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太平洋戦争のカニバリズム事件「小笠原事件」とは

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太平洋戦争のカニバリズム事件「小笠原事件」とは

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johndoejohndoe
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太平洋戦争のカニバリズム事件「小笠原事件」とは

小笠原事件

小笠原事件(おがさわらじけん)とは、1945年(昭和20年)に日本軍が米軍の捕虜8名を殺害し、そのうち5名の人肉を嗜食したとされる事件である。別名、父島人肉食事件。

出典:小笠原事件 - Wikipedia

	

小笠原事件概要

1945(昭和20)年2月23日から25日にかけて、小笠原諸島の父島に配備されていた陸海軍の混成団の一部将校らが米軍の捕虜を殺害して人食していたことが戦後の東京裁判BC級戦犯の公判で明らかになった。

小笠原諸島は東京市(現・東京都)に属し、南に約200キロにある島で父島を中心に大小の島からなる。当時、東京市の防衛の要であった硫黄島と東京市の中間にあり、軍需物資を中継する重要な島だった。このため、大本営も従来の父島要塞司令部を改編し陸軍は混成第一旅団(5個大隊を基幹)など約9000人、海軍は通信隊など6000人を再配備した。

米軍の機動部隊は、前年の1944(昭和19)年7月にサイパン島を攻略し日本守備隊が玉砕。このサイパンを最前線基地として連日、東京への空爆を行った。大本営は米軍の次の目標は硫黄島とみて、父島に約15000人からなる部隊を配置したのだった。

同年8月31日から9月2日にかけて、いよいよ父島に対する空爆が始まった。米空母から「アベンジャー」爆撃機が次々に父島に向かって出撃していった。一方、父島守備隊は高射砲や機関砲で応戦し5機の米軍機を撃ち落した。この内の1機が後の第41代米国大統領となるジョージ・ブッシュ中尉だった。ブッシュは、からくもコックピットから脱出してパラシュートで離脱。その後、味方の潜水艦に救助されたが、同乗していた2人の乗組み員は行方不明となった。


1945(昭和20)年8月15日終戦。9月2日に父島に米艦が到着し、立花陸軍中将を正使、森海軍中将を副使として降状手続きを行った。この時、米軍側は開口一番、「パラシュートで脱出した米軍パイロットは何名いたか。その後、どうなっているか知りたい」との質問に日本軍側は、「防空壕で全員爆死した」と回答。これに対して米軍側は露骨に不機嫌な態度になった。

その後、日本兵の復員は順調に進んだが、何故か的場陸軍少佐の大隊だけは復員が許可されなかった。この時、米軍側は的場大隊以外の部隊から様々な情報を収集していた。証拠固めができた1946(昭和21)年2月になって米軍側は、「捕虜になった米軍パイロット達は、残虐行為の末に殺害され人食された。この事件の主犯は陸軍では立花中将と的場少佐、海軍では、森中将と吉井大佐である」としてグアムの軍事裁判に起訴した。立花ら4人は大筋を認めて、小笠原事件に関与したとする軍人ら25人が逮捕された。


一体、どのような経緯で捕虜の人食に至ったのか。その後のBC級裁判で明らかにされた。

1945(昭和20)年3月に前任の師団長が自決。その後、副官の立場にあった立花と森が中将に昇格。全体の指揮権は立花が握ることになった。立花中将の副官的存在が的場少佐であった。的場は、気が荒く酒乱の傾向があり、気に入らないことがあると部下を半殺しの暴行を加えて周囲を恐れさせていた。実際に柔道、剣道など合わせて10段以上の腕前と大きな体躯は周りを恐れさすには十分であった。

さて、ここで陸軍と海軍の高級将校達の酒盛りが連日行われた。終戦末期の物不足の中、貴重品である酒を連日酌み交わした。だが、゛つまみ゛が無い。そこで、立花らは米軍捕虜の肉を食べて戦意高揚を図ろうと軍医に捕虜の解体を命じた。針金で大木に縛りつけた米軍捕虜に立花が、「日本刀の凄みを披露する絶好の機会じゃ」と言って、試し切りの希望者を募って殺害。その後、遺体を解体させて宴会の゛つまみ゛にした。後の日本兵の証言によると、米兵の手足の肉や内臓を立花が食べると、「これは美味い。お代わりだ」とはしゃいでいたという。

出典:小笠原事件?

	

立花 芳夫

立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の愛媛県出身の陸軍軍人。陸軍士官学校卒業(25期)。兵科は歩兵科。功四級。
参謀だった堀江芳孝少佐は立花らの素行にかねてから不安を感じており、捕虜のウォーレン・アール・ボーン海軍中尉(グラマンF6F戦闘機パイロット、所属部隊、母艦は不明)を、自分の英語教師として身近に置くことで守っていたが、外出後に戻るとすでに処刑されて喰われた後だった。的場少佐の部下の供述調書によると、この時に的場少佐が発した命令は次の通り。


一、大隊は米人飛行家ボーン中尉の肉を食したし
二、冠中尉は此の肉の配給を取り計らうべし
三、坂部軍医は処刑に立会い、肝臓、胆嚢を取り除くべし
1945年3月9日 午前9時 大隊長 陸軍少佐的場末男
発令方法…冠中尉並に坂部を面前に呼び口頭命令、報告は立花旅団長へ、通告は堀江参謀へ


一方で、当時少尉候補生として、父島に配属されていた土屋公献(元日弁連会長)は、ボーン中尉を殺したのは事実だが、ボーンの遺体を損壊して食べた事実は無いと食人行為については、否定している。

出典:小笠原事件 - Wikipedia

	

終戦後の発覚

昭和20年8月15日終戦。9月2日に父島に米艦が到着し、立花陸軍中将を正使、森海軍中将を副使として降状手続きを行った。この時、米軍側は開口一番、「パラシュートで脱出した米軍パイロットは何名いたか。その後、どうなっているか知りたい」との質問に日本軍側は、「防空壕で全員爆死した」と回答。これに対して米軍側は露骨に不機嫌な態度になった。

その後、日本兵の復員は順調に進んだが、何故か的場陸軍少佐の大隊だけは復員が許可されなかった。この時、米軍側は的場大隊以外の部隊から様々な情報を収集していた。証拠固めができた昭和21年2月になって米軍側は、「捕虜になった米軍パイロット達は、残虐行為の末に殺害され人食された。この事件の主犯は陸軍では立花中将と的場少佐、海軍では、森中将と吉井大佐である」としてグアムの軍事裁判に起訴した。立花ら4人は大筋を認めて、小笠原事件に関与したとする軍人ら25人が逮捕された。

出典:

	
その結果、立花、的場、吉井、伊藤、中島昇大尉ら5名が絞首刑(森は終身刑、但し別途オランダによる裁判で刑死)、終身刑5名、有期刑15名となった。立花と的場は処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり、激しく虐待され続けた。

出典:

	

カニバリズム

一体、どのような経緯で捕虜の人食に至ったのか。その後のBC級裁判で明らかにされた。

昭和20年3月に前任の師団長が自決。その後、副官の立場にあった立花と森が中将に昇格。全体の指揮権は立花が握ることになった。立花中将の副官的存在が的場少佐であった。的場は、気が荒く酒乱の傾向があり、気に入らないことがあると部下を半殺しの暴行を加えて周囲を恐れさせていた。実際に柔道、剣道など合わせて10段以上の腕前と大きな体躯は周りを恐れさすには十分であった。

さて、ここで陸軍と海軍の高級将校達の酒盛りが連日行われた。終戦末期の物不足の中、貴重品である酒を連日酌み交わした。だが、゛つまみ゛が無い。そこで、立花らは米軍捕虜の肉を食べて戦意高揚を図ろうと軍医に捕虜の解体を命じた。針金で大木に縛りつけた米軍捕虜に立花が、「日本刀の凄みを披露する絶好の機会じゃ」と言って、試し切りの希望者を募って殺害。その後、遺体を解体させて宴会の゛つまみ゛にした。後の日本兵の証言によると、米兵の手足の肉や内臓を立花が食べると、「これは美味い。お代わりだ」とはしゃいでいたという。

結局、8人の米軍捕虜を殺害し人食したこの行為で、立花、的場、吉井ら5人が絞首刑となった(森は終身刑だったが、後のオランダ軍の裁判で死刑)。吉井は軍事裁判で、「無差別爆撃する米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のため食した」と供述。更に、「日本軍の戦陣訓である、゛生きて陵辱の辱めを受けず゛・・・という教えがあり、捕虜に対する行為は何をおいても許される」と主張した。

ジョージブッシュは、昭和天皇の崩御で「大喪の礼」に参列した後、「初めて日本人を許す気になった」と語ったという。それほどまでに、ブッシュはこの事件を「戦時中に経験した最悪の時」として自伝に書き込んでいる。もしあの時、ブッシュが米潜水艦に救助されていなかったら、米国大統領になっていなかった可能性が大きい。何故なら日本軍に食べられていただろうから。

出典:

	

太平洋戦争のカニバリズムは小笠原事件以外にも何かありましたか?

バターン半島撤退で米兵が・・・という噂もあります。
サルだ、と言っていたとか、でも怪しいだとか。
当時の米兵の精神状態、おまけにその後の残虐行為など見ても、有り得ないと言い切るには材料不足ですね。
悪魔の証明ってやつですか。

出典:太平洋戦争のカニバリズムは小笠原事件以外にも何かありましたか? - こ... - Yahoo!知恵袋

	

米捕虜の処刑に立ち会ったある少尉の証言

父島事件とは第二次大戦末期、東京都小笠村の父島で起こった米国捕虜将校らの一連の処刑事件。BC級戦犯裁判の一つとして知られるが、本日の報告では処刑事件のうちの一件に立ち会ったというある少尉(正確には少尉候補生)の目撃証言の内容を伝えたい。

同候補生は日弁連元会長で、戦後補償裁判の一つで現在係争中の重慶大爆撃訴訟の弁護団長を務めている土屋公献さん(85歳)。この事件の青年・土屋に与えた影響は大きく、弁護士活動の原点になった。

捕虜のパイロットは父島に配置された部隊ごとに一人ずつ預かったという。魚雷艇隊ではボーンを預かった。処刑までの期間は少なくとも一週間はあった。この間、つたない英語でボーンと会話を交わす機会があった。ボーンは海軍中尉で22歳。土屋さんは少尉候補生で21歳。当時、日本は数えで年齢を言う習慣があったから、ボーンには「The same age」(同い年だね)と言ったことを覚えている、と土屋さんは語っている。

処刑当日(ブラッドレーの著書によると、3月17日)、土屋さんは当直将校だった。ボーンの目隠しをし、処刑場所に連れていくのも土屋さんの任務。既に処刑されることを覚悟しているとみえて、騒がず、わめかず、従容として処刑場所に臨んだ姿が忘れられない。「母一人、子一人」「国(米国)では母が首を長くして待っている」。土屋さんはボーンとの会話の中でいまでも脳裏から離れない言葉だと話した。こういう人間をむざむざと処刑するのかと思ったという。

土屋さんは当初、捕虜の首を切ることを命令されていた。土屋さんは学生時代、剣道をしていて二段だった。上官はそれを知っていてそういう命令が出ていた。軍隊では上官の命令には逆らえない。ところがその後、学徒出陣組の中に四段のいることが分かり、彼がボーンの首をはねた。戦争が終わり、彼は戦犯容疑に問われ、逃げ切れずに郷里で自殺した。土屋さんはもしあのとき、当初の命令通り自分が切っていたら、自身が殺人容疑の戦犯になっていた。土屋さんは父島事件の真相の一端を以上のように語った。

実際、戦場とはむごく、愚かなもの。そういう現実を目の当たりにしたことが、戦争を繰り返してはいけないという思いにつながり、弁護士への道を歩むことになったと土屋さんは締めくくった。
土屋さんの証言から考えなければならない点がいくつか挙げられるように思う。父島事件は処刑した捕虜の人肉食事件にすり替えられ、事の真相があいまいにされてきたきらいがある。例えば、秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う(下)』(文春文庫)の第32章「人肉事件の父島から生還したブッシュ」で、秦氏は「殺害したあと、ボーンの肉や内臓を摘出して死体を損壊」との米軍事法廷の起訴状を引用しながら、「人肉食への言及はないが、関係者の回想によると…」とし、人肉食に結びつけようとする文脈でこの部分は構成されている。

土屋さんの証言によると、ボーンの殺害された日、土屋さんは当直将校で、その深夜、飢えに苦しむ兵2人がボーンの遺体を掘り起こし食べようとするのを戒めており、またボーンの首をはねた場所は「砂浜」(秦氏)でなく、米軍の砲弾で穴の開いた土の上。ボーンの肉を食ったというのは事実に反する、と土屋さんの語気は鋭かった。

今後の私の課題の一つは、父島事件の戦犯裁判は米海軍のグアム軍事法廷で開かれており、この記録をあたる必要がある。しかし戦勝国が敗戦国を裁いた戦犯裁判である以上、判決が必ずしも公正な裁きを反映しているとは限らない。

土屋さんの証言には、記録と表現の上で考えなければならない問題があることを提起していると私は受け止めている。しかし、土屋さんの証言によって、事件の真相の一端が明らかにされたように思う。

出典:POW研究会 POW Research Network Japan | 活動報告 | 学習会・講演会 | 父島事件 真相の一端

	

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