山形マット死事件とは
山形マット死事件
山形マット死事件(やまがたマットしじけん)とは、1993年(平成5年)に山形県新庄市立明倫中学校で発生した男子中学生の死亡事件。俗に「マット死事件」・「マット事件」とも呼ばれ、学校現場におけるいじめの深刻さを明らかにし、少年法改正への気運を醸成した象徴的事件として、今日でも取り沙汰されている。
有平君について
児玉有平君は幼稚園を経営する児玉家の次男として生まれた。児玉一家は1976年頃に新庄市に引っ越してきたが、「裕福」であり、「標準語」を話す「地元出身」ではない家庭だったため「新参者」と言われていた。地元の人々にとって、児玉一家に対して妬みがなかったと言えば嘘になる。有平君は小学校の高学年頃からいじめにあっていた。漫画家かアニメ製作の仕事を志すようになっていた。
「現代人が忘れた『心』を伝えたい」
家族にはよくそう語っていたという。
1992年夏頃、部活動でいじめられた経験のある兄(中3)が、「部活でいじめられていないか」と有平くんに尋ねると、有平くんは「いじめられてもギャグを言って切り抜けているから大丈夫」と答えていた。
1992年9月 集団宿泊研修から、有平くんが顔を腫らして帰宅したため、家族が学校に「いじめられているのでは」と相談。学校側は有平くんから事情を聴くが、いじめられたことを認めなかったため放置。
出典:山形マット死事件
無惨
1993年1月13日夕方、明倫中学1年生の有平君(13歳)がいつもなら英語の塾に行く時間が来ても帰ってこない。几帳面な有平くんにとって、そんなことはありえないはずだった。両親は近所を歩き回り探すが、それでも見つからずに有平君の所属する卓球部の顧問の教師に電話をかける。「今日は私、部活には出てないんです。でも、学校に電話して聞いてみます」そう言って教師は電話を切った。午後8時15分過ぎ、児玉さん宅に中学の教諭から電話がかかる。
「見つかりました!有平君が”逆さ吊り”になって見つかりました」
有平君は、まだ学校にいた教師とすぐ隣の小学校の生徒を中心とするバトミントンのスポーツ少年団、そして同中学のバトミントン部の生徒の捜索によって遺体となって発見される。遺体は体育館のマット用具室のなかで立てかけられてあったマットに巻かれた状態で逆さ吊りにされていた。室内は真っ暗で、暗闇の中を自らマットに潜り込むというのは普通に考えてありえない状況だった。
駆けつけた有平くんの父親は、無残な息子の遺体と対面する。有平君は顔が鬱血し、無残にも2倍くらいの大きさに膨れ上がっていた。パンパンに腫れ上がった頭部は、それが誰だかも判別できないほどだった。しかし、よく見ると見覚えのあるその鼻筋や唇にかろうじて有平君の面影を父親は見た。
「誰がやったんだ!おまか、おまえだろう!」
動転した父親はそう言って教師の一人に掴みかかった。この時の異常な行動に父親はほとんど記憶がないほど興奮していた。
翌日から同校には多数の報道陣が駆けつけ、いじめの事実を質問したが、校長は「いじめや暴行など、教員が介入しなくてはならないことは本校にはまったくありませんでした」と語った。
司法解剖の結果、有平君の死因は「胸部圧迫による窒息死」と判明。顔面は全体的に鬱血し、上半身には痣があった。
1月17日、有平君の葬儀が行なわれる。家族の希望で、有平君の尊敬していた手塚治虫の「鉄腕アトム」のアニメ主題歌が流された。一方その頃、新庄署内で事情を聞かれていた同校2年・A(当時14歳)が事件の一部始終を告白していた。それによると仲間数人で有平君に暴行を加え、マット内に押しこんだというものだった。その自白から、捜査側は暴行を加えたという仲間に事情を聞いたところ、ほかの少年たちも相次いで自白。翌日、Aのほか6人(B、C、D、E、F、G)の少年が逮捕・補導された。
いじめ
(以下Aの供述から)Aが有平君のことを知ったのは、友達から「一発芸をしてみんなを笑わせる奴」だと聞いたからだという。その後、Aは中学の昇降口などで、ほかの2年生が有平君が一発芸させられているのを見るようになった。有平君は学校じゅうの人気者のように振舞ってるように見えたが、次第にそれは喜んでやっているわけではなく、いじめで嫌々させられているとわかってきたと言う。
有平君が標準語を話す金持ちの家の子であるという妬みもあって、いじめをエスカレートさせていった。性格がおとなしく、無理やり一発芸をさせても応じてくれる。反抗的な態度をとったり、騒ぎたてることもなく、黙って言いなりになる有平くんに目をつけたと言う。
Aたちは93年9月頃から、学年が1つ下の有平くんをいじめ始めた。Aと友人の2人は、有平君を教室棟の階段に呼び出し、頬の肉を指でつまんでやる「たこ焼き」という一発芸をさせた。その時、Aは有平君の肩を、Aの友人は背中を殴った。それが最初のいじめだった。有平君は反抗したり、教師に言いつけたりはしなかった。この頃、Aは体育館のマット用具室にあるマットに頭から入って遊んだこともあったという。 この時、Aはマットの中が思ったより窮屈であり、呼吸がむずかしくなり、友達に必死に呼びかけて救助してもらうものの、その時の恐怖は後まで覚えていたと言う。
10月頃にも部活動を終えた後、昇降口ホールで、有平君に一発芸をさせるために2人で頬と背中を殴っている。その場、その場で、有平君を見つけ、一発芸を見るためにグループで殴ったり、蹴ったりしたと言う。
11月中旬、有平君が卓球部の部活中の午後4時ごろ、Aは8人ほどの仲間を呼び出して、初めて有平君をマット用具室に押しこめ、一発芸を要求している。しかし、有平君がなかなかそれに応じなかったので、Eを始めとして、全員が殴る蹴るなどの暴行を加えている。
それから10日ほど経った日にも、また有平君をマット用具室に押しこめ、一発芸をさせようとしている。この時は前よりも有平君の断る態度が強くなっていたのか、再びEを最初に暴行が加えられた。この時、有平君は右手にラケット、左手にピンポン玉を持っていたので、Aはピンポン玉をとりあげ、「一発芸をしたら返してやる。やってみろ」と言う。
事件のあった翌93年の1月13日、2年生でサッカー部のB、バドミントン部のCが、無理やり部活中の有平君に一発芸をさせるために、体育館の中のマット用具室の前に連れてきていたので、Aもこの様子を見に行った。この時、その場にいたのは他に、バスケットボール部のD、野球部のE、そして1年の卓球部F、サッカー部のGなど7人だった。最初にBとCが一発芸を要求するのだが、有平君は「えー、えー」と言ってなかなかそれに応じなかった。
「むかつくなあ」
それを見ていたAは怒鳴った。そこでEが有平君を殴る。7人は体育館にいる他の生徒たちに見えないように、有平くんをマット用具室に押しこみ、扉を閉めた。Aたちはマット用具室でたびたび遊んでいたこともあり、室内の様子はよくわかっていた
室内に入ると、「児玉、ここなら誰もいない。さっき俺が見た”金太郎”をやれ」、Cがそう有平君に命じるた。有平君は「えー、えー、できません」と断った。Aは「児玉、ちょっとこっちゃ来い」と有平君を呼び、顔面を殴りつけた。そのあと、Cは有平君が右手に持っていた卓球のラケットを取り上げている。続いてBが「足をふまれた」と因縁をつけ、有平君の足を蹴り上げた。Cはそこでされに背中を1発殴った。 BとCは一発芸を断られたことで腹を立てていた。有平くんと同じ卓球部で1年生のFまでもが、「なぜ先輩の言うことが聞けないんだ」と顔を殴り、膝を蹴っていた。有平くんは泣くような声で、「すいません許してください」と謝っていたと言う。
その後、少年達は一発芸をやらせるのはあきらめ、「この野郎、生意気だじゅ」「本当にむかつく野郎だじゅ」と、一方的にリンチを加えていった。やがてAは、「児玉をマットへ入れろ」と怒鳴りつけた。
「助けてください。待ってください。許してください」
有平君は泣き声をあげていたが、聞き入られるわけもなく暴行は続けられた。マット用具室の外にいたGが、室内に入ってきて有平君を蹴ると、今度はBが有平君の背中の方から腰を抱き上げるようにして、斜め後ろにぶちつけるプロレス技をやろうとしたが、投げても頭がマットに当たって、失敗に終わる。プロレス技による暴行はさらに続けられ、Cなどはヘッドロックをかけながら、何回も有平君を殴っている。
「マット上げて、入れるべえ」
Aは言った。自分がかつて味わった苦しみを有平君にも味あわせようとした。有平君は泣いて、「やめてください」と言ったが、CとFが有平君を持ち上げて、マットの上にいたBが引っ張り上げた。そしてそのまま、マットに足から押しこんだ。
「児玉、お前は生意気だから、穴の中でそうしていろ」
Bがそういうと、まだ胸から上が出ていた有平君は這い出ようとした。押しこまれるのを抵抗した有平君はさらに数発顔面付近を殴られている。
「こいづ、本当に生意気だ。こいづは、逆さにして入れっぺは」
Aがそう言うと、Cはうつぶせに倒れていた有平君の腰を抱え上げ、頭の方を下にして別のマットの穴に入れようとした。この時も有平君が両手で入れられるのを抵抗したため、BとDとFが加勢に入った。力づくで頭から有平君をマットの中に入れた。
「許してください。助けてください」
マットの中から叫び声が聞こえても、7人の少年達は聞く耳を持たず、マット用具室を出ていった。Aはそのままマット室の前でBとEでバスケットをして、午後5時頃学校を出て、恋人とデートを楽しんでいた。有平さんをそのままにしておいては危険だとAは知っていたが、「他の誰かが引き上げるだろう」と自ら救出に行くことはしなかった。
ちなみにA自身も1年生の時にいじめのターゲットになったことがあった。上級生に殴られ、学校に行くのがいやだと泣いたこともあるという。彼は自分の痛みを平気で他人にも味あわせている。先輩から後輩へのいじめ・暴力は一種の通過儀礼とでも考えていたのだろうか。
副主犯格でバドミントン部のCは有平君のことを小学校時代から知っていた。後のCの供述によると、13日午後4時10分頃、有平君がAコートとBコートの境にネットを貼りに来たという。(明倫中学校の体育館ではAコートを卓球部、Bコートをバドミントン部が使用することになっており、それぞれ東側を男子、西側を女子が使うようになっていた)ネットを張っていた有平君にCは一発芸をするように言い、有平君は”金太郎”という劇をさせられている。その後、有平君は卓球部の練習に戻っていった。
この後、Cはサッカー部のBと遊んでおり、この時に有平君の劇について話すと、Bは「俺も見てみたい」と言った。そしてBとCの二人は、有平さんをマット用具室の連れていき、一発芸をさせようとした。この時、DとEとAがどこからか話を聞きつけやってきて、その後はAの供述と同じである。
出典:山形マット死事件
事件のあった明倫中学校
検視判断
本件の被害者は検死の結果、死因は窒息死と判断された。また被害者の顔面にはマットに圧迫されたことを示す赤紫色の腫れが見られたものの、顔面に擦過傷の痕跡は認められなかった。このため検視の上では、被害者が暴行を受けマットに押し込まれたとする決定的な証拠は発見されていない。後に本件の公判において、この擦過傷が無かった状況を重要な論拠として被告弁護側が『被害者が自らマットに入っていった』などと無罪を主張した。
逮捕、反転する供述
マット室での暴行のあった翌朝、Aは母親から有平君が亡くなったことを知らされる。登校したAは同じクラスだったDに口止めをしている。この日の昼、警察から前日の行動について聞かれたが、「体育館には行かない」「児玉君には会わなかった」と言い通した。聴取後、Eにもそれとなく口裏を合わせようとしている。夜9時頃にはBから電話があり、お互いに嘘をつき通す事を確認した。翌15日朝にはCに電話を入れて口止めしている。Aは1年生であるFとGには口止め工作は行わなかった。1月17日、Aは2度目の事情聴取を受けていた。午後6時ごろ、聴取を終えて帰宅しようとするAに一人の婦警が声をかけた。この婦警は防犯課に勤務するベテランで、Aもバイク盗難事件でこの婦警に補導されたことがあった。母親のような存在で、新庄市内の非行少年も一目置く存在だったと言う。
「どうしたの?A君」
そう語りかけられると、Aは犯行をあっさりと自供し始めた。この時にB、C、D、E、F、Gの名前を挙げた。
翌18日、有平君の葬儀があった日、7人の少年が傷害監禁致死の容疑で逮捕された。
Aの自供と共に、他の6人の少年も各々全面自供を始めるが、早くも1月25日、供述を翻す少年が現れ始める。有平君のいじめでは、いつもまず先行して殴っていたEだ。
「今まで言った事はすべて嘘です。実は児玉君の顔もよくわかりません」
「僕は児玉君に何もしていません。あの日、Bコートの方には1歩も入っていません」
弁護士との接見で、Eは全面否認に転じていた。
「東京の弁護士をつけたから、もう大丈夫」
「いい弁護士つけたから、大手を振って歩けるようにしてみせる」
「絶対に孫を無罪にして見せる」
同じ頃、少年の家族からは、こういった声が聞こえてくるようになった。
日弁連の「子どもの権利委員会」に所属する人権派弁護士が乗り出してきたのもこの頃である。その後、「山形明倫中裁判・無実の元少年たちを支援する会」なる組織も結成され、いじめ・暴行事件と冤罪との間で争われることとなる。
Eの否認を受けて、他の少年達も次々と供述を覆していく。加害少年の弁護団は、「児玉有平くんは、ひとり遊びをしていて自分からマットに入って死んだ」という事故説をたてる。やがて、体育館で有平君と少年達を目撃していた元・生徒の中には「あれは嘘でした」と言い始める者も出てきた。当時、体育館にいた50人ちかくの生徒たちもほとんど「知らない。見ていない」と非協力的だった。結局、少年1人を除く6人が否認。
山形家裁が3人を監護措置、3人を不処分にする。監護措置となった3人が直ちに抗告する。仙台地裁では、一審を棄却し今度は「7人全員関与」の判断をした。そして上告を受けた最高裁でも二審判決が指示され、7人全員の事件の関与が確定した。
しかし2002年3月の損害賠償請求では、山形地裁の手島裁判長が事件性はまったくないものとして無罪を言い渡している。(後に仙台高裁で有罪判決)
あの日、マット室の中で何があったのか、7人の少年達にしかわからない。彼らが否認する以上、当事者以外の人間が真相を知るのは不可能だ。しかし、事件当初からこの事件はいじめが要因になっているのではないかと憶測が流れていた。当時、明倫中学でいじめが横行しているのは新庄市内では口伝てでかなり広まっていたからだった。少年たちが逮捕される4日も前に、一人の少年の家にイタズラ電話が殺到していたほどである。
出典:山形マット死事件
地域性の問題
死亡した男子生徒の一家は事件の約15年前に新庄市に転入し、地元で幼稚園を経営する仲睦まじく裕福な一家であった。また一家全員が標準語を話すことも重なり、閉鎖的な地域性からこの一家に対しての劣等感や妬みで「よそ者」扱いにする、いわゆる村八分的な環境にあったとするTV、新聞等の報道がなされた。事件後も、「いろいろなつながりがあるせまい町に住む人たちにとって、表に出たら事件のことを一言も口にしないこと」が続き、当事件の関連記事連載中、朝日新聞山形支局の記者たちは、取材現場で「『まだ取材しているのか』『そっとしておいてくれ』となんども追い返さ」れ、さらに「学校の関係者を名のる複数の人物から『いまさら騒ぎたてるな』と抗議をうけ」たことを明らかにしている。また、社会学者の内藤朝雄は、明倫学区でのフィールドワークにて家族に対する様々な誹謗中傷を行う住民の声を聞いたと述べ、この地域に関する問題の根深さを指摘している。
裁判
1993年1月、山形県新庄市の市立明倫中学の体育館で、1年生の児玉有平君(当時13歳)が、ロール巻きされた体育用マットの中に逆さに押し込まれ、窒息死しているのが発見された。この事件で、上級生ら7少年が逮捕・補導され、いったん犯行を自白したが、その後一転して全員が否認。4少年の処分は確定したが、刑事・民事ともに「有罪」「無罪」認定の判断が二転三転した。刑事裁判では高裁が7少年の事件関与を認定。民事裁判でも最高裁が7少年に損害賠償を命じたため、結局、刑事・民事ともに7少年の事件関与が認められる結果になった。
事件直後、傷害致死容疑で、2年生3人(当時14歳)が逮捕され、1、2年生4人(当時12~13歳)が補導された。逮捕は14歳以上でないとできないため、逮捕と補導の差がついた。
当初、7人全員が自白した。山形県警の調べによると、児玉君は93年1月13日の放課後、卓球部の部活動のために体育館に行ったが、上級生らに「金太郎」の歌に合わせて踊る芸をやらされた。しかし、逮捕・補導された7少年にさらに芸を強要され、拒否したため、用具室内に連れ込まれ暴行された後、巻いたマットの中に頭から押し込まれ、放置されたという。
しかし、その後になって、逮捕された3少年は、山形家裁で一貫して容疑を否認、「下校していた」「その場にいなかった」とアリバイを主張した。93年8月、同家裁は「非行事実の証拠はない」として、3少年を無罪にあたる不処分とし、確定した。
補導された4少年のうち3人も否認。このため山形県中央児童相談所は否認の3人を家裁に送り、いじめを認めた1人を児童福祉司による在宅指導との行政処分をした。否認した3少年について、山形家裁は93年9月、非行事実(傷害致死)を認定して、2人を初等少年院に、1人を教護院送りとする保護処分決定を下した。「有罪」認定の決め手は、容疑を認めて行政処分を受けた少年が、「3人が児玉君をマットに押し込むのを見た」と証言したこと。しかし、この少年もその後否認に転じ、家裁に「処分無効」を提訴、棄却された。
保護処分決定を受けた3少年は抗告したが、仙台高裁は93年12月、抗告を棄却したうえで、さらに不処分(無罪)が確定した逮捕の3少年についても、家裁の認定に疑義を呈し、7少年の逮捕直後の自白の信用性を認め、アリバイも否定し、7人全員の「有罪」を強く示唆した。
これに対して、3少年側は最高裁に再抗告を申し立てたが、94年3月に棄却され、3少年の処分(有罪)が確定した。
3少年側は「無実」を訴え、再審請求を申し立てたが、山形地裁、仙台高裁が棄却したのに続き、95年に最高裁も棄却し、刑事裁判は決着した。
これとは別に、民事訴訟として95年、児玉君の遺族が7少年と新庄市(中学側)を相手取り、総額約1億9千万円の損害賠償を起こした。
2002年3月、1審の山形地裁は7少年のアリバイを認め、「事件に関与した証拠はない」として、賠償請求を棄却した。
しかし、04年5月、2審の仙台高裁は「複数の者が暴力を振るい、制圧して マットに押し入れた可能性が高い」として事件性を認定、自白の信用性も認め、少年7人に総額約5800万円の損害賠償を命じる逆転判決を出した。新庄市の賠償は認めなかった。05年9月、最高裁は仙台高裁判決を支持して少年側の上告を棄却、賠償判決が確定。これで民事裁判も決着した。
この事件で裁判所の認定が二転三転したことで、少年審判の事実認定の難しさが浮き彫りになった。このため、16歳以上による「故意の犯罪行為で被害者を死亡させた事件」では、家裁から検察官に「原則逆送」されるなど、少年犯罪の厳罰化と検察官の関与を推し進めた2000年の少年法改正につながった。
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