30人以上を人質にした猟奇殺人事件! 三菱銀行人質事件の「梅川昭美」とは
三菱銀行人質事件
三菱銀行人質事件(みつびしぎんこうひとじちじけん)は、1979年(昭和54年)1月26日に三菱銀行北畠支店(現三菱東京UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質にした銀行強盗および人質・猟奇殺人事件。実行犯の名前から梅川事件とも呼ばれる。
人質と共に立てこもる
「シャッターを降ろせ!」と梅川が叫ぶ。行員たちがすぐにシャッターを閉める作業に取りかかった。北側、東側の両方の出入り口のシャッターが降りていく。この時、東巡査部長はとっさに外に出て、近くにあった自転車や看板を東側シャッターの下に持ってきて、完全には閉まらないように物をかました。シャッターは40cmの隙間を残してそこで止まった。また、もう一か所の北側のシャッターもこれと連動しているため、こちらのシャッターも40cmの隙間を残して止まった。
また、このわずか数分の間に次々と警官がかけつけてきており、駆けつけた警官の1人がシャッターが閉まりかけていた北側の入り口から突入した。だかそこには梅川が待ち構えており、2~3mの至近距離から梅川はその警官に対して銃を放った。たまたまこの警官はあわてて防弾チョッキをつけて駆けつけてきていたため、防弾チョッキが正規の着用よりも下にずれていた。そのずれていた一番下の部分に弾丸が当たり、この警官は助かった。
14時45分。事件発生から15分後。住吉署の署長、刑事部長、警ら課長が到着し、非常階段を使って銀行の2階へ入る。1階の銀行内は犯人が占拠している危険地帯であったが、2階であれば犯人の手も届かない。2階にいた行員から事情聴取を始めた。
梅川と猟銃
梅川は猟銃の正式な所持者である。昭和48年に猟銃の所持許可を得ている。この時、梅川から住吉署に許可申請があった時にはもちろん審査があり、過去の犯歴も明らかになった。梅川は昭和38年12月に、広島県大竹市で21歳の女性の自宅に押し入り、この女性をナイフで殺害した後、現金2万円入りの手下げ金庫を奪うという強盗殺人事件を起こしているのである。この時梅川は15歳だった。
しかし銃刀法で定められている「欠格者(持つ資格がない者)」とは次のようなもので、
・18歳未満
・精神病者、麻薬や大麻、覚せい剤の中毒者
・住所不定
・禁止事項に違反して刑に処せられてから3年未満の者
・他人の生命、財産、公共の安全を害する恐れがあると認めるに足る相当の理由がある者
となっている。
申請があった時に、この最後の項目が触れるのではないかと検討されたが、以前の強盗殺人事件から10年が経過しており、その後の犯歴はないし、少年法では「少年の時に犯した罪で刑に処せられ、執行を終わったりした者は資格に関する法令の適用を受けない。」と定められている。
法的には梅川の猟銃所持を許可せざるを得なかったのだ。梅川は猟銃を買ってから3年間、クレー射撃に励んだ。銃の腕もかなりのもので、この銀行に押し入った時も、初めて撃つような素人ではなかったのだ。
絶対的な支配が始まる
梅川が銀行に持ち込んだ実弾は、2発は装填(そうてん)済みで、それ以外に31発であった。2階に警察幹部が集結している頃、1階では梅川が、女子行員の1人に
「あの警官の銃を取って来い。」と命じ、一番最初に射殺された楠本警部補の遺体から銃を持ってこさせた。梅川は猟銃と警官の銃と2つを所持することとなった。
銃を片手に行内をうろついていると、カウンターの陰に隠れていた女性客(32)とその子供たち(7)と(5)を発見した。意外にも梅川は「ボク、立てや。」と子供たちに声をかけ「お前らは帰ってもええわ。」と3人を銀行内から解放した。
「全員、一列に並べ!」と、今度は行員たちをカウンター内に一列に並ばせ、
「こん中で責任者は誰や!」と叫ぶ。
「私です。」森岡浩司支店長が前に出た。
「なんですぐに金を出さんかったんや!こうなったのはお前の責任や!」と、支店長の腹に向かっていきなり猟銃を発射した。腹と胸に散弾が直撃し、血しぶきが飛び散る。全員から悲鳴が上がった。森岡支店長は即死した。
あっという間に警官2人と、電話した窓口係、そして支店長の4人が射殺された。
この後、梅川は男性行員に命じ、1階と2階をつなぐ階段に机を運ばせ、2階からの突入を防ぐバリケードを作らせる。すでに建物の2階に多数の警官が入っていることには気づいていたのだ。
2階から警ら課長が楯を持ってこっそり降りて来て、近くにいた男性行員に「こっちへ来い。」と指示するが「警官がここに来たら自分たちが殺されます。」と拒否された。
一通りバリケードが出来ると再び行員たちは一列に並ばされた。
「番号かけいや!」梅川が指示すると「1!」「2!」と行員たちも番号をかける。最後は37番だった。
「こん中で病人はおるか!」
と梅川が尋ねると、最後の37番だった女性が「私、妊娠してます。」と言うと「帰ってええ。」と、この女性を釈放した。
そして女子行員たちに対し「服を全部脱げ!10秒以内に脱がんと順番に撃ち殺す!」と怒鳴り、電話係に任命した女性1人以外の、全員の女子行員を全裸にさせた。
その後、自分が座っている支店長席の、その机の上に女子行員たちを外向きにに座らせ、自分の周りに壁を作った。
「よう、見とれ。これからものすごい惨劇が始まるんやさかい。」梅川は言い放った。
この後しばらくして、女子行員だけ脱がせるのは不公平や、といことで男子行員の上半身も裸にさせた。中には全裸にさせられた男子行員もいた。
15時05分、梅川が乗って来たライトバンを発見し、この車が1月12日に三重県四日市市の焼肉屋経営者の自宅前から盗まれた車であることが判明した。
2階にいる警官隊の中で、住吉署の警ら課長が1階の支店長席に電話をかけた。梅川は出なかったが、代わりに行員が出さされた。現時点で死者が4人で、その内2人は警官、2人は行員、そして怪我人が2人いることが警察側に明らかとなった。
この後梅川は、楠本警部補から奪った拳銃を天井に向かって発射し、試し撃ちをする。
一方大阪府警は、銀行から50m離れたところに待機している多重無線車をとりあえず特別操作本部として設置したが、その後すぐ、銀行の2階の支店長室に捜査本部を移し、ここから指揮を取ることとした。この時点で警官636人、警察車両113台が銀行を取り囲んでいた。
突然梅川が自分で電話を取り、110番にかけた。「俺は犯人や。責任者と代われ。」と告げる。通信指令室の管理者(警視)が出ると「もう4人死んどる。警官が入ってくると、人質を殺すぞ!」と言い放って電話を切った。
残虐な命令
16時50分、梅川が行員の1人である渋谷行員に、金のありかや銀行内の構造を聞いたが、渋谷行員はあいまいな返事をしてはっきりとは答えなかった。この態度に腹を立て、「お前、落ち着き過ぎて生意気なんや!」と渋谷行員に向かって猟銃を発射した。渋谷行員はとっさによけたが、右肩に散弾を受け、その場に倒れた。梅川は持っていたナイフを別の男子行員に渡し、「まだ生きとるやろ。お前が首を突いて、こいつにとどめを刺せ。キモをえぐり取るんや。」と命じた。
ナイフを受け取った男子行員がとっさの機転で「もう、死んでます。」と答えると、「お前らソドムの市(いち)(映画)を知っとるか。」とうすら笑いを浮かべ、「ならそのナイフでこいつの耳を切り落とせや。ソドムの市で死人の耳を切る、あの儀式をするんや。」と更に命じた。
「切れません、切れません・・。」と泣きながら懇願(こんがん)するが、梅川は「お前も死にたいんか!」と銃口を向けた。
言われるまま男子行員は倒れている渋谷行員の左耳にナイフを当て「すまん・・すまん・・、生きててくれ、助かってくれ・・。」と謝りながら、行員の左耳の上半分を切り取った。あまりの痛さに負傷している渋谷行員は気を失った。
梅川はその切断された耳の破片を持って来させて、口に入れて噛んでみたが、「堅い。まずい。」といって吐き捨てた。
この直後、梅川は「警官の顔が1人でも見えればその都度(つど)、行員を1人ずつ殺す」と書いたメモを女子行員に渡し、2階の捜査本部に持って行かせた。更に念の入ったことに、男子行員に110番をかけさせ「警官が1人でも入ったら人質を殺す」と伝えさせた。
自分が気に入らない態度を取った女子行員の髪を掴(つか)んで引きずりまわしたり、銃口を身体に押し付けたり、人質に当たるスレスレで銃を発射したり、思うがままの行動に走った。当たりそうに発砲されるたびに女子行員の「キャーッ」という悲鳴が上がった。「助けて下さい、助けて下さい・・。」と手を合わせて泣きながら女子行員たちも必死にお願いする。
まもなく吉田六郎本部長が2階の捜査本部に到着し、今後の救出作戦の全面的な指揮を取ることとなった。
18時45分、刑事部捜査一課特殊捜査班(現:MAAT)が、吉田本部長の指示で、犯人にバレないように手動ドリルを使って静かに、1階の東側と北側の入り口のシャッターに合計7箇所の穴を開けた。この穴から内部の様子を探るのである。
穴を開けている間、梅川は2階に電話し、この支店の次長に「400グラムのサーロインステーキとブドウ酒を持って来い。」と命じる。次長はこれを捜査本部に伝え、捜査本部もOKした。ステーキに睡眠薬を塗ったらどうか、との意見が出され、レストランからステーキを持ってきてもらうのと同時に警察病院からも液体睡眠薬を持ってきてもらった。
警察管理職の1人が試しに舐(な)めてみたところ、舌がピリピリするというので、これを塗ってはすぐにバレてしまうと気づき、睡眠薬作戦は中止。素直に要求されたものを出さざるを得なかった。ステーキを待っている間に梅川はまた1発発砲した。この後も不定期的に、気が向くと発砲を繰り返していた。
警察はこの時点で、15年前にこの支店が建設された時に工事に携(たずさ)わった建築業者や内装、空調、電気工事を行った会社の人間を集め、捜査の協力を要請し、また、カギの専門家である大阪錠前技術研究所にも協力を頼み、カギのかかっているドアのカギを開けてもらうよう要請する。
そして警察管理職が次々と2階の支店長室、つまり特別捜査本部に集まり、ここが狭くなってきたので捜査本部を銀行3階の女子更衣室に移す。改めてここで作戦を考えることとなった。
この後、梅川はまたもや2階の支店長室に電話し「警察の偉いモンと代われ。」と言い、調査官が電話を代わり、「下の者は元気か。」と尋ねると「みんな元気や。警官の姿が見えたら人質を殺す。」と答える。
「要求があったら言え。けが人を早く開放しろ。」と調査官が言うと
「けが人なんかおらへん。6人死んどる。」と言い捨て、梅川は電話を切った。(実際には死亡は4人・大怪我で倒れている者2人だったが、梅川はその2人も死んでいると思っていた。)
捜査本部には20回以上電話をかけているが、「女の行員はみんな裸で、死体がごろごろ転がっとる。強行突破するなら、裸の女の死体が並ぶで。」とも言い放っている。
また、人質たちに対してトイレに行くことを禁じ、カウンターの陰をトイレの代わりにさせた。
ソドムの市 | パオロ・ボナッチェッリ, ジョルジョ・カタルディ, ウンベルト・パオロ・クインタヴァレ, アルド・ヴァレッティ, カテリーナ・ボラット, エルサ・デ・ジョルジ, ピエル・パオロ・パゾリーニ |
21時、吉田本部長が「今から一時間半以内に犯人を逮捕し、人質を救出出来る最善の策を考えよう。」と口を開いた。まず説得の可能性が議題に上がったが、「警官が姿を見せれば行員を殺す」と何度も言っているし、実際警官が姿を見せた瞬間、猟銃を発砲している。ほとんど説得出来る可能性はない。では薬物を使うという方法はどうかということになったが、先ほどの睡眠薬が駄目であったように、これも却下された。最終的に強行突入、そして狙撃ということで考えがまとまった。
さっそく第二機動隊 訓練指導官であり、ピストル射撃の指導官である松原 和彦警部が呼ばれた。「この建物で、そして人質を周りに立たせて楯にしているこの状況で」犯人の狙撃が可能かどうかを判断させるためである。
現時点でシャッターの穴から覗いた状況では、机がカギ型に並べられ、その上で人質行員が正座させられている。松原警部は、自分が確認した状況から判断して、「人質の合間をぬって犯人を狙撃するのは難しいがやれる。」と判断を下した。
早速狙撃手として6人が選抜され、3階に設置された本部で狙撃と人質救出の訓練が繰り返された。作戦実行は深夜0時と決まった。警備一課管理官が覗(のぞ)き穴から中を観察してタイミングを判断、ハンディートーキー(小型無線機)で松原警部に知らせる。突入班は全部で33人が選抜された。
しかし刻々と時間が近づいてくる中、覗き穴から内部を監視していた捜査員から悪い情報がもたらされた。
犯人はこれまで自分の前面に人質たちを持って来ていたのだが、それを自分の背後にも立たせて自分を囲むように人質の楯を作ったというのである。松原警部が外にまわって覗き穴から確認をすると報告通りであった。
そして更に、通用口(従業員用出入り口)から身体を伏せて銀行内に入り込み、ひそかに1階に近づいていた捜査員を、人質の1人が見つけ「警官が入って来た!」と大声で犯人に知らせたのだ。命を握られている状況で、すでに内部では犯人に対して絶対服従の関係が出来上がっているようだ。
この後、梅川は人質行員に命じて「警官を見つけたら殺す。疑うなら顔出せいや。」と伝言の電話をかけさせている。
坂本一課長が松原警部・射撃指導官に「どうや、いけるか。」と念を押すように尋ねたが、松原警部は
「出来ません。前に並んだ人質の前は通せても、後ろの人質に当てないという自信はありません。」と答えた。この状況で狙撃は危険過ぎると判断したのだ。狙撃・突入という作戦はここで諦めざるを得なかった。
14時30分の事件発生からすでに9時間以上経過し、テレビも生中継し、深夜だというのにすごい数の野次馬が詰めかけていた。
日付が変わって1月27日、0時25分。梅川はまたもや2階の支店長室に電話を入れる。
「階段の下に要求書が置いてある。30分以内に持って来い。」
2階に待機している警官が階段を降りていくとメモが置いてあった。メモには
「ラジオ、アリナミンA、カルシウム、人質の食事を差し入れよ。室内暖房を少し強くしろ」
と書かれてあった。更にその下には、そのメモを置きに来たと思われる男性行員が書いたのであろう「極悪非道そのものである」という追記もしてあった。
梅川は1階支店長席に座っていたが、ここへ2階の警察から先ほどのメモに対する返事の電話が入る。
「要求は分かった。」と警察側の伊藤管理官が伝えると梅川は、
「死骸(しがい)が、ようけごろごろしてまっせ。」と笑いながら答えた。
狂犬、銃弾浴びて
1月27日午前0時前後、警官隊突入が計画されるが、「無理」と判断。午前2時ごろ、ふるえている人質を見て、「寒かったら、その辺にころがってる死体に灯油をかけて火をつけたらどうや」と薄笑いを浮べて言う。
午前2時40分、人質の男性に年齢を尋ねて、76歳とわかると、「帰ってもええ。ごくろうさん、長生きせえよ」と解放。
午前3時53分、ラジオが届かないことに腹をたてた梅川が発砲。ロッカーにはねかえった散弾が庶務係・Mさん(当時54歳)の顔に当たり、Mさんはそのまま死を装う。
午前4時45分、「ビールのお返しや」と、客の女性(当時24歳)を解放。
午前7時40分、ラジオ差し入れの見返りに客の女性(当時41歳)を解放。客は全員解放された。行員には「最後は皆殺しや」と怒鳴る。
この日、岐阜県内である男が交番の前をうろついていて逮捕された。男は梅川の小学校時代の同級生で、彼の犯行のために車を盗難していた。これにより梅川の名が明らかとなった。梅川はラジオで事件報道を聞き、「俺の名前はアキミでなくアキヨシや。よう覚えとけ」と警察に電話している。
午前9時前、梅川は特捜本部に電話し、車に積んである映写機を友人に返して欲しいと依頼、さらに行きつけの飲み屋などに次々と電話し、「もう会えんやろ」「金を返す」などと伝えていた。
午前10時頃、大阪府警のヘリで香川県から梅川の母親(当時73歳)が現場に到着。母親が説得に来ていると告げられた梅川は「そらあかん」と電話を切った。
捜査員は母の手紙を階下に差し入れた。
昭美 お母さんが来ていますのよ
朝のてれび見て知ったのですが、おまえどうしたことをしたのです。
いま、でんわをかけてもらったけれど、なんですぐ、きってしまったのか
いまそこにいるおかたを、わけをはなして、母上のたのみですから、
ゆるしてあげてください 母上のたのみです 母より
同じ頃、梅川は人質に着衣を許可している。
「サラ金にようけ借金があるんや」
梅川は何度もこう口走った。実際に借金があり、自分の逮捕後にそのツケが母親にまわることをおそれて、法律的に問題が残らないかたちで何とか借金を処理できないかと思って行員らに何度も質問した。行員らが知恵を出し合うと、梅川は結論を出した。
まず梅川名義の預金口座をつくり、そこへ一部の人質解放を条件に要求している500万円を振り込ませる、あるいは自分で預け入れる。そしてすぐに全額払い戻しを受ける。その金は人質の行員を使い走りにして、サラ金各社に返済に行かせるというものだった。すぐさまその手続きがされた。梅川は残高ゼロの通帳を見て、「ほう、これでええわけや」と呟いた。
引き出した金を持って返済の使いに出た行員は10ヶ所ほどの借入先をまわり、梅川との約束どおりに銀行に戻った。深夜のことである。この帰還に梅川は喜んだが、この行員は警察の突入時の合図役としての任務を承っていた。なお、500万の金も事件後、警察によって回収されている。
午後3時頃、ある行員が梅川に負傷者の解放を願い出た。その時、死んだふりを続けていた行員も「出したってくれ」と叫んだ。梅川は「おまえ、生きとったんか」と銃を向けるが、やがて「出したれ」と3人の負傷者を解放。
夕方、梅川はローストビーフと高級ワインを注文。警官の手招きで、何人かの客が店外に脱出。さらに梅川は発熱した女子行員を解放。残った人質は行員のみの男性7人、女性18人となった。
1月28日午前2時半頃、遺体の腐敗臭から、4遺体を非常階段から運び出す。
午前7時、朝食と朝刊の差し入れがあり、梅川は銃を机に置いて新聞を読んでいた。密命を受けていた行員には梅川に隙があるように見えた。酒を飲み続けているし、眠ってもいないから実際に疲労もあったのだろう。行員はトイレに行き、西通用口の捜査員に突入の合図をした。7時半のことである。
しかし午前8時、梅川はある男性行員に自分の衣服を着せ、弾を抜いた猟銃を持たせたうえで、自分は行員の衣服を着て拳銃を持ち、カウンター内の人質の盾にまぎれこんだ。梅川が何かを察したのかもしれないが、この作戦に突入はまたダメになった。ところが梅川はなぜかまた着衣を行員と交換し、元の支店長席に座った。
午前8時40分、指揮官の合図のもと、狙撃手6人が2人1組で分散してバリケードの隙間から突入し、梅川に向かって一斉に発射。気づいた梅川は銃を手にとろうとしたが、弾丸を受けて椅子から崩れ落ちた。放たれた8発のうち3発が梅川の頭、首、胸に命中していた。
42時間にも及ぶ長い籠城事件が終わり、梅川は病院に搬送されたが、その日の午後5時43分頃に死亡した。
ストックホルム症候群
1973年、ストックホルムの銀行を強盗が襲い、犯人は数人の人質をとって立てこもった。事件は解決したが、人質たちは犯人を憎まず口々に犯人をかばうような証言がみられた。そして、人質の1人であった女性がなんと、犯人グループの1人と結婚してしまう。この事件から「ストックホルム症候群」という言葉が生まれた。日本でも1979年の三菱銀行北畠支店人質事件で、人質が犯人に同調した行動をとるような現象が一部みられた。被害者が犯人と長時間にわたり接触するとき、必要以上の同情や連帯感、好意などをもってしまうことがある。
三菱銀行人質事件の裏側
この事件の発生から解決まで現場にいた佐藤一彦さんが事件から34年、今だから話せる現場の裏側を暴露していました。当時、佐藤一彦さんが指導官をつとめていた特殊部隊が偶然にも立てこもりを想定した人質救出訓練を行っていたところ、梅川昭美による本当の立てこもり事件が発生。訓練中の装備のまま現場へ駆けつけることが出来たと言います。特殊部隊が到着した時にはいち早く駆けつけていた警官2名が梅川によって撃たれ殉職していました。観念するよう何度説得しても応じる気配のない梅川昭美に、これ以上の交渉は無理と判断。大阪府警捜査本部から犯人狙撃による事件解決の命令が下されました。
場に待機していた特殊部隊が建物の外にある地上階段を上がって2階から銀行内に潜入。本部直結の狙撃部隊は梅川が作らせたバリケードの奥にある階段で狙撃の合図を待ち、佐藤さん率いる30数名の第2中隊は狙撃後、梅川の身柄を確保する部隊として突入の合図を待っていました。当時、人質は梅川昭美が許可を出した時だけ銀行を出た先にあるトイレを利用できたといいます。トイレに続く廊下は梅川の死角になっているため、廊下に待機していた佐藤さんたちはトイレに向かう人質に「突入の声が聞こえたら伏せろ」と指示を出していました。こうして作戦内容を伝えることで特殊部隊と人質が協力して計画を遂行できるようにしていました。
立てこもりから40時間あまり、差し入れの新聞を読みながら梅川が居眠りをした瞬間が突入の合図になりました。潜伏していた佐藤さん率いる特殊部隊は音を鳴らして梅川の注意を引き付けバリケードの奥の階段に潜んでいた部隊が梅川を狙撃。銃声の後、特殊部隊がいっせいに突入しました。誰の銃弾が致命傷になったか誰にも分からないように一斉射撃の作戦が選ばれました。結局、この三菱銀行人質事件は日本の事件史上犯人射殺で解決にいたった最後の事件となりました。
梅川昭美の生い立ち
梅川昭美は1948年3月1日、広島大竹市で生まれている。父親46歳、母親42歳の時の子どもである。兄弟はない。父親が病気で働けなくなったのを機に両親は離婚、梅川は父の故郷・香川県大川町に移るが、父との生活もわずか半年で小学5年から母親と一緒に大竹市で暮らした。梅川はもともと少年時代から粗暴な性格だったが、両親の離婚を機に非行化は早まった。中学入学後は、唯一の肉親である母親に暴力をふるいはじめた。
中学を卒業した梅川は、工業高校に入ったが1学期で中退。母親は息子のために復縁したが、梅川は家を飛び出した。
その後、大竹市内の土建会社で作業員として働いていた。その間、バイクを盗んだりしたため会社を辞める。
その直後、辞めた会社の社長宅に侵入し、留守番していた社長の義妹(21歳)をナイフで殺害、現金、預金通帳などを奪った。この時梅川はまだ15歳、1963年12月の事件である。逮捕後、「他の奴らはぬくぬくと暮らし、なんで俺だけが貧乏して苦しまないかん」と供述した。逮捕時、梅川は16歳未満だったが、犯行の残虐さから中等少年院に送られた。
広島少年鑑別所は「同情、あわれみ、良心などの情性が欠如し、行動は反社会的、非論理的で罪に対する改悛の情が薄い。社会に放任することは極めて危険で、すでに病質的人格は根強く形成されており、容易には矯正できない」という鑑別結果を出したが、1年余で仮退院となっている。
この後、梅川は父親の遠縁を頼って大阪へ行き、バーテン、飲食代取り立て人などをしながら暮らしていた。この時から三菱銀行を襲うまでの15年間、梅川は警察沙汰は起こしていない。
19歳の時には父親が亡くなった。父親は生前、「はよう死なんと、いまにアイツにひどい目に遭わされるわ」と知人に嘆いていたという。梅川は父親の葬儀には出席しなかった。
梅川は右腕に「牡丹」、左肩に「龍」の刺青を入れ、27歳の時に7年交際した女性と別れた後、大藪春彦のハードボイルド小説に熱中し、ボディービルに励み、猟銃の練習を続けながら、かっこいい男の生き方を模索していた。フロイトやニーチェなどの思想書や、ヒトラーの伝記にも手を出している。読書家で、月々の本代もかなりのものだった。自分を磨く努力には惜しみがなかったようだ。
なお梅川と交際していた女性は、ベラミ事件の鳴海清とも付き合っていたことがあるらしいという噂があるが、真偽は定かでない。
30歳の誕生日を前にして、仲間に「オレもおふくろを心配させたらあかん齢や」と漏らす。
1977年2月、数少ない友人の1人に「どうしても5000万円ほど欲しい。銀行強盗やるから手伝え」と持ちかける。
1978年2月、勤め先だったクラブが閉店になり失業する。4月頃から贈答品セールス業を始めるが、うまくいかず、母親への仕送りもできなくなった。
「15で殺しをやった。あれから15年目の30歳だ。ここらで一発でかいことをやらんとあかん」
梅川は具体的に三菱銀行北畠支店を狙うことに決めた。計画では支店からは盗難車で逃走し、500mほどの場所にエンジンキーを刺したまま停めておいた愛車マツダ・コスモに乗り換えるというもの。愛車の灰皿にはアリバイ用に口紅のついた吸殻を入れておき、銃撃戦も想定して、2つの車両には大量の散弾も積んだ。
ワゴン車は1月12日夜、三重県四日市市で友人に盗ませたものだった。25日、この強盗をもちかけられた友人は、協力を拒否し、梅川は「水くさいぞ。もう付き合わん」と捨て台詞を吐いた。
事件直前、梅川は2年ぶりに母を訪ね、数日間の親孝行をした。近所の人に高価なカズノコを手土産に手渡した。出世して羽振りの良い自分を見てもらいたい、見栄をはりたかった。
そして当日の午前11時頃、近所の理髪店でパーマをかけてアフロヘアにした。
計画では3分以内には現金を奪って乗り付けた車で逃走するつもりだった。車に大量の散弾を積んでおいたのも逃走の際の銃撃戦を想定してのことだった。しかし支店に入ってやった威嚇発射のせいで行員がカウンター内に伏せてしまい、また外へ逃げ出した人もいて、警察への発覚が思いの外早かった。何せ梅川が支店に入ってわずか1分後には偶然通りかかった警官がやって来た。現金が詰め込まれたバッグが梅川に差し出される頃には、彼の計画に狂いが生じ始めていた。
通りかかった警官を射殺してから、通報を受けたパトカーが到着するまで、4分の空白がある。梅川が現場から逃げられるとすれば、この4分の間に限られるが、なぜか彼はその場に居続けた。たった一人の篭城戦というのは先の見えている犯罪である。なぜ逃げなかったのか、という疑問については、「300万に満たない金では借金がどうにもならなかった」「警官がやって来たのを見て、支店の外にはもう警官隊が集結しつつあると錯覚した」というようなことが考えられるという。(「犯罪の同時代史」 松本健一 高崎通浩)
彼の興じようとした「ソドムの市」は計画的なものでなく、計画的であったのは銀行強盗の方で、この狂乱は計画狂いの行き着いた先に起こった。もちろん梅川が「ソドムの市」にかなり影響を受けていたことも関係している。
梅川からは銀行員に対する不満や憎しみといった感情が見え隠れする。若い女性の人質もいたが、全裸にされたのは女子行員だけであった。女子行員が差し入れのラーメンを配っていた時などは「お客さんから先にせんかい!」と怒鳴っている。
行員以外の人質に対しては比較的親切に扱っていたとされ、またある時には行員に対して「片親のもんはいるか?」と尋ね、手を上げた女子行員に「お前は脱がんでええ」と言っている。後にその女子行員に対して「自分みたいな子を持ったら、母親としてどうするか?」と加えて尋ね、女子行員が「叱ります」と答えると、「それがええ!」と嬉しそうな表情をした。
梅川の母親に対しての感情は複雑なものがあったようで、「世の中が一番悪いんや。その次にこんなオレを生んだ母親や」と言ったかと思うと、「オフクロがかわいそうや」と言うこともあった。
事件から3人後の1月31日、母親と叔父の2人だけで、梅川の葬儀が執り行われた。
また2月3日には殺害された2人の行員の三菱銀行葬があり、約2000人が参列した。
これほどの凶悪事件、人質となった人々は一生記憶の消えることのない悪夢のような体験をした。その一方で時代は移り、銀行は合併を重ねて、現場となった三菱銀行北畠支店は三菱東京UFJ銀行北畠支店とその名を変えた。しかし完全に風化しているわけではない。事件を教訓に、この梅川事件さながらの防犯訓練が今でも行われている。
現在も当時のままの建物が残っている
映画化(三菱銀行人質事件の犯人の梅川昭美に材を取った作品)
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4.5
大阪で実際に起きた三菱銀行たてこもり事件を、ピンク映画界で活躍してきた高橋伴明が監督し一般映画デビュー。破滅的にしか生きられない主人公を宇崎竜童が熱演し、高い評価を得た。少年院あがりの明夫は「30歳までに何かドでかいことをしてやる」と決意して、胸に刺青を入れ、キャバレーのボーイとなる。店の売れっ子ホステス・三千代を強引に口説くがやがて逃げられ、明夫は31歳を目前に銀行強盗を計画する・・・。 (C)1982 国際放映ブロウアップATG 関連書籍 | 破滅―梅川昭美の三十年 (幻冬舎アウトロー文庫) | 毎日新聞社会部 |