【画像あり】散弾銃で無理心中か 病院理事長の松本義峯さん(75)が妻の亜耶乃さん(30)を殺害後、自身の頭を撃つ

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東京・大田区の田園調布で、病院の理事長と妻が自宅で死亡しているのが見つかる­。事件は田園調布のまさに高級住宅街で起こった事件、閑静な夜に一体何が?


家族構成もおかしく

父:松本義峯さん(75)

妻:亜耶乃さん(30)

娘:次女(36)


となっており、パッと見るあたり財産目当てで結婚したのでは?そして、なぜ無理心中したのかを考えると病院の経営不振 or 妻の浮気が原因であるのかもしれないと憶測ですが、事件の背景を勘ぐってしまいます。



散弾銃で無理心中か 病院理事長夫婦が死亡

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 17日午後1時10分ごろ、東京都大田区田園調布の民家で、住人の横浜桐峰会病院(横浜市)理事長、松本義峯(よしたか)さん(75)と、妻の亜耶乃(あやの)さん(30)がベッドの上で血を流して死亡しているのが見つかった。

出典:散弾銃で無理心中か 病院理事長夫婦が死亡 東京・田園調布 - 産経ニュース

義峯さんが散弾銃を胸に抱えていたことなどから、警視庁田園調布署は義峯さんが亜耶乃さんを銃で撃って殺害後、自殺を図った無理心中とみて詳しい経緯を調べている。

出典:散弾銃で無理心中か 病院理事長夫婦が死亡 東京・田園調布 - 産経ニュース

 同署によると、2人は2階の寝室のベッドの上であおむけに並んで倒れていた。義峯さんは顎の下、亜耶乃さんは腹や胸にそれぞれ撃たれたような傷があった。いずれも寝間着姿だったという。

出典:散弾銃で無理心中か 病院理事長夫婦が死亡 東京・田園調布 - 産経ニュース

 同病院に勤務する次女(36)が出勤時間を過ぎても義峯さんが来ないことを不審に思い、警備会社に連絡。警備員が義峰さん宅のかぎを開けて室内に入り、2人が死亡しているのを発見し、119番通報した。

出典:散弾銃で無理心中か 病院理事長夫婦が死亡 東京・田園調布 - 産経ニュース

 散弾銃は義峯さんが猟銃として登録し、所持していたものだった。同署は次女らから事情を聴くなどして動機を調べる。

出典:散弾銃で無理心中か 病院理事長夫婦が死亡 東京・田園調布 - 産経ニュース


亜耶乃さんの胸と腹、そして松本さんの頭には散弾銃で撃たれたような痕


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 調べによりますと、亜耶乃さんの胸と腹、そして松本さんの頭には散弾銃で撃たれたような痕があったということです。

出典:「散弾銃で無理心中か、病院理事長夫婦が死亡」 News i - TBSの動画ニュースサイト

 「ビックリしちゃって震えている。散弾銃があるって聞いて、銃があるなんて怖くて。最初は強盗かと思った」(近所の人)

出典:「散弾銃で無理心中か、病院理事長夫婦が死亡」 News i - TBSの動画ニュースサイト

 警視庁は、松本さんが妻の亜耶乃さんを散弾銃で殺害した後に自殺した無理心中とみて、動機や詳しいいきさつを調べています。松本さんの病院に勤めている次女から『父が出勤してこない』と警備会社に通報があり、発覚したということです。

出典:「散弾銃で無理心中か、病院理事長夫婦が死亡」 News i - TBSの動画ニュースサイト


高級住宅街で一体何が?


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 事件は田園調布のまさに高級住宅街で起こりました。この場所は、田園調布の駅からはちょうど500mの高級住宅街にあたります。

出典:無理心中? 病院理事長、散弾銃で45歳差妻殺害か (テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

17日、横浜桐峰会病院の理事長・松本義峯さん(75)と妻の亜耶乃さん(30)が寝室のベッドで血を流して仰向けで倒れているのが見つかりました。

出典:無理心中? 病院理事長、散弾銃で45歳差妻殺害か (テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

横浜桐峰会病院によりますと、松本さんは15日までは病院に出勤していましたが、16日からは休んでいたということです。警視庁は、松本さんが亜耶乃さんを散弾銃で撃って殺害し、無理心中を図ったとみて調べています。

出典:無理心中? 病院理事長、散弾銃で45歳差妻殺害か (テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース


無理心中? 病院理事長、散弾銃で45歳差妻殺害か




理事長先生(松本義峯さん)の月給は10万円だった!?


現在は削除されたページでしたが、キャッシュが残っていましたので引用させていただきます。前からあるページですが、おそらく事件が起こり本人の情報が書かれていたページなので削除したのでは


インタビュータイトルが「理事長先生の月給は10万円」と銘打ってインタビュー文がずらっと並んでいます。



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手術でないと助からない患者さんがそこにいる手術が終わるまで何も考えられない、ただ手術に没頭する それが人生


当院は年間で1500~2500件の救急患者を受け容れています。開院以来一日も休むことなく、救急車を毎日5~6件 軽症から命にかかわる重症まで受け入れています。

現在手術は週に10件平均、月間で50件強、そのうち直接命にかかわるのが10件、整形が15件ぐらい、残りが軽症も含めて25件 ざっとこれぐらいですが、40年間で一番忙しかった時などは一日胃・十二指腸・腸穿孔などだけでも24時間で7件数えた日もありました。


私は昭和40年三重大学を卒業後、同大学院第一外科に入学し中退、その後名古屋大学医学部第二外科に副手として入局しました。

在局中に派遣勤務で兵庫県公立八鹿病院、愛知県蒲郡市民病院、その後築地の国立がんセンターで、内視鏡を勉強し、神奈川県横須賀市の米国海軍病院でendoscopic surgeryとして指導にあたりました。

ジャズトランペットが趣味で、今でもプロのジャズバンド(ドクター松本&ストレンジャーズ)のバンドマスターをやっているのですが、その為、日本のジャズの発祥地である横浜に住みたいと考え、昭和46年に横浜市郊外にあった産婦人科の貸し医院を改修し、外科を開業しました。


開業して最初の手術は膵臓がんでしたが、産婦人科の分娩台で手術したのを覚えています。

開業後も、神奈川県がんセンター内視鏡倉俣先生、横浜市立大学第二外科大久保講師や池田助教授、杉山教授、脳外科の山口助教授、藤沢市民病院院長笠岡先生、神奈川県がんセンター小泉総長など蒼々たる第一戦外科医の薫陶と指導を受けながら続けてこれたことは幸せでした。


常にそばにいて開業を助けてくれた、相棒の吉岡立樹脳神経外科医や、北里大学麻酔科仲野講師の存在も大きかったと思います。

これらの出会いに深く感謝しています。

開業当初、産婦人科の貸医院の設備を使ったので外科の手術台と違ってテーブルが低く、12時間かかった手術の間に腰が痛くなり、何度もしゃがみこんで手術を終えた事を憶えています。

手術には真摯な気持ちで立ち向かいました。万が一患者さんの命に支障をきたしたら、という恐怖が原点にあったようです。


開業後まもなく、手術待ちの患者さんがたくさん並ぶようになったので、現在の場所に移して60床の外科、放射線科、整形外科、麻酔科の病院を建てたところ、新しい病院はすぐにフル回転するようになりました。

第8次まで増築を重ねた病院は、大学病院並の手術室も備えています。

昨今は、銀行もなかなか新規開業医にお金を貸してくれませんが、当時は実績があればいくらでもお金を貸してくれました。

「先生流行ってますね。これじゃ狭いでしょう。新しい病院を建てましょう」と言われて、夢もふくらみ、当時600ベッドの病院をたてるべく土地を物色しました。

話のあった土地は現在聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院の土地でした。何故か、地主さんに売ってもらえませんでしたが、横浜市に売る方が一民間病院の私に売るよりも都合良かったのだと思います。あっさり断られて今のところに117床の病院をたてました。


幼稚園の頃から祖母に繰り返し外科医になれと勧められ、その祖母が尊敬する愛知県碧海郡大字中島の足立病院の院長を目指して医者になるようインプットされました。

産婦人科病院の大先生でしたが、馬に乗って往診し、産婦人科の手術だけでなく盲腸などの外科手術も行い、地域から尊敬されていました。従って子供の頃から外科医になるように、お祖母さんにインプット(洗脳)されてきました。

開業後は、診察と救急医療と手術に明け暮れ、家庭を顧みることもできず、とうとう4年前に奥様から愛想を尽かされて離婚されました。

娘も医者にしようと思い、3歳のころから手術のにおいを嗅がせてきました。今では当院の外科 整形外科医師として専門医の資格も取り、診療にあたってくれています。



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MRT紹介のドクターは、患者さんの人生と対話ができる

開業当初は医者も看護婦もたくさん集まりました。

アメリカ留学から帰ってきて、「自分は手術のために生まれてきたんだ。その能力をここで発揮してやる」と豪語するような一騎当千の医者が続々と来てくれたものです。

外科医として開業するためには自分ひとりでどんな症例でもマルチにこなせる能力を身につけなければなりませんから、技術を身につけるためにガムシャラに頑張る若手医師を、横浜の地の利を活かして全国から雇うことができました。現在は国立大学の教授になった人もいますし、メイヨークリニックの教授になった人も勤務してくれました。


ところが昭和60年に医療法が変わって病院の地域規制が始まり、新規に病院をたてることが出来なくなりました。

外科医としてどんなに腕を磨いても、自分の病院を作ることが出来ません。 病院を経営するためには潰れた病院を買収するしかなく、その為には最低でも10億円の資金が必要になります。おいそれと開業できるものではありません。

このあたりから一騎当千の何でも外科医、つまり全体外科医が激減いたしました。


そういう現状の中で、MRTさんには大変助けてもらっています。口コミでMRTさんのことを知って、「外科系をマルチにこなせるドクターをお願いします」と頼んだのですが、ご紹介いただいたドクターは皆さんずっと残っていただいていますが、ほぼ希望に叶うドクターを紹介して頂いています。

MRTさんから紹介いただいたドクターのすばらしいところは、まず患者さんと対話ができる、それも患者さんの人生と深く対話ができることです。

更にマルチな技術も全体医として、幅広く専門以外にも勉強してくれているドクターが集まってくれています。

横浜桐峰会病院のような外科系を中心とした個人の救急病院にはとてもありがたいことです。


その点、MRT紹介のドクターが診察に座ると、評判を聞いて、毎週患者さんが増えてくるようです。

患者さんとの対話も気持ちよいくらい紳士的で、礼儀もわきまえて会話してくれますので病院の品格もあがり、患者さんも感謝して帰ってゆきます。

やはりMRTさんはきちんと面接をしてドクターを選んでいるということと、評判の良い医師紹介会社には優秀な人材が集まってくるということなのでしょう。


引用元:理事長先生の月給は10万円


松本義峯さんの画像

松本義峯さんの画像

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松本義峯さんの画像

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松本義峯さんの画像

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松本亜耶乃(30)さんの画像や情報はネット上では残念ながら発見できず・・・


ここまで探して出てこないということは、松本亜耶乃さんはインターネットをあまり利用していなかったか利用していたとしても、FacebookなどのSNSには登録していなかったようです。



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Sharetube