育ったが、成績はトップクラスだった。短大に進学するも、家庭の事情で中退、保険会社や化粧品販売会社に勤める。やがて上京して結婚、埼玉県で暮らし、男児が誕生するも、やがて離婚。子供を連れて富山県に戻るが、父親が死亡。結婚相談所で再婚相手を探しながら、朝も夜も働き、一家を支えた。やがて夜の仕事仲間を介してAと知り合う。Aにはすでに妻がいたが、同棲生活を始める。
MはAとギフト店の経営を始めるも、すぐに経営難に陥り、サラ金に手を出して数千万円の借金を負ってしまう。そこでMはかつて勤務した保険会社で得た知識を悪用し、結婚相談所に紹介された男性を保険金殺人のターゲットにして、海岸に誘い出し麻酔薬をかがせたが未遂に終わる。
やがて返すあてのない借金をしてフェアレディZを購入。このころから誘拐で大金を得ることを考え始め、とうとう実行するに至る。
フジテレビのドラマ『実録犯罪史シリーズ』では、Mを室井滋が演じた。
坂本春野(高知・保険金連続殺人事件)
昭和62年1月17日夜半、高知県室戸市のスナック経営・坂本春野(当時60歳)は、妹の芳野とその夫、寺岡和寿と共謀し、坂本の夫のAさん(当時54歳)を保険金目当てに殺害した。犯行当日、坂本はAさんを泥酔するまで酒を飲ませた後、庭でAさんの頭を漬物石で殴打して意識朦朧にさせ、更に自室に運んで顔を枕で押し付けて窒息死させた。その後、転倒事故に見せかけて保険会社から5000万円を騙し取った。
更に、平成4年8月19日、坂本は知人の保険代理店経営の浜田忠男と共謀し、自分が経営しているスナックの店内で寝ていた従業員の女性Bさん(当時60歳)を石で殴打した後、路上に引きずって交通事故を装った。この時は、保険会社が不振を抱き保険金3500万円は支払われなかった。
平成5年6月19日に坂本等4人は逮捕されたが、その供述の中で坂本は、Aさん殺害は結婚当初(昭和61年9月に結婚)からの計画であったことを自供した。
平成10年7月29日、高知地裁は「被告の自白は具体的で、体験者でなければ言えないような具体性があり信用性が高い」として坂本に死刑を言い渡した。これに対して、坂本はAさん、Bさんの殺害は否認し無罪を主張し控訴。
平成12年9月28日、高松高裁は坂本の控訴を棄却。平成16年11月19日、最高裁は一審を支持して坂本の上告を棄却。坂本に死刑が確定した。尚、寺岡夫婦には無期懲役、浜田に懲役15年がそれぞれ確定している。
石川恵子(宮崎2人女性殺人事件)
平成8年8月29日、宮崎市の家事手伝い石川恵子(当時40歳)は、父親の経営する工務店の経営不振を立て直そうと、父親の知人でホテル従業員の日野静子さん(当時55歳)を言葉巧みに誘い出して金員を奪う事を計画。石川が運転する車に乗せて睡眠薬入りの缶コーヒーを日野さんに飲ませた。日野さんが熟睡したのを確認した石川は、西都市郊外の畑に車を止めて、日野さんの首をロープで絞めて殺害した。その後、日野さんのバックから現金約1万円を奪った後、遺体を畑に埋めて逃走した。更に翌年の平成9年6月13日、宮崎市に住む石川のゴルフ仲間で薬剤師の古相洋子さん(当時63歳)を石川の自宅に誘い出し、借金を申し込んだ。だが、古相さんが融資を断ったため、怒った石川が古相さんの首を両手で絞めて殺害し遺体を郊外の山林に遺棄して逃走した。石川は、古相さんのキャッシュカードを奪って現金200万円を引き出し着服した。
平成13年6月20日宮崎地裁は、石川に死刑を言い渡した。 一審では石川の精神状態が争点となった。弁護側が提出した「殺害時は精神分裂症で心神衰弱状態にあった」とする鑑定書が証拠採用された。一方、検察側は「当時の精神状態は精神病的な状態にはなく、物事の善悪を判断して行動する能力には問題がなかった」と同様に鑑定書を提出し証拠採用された。
結果、小松裁判長は、「殺害に使用する道具を準備し、発覚を防ぐためにアリバイ工作をするなど、目的達成のため狡猾に行動しており、精神分裂病だったとは認められず、責任能力に疑いを挟む事情も認められない」と判断し、検察側の精神鑑定を採用した。
平成15年3月27日福岡高裁は、石川の控訴を棄却。平成18年9月21日最高裁は「短期間に相次いで2人を殺害しており、犯行様態も残忍かつ冷酷極まりない」と断じて石川の上告を棄却して石川に死刑が確定した。戦後の女性死刑囚は7人目となる。
江藤幸子(須賀川悪魔払い殺人事件)
1994年の暮れから1995年の6月まで、祈祷師の女A宅にて「キツネが憑いている」などとお告げを受けた信者7人を、Aの娘B(当時23歳)と信者の男C(当時45歳)と同じく信者の男D(当時21歳)が中心となって、『悪魔払い』や『御用』と称して殴る蹴るなどの暴行を加え、4名を殺害、2名を傷害致死、1名に重傷を負わせる。同年7月5日、重傷を負った女性信者E(当時37歳)の入院をきっかけに、警察がA宅を家宅捜査したところ、信者6名の腐乱遺体を発見。4人を逮捕。後に被害者であるEも、暴行に加わっていたことが発覚して逮捕された。
死亡者
逮捕されたCの妻(当時56歳)
男性信者F(当時56歳)
Fの妻(当時48歳)
Fの娘(当時19歳)
男性信者G(当時43歳)
女性信者H(当時27歳)
林真須美(和歌山・毒入りカレー殺人事件)
1998年7月25日に園部地区で行われた夏祭りで、カレーを食べた67人が腹痛や吐き気などを訴えて病院に搬送され、4人(64歳男性、54歳男性、16歳女性、10歳男児)が死亡した。当初保健所は食中毒によるものと判断したが、和歌山県警は吐瀉物を検査し、青酸の反応が出たことから青酸中毒によるものと判断。しかし、症状が青酸中毒と合致しないという指摘を受け、警察庁の科学警察研究所が改めて調査して亜ヒ酸の混入が判明した。
1998年10月4日、知人男性に対する殺人未遂と保険金詐欺の容疑で主婦・林眞須美(はやし ますみ、1961年7月22日 - )が逮捕された。さらに12月9日には、カレーへの亜ヒ酸の混入による殺人と殺人未遂の容疑で再逮捕された。
林は容疑を全面否認したまま裁判へと臨み、1審の和歌山地裁の初公判では5220人の傍聴希望者が出た(これはオウム真理教事件の麻原彰晃や覚せい剤取締法違反の酒井法子に次ぐ記録であり、事件発覚前に無名人だった人物としては最高記録である)。
1審、2審の大阪高裁において共に死刑判決を受け上告していたが、2009年4月21日に最高裁判所が上告を棄却。判決訂正も5月18日付で棄却したため死刑が確定した。
2013年現在、林は大阪拘置所に収監されており、戦後日本では11人目の女性死刑囚である。再審請求中。
風間博子(埼玉・愛犬家連続殺人事件)
埼玉県熊谷市にある元夫婦XとYが経営するペットショップ「アフリカケンネル」は詐欺的な商売を繰り返しており、顧客らとの間でトラブルが絶えなかった。代表的なのが、「子犬が産まれたら高値で引き取る」と謳って、犬のつがいを法外な価格で販売し、子犬が店に持ち込まれると、難癖を付けて値切るというもの。経営する元夫婦XとYは、アラスカン・マラミュートのブリーダーとして名が知られていた。しかし、バブル崩壊後の売り上げの減少に加え、豪華な新犬舎兼自宅の建設などにより、借金がかさみ、店の経営に行き詰まった。
トラブルの発生した顧客らを、知り合いの獣医師から譲り受けた犬の殺処分用の硝酸ストリキニーネを用いて毒殺し、計4人が犠牲となった。遺体は店の役員山崎永幸方の風呂場でバラバラにされた上、骨はドラム缶で焼却された。それらは群馬県内の山林や川に遺棄され、「遺体なき殺人」と呼ばれた。
1994年(平成6年)1月、大阪愛犬家連続殺人事件の被疑者を逮捕。本事件とは無関係であるが、埼玉でも同様に愛犬家が失踪しているとの噂が流れ始めた。2月からはマスコミが取り上げるようになり、事件が表面化。Xが身の潔白を主張する一方、行方不明となった犠牲者の家族は事件性を訴え続けた。同年12月、山崎の証言を基に被害者の遺骨や遺留品を発見。1995年(平成7年)1月5日、XとYは逮捕された。
物証がほとんど残されていないため、唯一一貫した供述をし、証拠の発見に協力した山崎の証言を元に、事件が立証されていった。しかし、山崎は検察官との間に密約があったことを、自身の公判で証言。約束を反故にされたとして、XとYの公判では証言拒否の構えを見せた。
XとYは公判で、互いに相手が主犯だと主張したが、浦和地裁(現:さいたま地裁)は検察側の主張を全面的に認め、元夫婦が対等の立場で共謀し、犯行に及んだと認定(1件はXの単独犯行と認定)。2001年(平成13年)3月21日、元夫婦に求刑どおり死刑判決を言い渡した。
2005年(平成17年)7月11日、東京高裁は一審死刑判決を支持し、元夫婦の控訴を棄却。元夫婦は上告したが、2009年(平成21年)6月5日、最高裁は上告を棄却。1審・2審の死刑判決が確定した。
吉田純子(福岡・看護師連続保険金殺人事件)
平成10年1月24日、看護師の吉田純子(当時33歳)は、看護学校の同級生だった堤美由紀、池上和子、石井ヒト美と共謀して、池上の夫で平田栄治さん(当時39歳)を騙して睡眠薬入りのビールを飲ませて熟睡させ、静脈に空気を注射して殺害した。吉田らは、この殺害で保険会社から保険金3500万円詐取した。この殺害がうまくいったことに吉田はエスカレートしていく。翌年の平成11年3月27日、吉田は石井の夫で久門剛さん(当時44歳)を同様に殺害することを計画。石井に命じて久門さんに睡眠薬入りのウイスキーを飲ませて熟睡させた。そこへ、吉田、池上、堤が部屋に上がりこみ、大量のウイスキーをチューブを使って鼻から注入。更に静脈に空気を注射して殺害した。この殺害で保険金3200万円を詐取した。
平成13年8月になって石井は犯した罪を後悔し警察に自首した。警察は、石井の自供に基づく裏づけ捜査を行った結果、平成14年4月28日、主犯の吉田、堤、池上、石井の4人を逮捕した。逮捕後の取調べで、平成12年5月に堤の母親宅に侵入しインスリン注射で眠らせてから絞殺し、金員を奪おうとした未遂事件も発覚した。更に、吉田を徹底的に取り調べた結果、平成9年に同僚の看護師から500万円を搾取したのをはじめ、数々の余罪が発覚。2人の殺害保険金詐取をはじめ総額で約2億円を不当に得ていた。
吉田は、久留米市内の高級マンションの最上階に3人の娘と住んでいた(夫とは別居中)。堤、池上、石井も同じマンションに居住していた。吉田は、「人間は嘘をつくが、金は裏切らない」と公言し、金・モノへの執着が異常に強く物欲の権化のような女で自己顕示欲が人一倍強い性格だった。
このため、堤ら3人に対して女王と奴隷の関係を強要し吉田のことを、「吉田様」と呼ぶように強制していた。実生活では、吉田の世話はもとより、3人の娘達の面倒も3人に負わせていた。更に、吉田と堤は同性愛の関係だったという。堤に毎日のように関係を迫り、拒絶されると過去の男関係などをあげつらって激しく罵倒したという。
平成16年8月2日福岡地裁は、吉田が一連の事件の主犯であると認定し死刑、堤に無期懲役、石井に懲役17年を言い渡した。池上は、一審判決前に病死したため公訴が棄却された。平成18年5月16日福岡高裁は吉田、石井の控訴を棄却。同月18日には、堤の控訴を棄却した。石井、堤は上告せず刑が確定。吉田は、福岡高裁の死刑判決を不服として上告した。
平成22年3月29日最高裁は吉田の上告を棄却して死刑が確定した。
北村真美(大牟田市4人連続殺害事件)
道仁会系北村組組長だった当時60歳の父親と45歳の母親は、被害者の58歳の女性Aへの借金を含め6800万円以上の借財を抱え、また暴力団上部団体への上納金や生活費に困窮するなどしていたため貸金業を営む被害者Aに嘘の土地売買話を持ちかけ現金を用意させた後に、傷害致死の前科があった元力士の長男(当時23歳、母の前夫との子)を誘い込んで殺害を計画した。長男は両親を出し抜いて被害者Aの金品を奪うため元力士の次男(当時20歳、母と父の子)を誘い込んで兄弟2人で9月16日に被害者Aの次男(当時15歳)を絞殺し、遺体に重しを付けて川に遺棄し、被害者A宅の金庫を強奪し貴金属(400万円相当)を奪って換金後に兄弟で分配した。
母親は、9月17日に長男に殺害を指示し、元力士の次男も加わって家族4人で殺害を実行することになった。同日、被害者Aに催眠薬入りの食事を取らせ次男が絞殺を行って現金を強奪した。被害者Aの所在を探していた被害者の長男(当時18歳)とその友人(当時17歳)を父親が被害者自宅近くで呼び止め車に乗せて埋め立て地に連れて行き、父親の拳銃で次男が撃ち、更にアイスピックで刺殺させた。4人は同日殺害した3名を車に乗せて諏訪川に沈め証拠隠滅を計った。
9月21日に最初に殺害された次男の遺体が発見され、母親が逮捕(父親は拳銃で自殺未遂)、更に川底から車と他の3遺体が発見された。その後次男、長男の順で逮捕された。
この事件で、被疑者一家は被害者一家に対する死体遺棄、強盗殺人および殺人容疑、銃刀法違反により逮捕された。長男は検察庁舎より逃亡し、単純逃走罪で追起訴された。
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