日本で暗殺された人物(餃子の王将社長)
大東隆行
大東 隆行(おおひがし たかゆき、1941年(昭和16年)3月8日 - 2013年(平成25年)12月19日)は、株式会社王将フードサービス営業本部長・代表取締役社長。大阪市出身。
『餃子の王将』を展開する王将フードサービスの大東隆行社長(享年72)が、4発の銃弾を撃ち込まれ、射殺されたのは昨年12月19日の早朝のことだった。事件発生から間もなく1カ月が過ぎようとしているが、いまだに有力な情報が得られず、当局は犯人像を絞り込めていない。
そうしたなか、本誌は中国・大連のマフィアと交流がある日本人から、ある重大な証言を得た。
仮にA氏とする、その人物は語る。
「黒幕は中国マフィアだ。王将が大連に店を出した際に、地元のマフィアにショバ代を要求され、トラブっていたんだ。実際、連中は王将の店舗が入ったビルの上のフロアを借りて水を撒くなど、嫌がらせも相当あった」
王将は05年8月に海外初の1号店を大連に出店。
それを足掛かりに餃子の故郷である中国全土への店舗展開を狙っていたという。
しかし、8年が経った現在も、大連に4店舗を出しているに過ぎない。
「そのショバ代のトラブルが解決しないから、話はなんにも進んでない。実は、王将側との仲介を地元の元ボスに頼まれたことがあるんだ。ヤバ過ぎて断ったけどな」(A氏)
A氏の話を総合すると、このトラブルの過程で、地元の王将側責任者が、日本の本社の許可なくマフィア側と、なんらかの念書を交わした気配があるという。
「"約束"が実行されないため、最近になって中国側が王将の本社に接触。当然ながら、大東社長はマフィアの要求をキッパリ断った」(前同)
その結果が、4発の銃弾だったというのだ。
「トップを殺ってしまうと進む話も進まなくなる、というのは日本的な発想。逆に、トップを殺ればビビって、ほかの者は言いなりになるというのが彼らの考え方。ケンカでも、一番強い奴をやっつければ、戦意喪失するという論理なんです」(中国事情に明るいジャーナリスト)
実行犯も中国人で、犯行後、直ちに出国。
すでに、今回の事件は迷宮入りの可能性が高いという。
「殺し屋はフリー。黒幕との間には何重もクッションがあって、万一、そいつが捕まっても、関係をたどられる可能性はない」(A氏)
そして、最後にA氏はこう呟いた。
「犯行に使われた25口径の拳銃は、大阪のヤクザが所持していたもの。それ以上は言えないけどな」
惨劇の真相が解明される日は来るのか……?
村井秀夫
村井秀夫刺殺事件(むらいひでおしさつじけん)とは、1995年4月23日に発生した殺人事件。 オウム真理教の幹部で「科学技術省大臣」の村井秀夫が、200人を越えるマスコミ関係者が集まり監視中の東京都港区南青山にあった教団東京総本部前で、山口組傘下の右翼団体構成員を名乗る在日朝鮮人に殺害された事件である。1995年4月23日午後8時35分、教団東京総本部ビル前において、山梨県上九一色村のサティアン群から戻ってきた村井が、犯人によって刃物で左腕と右脇腹を続けざまに刺された。村井ら教団幹部は、東京総本部に出入りする際は地下通用口を使用していたが、事件当夜は何故か施錠されており、村井が外階段を引き返し1階出入口に向かおうとした際に襲われた(後述の通り教団の事件関与を疑う見方もあったが裁判では認定されていない)。この様子はTVニュースで繰り返し放映され、日本中に衝撃を与えた。刺された後、直ちに村井は東京都立広尾病院に救急車で搬送されたが、右脇腹に受けた深さ13cmの刺し傷が致命傷となり、出血性ショックによる急性循環不全の為、翌4月24日午前2時33分に亡くなった。実行犯は事件後直ちに逮捕された。 事件直後の上祐史浩外報部長(当時)のTV番組内での証言によれば、村井は死ぬ間際に「ユダにやられた」と話したという。後の2000年2月の週刊プレイボーイ上のインタビューでは上祐は、「彼(村井)は刺殺される直前に、オウム真理教の事件その他はユダヤの陰謀であると言おうとしていた、そんな気配がある」「ユダヤ叩きというのは、僕にはどういう意味なんかよくわからない」が、「彼はあの直前に、テレビに出演してユダヤ叩きをやろう、という計画を立てていた」「刺殺される数時間前に彼から私の方に「ユダヤ叩きをやりますよ。今から戻ります」という電話があった」「彼はその直後に刺殺された」、と述べている。また、事件当日、「オウム出版の編集部に彼が「ユダヤの陰謀関係の本を集めてくれ」と依頼していたという事実もある」。
丹羽兵助
丹羽 兵助(にわ ひょうすけ、1911年5月15日 - 1990年11月2日)は、日本の政治家、元自由民主党衆議院議員。弟は自民党元衆議院議員の丹羽久章、孫は自民党衆議院議員の丹羽秀樹。俳優奥田瑛二を私設秘書として雇用していた。
腰の低い人柄から「お辞儀の丹羽兵」、あるいは毛利松平・森山欽司らと共に「お辞儀三人衆」と呼ばれたが、1990年10月21日、陸上自衛隊守山駐屯地(名古屋市守山区)で行われていた記念式典(一般市民にも公開)に来賓として出席していた際、部外者の男(統合失調症で入院中。当時は一時退院中であった)に首をナイフで刺された。出血多量により心肺停止状態で近隣の病院に搬送されたが、12日後の11月2日に死去。享年80(79歳没)。病院に搬送された際、秘書が申告した血液型と秘書が偶然持参していた国会便覧の血液型記載を信用し、通常は行われるクロスマッチテストが行われないまま、異なる型の血液が輸血されると言う医療事故も重なったが、司法解剖の結果、死因は頸部を切られたことによる失血死で、型違い輸血は死因に影響しないと判断されたという。なお、誤った血液型が記載されたのは、当時流行した血液型占いのブームが原因であり、血液型による印象が得票数に繋がると考えたのではないかと推測されている。
五十嵐一
五十嵐 一(いがらし ひとし、1947年(昭和22年)6月10日 - 1991年(平成3年)7月11日)は中東・イスラーム研究の学者。東洋思想の大御所井筒俊彦の愛弟子。新潟県新潟市出身。妻は比較文学の学者である五十嵐雅子。
1991年7月11日。夏休みのキャンパス内で殺害された筑波大学の五十嵐一助教授(当時44歳)は、熱心なイスラム研究家として知られていた。第一発見者は早朝出勤したばかりの清掃員の女性である。五十嵐助教授は7階のエレベータホールで首を切断寸前までかき切られ、あたり一面を血の海にして倒れていた。所持していた鞄にもいくつか傷痕があった。事件が日本だけに限らず世界にも衝撃を与えたのは五十嵐助教授がイスラム社会から禁書とされていた小説「悪魔の詩」の翻訳者だったからである。悪魔の詩はインド系イギリス人の作家サルマン・ラシュディによって1989年1月に発売されたものだが、その内容にイスラム教を冒涜するものがあるとしてイスラム圏では焚書が相次いだ。問題となったのは主人公が見る夢の中で預言者ムハマンドが神の言葉を記したコーランに悪魔の言葉が混じっていたということ。この言葉が悪魔の詩というわけである。そしてムハマンドの12人の妻の名前と同じ12人の売春婦が登場するなど、全体的にイスラム教を揶揄するような内容が含まれていたからである。
発売から1ッか月後、イランの最高指揮者ホメニイ師は著書のラシュディ氏と出版に関わった者に対し死刑を宣告した。イスラムでは宗教指導者による布告をファトワといい、法律と同様に扱われる。ホメイニ師の出したファトワによって、作者処刑の実行者には、280万ドル当時のレートで約3億6000万円もの賞金があたえられることとなった。しかも同年の6月にホメイニ師が死去したため、布告した本人にしか取り消せないファトワは撤回することができなくなっていた。
悪魔の詩・日本語版は90年に出版された。同時に訳者となった五十嵐助教授は著作「イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ悪魔の詩を訳したか」の中で、悪魔の詩は優れた文学作品で、イスラムを冒涜するものではないとして翻訳に踏み切ったことを記している。自分自身が処刑の対象になっていることを自覚しながら「ホメイニ師の死刑宣言は勇み足であった」「イスラムこそ元来もっと大きくて健康的な宗教ではなかったのか」とファトワを批判している。そして作者のラシュディ氏が警察の保護下で潜伏生活を強いられたのに対し五十嵐教授は周囲を警戒することなく平穏な日々をすごしていた。自分は翻訳したにすぎず、遠い日本にまで処刑の手は及ばないだろうという気の緩みがあったのかもしれない。一方でそれは長年イスラム文化と親しんできた助教授なりのイスラム教への信頼であったのだと言える。ところがイスラム系の新聞は、五十嵐助教授殺害のニュースをイスラム教徒にとっての朗報と伝えている。また、イランの反体制派組織「ムジャヒディン・ハルク」が犯行声明を発表。イスラムを愛した日本人の死が歓迎されたのである。
石井紘基
石井 紘基(いしい こうき、1940年11月6日 - 2002年10月25日)は日本の政治家。民主党などで衆議院議員として活動した。元秘書の石井ターニャ(政治文化研究所代表)は実の娘。
■事件2002年10月25日(読売)
25日午前10時35分ごろ、民主党の石井紘基衆院議員(61)(東京6区)が、東京都世田谷区代沢1の自宅前で男に刃物で刺され、目黒区内の病院に運ばれたが死亡した。男は現場から徒歩で逃走、警視庁捜査1課と公安部は殺人事件として北沢署に特捜本部を設置、捜査に乗り出した。
調べによると、男は無言で石井議員に近づき、左胸の上部1か所を柳刃包丁のような刃物で刺した。年齢50歳ぐらい、身長約1メートル70。グレーのジャンパー姿で、頭にバンダナのようなものを巻いていた。男は京王井の頭線池ノ上駅方向に逃走、現場近くでは、犯行に使われたとみられる刃渡り約30センチの包丁が見つかった。
衆院第1議員会館の石井議員事務所によると、この朝、公用車の運転手が同議員を迎えに行き、議員が自宅から出た直後に襲われた。石井議員は午前11時に世田谷区内で支持者と会った後、東京・永田町の議員会館へ向かう予定だった。
病院から石井議員の事務所に入った連絡によると、石井議員は心肺停止状態で運びこまれ、午後零時5分、失血死した。同議員の左胸には横に約3センチの刺し傷、下あごにも約5センチの切り傷があったという。
10月26日
民主党の石井紘基衆院議員(61)(東京6区)が、東京都世田谷区の自宅前で刺殺された事件で、石井議員と面識のある右翼の男(48)が26日朝、警視庁本部に出頭した。男は犯行を認める供述をしており、同庁北沢署の特捜本部は殺人容疑で逮捕状を請求するとともに、取り調べを始めた。容疑が固まり次第、逮捕する。男は昨年秋ごろから、石井議員に対し金銭を要求するなどしていたと見られ、同本部で詳しい動機を追及する。
男は同日午前7時前、東京・霞が関の警視庁本部の正面玄関受付に1人で出頭してきた。調べに対し男は、「自分がやった」と供述している。
調べによると、男は25日午前10時35分ごろ、同区代沢1の石井議員宅の前で、迎えの公用車に乗り込もうと玄関を出てきた石井議員に近づき、刃渡り約20センチの柳刃包丁で左胸上部などを刺し、失血死させた疑いが出ている。
包丁を事前に準備し、同日午前8時ごろから待ち伏せして犯行に及んでおり、石井議員の左胸には背中に貫通するほどの傷が残っていた。
同本部は、残忍な手口から、恨みによる計画的犯行とみて石井議員の周辺トラブルを捜査していた。これまでの調べや関係者の証言によると、男は昨年秋ごろから、石井議員の世田谷区内の事務所や永田町の議員会館の部屋を頻繁に訪れ、秘書らに「(石井議員に)金を貸している。仕事を紹介しろ」などと執ように迫っていた。また、今年春ごろからは、「都庁幹部を紹介しろ」などと要求をエスカレートさせ、そのたびに石井議員側に断られていたという。同本部は、こうした一連のトラブルで男が石井議員に恨みを持っていた疑いが強いとみて、行方を追っていた。
男は右翼団体を主宰し、政治団体の届け出もしていたが、警視庁によると、構成員は本人だけだったといい、今月中旬に、住んでいた同区奥沢のアパートを出た後、行方がわからなくなっていた。 (10月26日13:06)
・家族の証言「あの日は、朝、庭がごそごそいうので、前に頼んでいた庭師かな? って思って、インターホーンで聞いたら『XXX』って言って行ってしまいました。窓から見ると坊主頭でバンダナを巻いた屈強な男でした」
「石井はひとつきで刺されました。下りてみると、ナイフを引き抜いているところでした。すぐに警察に電話をしようとしたのですが、最初は電話がぜんぜん繋がらなかったんです」
やっと電話がつながり、最初にパトカーが数台来た。しかし多すぎた。あとから来た救急車は道路をふさぐパトカーのおかげで、石井の家までなかなか辿りつかなかった。パトカーが道をあけなければならなかった。その間、石井は出血しつづけていた。
「不思議なのは、救急車にやっと乗って病院に向かった時間にすでにテレビのテロップに石井紘基死亡って流れていたんです。国会でももう、犯人は右翼の伊藤白水(はくすい)ってメモ書きが議員の間を行き来してました。伊藤はXX日前に怪我をして事務所に傷の手当てを受けにきたりしていて、そんな人が石井を殺すなんて!」
伊藤一長
伊藤 一長(いとう いっちょう、本名の読みは「かずなが」、1945年(昭和20年)8月23日 - 2007年(平成19年)4月18日)は、日本の政治家。前長崎市長。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。「いっちょう」の読みは通名である。
2007年4月15日、長崎市長選挙が告示され、4選を目指す現職の伊藤と新人3人のあわせて4人が出馬した。4月17日午後7時51分、選挙運動の遊説をしていた伊藤が九州旅客鉄道(JR九州)長崎駅近く(長崎市大黒町)の自身の選挙事務所前に到着した。待ち構えていた記者たちと会見を開く予定だったため、事務所スタッフが記者らに市長が帰ったと告げた直後の午後7時51分45秒ごろ、男に銃撃された。
使用された拳銃は5連発式の回転式拳銃で、男は伊藤の背後から2発を発射し、2発とも伊藤の背中に命中した。男はただちに通行人に取り押さえられ、駆けつけた警察に連行され殺人未遂で現行犯逮捕された(後に容疑を殺人に切り替え)。伊藤は救急車で市内の長崎大学医学部・歯学部附属病院に搬送されたが、心臓と肺が裂けて既に心肺停止状態に陥っていた。心臓血管外科江石清行教授を中心とした医療チームが人工心肺を用いて懸命に治療したが、翌4月18日午前2時28分、大量出血のために死亡した。
男は指定暴力団山口組系水心会の幹部(会長代行)だった。逮捕された際、20発程の弾丸を所持していた。報道によると、市が発注する公共工事を巡って市を恨んでいた、あるいは自身の運転する車が市の発注した道路工事現場で事故を起こした際に車両保険が支払われなかったため、と報道されている。犯行当時の目撃証言により後日、送迎を行った者と報道機関へ送った書面の代筆を行った者が逮捕されたが、不起訴処分となっており、事件は幹部の男が単独で行ったものと見られているが、動機には不明な点が残っている。なお、事件の直前に被告人の知人男性からの電話が警察にあり、6月27日の長崎県議会総務委員会では警察の対応がまずかったのではないかとして議員らに批判された。
一方、男と30年来の付き合いがあり、彼の弁護を務めたことのある弁護士の松尾千秋は、市道工事現場での事故をめぐり、同容疑者から市側を告訴する相談を受けていたことを明らかにしている。また男は、1989年7月に当時の長崎市長であった本島等に対し「公表すれば問題になる写真を持っている」などとして、1000万円を要求した恐喝未遂事件を起こして逮捕されている。
長崎市で市長が銃撃されたのは、1990年の銃撃事件以来2度目であった。警察関係者は「この2つの事件は全くの無関係で、直接的関係は一切ない」としているが、1990年の事件の銃撃犯(右翼団体「正氣塾」の若島和美)は容疑者の知り合いであったということが判明している。
山口剛彦・美知子夫妻
山口 剛彦(やまぐち たけひこ、1941年(昭和16年)12月30日 - 2008年(平成20年)11月17日)は、日本の厚生官僚。正四位瑞宝重光章。厚生事務次官、社会福祉・医療事業団理事長、独立行政法人福祉医療機構理事長を歴任した。元厚生事務次官宅連続襲撃事件で妻とともに殺害された。
概要2008年11月17日と11月18日に元厚生省(現厚生労働省)事務次官の自宅が襲撃される事件が発生。死者2人、重傷者1人を出す事態となった。
最初の事件から5日後の11月22日午後9時に、46歳男性がレンタカーで警視庁前に乗り付けて警視庁に出頭し、自分が厚生事務次官を殺害したと供述した。11月23日午前2時、警視庁は男性がレンタカーに血のついた2本を含めた刃物など犯行時に使ったとされる物証を携えていたため、銃刀法違反で男性を逮捕した。
山口剛彦宅襲撃事件
11月17日夕方、埼玉県さいたま市南区別所の山口剛彦宅が襲撃される。山口と妻が刺され、死亡。
翌11月18日午前10時頃、自宅玄関で山口夫妻の遺体が発見された。山口宅前の路上には約50メートルにわたって血痕の付いた足跡が残されていた。
吉原健二宅襲撃事件
11月18日夕方、東京都中野区上鷺宮丁目の吉原健二宅が襲撃される。吉原の妻が刺され、重傷を負って玄関の外で倒れていたのを通行人に発見され、保護された。
吉原本人は外出中だったため襲われなかったが、この事件では玄関付近と玄関外のみ血痕の付いた足跡が存在していた山口剛彦宅襲撃事件と異なり、血痕の付いた足跡が吉原氏宅前の路上ではなく、家の中にも存在していたことから、犯人が吉原を探していた可能性が指摘された。
実行犯の出頭と逮捕
最初の事件から5日後の11月22日に46歳男性がレンタカーで警視庁に出頭し、犯行を自供。11月23日午前2時、警察は男性がレンタカーに血のついた2本を含めた刃物など、犯行時に使ったとされる物証を携えていたため、銃刀法違反で男性を逮捕した。
また、男性は出頭直前に、「元厚生次官宅襲撃事件について。今回の決起は年金テロではなく、34年前に保健所に飼い犬を殺された仇討ちである。最初から逃げる気は無いので今から自首する」旨のEメールを新聞社やテレビ局などのマスコミに送っており、これが事実上の犯行声明とされた。
拘留中の男性は、元事務次官の住所については国会図書館などの図書館で古い名簿を閲覧して入手したと述べている。また、男性は元厚生事務次官4人と元社会保険庁長官1人の計5人の自宅を襲撃する予定だったが、吉原宅襲撃事件以降は警備が厳しくなったため断念したと述べた。また、宅配を装った際に、箱に伝票を張りつけ、差出人欄に「日本赤十字社」と記載するなど、応対に出る家人から怪しまれないようにしていた。
警察は男性のレンタカーや自宅を捜索し、パソコンの解析や電話履歴の確認を取るなどして背後関係を洗ったが、複数犯であるとする証拠は出てこず、単独犯の様相をみせている。