6名が“つるはし”で殺害「ヒンターカイフェック事件」とは?

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ヒンターカイフェック事件

ヒンターカイフェック事件(ヒンターカイフェックじけん)とは、ドイツ史上最も謎の多い犯罪として知られる殺人事件である。1922年3月31日の夕方、ヒンターカイフェックの住人6名がつるはしによって殺害された。事件は現在も解決されていない。ヒンターカイフェックは、現在のヴァイトホーフェン(バイエルン州の都市インゴルシュタットとアウクスブルクの間、ミュンヘンの約70キロメートル北)の近郊にあった小さな農場である。

6名の犠牲者は、農場の主人の男性(63歳)とその妻(72歳)、夫妻の娘(35歳、未亡人)とその子供2名(7歳の女の子と2歳の男の子)、そして農場の使用人の女性である。2歳の男の子の父親は、農場の主人であると噂されており、彼らの近親相姦行為は多くの人々に知られていた。

出典:世界で起こった未解明事件ってぞくぞくするよな : はれぞう

	

惨劇の舞台となった農場

ヒンターカイフェックで一家6人の惨殺死体が発見された。


 アンドレアス・グルーバー(64)

 ツェツィリア・グルーバー(73・妻)

 ヴィクトリア・ガブリエル(35・娘)

 ツェツィリア・ガブリエル(7・ヴィクトリアの子)

 ヨーゼフ・ガブリエル(2・同上)

 マリア・バウンガルトナー(45・女中)

犯行

一家は3月31日夕方から翌日未明にかけて殺害された。凶器はいずれもつるはしである。夫妻と娘、孫娘の4人は、母屋と廊下で繋がれた納屋で殺されていた。1人づつ誘き出されて襲われたものと思われる。一方、幼いヨーゼフと女中はそれぞれの寝室で殺されていた。

 なお、女中のマリアはその日に奉公したばかりだった。


 事件の数日前、グルーバーは怪しい足跡を見つけたことを隣人たちに話していた。雪の上のその足跡は森から農場へと続いていたのだが、その後はぷっつりと途切れていたという。また、屋根裏で足音がするとも語っていた。警察に届けることを勧めると、グルーバーは拒んだという。

「ああいう連中とは関わりたくないんでね」

 事件後、屋根裏を調べた警察は、足音を消すために敷かれた藁を発見した。人が寝たと思われる凹みもある。外が覗けるように瓦がずらされている。誰かが、おそらく下手人がここに潜んでいたことは間違いない。


 事件が4日も発覚しなかったのは、グルーバーの農場が村外れにあることはもちろん、一家が変人視されていたためである。近所づきあいがあまりなかったのだ。

 絶対的な家長として君臨していたアンドレアス・グルーバーは、とにかくケチで有名だった。農繁期にもまともな口入れ屋から人足を雇うことなく、流れ者を安い給金でこき使っていた。しかし、その一方で、小金を貯め込んでいるとのもっぱらの噂だった。

 ヴィクトリアの夫、カール・ガブリエルは第一次大戦で戦死していた。故に2歳のヨーゼフの父親はアンドレアス・グルーバーではないかと疑われた。つまり父親と娘の近親相姦が噂されていたのである。


 そんな一家であるわけだから近所づきあいがなかったことも宜なるかな。4月1日にツェツィリアが学校を欠席しても、2日の日曜日に一家が教会に現れなくても、村人はさほど気にしなかった。

 4日になって、農機具の修理に出向いた技師が誰もいなかった旨を村人に報告。ようやくおかしいことに気づき、3人の村人が様子を見に訪ねたところ、遺体を発見して震え上がった次第である。


 当初は物盗りの犯行と思われていたが、母屋から多額の現金(殆どが紙幣ではなく銀貨)が見つかったことから、その線は疑わしくなった。下手人は犯行後、何日間は農場に留まっていたと考えられている。家畜の牛や豚、飼い犬に餌が与えられていただけでなく、煙突から煙が出ていたとの証言もある。故に物色する時間は十分にあった筈だ。にも拘らず、現金は手つかずのままだ。謎は深まるばかりである。


 ここから先はちょっと驚きなのだが、遺体の頭部は切り落とされて、ニュルンベルクの霊媒師のもとに送られたという。当時のミュンヘンでは心霊捜査が普通に行われていたのだそうだ。しかし、何の成果も得られなかった。

 6人は頭がないまま埋葬されて今日に至る。肝心の頭は第二次大戦のどさくさに紛れて紛失してしまったというから酷い話だ。

出典:殺人博物館〜ヒンターカイフェック事件

	

捜査

4月5日にはミュンヘン警察の捜査員が到着し、納屋で検視が行われた。

その結果、屋根裏に足音を消すための藁が敷かれていたことと、犯人が寝ていたと思われる跡を発見した。


また、敷地の様子を一望できるように、屋根瓦が何枚か外されていた事が判明した。

検視を行った監察医は、凶器として最も可能性があるのは「つるはし」であることを突き止めた。


当時捜査に「霊能力捜査」を採用していたミュンヘン警察は、心霊捜査官に調査をさせるため、現地で遺体の頭部を切断してニュルンベルクに送った。しかし、この霊能力捜査は大きな成果を上げることはできなかった。


近隣住民の証言によると、事件の2、3日前、農場主のアンドレアスは怪しい足跡を発見したというのである。

足跡は雪上で見つかり、近くの森から何者かが農場までやって来た跡があったが、農場から戻って行った形跡はなかったという。

さらにアンドレアスは屋根裏で足音を聞いたり、見慣れない新聞紙が農場に落ちているのを見付けたとも語っていた。


また、事件直前には農場の鍵のいくつかを盗まれていたが、何故かアンドレアスは警察に届けなかったらしい。

この証言は、納屋に残された犯人が寝ていた痕跡や、屋根瓦が外されていた点と合致していたことから、有力な証言として今に語り継がれている。


警察は当初、犯人の動機を物盗りと考え、近隣の村の住民のほか、周辺を渡り歩いていた浮浪者や前科者、行商人などを取り調べたが、農場の母屋から多額の現金が発見されたことから、結局この線での捜査は取りやめることになった。


気味の悪い話だが、犯人は、犯行後の何日間か、農場に居残っていたと考えられている。

しかも、犯人によって農場の牛や鶏に餌が与えられていたほか、台所でパンや肉を食べた跡が見つかり、更に近隣の住民の中には週末の間、農場の煙突から煙が出ているのを目撃した者もいた。


もし、犯行の動機が物盗り目的ならば、犯人はその間に現金を見つけられたはずであり、また現金を見つけ次第、直ちに逃走していたはずである。


犯人は、子供を含む6人を残虐に殺害しておきながら、牛や鶏には愛情深く餌を与えていたのである。しかも、現金には一切手を付けずに、食べ物だけは食い荒らし、数日間死体が転がっている家の中で寝息を立てていたのである。


このことから、犯行は「怨恨」によるものではないかということで、次に「怨恨説」で捜査が行われた。


捜査は近隣住民や親戚縁者に対して行われたが、難航を極め、ついには1914年に戦死したとされる娘ヴィクトリアの夫カール・ガブリエルにまで向けられた。


ドイツ帝国軍の公式記録でカールはフランスで塹壕戦のさなかに戦死したとなっていたが、死体が見つからなかったからである。

しかし、結局この「カール説」についても満足行く結果には至らなかった。


むしろこの頃から殺害されたアンドレアスと家族に関する「黒い噂」が近隣でささやかれるようになった。

アンドレアスは生前、「吝嗇漢」として近所では有名な存在であった。

そのケチぶりは常軌を逸しており近所とのトラブルにまで発展したケースもあったようである。

農繁期になると、人手を得るために周辺にいる浮浪者や前科者に声をかけては安い賃金で雇い入れる程であり、近所でも噂になっていたそうだ。


また、アンドレアスの娘ヴィクトリアには2歳になるヨーゼフという男の子がいたのだが、この子の父親はヴィクトリアの父親であるアンドレアスではないかという噂があったらしい。

いずれにしても、ヴィクトリアの夫カールは1914年に戦死しているわけだから、ヨーゼフの父親は誰なんだという話になるわけである。


そこで一番怪しいのがアンドレアスだったわけである。アンドレアスは家族の中では専制君主のような存在だったようで、家族の者は誰もアンドレアスに逆らえなかったらしい。


「近親相姦」の事実は医学的に証明された話ではないが、この事件の異様な雰囲気におぞましい花を添える話として今に語り継がれている。


当時のドイツはヴァイマル共和政の時代であり、第一次世界大戦の敗北後、ヴェルサイユ条約で数々の屈辱的な条件を飲まされた挙句、戦時中に大量発行された戦時公債の償還、軍人の復員費などの膨大な出費、そして産業の停滞による税収減が政府の財政を圧迫していた。


時のバウアー内閣は戦時利得者や富裕層に税金をかけることで補おうとしたが、右派の抵抗にあって実現しなかった。政府は紙幣の増発を行うことで対処しようとしたため、次第にインフレーションが進んでいった。


1923年には、ドイツの連合国側に対する賠償金支払いが遅滞しているとして、フランスとベルギーがドイツ屈指の工業地帯であるルール地方を軍事占領するという事態となり、ヴァイマル政府は労働者による抵抗運動を呼びかけたが、世情不安による怒りの声がドイツ全土で湧き上がり、各地でストライキや反乱が発生した。


こうした影響を受けてインフレはさらに加速し、1年間で対ドルレートで7ケタ以上も下落するという空前のハイパーインフレーションとなり、パン1個が1兆マルクとなるほどの状況下で、100兆マルク紙幣も発行されるほどであった。


さて、話を元に戻すが、「ヒンターカイフェック事件」はまさにこのような時代に発生した事件であり、社会の混乱の渦中で重大な点が見落とされたり、もしくは、この混乱が犯人に行方を眩ませる機会を与えた部分は否めないのかもしれない。


いずれにしてもこの「ヒンターカイフェック事件」は歴史の濃霧の中でいまだ解決の光明を得ることができず嘆き続ける6人の魂とともに彷徨い続けているわけである・・・。

出典:おぞましきヒンターカイフェック事件|マンテカのブログ

	

懸賞金

犯人逮捕に繋がる情報に対して10万マルクの懸賞金が掛けられ、何百人もの村人が取り調べられたにも拘らず、手掛かりは一向に得られなかった。ミュンヘン警察の高飛車な態度が村人の反感を買い、捜査を困難にしたとも云われている。

出典:殺人博物館〜ヒンターカイフェック事件

	

謎の多い一家

この一家の暮らしぶりにも以前から謎が多かったようだ。彼らの農場は村外れにあり、近隣住民との付き合いも悪かったため、周囲からは「ケチで変人の」一家と評されていた。事件後の発見が遅れたのも、そのためであると言われている。彼らのケチは異常ともいえるほどのもので、トラブルにまで発展することもあったほどだという。しかしこの「ケチで変人の」一家の娘・ヴィクトリアが、事件の数日前、多額の寄付金を携えて教会の懺悔室にやってきたことが目撃されているのだが、その真意は定かではない。加えて、ヴィクトリアは、自身の父親であるアンドレアスとの間に息子・ヨーゼフ(2)をもうけたとされており(ヴィクトリアの夫は数年前に第一次世界大戦で戦死していた)、一家の近親相姦行為は多くの人々の間に衝撃とともに広まっていた。

出典:憑依、怪しい足音、近親相姦、行方不明の頭部... ドイツ史上最大の未解決事件「ヒンターカイフェック事件」(2ページ目)- 記事詳細|Infoseekニュース

	

使用人の残した言葉

事件発生の半年前である1921年9月、使用人の女性が「この農場は何かにとり憑かれている」と言い放ちこの農場を去っていたことが明らかになっている。その後、一家は新たな使用人を雇うこととなるが、事件が発生したのは、まさにその新たな使用人が農場にやってきた当日のことだった。不幸にも、彼女は使用人として農場に到着したわずか数時間後に、悲惨な事件の被害者となってしまったのだ。

 以上のように不可解な点ばかりが目立つ事件であるが、どうやら警察の捜査手法にも、解決を遠のかせてしまう原因があったようだ。実は当時のミュンヘン警察は、捜査に霊媒術を用いており、一家の遺体の頭部を切断したうえ、霊能力者に宛てて送ってしまったのだった。その霊能力者の分析は大きな成果を上げられないまま、遺体の頭部も第2次世界大戦中の混乱の中で紛失してしまっている。

出典:

	

その後

6名の遺骸はヴァイトホーフェンの墓地に埋葬され、墓地には事件の記念碑が建立された。ニュルンベルクに送られた頭蓋骨は、第二次世界大戦の混乱で紛失され戻ってこなかった。現在、農場跡地の近くには祠が立っている。

農場は事件の翌年の1923年に取り壊された。取り壊しの際、殺害に使用されたつるはしが屋根裏部屋の床板の下から見つかった。

捜査は1955年になって一旦打ち切られ、1986年には改めて事情聴取が行われたが、成果は上がらず、捜査は終了した。

しかし、現在も事件の真相を解明しようとする人は多い。

出典:ヒンターカイフェック事件 - Wikipedia

	

農場跡地近くに建立された慰霊碑

			

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