ファンタジー号事件「鈴木嘉和さん(風船おじさん)」とは
風船おじさん=鈴木嘉和
略歴
東京都でピアノ調律師の一家に生まれる。国立音楽大学附属高等学校を卒業後、ヤマハの契約社員となり、東京都小金井市でピアノ調律業を営む。1984年、44歳のときに音楽教材販売会社ミュージック・アンサンブルを起業して、ピアノカラオケの「マイナスワンテープ」というオーケストラからピアノの音を抜いた録音テープの販売を開始。1986年には銀座では音楽サロンのあんさんぶるを開店。さらに麻雀荘やコーヒーサロンやパブレストランなどを経営していたが、いずれもうまくいかず、1990年にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産。借金苦に陥る。ビニール風船26個を付けたゴンドラ(飛行船)「ファンタジー号」による太平洋横断で借金を返済すると債権者に語っていたという。
1989年に横浜市で開催された横浜博覧会にテナント出店をしたが、会場内における立地が悪いこと及び、博覧会自体の集客が順調でないことから経営は不振だった。これに対し博覧会運営当局が対策を取らないことに抗議して、同年7月30日に高さ30メートルの塔に博覧会のマスコット「ブルアちゃん」のぬいぐるみを着てよじ登り、塔からは「団体バス駐車場を開放してね」という垂れ幕を垂らした。7時間立てこもり、119番通報されたハシゴ車と警察が出動する騒ぎになった。警察によって引き降ろされたが、抗議の際には出店に3,000万円を要したとしていた。
この抗議の後、独自の客寄せとしてヘリウム風船の浮力で高さ10メートルから20メートルに浮かぶ「空中散歩」を自費で博覧会場に設置した。
経営する銀座のパブに出資してもらったことから、1991年7月から歌手のグラシェラ・スサーナのマネージャー業をしていたが、1992年になって、契約を解消。
家族
1992年5月に国立音楽大学のピアノ科講師で高校時代に1学年上だったピアニストの石塚由紀子とは音楽教材の仕事をともにするようになり、やがて3度目の結婚。石塚は2000年に著作『風船おじさんの調律』(未來社・ISBN 4624501292)を出版した。2003年6月に、継子の石塚富美子がバイオリン奏者「fumiko」としてデビューした。2004年にはNHKのドラマ『火消し屋小町』で女優としてもデビューした。
石塚にはfumikoの他に娘2人がおり、1994年に母娘4人でファミローザ・ハーモニーというクラシック音楽を中心にした音楽グループを結成し、ディナーショーを開催したり、日本国外でも活動した。なお、娘3人は石塚の前夫との間の娘であり、鈴木との血縁関係はない。先妻との間には実子をもうけている。
多摩川からちょっと風船で飛んでみた
1992年4月17日。最初に行われた風船飛行は、府中の多摩川から千葉の九十九里浜を目指すという大冒険計画から始まった。
風船おじさんは、警察の制止を振り切って飛行を断行。5メートルと3メートルの風船を各2個を括りつけた椅子に乗って大空へと舞い上がった。
ここまでは風船おじさんの計画通りだったが、なんと椅子に付けていた重石の紐が切れるというアクシデントが発生!
重石を失ったことで、風船おじさんは予定の高度を大きく越えて上昇してしまう。
焦った風船おじさんは飛び降り…なんてことはせず、5メートルの風船の紐をライターで切り、高度を落としていく作戦に出た。この思惑はなんとか上手くいき、風船おじさんは約24キロ離れた大田区の民家の屋根に不時着した。
不時着後、おじさん自体の被害は左手に軽傷を負う程度で済んだ。その後警察の人にはこってり絞られていたが、成功してれば次はハワイに行くつもりだったと宣言し、周囲を呆れ果てさせた。
ちなみに不時着された家は、屋根の瓦が何枚か割れて、アンテナも折れ曲がってしまったが、細かいことは気にしない風船おじさんはその被害者宅に謝罪及び弁償は一切なかったという。
ファンタジー号事件
1992年11月23日、当時52歳の鈴木嘉和が、ヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」で試験飛行を行うことになった。鈴木に電話で呼び出された同志社大学教授の三輪茂雄と学生7人、朝日新聞の近江八幡通信局長、前日から密着していたフジテレビのワイドショー『おはよう!ナイスデイ』取材班、そして鈴木の支持者らが琵琶湖湖畔に集まった。
この日の名目はあくまで200メートルあるいは300メートルの上昇実験ということだったが、120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、16時20分頃「行ってきます」と言って、鈴木はファンタジー号を係留していたロープを外した。
「どこへ行くんだ」という三輪教授に「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎の瓶を地上に落とした鈴木は周囲の制止を振り切って、琵琶湖湖畔からアメリカネバダ州サンド・マウンテンをめざして出発した。
翌日は携帯電話で「朝焼けがきれいだよ」と連絡が取れたものの、2日後にSOS信号が発信され海上保安庁の捜索機が宮城県金華山沖の東約800m海上で飛行中のファンタジー号を確認したが、鈴木は、捜索機に向かって手を振ったり座り込んだりして、SOS信号を止めた。
ファンタジー号の高度は2,500メートルで高いときには、4,000メートルに達した。約3時間の監視をして、ファンタジー号は雲の間に消えたため、捜索機は追跡を打ち切った。
そしてそのまま行方不明である。
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ファンタジー号
直径6mのビニール風船を6個、直径3mの風船を20個装備。ゴンドラの外形寸法は約2m四方・深さ約1mで、海上に着水した時の事を考慮し、浮力の高い檜を使用していた。ゴンドラ製作を依頼したのは桶職人で、桶造りでは東京江戸川区の名人と言われる人物ではあるが、飛行船のゴンドラは専門でない。風船のガスが徐々に抜けて浮力が落ちるため、飛行時に徐々に捨て機体の浮上を安定させる重り(バラスト)を用意していた。重りの中身は、厳寒でも凍らない焼酎を使用していた。ただし焼酎は浮力不足のため、琵琶湖畔からの出発の際に200本全てが下ろされた。積載物は、酸素ボンベとマスク、1週間分の食料、緯度経度測定器、高度計、速度計、海難救助信号機、パラシュート、レーダー反射板、携帯電話、地図、成層圏の零下60度以下の気温に耐える為の防寒服、ヘルメットに紫外線防止サングラス等であった。
出発時の防寒具は、スキーウェアと毛布で、無線免許は持っていなかったため、無線機は積まれていなかった。搭載していた高度計についても、使い方を理解していなかったという。食糧については、鈴木は絶食の訓練をしていたと称しており、スナック菓子のみだった。さらにテレビカメラと無線緊急発信装置も搭載されていた。
ファンタジー号のビニール風船については、もともと人を乗せるものではないし、零下何十度にも達する高空に耐える保証もないことを制作したアド・ニッポー社は取材に答えている。日本気球連盟の今村純夫も、上空で気圧が下がると、球形の風船では膨らんで弾ける可能性を指摘。さらに破れてヘリウムガスが抜ける風船があったものの、鈴木は出発の前に粘着テープで応急修理して使ったという。4月の不時着事故でこれまでの会社がヘリウムガスを売ってくれなくなったため、別の会社から調達。計280万円分のヘリウムボンベはトラック3台で運搬された。
ファンタジー号での冒険にあたっては、鈴木は金を募ったが、寄付された金額は不明。ゴンドラの制作のために多額の借金を負い、支援者の1人が1,300万円を肩代わりした。
マスメディアの反応
ファンタジー号の出発直後から、民放テレビ局のワイドショー番組では、貴乃花と宮沢りえの婚約報道とともにトップニュース扱いで毎日のように報道。「風船おじさん」のニックネームが定着するきっかけを作った。新聞のテレビ欄では、11月26日にフジテレビ『タイム3』が「無謀な冒険 風船で米国へ」、TBSの『モーニングEye』が「無謀・風船男太平洋横断決行」、『スーパーワイド』が「風船おじさんを大追跡」と取り上げているのが確認できる。12月1日には『モーニングEye』が「風船男飛んで1週間消息徹底追跡」、『タイム3』が「追跡風船男米空軍も調査」。密着取材していたフジテレビの『おはよう!ナイスデイ』は12月2日に「風船男の安否」、12月3日に「風船おじさん 遂に身内捜索願」と取り上げた。
しかし、1992年12月6日以後は、オーストラリアで新婚旅行中の日本人妻が失踪する事件(のちに狂言であることが発覚)が発生し、マスメディアの関心が移ったことと、ファンタジー号自体の話題が尽きたこともあり、『スーパーワイド』が12月6日「風船男SOS」、12月8日に「風船男SOS検証」と取り上げているのがテレビ欄で確認できる最後であり、ファンタジー号に関する報道は沈静化した。
週刊誌では、同年12月17日号の『週刊文春』が、密着して出発時の映像も撮影していたフジテレビの姿勢を「鈴木を煽ったのではないか」と取り上げ、同時に計画を無謀だと指摘。12月24日・31日合併号の『週刊新潮』は過去のプライバシーを明かす記事を掲載した。見出しには、『週刊文春』が「風船男」、『週刊新潮』は「風船おじさん」を使った。
フジテレビは『週刊文春』の取材に対しタイアップしておらず、また鈴木は無線免許を取得して4月以降に出発すると語っていたため、11月23日に飛んでしまうとは思わなかったと回答している。
その他
風船おじさんというのはマスメディアが付けたアダ名である。しかし多摩川での飛行実験の失敗を見るや「関わっちゃマズイ」と思ってしまったのか、距離を置くようになった。琵琶湖の時に駆けつけたのはフジテレビだったが、朝日新聞社の通信局長も現場にいたという。風船おじさんは無線の免許を持っていなかった。ゴンドラに風船を付けるなどの作業もかなり苦労していたそうだ。
多摩川で飛ぶ前から、風船おじさんは破天荒な行動を見せており1989年の横浜万博では集客対策不足に不満を覚えて、着ぐるみを着て塔に登り、7時間立て篭もるなどして抗議していた。
専門家曰く「風船でアメリカになんて行けるわけねーだろ」というツッコミがある他、「風船がアメリカまで保つはずもないから、恐らく海に落ちて死んでいるだろう」という見解を示している。
しかし、公式上の記録において、風船おじさん及びファンタジー号の遺留品などが見つかったという情報はない。もしかしたら20年以上経った今でも、ファンタジー号と風船おじさんはどこかを飛んでいるのかもしれない。
アラスカで遺体発見との報もあるがこれは事実無根のデマである。
後述の関連動画においても、おじさんの遭難・失踪オチは笑い話であるかのように語られているが、残された家族は笑い話で済まされたらたまったもんではない。
「カールじいさんの空飛ぶ家」という映画が公開されて、この事件を思い出した人は多いだろう。
ダーウィン賞を語る上で、このおじさんが引き合いに出されたり話題にのぼる事も少なくない。というのも2008年、ブラジルのアデリール・アントニオ・デ・カルリ神父が、「ヘリウム風船での長時間飛行記録に挑戦した末に沖合い上空へ流され遭難する」という風船おじさん同様の死に様でダーウィン賞を受賞しているため。ただし彼は3ヵ月後に無事遺体が回収されている。
風船おじさんの蛮勇も80年代ではなくせめて現代であれば、まだ話題を集めて借金返済のめども立っていたかもしれない。
良くも悪くも、風船おじさんは今や伝説の人となっている。
その後
残された妻は鈴木の会社の共同経営者であり、家が抵当に入っていることもあり、鈴木の借金は、残された妻が払い続けている(2006年時点)。1999年の取材によれば、2年に1度の捜索願を家族が更新しており、鈴木は戸籍上は生きていることになっているという。
関連書籍
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