中川翔子(しょこたん)も衝撃受けた「処刑までの53時間を録音したテープ」とは

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ある死刑囚が、死刑執行を告げられてから実際に処刑されるまでの様子を録音されたテープが公開されていた

された死刑囚は、残された時間で家族に会わせてもらったり、他の受刑者と語り合ったりして、自分の最後の時を迎えていた。

昭和30年(1955年)、大阪拘置所の所長である玉井策郎氏は、ある死刑囚が死刑の執行を告げられてから、最後の時を迎えるまでの53時間をひそかにテープに録音していた。


元々、拘置所の職員や教誨師(きょうかいし = 死刑執行の際、お経をあげたり祈りをささげたりして死刑囚の心を安息に導く役目の人物)の教育のための資料として録音したものだが、このテープは、翌年、国会に死刑廃止法案が提出された際に、資料として法務省にも提出されている。


録音は全部で53時間、テープにして23本に及ぶものだが、これを編集して1時間40分にまとめた「完成品」が、視聴会で公開されることとなった。


教誨師(きょうかいし)たちを集めて行われた視聴会には、何人かの新聞記者も同席し、その中で読売新聞の記者が、聞きながら速記で内容を書きとめ、昭和31年4月13日付け読売新聞に掲載している。また、いくつかの報道番組が、実際の音声をテレビでも放送している。

出典:No.069 処刑までの53時間を録音したテープ

	

死刑の瞬間を放送=53年前の録音-文化放送

AMラジオの文化放送(東京)は6日の報道特別番組「死刑執行」で、53年前に執行された死刑の瞬間が録音されたテープを放送した。

テープは大阪拘置所長だった故玉井策郎氏が、死刑囚の処遇改善などのため1955年に録音。約55分間の番組では、死刑囚の氏名は伏せられ、執行2日前に面会した姉との会話や絞首刑執行時の音などが約10分間放送された。


 死刑囚は姉に「泣かないで、笑って別れましょう」と語り、執行直前には刑務官と談笑。読経が響く中、刑場の床板が外れる音が放送された。

出典:死刑の瞬間を放送=53年前の録音−文化放送 社会の隙間から/ウェブリブログ

	

テレ朝も執行前後のテープ放送

テレビ朝日は29日、朝の情報番組「スーパーモーニング」で、死刑囚が刑を執行される前後の模様などが録音されたテープを放送した。

番組によると、テープは大阪拘置所長だった玉井策郎氏が1950年代に刑務官の教育用として録音。


死刑囚の姉との最後の面会や他の死刑囚との送別のお茶会、執行直後の様子などが収められ、その一部が放送された。


番組は「死刑制度を改めて検証するためにあえて公開した」と理由を説明。


さらに死刑のあり方について番組コメンテーターが議論した。テレ朝は92年、05年にも同じテープを放送している。

出典:JIROの独断的日記

	

死刑執行日を告げられる

このテープの主人公は、死刑囚O(38)。(ゼロではなく、頭文字「オゥ」)

神戸において3人組で強盗を行い、警官を銃で射殺して死刑判決を受け、最高裁でも上告が棄却されて死刑が確定した。


テープの冒頭は「死刑囚Oは、京都宮津のキコリの次男に生まれ・・」というナレーションに始まり、Oの経歴の紹介を経て、録音部分に入る。


廊下を歩く数名の足音、戸を開けて閉める音。昭和30年2月9日、午前10時20分、死刑囚Oは、呼び出されて大阪拘置所の所長室に入った。


「O君、特別恩赦(おんしゃ)を願っていたけれども、今日、残念ながら却下になってきた。まことに残念だ。却下になってきた以上、近く執行があるはずだ。これまで苦労したね、よくやってくれた。」


※恩赦:国家的に祝いごとなどがあった際に、恩赦願いを出していると、刑が軽減される場合がある。昔はこれで死刑が無期懲役に減刑された例がいくつかあるが、近年では恩赦はほとんどない。


所長からこう告げられ、あさっての死刑執行を宣言されたOは、ハンカチを取り出し涙声で


「非常にお世話になりました・・。私はこれまで(拘置所内で)反則を繰り返し、身分帳(罪の経歴)が汚れています。これを残していくのは残念です。何とか消していただけませんか。」


と答える。


「それは実に立派なことだ。」所長が答える間、Oの泣き続ける。


「会いたい人には会えるようにするし、法の許す限りのことは、食べたいものでも何でも甘えるつもりで言いなさい。出来るだけの面倒はみますから。」


所長室を出たOは教誨(きょうかい)室へと入り、そこでお茶を飲むと教誨師(きょうかいし)に法話を聞かせてもらった。しばらく教誨室で過ごしていると、ドアが開き、拘置所の連絡で呼ばれたOの姉が案内されて入って来た。


姉を案内してきた課長が

「O君、長い間言おうと思っていたことを思い残すことのないように話しなさい。」

と言う。


「何年ぶりかな、姉さんと話すのは。T(自分の息子)は元気かね?」


自分の一人息子のことが気にかかる。Oは死刑確定後は妻とも離婚し、息子はこの姉に引き取ってもらっていた。息子には、自分が戦死したことにしてある。色あせた小学校の入学の時の写真を大事に持っている。


「もう、中学校を卒業するんだよ、これからどうすればいいのかね。」


姉も涙ながらにOの問いかけに答える。昼食のカツライスが運ばれてきた。食べながら泣きながらの姉と弟の会話が続く。


姉が帰った後、今度は「送別お茶の会」が、日本間で開かれた。女囚1人を除いた死刑囚8人と所長、管理部長、職員が出席した。


「お茶の会」自体は茶道の師範をお迎えして毎月定期的に行っているものだが、この日はOのための臨時のお茶の会である。


Oが挨拶をし「私が今のようになったのも信仰のおかげです。」というと、他の死刑囚から


「はじめはずいぶんと悪かったからねえ!特に25年ごろはねえ!」


と声が上がると一斉に笑い声が起こった。


Oは収監されたばかりのころは、看守には食ってかかり、起床の時間も守らず、脱獄も何度も計画した。他の死刑囚たちと、そんな思い出話に花が咲く。


そして一人一人がOに向けて、はなむけの歌を送る。O自身も歌った。カラオケなどない時代、伴奏もないが、それぞれが真剣にOのために歌った。


最後に所長が音頭を取り、蛍の光を全員で歌って「送別お茶の会」は終了した。「送別会」とは世間ではありふれたことであるが、この送別会はまさに本当の意味での送別会であった。

出典:

	

姉と最後の面会

翌日10日の13時30分よりOを送るための送別俳句会が、俳句の先生を招いて行われた。死刑囚を中心に行われたこの俳句会では、それぞれが詠(よ)んだ様々な俳句が披露され、もちろんOの作品も発表された。

俳句会が終わって、いよいよ姉と最後の面会である。面会は畳の間で行われ、子供時代のことや、年老いた母への心配、自分の子供のことなど、話は尽きない。16時半になり、面会時間もそろそろ終了となった。


関保護課長が「別れは尽きないと思うし、言い足りないこともあったと思うけど、役所の規則がそれを許さない。お別れしましょう。」

と、面会の終わりを告げた。


Oは涙を流しながら

「姉さん、長い間ありがとう。どうかお母さんにもよろしく。子供のことはくれぐれもよろしくお願いします。」

と姉に最後の頼みを行う。姉はずっと泣き続けている。


関保護課長が

「さ、これで別れましょう。残酷なようですが別れましょう。最後にO君の手をしっかり握ってやって下さい。」

と、再び終了を示唆する。


Oと姉は抱き合って泣く。


「もう時間が許しません。どうか姉さんも本人の冥福を祈ってやって下さい。明日は立派な態度でゆけると思います。」


関保護課長は両者を引き離し、「姉さん、悪うございました。」

と挨拶し、ついに最後のお別れは終わりを告げた。Oは舎房へ帰り、姉は声を上げて畳に泣き伏せる。

出典:No.069 処刑までの53時間を録音したテープ

	

最後の時

夜が開けて11日、死刑執行の日が来た。彼は昨日の晩、医務課長からもらった下剤を飲み、腹の中のものをすっかり出した。朝食はお茶漬けと奈良漬けである。

間もなく仏前に死刑囚全員とOが集まり、礼拝を行う。教誨師がお経を上げる。Oの声も、残された死刑囚の声も涙声になっている。


Oが最後の挨拶を行う。

「私は恩赦があることを期待していたので、その間、宗教なんか必要ないものだと修行を怠(おこた)っていたのは考え違いで、損をしました。


どうか皆さんも、助かるとか無期になるとか、このような気持ちを捨てるとともに、見栄を捨て、真剣に死という問題に直面し、人がどう思うかこう思うかということを考えないで、死後を願うことが必要だと思います。


いよいよ皆さんと別れて、今日は刑場に臨むのでありますが、私は今日、刑場で泣くかも知れないし、また、腰を抜かすかも知れません。


あとで誰かに聞かれたら、その姿が本当の私の姿だと思って下さい。」


実に淡々とした口調で、昨日、おとといに比べると見違えるほど堂々とした態度になっていた。


挨拶を終わらせると、彼は並んでいる死刑囚の一人一人と握手し、声をかけ、お礼を言う。


「一日でも長く生きてくれ。」「体に気をつけて。」


Oの言葉を聞き、死刑囚たちもOに励ましの言葉を返す。みんな涙声になっている。


全員との別れが終わると、Oは手を振って個人教誨室へと入った。処刑時刻までまだ少しある。ここで保護課長と最後の話をする。処刑場では着々と準備が進んでいる。


時間になった。


保安課長が迎えに来る。


「お別れだよ。」


Oの方を見ながら、保安課長は重々しく声をかけた。教誨師や拘置所の所長、検事など、立ち合い人が次々と処刑場へ入る。


刑場の仏間にはロウソクが灯され、香(こう)が焚(た)かれている。仏間の前に置かれているイスにOが座る。Oの正面に所長が立つ。


「長い間、苦労したねぇ。これで最後のお別れだな。よくやってくれた。言い足りないこと、書き足りないことがあったら全部ここで言いなさい。」


「今日(こんにち)のような修養を積めたのは、ひとえに所長をはじめ、皆さんの理解によるもので、今日、喜んで死出の旅路につけることは、本当にうれしいことです。」


Oはすでに安らかな口調になっており、恐怖を乗り越えたかのような話し方である。読経がすでに始まっており、その中で、彼の辞世の句が教誨師から披露された。


「あす執行 下剤を飲みて 春の宵(よい)」

「何くそと 思えど悲し 雪折れの竹」


この後は所長から別れのタバコとしてピースを一本もらう。最後のタバコを吸いながら

「兵隊に行ってた時にタバコが好きで、あまりプカプカふかすので、機関車というあだ名をつけられましたよ。」

と、Oが笑いながら言う。


この後しばらくみんなで談笑が続く。そして話が途切れた時、Oは覚悟を決めたのか、それぞれの人と握手を交わして行く。


「社会の人々にいろいろ迷惑をかけてすみません。」

「今日までの厚情(こうじょう)を感謝し、残る死刑囚を頼みます。」


最後に保護課長の両肩に手をかけ、

「先に行っています。極楽では私の方が先輩ですからね。」


と言うと、みんなから笑いが起こった。


本当に最後の別れが終わった。Oはこの後、姉の心のこもった経帷子(きょうかたびら)に着替え、仏前に線香を上げる。


保安課長がOに手錠をかけ、目隠しをする。


「心の中で念仏を唱えなさい。声を出すと舌を切るからね。」


課長の注意のあと、職員たちに連れられ、いよいよ処刑場へと足を運ぶ。読経の声が一段と高くなった。鐘がカーンと鳴らされる。


数名の人間の歩く足音が録音されている。

だがすぐに足音は止まった。首にロープがかけられているようだ。読経は更に激しさを増す。


足音が止まってほんのわずかな後、バターンと一回、大きな音がした。Oの足元の床が開いた音だ。吸い込まれるように穴の中へ落ちて行く死刑囚O。


そして医者の検視。


「報告します。死刑終わり。午後2時59分執行。死亡3時13分2秒。所要時間14分2秒。」


Oの死刑は終了した。

出典:No.069 処刑までの53時間を録音したテープ

	

録音テープを聞いての感想

録音テープを聞いての感想ですが、今一つ深い印象が残りませんでした。古い録音なので、ただでさえ音が不明瞭なのに、肝心の死刑囚の声が、前にも書いた通り変換されているため非常に聞き取りにくく、何を言っているのかよく分からない部分が大半でした。

 実は、文化放送でテープが放送されるとじ報じられた後の先月29日に、テレビ朝日「スーパーモーニング」が、文化放送を出し抜いて、このテープを放送していました。私は「スーパーモーニング」も見ていたので、文化放送で改めて聞いても新鮮さがなかったというのもあるのですが、音声の内容が字幕でも示されていたテレビ放送の方が分かりやすかったというのも事実です。

 また、録音当時と現在では死刑執行までの流れが異なっているため、今現在の私たちが死刑制度を理解するための助けに、どれだけなるだろうかという疑問も残りました。当時の死刑執行は、その3日程前には知らされていたそうなので、家族と最後の面会をしたり、他の死刑囚と送別会を開いたり、当日の朝にも改めて挨拶したりと言った事が出来たのです。今では当日の朝まで知らされないといいますから、こうした“イベント”も用意されているとは思えず、このテープとは状況が大きく違っているはずです。


 ただ、だからといって、放送する意味がなかったとは全く思いません。文化放送の言う通り、我々一般市民が裁判員として、死刑を言い渡すか言い渡さないかを判断しなければならない事態にいざ直面した時に、死刑について抽象的にしか分からないより、少しでも何か具体的な事を知っていた方が良いに決まっています。

 それに、興味本位であろうが何だろうが、国家権力が行い、是非が問題になっている事柄について、少しでも近付くための情報を世間に提供する事、それを主権者である我々が知っておく事は、非常に大切です。

 因みに、文化放送では処刑台が落ちる生々しい音もそのまま放送したのですが、テレビ朝日ではこの部分の音を切っていました。休日で子供も見ているはずだから、衝撃的な部分は放送を控えたといったところなのでしょうが、重要な部分を糊塗して美化したという批判は免れないでしょう。

出典:

	

しょこたん 死刑執行の録音に衝撃受ける

タレントの「しょこたん」こと中川翔子が、2009年2月17日のブログで、裁判員制度について考えている。

この日、「ニュース」で流れていた「死刑執行前日から執行終了までの生々しい録音」を聞いた。これまで死刑の様子は書籍などでしか知らなかったので、床板が外れる音や、読経の声など「ここまで見せるか」という内容に強い衝撃を受けたという。


そして、5月から始まる裁判員制度を心配。死刑について多くを知らないのに、「ショッキングな映像」を見て考えてしまった。


「裁判員制度が始まって選ばれてから不安になってしまうより 少しずつでも本を読んだりしていこう…」

出典:しょこたん 死刑執行の録音に衝撃受ける - ライブドアニュース

	

日本での死刑執行ドキュメント

日本における死刑

概ね日本の死刑確定者は、取り乱すことなく淡々と死に臨むと言われているが、執行の実態を証言する者は殆どおらず、信頼にたる資料も少なく、詳細は不明である。名古屋高等検察庁時代に死刑執行に立ち会った三井環元検察官が語ったところによれば、死刑囚の表情は顔も白布に覆われており確認できなかったといい、最後の肉声も立会人のいる部屋にある防音ガラスの為か読経以外は聞こえなかったが、合図も無く首が吊られたため抵抗はなかったという。またその様子は、「不謹慎であるが、奇妙な『美しさ』を感じた」という。尚、その時執行された死刑囚の身体は30分間ぶら下げられていたが、「法的根拠はないんですよ」と言われたという。

死刑は絞首により行われると定められているが、実際は縊首(いしゅ)である。死刑確定者は、落下した後数分から十数分、長くて20分以内には死ぬとされている。死刑確定者の中には、失禁、脱糞や射精をしている者もいるという。日本では死刑確定者に対し、死刑執行による痛みを感じさせることなく即死させる絞首刑の技術があるとされている。これは処刑台の床板が外れることで死刑確定者が落下し、その衝撃で延髄損傷・頸骨骨折が起き、死刑確定者は意識を失う(これにより身長が30cm前後伸びるとのこと)との説がある。また、落下後にロープの結び目が真後ろに来るよう予め結び目を左側にしておく、落下後に振り子のように左右に揺れ続けることを防ぐために落下地点にも押さえ役の刑務官を配置しておくなど、少しでも綺麗な状態で絶命させて死刑確定者の尊厳を保つように工夫もされているという。


これは1870年代にイギリスの死刑執行人ウィリアム・マーウッドが開発したロングドロップと呼ばれる絞首刑の方法に関して流布されている内容と同じではないかと思われる。絞罪器械図式に定められている装置は、明治4年に囚獄司権正・小原重哉が、当時イギリス植民地であった香港やマレーに出張したさいに実見した絞首台を模倣したものである。当然、宗主国であるイギリスの絞首台とほぼ同一のものである[23]。痛みを感じないとする説の説明も酷似している。しかしながら、ロングドロップによる絞首刑は無痛であるとの説は、オーストリア法医学会会長ヴァルテル・ラブル博士によると、全く誤りである。絞首された者は、ごく例外的な場合を除いて、最低でも5~8秒、長ければ2~3分間は意識があり、その間に苦痛を感じるという。


立ち会った医官により死刑確定者の死亡が確認された後、法律(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律179条)の規定により死亡が確認されてから5分間死体はそのままの状態で置かれる。刑事訴訟法第478条により死刑の執行に立ち会った検察事務官は執行始末書を作成し、検察官と執行施設の長又はその代理者とともにこれに押印・署名して、事件に関するすべてが終わる。立会人らには酒が振る舞われるという。


執行に関わった刑務官らには死刑執行手当2万円が支給され(振り込みであると、刑務官は家族に死刑立会いについて気付かれるため、それを避けるよう手渡しで支給される)、午前の内にその日の仕事は終業とされ帰宅が許される。そのまま飲みに出かけ死刑執行手当を使い切る刑務官もいると言われている。また、罪の意識から、死刑執行手当を手に寺へ行き、死刑確定者の供養を依頼する刑務官も多いという。

死刑確定者の遺体は、あらかじめ決めてあった引き受け先と24時間以内に連絡が取れれば遺体は納棺された上、引き取って葬儀をすることが可能であるが、実際に引き取られた死刑確定者の遺体は少ない。遺族が遺体を引き取っても死刑囚の葬儀を拒否される場合もあり、たとえば附属池田小事件の宅間守死刑囚は獄中結婚した妻が引き取ったが、最終的には信者ではなかった大阪市内のキリスト教の教会で行われた。連絡が取れなかったり引き取りを拒否されるなどして引き受け先がない場合は、刑事施設の長が葬儀・火葬・埋葬を行う事になっている(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律 第177条および刑事施設及び被収容者の処遇に関する規則 第94条)[25]また、死刑確定者の遺言により献体とされる遺体も多いという。


なお、刑事施設の長は、所在地の市町村長に対し死亡を報告する(戸籍法90条1項)。これを受けて戸籍には「(刑事施設の所在地市町村)で年月日何時何分死亡。年月日。何某(拘置所長の個人名)報告」と記載され、同一戸籍内の子などのプライバシーに配慮して拘置所長による報告が一目では分からないように配慮されている。


以上のような死刑執行の様子は司法当局から公式に一切公表されたことがない。司法当局は後述にもあるような秘密行刑主義を一貫として取っている為である。立ち会う者も刑事施設の長、刑務官、検察官など行政府に属する者に限定されている。そのため、実際のところはほとんど伝聞情報であり、真実に近いか不明である。そのため、これらは半世紀以上前に公開された情報や、既に退職した刑務官などの証言からもたらされたものがほとんどであるが、明治時代には現役看守が証言している事例もある。


明治40年(1907年)、京都監獄の現役看守が、刑法に関する雑誌に絞首刑執行の現場の様子を投稿しており、この中には、絞首刑の執行にあたってロープが切れたために釣り上げて死刑を執行した例と、死刑執行命令が出ているのを知らず再審請求した死刑囚を「強制を以って」処刑した例が挙げられている。この看守は、これらの事例に関して、「如斯(かくのごとき)事例を当然職務の行動なりと言う者あらば、余輩何をか語らんや」と述べている。

出典:日本における死刑 - Wikipedia

	

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