大津市身体障害者リンチ殺人事件とは
大津市身体障害者リンチ殺人事件とは
大津市身体障害者リンチ殺人事件(おおつし しんたいしょうがいしゃ リンチさつじんじけん)とは、2001年3月31日、滋賀県大津市にある大津市立平野小学校の給食室の裏庭で、身体障害者の16歳の青年が2人の青年からのリンチ暴力によって死亡した殺人事件である。
被害者について
被害者は、1999年に交通事故に遭い、右脳に障害を負う脳挫傷で重体になる。医者から「このままでは脳死か、助かったとしても脳障害か植物人間状態になる」との診断を受け、生死の境をさまよいつつも、低体温療法で一命を取り留めた。その後左半身不随という「2級障害者」となるも、元々運動能力が高かったこともあり、リハビリテーションで歩行が出来るようになるまで回復するに至った。中学を卒業した被害者は、引き続きリハビリをしながら、中学時代の担任教師の勧めで受験勉強に励んだ。「全日制高校、そして大学に行って親孝行をしたい」と意気込み、大学では経営学を学び、将来は祖父が営む佃煮業の跡継ぎになりたいと語っていた。そして2001年3月27日、全日制高校に合格を果たした。この時、被害者は16歳であった。
醜い嫉妬
青木君の全日制高校合格をよく思わない少年がいた。A(当時15歳)とB(当時17歳)である。AとBは「合格祝いにカラオケおごってやるよ」と青木君を呼び出した。大津市平野小学校、そこが待ち合わせに決められた場所だった。「友達が携帯に電話してきたんだ。初めてのアルバイトの給料で、僕の合格祝いをしてくれるんだって」
青木君はなんの疑いも持たず、喜びを母親に伝えていた。青木君を駅まで送る途中で、母親がどんな友達かと聞くと、「僕がそのまま定時制に行ってたら一緒の学校になったかもしれない人」と答えた。
2001年3月31日、青木君が待ち合わせの場所に行くと、AとB、そして彼らの取り巻きの3人の少年がいた。全員、青木君とは別の中学出身の共通の友達がいる程度の関係であった。少年達は「青木、お前、何で全日制行くん?定時制におりいや」と言って青木君を校庭裏にる給食搬入口のコンクリート台のところに連れていった。
その場で青木君に対する凄惨なリンチが始まる。「障害者のくせに生意気だ」と最初から青木君をリンチする目的で誘い出していたのだ。顔、頭、足、腹・・・をところかまわず無抵抗の青木君を70回以上殴った。青木君の顎ははずれ、顔はたちまち原型をとどめないほど腫れあがる。意識を失いかけた青木君をAとBの2人は高さ60cmほどもあるコンクリート台から、プロレス技のバックドロップで頭から地面に叩きつけた。さらに別の場所に移動し、2回バックドロップを繰り返した。失禁して泡をふいた青木君をさらに1mほどの高さからコンクリートに頭を打ちつけた。
「障害者やから助ける価値がない」
「こいつは障害者だからすぐたぬき寝入りをするんだ。小便まで漏らしやがって」
「プールに放りこんで目を覚まさせよう」
そう言って、彼らは実際に青木君に水をぶっかけている。暴行は1時間半も続いた。これはやられている方にとっては恐ろしく長い時間である。
途中で取り巻きの少年の1人が「このままでは死んでしまう」と救急車を呼ぼうとするが、AとBは「そんなことしたらパクられるやろうが」と怒鳴りつけ、青木君を物陰に放り投げて、そのままパチンコに行った。
このリンチを近隣に住む老人(当時67歳)が2階の窓から見ていたという。しかし、この人物は警察に通報することはしなかった。そのまま買い物に出かけている。よくある喧嘩か、一方的なリンチかは見てわかりそうなものだが。
出典:滋賀・青木悠君リンチ殺人
被害者の死
Aは「俺たちで被害者をぼこぼこにした。小便たれて泡吹いて気絶してる」と自慢して回っていた。それを聞いた被害者の友人が現場の小学校に駆けつけ、意識不明となった被害者を見つけ、被害者の母に電話連絡をする。被害者は大津市民病院に搬送され、集中治療室で治療するものの「助かる見込みは1%もないだろう」と、事実上の危篤を告げられる。その時、待合室にはAがおり、被害者の母がAに暴力の理由について問うと、Aは「むかついていた」という。こうして、事件から約1週間が経過した4月6日、急性硬膜下血腫で息を引き取った。被害者は死の直前、集中治療室で涙を流して家族と永遠の別れをしたという。同病院は被害者の出生、そして交通事故からのリハビリなど思い出のある場所であり、そこでの最期となった。この2日後の4月8日に告別式が営まれたが、奇しくも生存していれば全日制高校入学式となるはずの日であった。
しかし、この事件は少年法の改正がなされた前日(新法律は同年4月1日施行)だったため、5人は逮捕されるが、主犯格の2人は刑事裁判にかけることなく少年院へ送致。その他の3人は処分なしで釈放された。
少年たち
A
出典:滋賀・青木悠君リンチ殺人
空手3段。中学の卒業文集で「あなたの10年後はどうなっているでしょう」というテーマで「殺人犯で指名手配されている」と書いている。4月から定時制高校に入学することになっていた。
その後
青木君が亡くなったのは4月6日であるが、リンチのあったのは少年法の改正前の3月31日だったので、新法は適用されなかった。(ただし、被害者の意見陳述と調書の閲覧だけは認められた)リンチを受ける青木君を取り囲んで見ていた3人の少年達は不処分。手を出したAとBも刑事裁判にかけられることもなく少年院送りとなる。この軽い処分は前述したように、改正少年法施行の前日に起こった事件ということが考慮されている。この処分理由について次のような文が記されている。
「本件は検察官に送致することも考えられるが、少年には内省力があり、感受性も豊かで可塑性や教育可能性が見とめられることを考慮して、中等少年院に送致するのが妥当である。」
青木君の命を奪った少年の一人は鑑別所の中から友人にこんな手紙を書いている。本当に内省力があり、感受性が豊かなのか読んで考えてみて欲しい。
出典:滋賀・青木悠君リンチ殺人
ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ、ヒマ・・・・青木なぐったん、広まってるか。ここ出たら遊ぼう
出典:滋賀・青木悠君リンチ殺人
元気してる?どお、オレがいない1ヶ月間!さみしい?おもんない?オレも早く出て○○ちゃんと遊びたいわー!毎日、毎日、早く家に帰りたいなー!(中略)すげー家に帰りたいわ
出典:滋賀・青木悠君リンチ殺人
オレな、前に○○ちゃんからの手紙になー、年少2、3年入ってなあかんなーって書いたやんかー!めっちゃブルーで、あー死のうかな?とか思っててんかー。でも、今日の朝のオリエンテーションのテープで、少年院に入ってる期間は、二年以内とわかってバリバリさあがんばるぞー!!って思ってん!(中略)オレきわどいねん!初等と中等の間やねんなー、むずいやろ?でも、初等も中等も二年以内で出られるらしい
出典:滋賀・青木悠君リンチ殺人
普通なら、大津から飛ぶけど。オレは逃げもかくれもしないし。・・・・・オレな、出たら単車か車でちょっと琵琶湖一周でもするわ。・・・題して「自分を見つめるたび」ですわ。出てからも、ちょっと反省する旅です
出典:滋賀・青木悠君リンチ殺人
裁判
2001年8月、母親がAとBと保護者計5人を相手どって9500万円(訴訟中に1億円に修正)の損害賠償を求めて提訴。2003年6月26日、少年院を出たAとBが和解協議の席に出席して初めて遺族に直接謝罪。青木君の母親が暴行の日に息子が着ていた泥だらけのシャツを持ちこむと、Aは泣きじゃくり、Bは「申し訳ありません」「一生かけて償います」と頭を下げた。
同年7月3日、計6000万円支払うことで和解成立。
2004年1月、遺族が見張り役だった3人とその両親に計約3000万円の損害賠償を求め提訴。
2006年5月15日、大津地裁・稲葉重子裁判長は訴えを棄却した。母・和代さんは暴行当時悠君が着ていた赤いジャンパーを着て、息子に似せた髪型にしてこの判決を聞いた。
3人は見張り役だったことを否定し、「死亡予見性はなく通報の義務もない」と主張、本人らが出廷した尋問でも「死ぬとは思わなかった」「自分が止めたら何かされると思った」と証言していた。稲葉裁判長は、3人は直接暴行を加えておらず、また助長したこともない、制止する法的義務はないとしたのである。
同年12月13日、大阪高裁・若林諒裁判長は一審の地裁判決を支持し、「死の可能性は予想できたが、法的責任は問えない」などとして控訴を棄却した。
2008年2月28日、最高裁(横尾和子裁判長)は遺族側の上告を棄却した。判決では「少年らに救護義務があったとは言えない」としたが、5裁判官のうち2裁判官は「消防に通報すべきだった」と反対意見を付けた。
出典:滋賀・青木悠君リンチ殺人
「青木悠君リンチ殺人事件」の表に出ない話
事件現場であるH小学校校長が、花さえも飾らせない。助けられなかった母親のせめてもの気持ちで、現場となったH小学校の女性校長に「お花を飾らせてください」と頼むも「飾るな」と言われた。『花を飾るな』との張り紙も。
「花を飾るな、いつまでも、供養をするな、したかったら、家のお墓か仏壇にしろ、学校を祭壇のようにするな」「ここで死んだ訳でもない。春休みで学校に責任は無い」と校長室に呼びつけて花など撤去するよう言われる。
15才の加害者はU中学校で3年間、悪の限りをし、弱い者いじめばかりしたにも関わらず、加害者の母親は謝らない人で有名。父親も、被害者に謝罪は全くなし。
大津署の対応。15才の加害者は事件1年前の秋にも、自宅で下級生の手に大火傷させ、被害届も出てるのに、大津署は大きな事件が先と後回しにしていた。
裁判所、多くの署名に対し、「束が厚いだけで、何の意味がない。裁判官は判例で裁く」と言う。
H13年9月19日第1回公判意見陳述
青木悠は少年法改正の前日3月31日、15才の少年に計画的に呼び出され、惨殺されました。6日間渾身の力で生き、涙で訴え、4月6日に亡くなりました。悠はとても母親思いのやさしい明るい素直な子供でした。弱音をはかず努力家でした。
息子の幸せを願い16年間一生懸命育ててきました。私の生きがいでした。
8月29日で17歳の誕生日を迎えるはずでした。
私の命より大事な大事な悠を、『障害者のくせに生意気』と17才と15才の少年が、計画的にだまし、平野小学校に呼び出して、自分の体を支えることも出来ない、身体の不自由な無抵抗な悠を殴り続けて殺したのです。
障害者の悠は飛び降りることも出来ない60Cmのコンクリートの上から頭から引きずり落とされたのです。何10発も殴 られ、プロレス技かけ、頭から地面にまっさかさまにバックドロップ掛けたのです。あごの骨ははずれ、脳はグチャグチャの脳死状態にしたのです。まだ、最後 に『プールに放り込もう』と、途中まで運んでいます。
17才の加害者は、最初はお金で解決しようと脅迫しています。悠はお母さんに負担をかけまいと少ない金額言うと、自分を安く見られたと頭やつま先を踏みつけてます。
無抵抗な障害者の悠を、 交通事故で頭遣られているから、頭やったら死ぬと判っていて、頭ばかり狙っています。『障害者やから助ける価値がない』口から泡を出している悠を『障害者 はいつもこうや』と障害者を軽蔑し、脳死状態でいびきをかいている時は『狸寝入りや 起きろ』と蹴ったり、挙句に最後に500円盗っています。どうして、 悠は17才の加害者からこんな人間と思えない扱いを受けねばならないのか。ただ、『自分の悪口を言った』それを人づてに聞いただけで殺すのか。
悠は障害者になっても、明るく、前向きに生きていたから、妬んでいたのじゃないか。自分の罪を軽くするために、15才の所為にしたり、悠を悪く言うのは、許せません。悠は心優しい子なので、人のことを悪く言ったりしません。たとえ、もし、悪口言ったとしても、悪口言っただけで、殺されなければならないのか。17才の加害者の父親は弁護士経由で『これだけ謝っているのに、お母さんは会ってくれません』と手紙でありました。
17才の加害者は15才の加害者の所為にして、悠が亡くなってから、4月6日に逮捕されましたが、悠がICUから個室に移された時や、亡くなった時、17歳の加害者の父親が廊下にいて、看護婦さんから、メモで渡されたのですが、【私に何かお手伝いできることはないか】だったと思います。「悠の命を返してほしい」ただ、それだけです。
突然、こんな惨い目に 遭って、私は立っているだけで、精一杯だったのに、加害者の保護者は、自分達の子供を守るため、これだけ謝っていると、病院の廊下で『ここに居ます』と手 を振るようにしていました。しかも、謝るのは、少年審判の結果がでるまでです。その後は全く謝罪もなく、初盆にもお線香の1本も無いです。本当に心から悪 いと思っているのだったら、現場の平野小学校に行って、お花か線香の1本でも上げてほしいと思います。
加害者も悠が脳死状態までずーと見てて、警察に電話することも、救急車を呼ぶ事もしないで、見殺しにした人達も心から謝罪してほしいと思います。もっと、責任を感じてほしいです。
15才の加害者は『障害者のくせに生意気』とか『ムカツク』からと、障害者の無抵抗な悠を脳死状態まで殴り続け、まだ、笑いながらいろいろなプロレス技を掛けていた。それを『見せて 見せて』と17才の加害者は言っていた。どんな育て方したら、こんな子供になるのか。
15才の加害者は打出中学校で3年間、悪の限りしてきて、弱いものばかりいじめてきたのに、加害者の母親は謝らない人で有名でした。
15才の加害者の母親が4月27日、1度、私の家に来ましたが、チャイムを鳴らし、名乗っただけで、謝罪はありませんでした。こんな母親が居なければ、悠 も殺されずに済んだのにとドア叩いて、地面叩いて、「悠を返して」と、近所の人が驚いて出てくるぐらい大声で泣いていました。
15才の加害者の父親は少年審判に立ち会っていますが、被害者に謝罪は全くありません。15才の加害者は去年の秋にも、自宅で下級生の手に大火傷させて、被害届も出てるのに、大津署は大きな事件が先と後回しにされていました。
もっと早く対処していれば、悠はこんな惨い目に遭う事なかったのに。それなのに、大津署の人は、悠は『交通事故で死んでた方がまだマシだった』と言われました。それほど、惨い目に遭って殺されたのです。
悠は私のエネルギー源で した。母子家庭のため、朝早くから夜遅くまで働いていたため、保育園の送り迎えは祖父母にしてもらっていました。私が亡くなっても、自立できるよう、小さ い頃から、熱心に習い事させてました。絵画教室行って、写生大会に参加しても必ず入選してました。新聞に特選で載った事もあります。有名な塾にも1回で合格し、特待生と席を並べていました。ピアノも習い、スポーツも万能で特に足が速く、必ず1番になりました。そんな、私の自慢の息子が、中学校でバトミントンの顧問の先生に「青木からバトミントン取ったら、何も残らない」とクラブを退部させられてから、打ち込む事が無くなった悠は遊ぶようになりました。交通事故に遭ったのは、その頃です。
悠は2年前に交通事故に 遭い、頭を強く打ったために、低体温治療法で奇跡的に大津市民病院で助けていただきました。左半身不随になり、私は脳外科の先生から、「左手が一生元に戻 らない」と聞いて、ただ、泣くばかりでした。あれだけ、運動神経の良かった子が寝たきりになり、不憫で不憫でたまりませんでした。スポーツ万能の悠が突然 寝たきりになり、チューブだらけから、クダから、おしめから車椅子から、やっと、歩けるようになるまでは、病院の先生、看護婦さん、婦長さん、リハビリの 先生の必死の努力がありました。
悠は「神様に生かされた」とどんなに辛いリハビリにも弱音を吐かず、血のにじむような努力の結果、歩けるようになりました。
3ヶ月余り、大津市民病 院に入院し、リハビリのため、有名な大阪のボバース記念病院に、紹介状もなく、まだ、あまり歩けない悠を連れて、何度も頼みに行き、やっと、念願かなっ て、入院させてもらいました。先生やリハビリの先生、婦長さん、看護婦さんの暖かい介護のおかげで、腰の負担のかからない歩き方や、もう、元に戻らないと 言われた、左手も少しは動くようになりました。毎日、毎日どんどん左半身の手足の筋肉が固まっていくのを、毎日、毎日、マッサージして、柔らかくしていく のです。
悠は我慢強く、「痛い」と一言も言いませんでしたが、リハビリ中、大人でも大声上げるほどで、相当痛かったと思います。それほど、辛い辛いリハビリに耐え、去年の3月22日に退院しました。
私が、リハビリの治療を優先したため、中学校の卒業式は欠席しました。悠はずーと、卒業式を出られなかったことを悔やんでいました。こんなに早く亡くなるのなら、無理してでも出席させてやりたかったです。可哀想なことをしたと思います。リハビリの通院のため、定時制に行ってたのを、大学に進むため、去年の夏は塾の夏季講習を受け、また、家庭教師の先生に来てもらって、猛勉強し、昼間の高校受け直しました。
凄いプレッシャーのなか、3月27日に合格し、毎日にこにこして、「これから、お母さんに心配かけた分、親孝行する」と言って、少しでも、お母さんを楽させたいと、不自由な身体で、食器洗ってくれたり、お花に水あげたり、家の掃除を手伝ってくれてました。やっと、親子で少し春が来たと喜んで矢先でした。
3月31日土曜日のお昼のことです。
『高校の合格祝いにカラオケおごってあげる』と15才の加害者から携帯で呼び出されたのです。悠は心優しいから、嫌な人でも、自分のために喜んでくれるのなら、笑顔で出かけたのです。『H』と名前を聞いていたなら、絶対に止めていました。
3月10日しつこく携帯で呼び出し、バイクに乗せ、暴走し、膳所のレストランに深夜に放置したのです。雪の振る寒い日でした。私は夜中の3時頃に自転車で、雪の降るなか迎えに行きました。二人で雪の中、とぼとぼと歩いて2時間ぐらいかけて明け方帰って着ました。
その前にも、悠は障害者でバイクも乗れないのに『バイクを壊した』と言ってお金を脅迫しています。17才の加害者の調書は嘘が多いです。悠は死人で口無しなので、加害者が悠を悪く言うのは、絶対許せません。放置したのに、『勝手に帰った』とどうしてなるのか。
加害者に「悠の命まで盗って、まだ変ないいがかりつけるな」と、私は、言いたいです。悠はお母さんを友達のように、何でも話していたし、日記も毎日のように書いていたのでいい加減な事は言わないでほしいです。
そんな恐ろしいことが、 平野小学校で待っているとも知らず、悠は、自宅を出る時、大好きなおじいちゃんの佃煮業の跡を継ぐため、「身体が不自由になった分、大学目指して、経営学 を学ぶ」と言っていたので、私が「滋賀大の経済目指し」と、言ったら、悠は「京都工芸繊維大学を受ける」と言い、私が「そんな無理や」と言うと、悠は「学 校休まず行って、死にもの狂いで勉強するから」と、笑顔で私に話し掛けたのが最後になりました。
辛い、辛いリハビリを乗り越え、大学目指すため、昼間の高校合格して、「1からやり直そう」としていた矢先に、こんな惨い目に遭ったのです。
加害者は悠が奇跡的に助かって、寝たきりからやっと歩けるようになったことを、知っているものが殺したのです。
「障害者のくせに生意気」と。あんなに行きたかった高校の入学式がお葬式になりました。
悠は160cmの50kgと華奢で、体力もなく、突然、障害者になりました。自分の身体を守ることもできないから、口で強がり言ってたかもしれません。
悠は明るい素直な子だっ たので、障害者になって、人の視線を気にしたり、意地悪されたり、仲間はずれにされても、前向きに生きました。お母さんを悲しませないように愚痴ひとつ言 わない子供でした。今まで、スポーツで発散させていたのが、身体が不自由になり、さみしい想いをしていました。私が「もっと友達を選び」とうるさく言って ましたが、悠は「みんな、どこか良いところがある」と言うような優しい子供でした。
17才と15才の知り合いのMと悠が仲が良かったため、殺された悠は可哀想すぎます。去年の11月、Mが大津市民病院に入院した時、悠は自分が入院した時、お見舞いも少なく、とてもさみしい想いをしたから、毎日、不自由な身体で、1時間以上もかかるのに、歩いて、電車に乗り継いで、雨の日も、体調の悪い日もお見舞いに行ってました。(殺人ほう助した3人も、お見舞いに行った時、知り合ったみたいです。)
悠の身体を心配した私が、「行くな」と言っても、「Mが寂しがっているから」と毎日お見舞い行っていました。
3月31日土曜日の夜、悠がもう帰ってくると、炊き込みご飯と茶碗蒸し作って待っていた時です。午後7時40分頃、Mから『悠君が平野小学校で気絶している』と電話がありました。『カラオケ』に行ってどうしてと思いました。
私は、すぐ119番に電話して、「2年前にも、大津市民病院で奇跡的に助けてもらいました」と言って、自転車で必死で平野小学校まで行きました。悠は救急車の中でした。ピクピクとしたので「あー生きている」と思いました。
大津市民病院に運ばれ、頭は異常に腫れて、あごの骨ははずれ、顔もゆがんでいました。服は全身ズブ濡れでした。Hに「カラオケに喜んで行ったのに何したん」『むかついたから、お腹をど突き、右足払いかけた』私はそれを聞いただけでも、リハビリでやっと、ここまで良くなった息子になんてことをしたんだろうと思いました。
自称空手3段の力で障害者を、コンクリートの1mの上から、パイルドライバー掛けられたのです。それも、笑いながら。その時は、お腹殴られただけで、どうして、こんなに頭が腫れているのか判りませんでした。Hは無表情でした。あまりに、頭の腫れが酷いのですぐ、丸坊主にされ、頭蓋骨を外す手術が行われました。その時、Hはアイスクリームを食べ、病院のソファーで寝そべっていました。
すぐ手術してもらいましたが、脳死状態で左目も瞳孔開いてて、100%助かる見込みはありませんでした。もう毎日、毎日、今日が山場と言われていました。それ程、頭ばかりやられて、脳がグシャグシャだったのです。
3月31日脳死状態になりながら、悠はとてもお母さん想いの優しい子供だったので、即死では余りにもお母さんが可哀想と6日間生き続け、亡くなる前の日、ICUから、少しでもお母さんと一緒にいさせてあげようと、病院の配慮でICUか ら個室に移り、私が悠の耳元で「恐ろしかったやろ、悔しかったやろ、お母さん助けられずに許して」と、大きな声で叫んだら、悠は涙を流したのです。涙でし か訴えることができなかった、悠の張り裂けそうな無念を思うと耐えられません。その時の怒りと悲しみが私を支えています。
大好きだった、大津市民病院の先生や看護婦さんに手厚い看護を受け、4月6日に亡くなりました。解剖のため、滋賀医大に泣いて見送ってもらいました。殺人なのに傷害致死で扱われ、何のために、解剖したのでしょう。余りに脳が腫れているので、頭蓋骨を外す手術をし、また、解剖されたのです。
大阪の病院まで、毎週1回、片道2時間の通院でリハビリは大変でしたが、治る可能性はあったので、親子で励ましあい、やっと、少し春が見えて来たという時に。酷過ぎます。
悠は将来、大学行って、 経営学学び、おじいちゃんの商売継ぎ、早く結婚したいとたくさんの夢を持っていました。子供もでき、悠は父親がいなかった分、寂しい想いをしたから、きっ といいお父さんになっただろう、たくさんの夢も希望も。私達、家族の幸せも一瞬で奪ったのです。悠はあれだけ「学校に行きたい。おじいちゃん、おばあちゃ ん、お母さんを楽させたい。」と願って来たのに。「命を大切に」と言ってた悠が、残忍な加害者に弄ばれて、命が奪われたのです。
生まれた時から、オムツ を替え、大切に愛情一杯かけて育ててきた孫が一瞬で殺され、祖父母は毎日、毎日、泣き暮らし、ショックで寝こんでいます。交通事故に遭ったとき、祖父は大 好きなお酒を絶ち、毎日、神さん参りをし、元気になることを祈ったのです。やっと少し歩けるようになり、不自由な身体でも、「おじいちゃん、何か手伝うこ とはないか」と悠は毎日、言ってました。祖父は、今でも、悠が亡くなったことが、信じられなくて、毎日、お経を唱え、気が変になったように、「悠はどこに 行った。まだ、帰って来ないのか」と毎日、私に聞きます。祖父母は孫のために、歩けない身体で杖を突いて、大阪まで仏壇を買いに行った時は、何て親不孝したと、私は心の中で泣いていました。
悠は去年の夏休み、私の 会社にアルバイトにきて、始めてのアルバイト代を半分、私にくれるような優しい子供でした。あれほど、悠はお母さんに負担かけまい、お母さんの幸せを願っ ていたので、私が泣いていたら、もっと、悲しむので、泣くこともできません。悠をこれ以上苦しめたくありません。悠の苦しみを思うと弱音は吐けません。
こんな、人間と思えない残忍な17才の加害者を逆送できたのに、村地勉裁判官は反省している、感受性があると、中等少年院送致にしたのです。
私は、裁判官が調書を全 部読んだのかと疑いました。なぜ、中等少年院送致なのか信じられません。せめて、悠の命を奪った、殺人をした加害者に極刑を望んだにそれも叶わなかったの です。裁判官に少年審判の前に、せめて、加害者に厳罰を望み、涙で意見陳述しても、加害者は中等少年院送致になり、被害者は救いはありません。
渾身の力で4月6日に亡くなった悠のために、「新少年法で裁いてほしい」と訴えました。
新聞・テレビで報道され、極刑を望み、1週間ぐらいで一万人余りの署名が集まりました。暖かい励ましの署名を持って、書記官に渡しました。15才の何の反省の無い手紙も持って行きました。田村書記官は署名を10万人集めても、「束が厚いだけで、何の意味がない。裁判官は判例で裁く」と言われました。
法律で裁いてくれないのなら、被害者に救いはありません。なぜ、殺人した加害者に将来があるのか?なぜ、刑務所でなく、少年院なのか?
なぜ、殺人した加害者は少年ということで少年法で守られるのか?なぜ、加害者は私が意見陳述の前に、加害者の弁護士から、少年院で1年~2年で出られると聞けるのか?何のために、私が意見陳述したのか?体裁だけだったのか?
人間が決めた法律ならば、もっと重い罪に変えられないのか?加害者は1年半か2年で、少年院で矯正教育を受けて、社会に出てきます。15才の加害者は何の反省もない手紙を「少年院って1年か1年半ででれるぞ」と出しています。
悠の将来も何もかも奪った加害者は少年院で3食 食事をし、太陽も浴びて、税金で暮しを守られています。悠は、あんなに毎日、毎日、元の身体になる事を願って、マッサージした手足がお骨になったのに。こ んなお骨を拾うより、辛い酷い調書を読んで、自分が大事に大事に育てた悠が殺されていく様子がわかり、助けることもできなくて、悠はどんな思いで意識が無 くなっていったか思うと耐えられません。気が狂ったり、病気になったら、悠はもっと悲しむと、自分を強く言い聞かせてきました。悠は死にたくなかったの に、こんな惨い目に遭わされて、親として、極刑が無理なら、加害者に同じ暴力を味わってもらいたい。悠の「死にたくない」と悲痛の叫びが聞こえます。裁判官や警察の方が被害者の力にならなくて、どこに救いを求めれば良いのでしょうか。
悠の元へ早く行きたくても、死ぬことも出来ません。これだけ、加害者は少年ということで、少年法で擁護ばかりされてます。
悠は亡くなったら、名前と住所が公表され、加害者は名前も写真も住所も発表されず、なぜ、殺人したのに、罰でなく、矯正教育なのか。
悠は殺されたから、悠の調書はありません。加害者の自分を擁護する調書ばかりで裁かれ、悠は殺されてどんな無念の気持ちでいるでしょう。
被害者はこんな甘い甘い懲罰に文句が言えなくて、残された道は、民事訴訟しかありません。大事な大事な悠の命をお金で償ってもらう、こんな悲しいことはありません。
せめて、悠の一生を奪った加害者、加害者の保護者は一生かかって、悠の味わった苦しみや悲しみを償ってください。事実は受け止めてください。自分達は命があるのだから。誠意を見せてください。
私の卒業した平野小学校で土曜日のお昼に、殺人が行なわれ、安全対策も怠り、校長先生からお悔やみの言葉もなく、『花も飾るな』と張り紙してます。
加害者5人共、打出中学校出身なのに、校長先生も知らん顔して、ひとつの大切な命が亡くなったのに、誰ひとり無責任にして、1~2時間、悠が殴られ踏ん張っていたのを、見ていた逮捕されていない3人は普通の暮しをしています。
法律で裁いてもらわなければ、被害者は張り裂けそうな怒りや、気が狂いそうな悲しみはどこにぶつけたらいいのでしょう。加害者の言い分ばかり聞いた大津署の心ない発表で新聞報道されました。
一生懸命、前向きに生き、これから、「回りに振り回されず自分の道を進んで行く」と目標たて、「幸せになります」とメッセージを残してました。
悠はやっと、障害者になったことを、受け入れて、4月からスイミング行くことにしパラリンピックで活躍して、有名になると言ってたのです。これからという時、殺された、悠の名誉のため、泣くことも寝込むこともできず、悠の母親として、微力ながら、戦ってきました。
大津署の方は休日を返上して、悠のためにいろいろ調べてもらいました。しかし、悠は脳死状態で、死人に口無しです。加害者の自分達を擁護ばかりした調書です。悠の命は帰ってきませんが、無念の死を遂げた悠のために、真実を明らかにしてほしいです。
どんなに泣いても、悠の命は戻ってきません。せめて、自分が戦うことによって、少年法が見直され、このような酷い事件が二度と行われないよう願います。こんなに辛い辛い被害者を作りたくないです。
あんなに、毎日、毎日「お母さん、喉渇いた。お腹が空いた」と言ってたのに、亡くなって、毎日、仏壇に声をかけ、[お供え]する毎日です。階段を引きずる足音が堪らなく不憫で、一生懸命、元の身体に戻ることを願ってきたのに、足音も声も姿も見えない静かすぎて、毎日、気が狂いそうな状態です。しかし、思い浮かべるのは、悠が笑顔で出かけた姿です。
初盆には『お母さん、そんなに泣くな』というように、笑顔で現れました。せめて、天国で大好きだった、尾崎豊やHIDEと一緒に歌っててほしいと思います。
これからは、悠がお母さんを見守ってくれてるから、悠と共に生きて行きます。加害者が一生かけて、償うのを見届けてから悠の元に行きます。
9月19日 青木 和代
暴言を吐いた当時の法務大臣
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