映画「冷たい熱帯魚」の元になった「埼玉愛犬家連続殺人事件」とは
埼玉愛犬家連続殺人事件
埼玉愛犬家連続殺人事件(さいたまあいけんかれんぞくさつじんじけん)とは、1993年(平成5年)に日本の埼玉県熊谷市周辺で発生した殺人事件のこと。マスコミ報道が先行した事件であり、被疑者の映像が連日映し出された上、完全犯罪を目論んだ残忍な結末が明らかになるなど異常性の高い事件であった。
概要
平成7年1月5日、埼玉県警は埼玉県・熊谷市のペットショップ「アフリカケンネル」経営の関根元(当時53歳)と元妻で共同経営の風間博子(当時38歳)の2人を死体遺棄の疑いで逮捕した。関根は犬の繁殖場の建設で1億4000万円の借金を抱えていた。そこで、なりふり構わず不当な価格で犬の販売を行った。平成6年4月、産廃処理会社経営・川崎昭男(当時39歳)に対して実際は数十万円のアフリカ産の犬を1000万円で売りつけた。後日、購入した犬が時価数十万円程度であることを知った川崎は関根に代金の返済を求めた。
そこで、関根は川崎を呼び出して栄養剤だと偽って犬薬殺用の「硝酸ストリキニーネ」入りのカプセルを飲ませて殺害した。硝酸ストリキニーネは、知人の獣医に「犬を安楽死させるため」と偽り50人を殺害できる量の5グラムを譲り受けていた。
この殺害を知った暴力団幹部・遠藤安亘(当時51歳)とその運転手・和久井奨(21歳)を口封じのため7月に殺害。8月末には、主婦・関口光江(当時54歳)に犬の販売トラブルで殺害した。いずれも「硝酸ストリキニーネ」を飲ませて殺害し、群馬県片品村にある犬飼育場に遺体を運び、風間と2人で浴槽にて包丁でバラバラにした。また、同社の元役員・志麻永幸(当時38歳)に依頼して細切れにした肉片は川に棄て、骨はドラム缶で焼き、残った骨灰は近くの山林に棄てた。
関根元
1942年(昭和17年)1月、埼玉県秩父市生まれ。「アフリカケンネル」の創業者で、実質的な経営者。ペットや猛獣の扱いにかけては天才的で、ブリーダーとしての腕は非常に優秀だった。シベリアン・ハスキーブームの仕掛け役、アラスカン・マラミュートの第一人者とまで言われた、業界の有名人。かつては故郷の秩父市で、ペットショップや動物リース業を営んでいた。しかし、売った犬を盗んで別の客に売ったり、殺して新たな犬を売りつける等、当時から悪質な商売を繰り返していた。また、トラやライオンなどの猛獣も扱っており、近隣住民から恐れられ、嫌われていた。その後、付き合いのあった暴力団とのトラブルなどが原因で、一時期静岡県伊東市に姿を眩ますが、1982年(昭和57年)、埼玉県熊谷市で「アフリカケンネル」を開業した。
人間心理を読むことに長けており、ヤクザのような風体とは裏腹の、独特なユーモアと巧みな話術に引き込まれる人も多かった。その一方で、前述のようなあくどい商法や、顧客に対する脅し、暴力団関係者との交友などから、深い関わりを避ける同業者も多かった。また、虚言癖があり、自分が異端の経歴を持つ資産家であるよう装っていた。周囲の知人や店の客に対してばかりでなく、著名なブリーダーとして雑誌やテレビの取材を受けた際にも、同様の虚言を弄し、店の宣伝に大いに利用していた。ヤクザの金に手をつけた事情で左手の小指を詰めているため、左手の小指がない。
関根元は殺人哲学として以下の5つをあげていた。
世の中のためにならない奴を殺す
すぐに足がつくため、保険金目的では殺さない
欲張りな奴を殺す
血は流さないことが重要
死体(ボディ)を透明にすることが一番大事
特に最後の「ボディを透明にする」という手法が注目された(後述の
「若い頃、どうすりゃ金が手に入るのか考えたもんだ。いくら考えても結論は一つしか出なかった。金を持っている奴から巻き上げて、そいつを消す。捕まんなきゃ、これが一番早い。だが、殺すのはいいとしても、問題は死体だ。これが悩みの種だった」(『愛犬家殺人事件』より)他にも、共犯の山崎永幸によると関根元は「殺しのオリンピックがあれば、俺は金メダル間違いなしだ。殺しのオリンピックは本物のオリンピックよりずっと面白い」「そのうち、俺は殺しの世界で一番の男になりたいと思うようになった。人間なんでも一番にならなきゃ駄目だ。殺しにかけては俺がいまナンバーワン」「死体がなければただの行方不明だ。証拠があるなら出してみろ。俺に勝てる奴はどこにもいない」「最初は俺も怖かったが、要は慣れ。何でもそうだが、一番大事なのは経験を積むこと」「臭いの元は肉だ。そこで透明にする前に骨と肉をバラバラに切り離すことを思いついた」「骨を燃やすのにもコツがいる」などのコメントを残している。
普段は虚勢を張っている一方で、根は小心者で神経質という一面もあった。完全犯罪を目論んで完璧な証拠隠滅を図った犯行にも、その性格が現れている。逮捕されないことに絶対的自信を持っていた反面、常に怯えていたと、山崎永幸は語っている。
風間博子
1957年(昭和32年)2月、熊谷市生まれ。「アフリカケンネル」の登記上の社長。寡黙だが、気が強い女性。いわゆるお嬢様育ちで、大の犬好き。関根元と知り合うまでは真っ当な暮らしを送っていた女性であったとされ、保育士をしたり、土地家屋調査士であった父親を手伝うため、測量の勉強をしていたこともあった。若くして結婚し、実子を二人儲けたが、前夫とは離婚している。関根元との結婚後は、刺青を彫らされたという先妻らに対抗し、背中に龍の刺青を彫るなど、関根元との一体感を深めていった。ブリーダーとしても成長し、また、ドッグショーでは関根元に代わってハンドラーを務めるなど、表舞台に立つことが多かった。浪費の激しい関根元とは対照的に、金銭管理能力に優れていたことから、「アフリカケンネル」の経理を担当していた。関根の税金滞納から逃れるために偽装離婚をし、関根元の代わりに風間博子が形式的に社長に就任することになった。店の資金面の一切を掌握していたことから、金銭をめぐる一連の事件に深く関与していたとされる。中でもB・C事件では、殺人現場に同席したほか、遺体の解体にも携わり、手馴れた作業だったという。
逮捕後、比較的早い段階から自供を始めたXに対し、風間博子は黙秘をほぼ貫き通した。しかし、残された犬や家族の話題になると途端に涙ぐむという二面性を見せ、捜査員を困惑させたという。
役員 山崎永幸
1956年(昭和31年)1月、富山県生まれ。ブルドッグのブリーダーであり、「アフリカケンネル」の役員。群馬県片品村で貨車を改造した住居(通称「ポッポハウス」)に住んでいた。ドッグショーの会場で関根と知り合い、関根元の経営哲学を学ぼうとして「アフリカケンネル」を訪れるうち、誘われて同社の役員となった。だが、実質は関根元の運転手や手伝いをしていたにすぎなかった。A事件の際、関根元から脅迫を受け、遺体を運搬したほか、自宅を遺体の解体場所として提供し、死体損壊・遺棄の犯行に加担した。自宅が山奥にあり周囲に人家がなかったこと、妻(先妻)と離婚して一人で暮らしていたことなどから、犯行に適した場所だった。関根元に怯えながらも、B・C事件、D事件でも同様に手伝った。関根元の脅迫に恐怖し、自身や家族に危害を加えるのを恐れたという。また、物証がほとんど残っておらず、仮に自首しても、関根元の犯行が立証できるかどうか不安を抱いていたという。
捜査段階では事件の解明に全面的に協力していた。しかし、検察官との密約の存在を公判で証言。検察官が約束を反故にしたとして、関根元らの裁判では証言拒否の構えを見せた。計算高く、功利的、自己保身的な性格と評されている。
懲役3年の実刑判決が確定し、服役。1998年(平成10年)8月28日に満期3年の実刑を終え、栃木の黒羽刑務所を出所した。その後、事件の顛末を記した本『愛犬家殺人事件』を出版した。当初は実名で出版したが、後に「志麻永幸」というペンネームに変えた。
事件
A事件 川崎昭男さん(当時39歳)行田市に住む産業廃棄物処理会社役員・川崎昭男(当時39歳)は、犬を買うために「アフリカケンネル」を訪れたことから関根と知り合い、親交を深めるようになっていった。当時、兄が経営する会社が傾いていたことから、新商売を模索していた川崎は、関根元が勧める犬の繁殖ビジネスを手掛けることになり、「アフリカケンネル」からローデシアン・リッジバックのつがいを計1100万円で購入、うちメス犬を入手した。ところが、知人から犬の相場が数十万円であることや、高齢で繁殖に適さないことを知らされ、関根元に騙されたことに気づいた。また、メス犬が逃げ出し、繁殖が不可能になったことから、残るオス犬のキャンセルと代金の返還を求め、トラブルとなった。当時、「アフリカケンネル」は金銭的に窮しており、関根元と風間は川崎に金は返せないと判断し、謀議の上、川崎殺害を決意した。
1993年4月20日夕方、「金を返す」と言って熊谷市内のガレージに呼び出した川崎と、大型ワゴン車内で談笑中に、関根元が硝酸ストリキニーネ入りのカプセルを栄養剤と偽って飲ませ、殺害した。その後、ガレージに戻った山崎に対し、関根元は遺体を見せつけた上、「お前もこうなりたいか?」「子どもは元気か?元気が何より」などと、山崎やその家族に危害を加えることを示唆して脅し、片品村の山崎方に遺体を運び込ませた。関根はそのまま遺体の解体作業に取り掛かる一方、山崎永幸に対しては、ガレージに残された川崎の車を、都内に運ぶよう指示した。
山崎永幸は熊谷に戻った後、風間博子と合流して2台の車で東京へ向かい、川崎の車を東京駅の八重洲地下駐車場に放置、川崎が自ら失踪したかのように偽装した。この偽装工作の最中、風間博子は山崎永幸に対し「うまくいったの?」「あんたさえ黙っていれば大丈夫」などと言い、事情を全て知っているような素振りであった。
熊谷で風間博子と別れた後、再び山崎永幸が片品に戻ると、既に川崎の遺体は解体されており、原型をとどめていなかった。21日早朝、関根元の指示で骨や所持品をドラム缶で焼却。肉片などを川場村の薄根川に、焼いた骨灰や所持品を片品村の国有林に遺棄した。
一般に、一連の事件の動機は「犬の売買をめぐるトラブル」と言われるが、それが直接の動機になったのはこの川崎事件だけである。
B・C事件 稲川会系高田組の遠藤安亘(51歳)と運転手の和久井奨(21歳)江南町に住む稲川会系高田組の遠藤安亘 組長代行は、関根と親交を有し、「アフリカケンネル」で顧客とトラブルが発生した際に仲裁役を務めるなど、関根元の用心棒的な存在であった。川崎の失踪後、関根に疑惑を向けた川崎の家族との会議に同席したことから、関根が川崎を殺害したのではないかと察知し、関根に多額の金銭などを要求するようになった。やがて、新犬舎の土地建物の権利証を要求された関根元と風間博子は、このままでは全財産を取られてしまうと危惧し、遠藤安亘を殺害することを決意した。その際、Bと常に行動を共にしている運転手の和久井奨(21歳)も、口封じのために殺害しなければならないとの結論に達した。
1993年7月21日夜、関根元・風間博子は山崎永幸の運転する車で遠藤安亘方を訪れた。関根と風間が遠藤安亘方に上がり、山崎永幸は遠藤安亘方前に停めた車の中で待機していた。遠藤安亘方内では、関根と風間が遠藤安亘の要求に応じる振りをし、権利証を遠藤安亘に渡して油断させた上、硝酸ストリキニーネ入りのカプセルを栄養剤と偽って遠藤安亘とCに飲ませた。遠藤安亘は間もなく倒れたが、和久井 奨はしばらく薬効が現れなかったので、関根らは時間稼ぎのために「救急車を呼ぶ」と言って、和久井 奨を誘導のために表通りに走らせた。その後、関根と風間は山崎の車に乗り込み、さらに表通りにいた和久井を乗せ、「遠藤安亘が女を呼んでいる」と言って山崎に車を出させた。江南町内の荒川堤防沿いの人けのない道路を走行中、突然助手席の和久井が苦しみだし、フロントガラスにひびが入るほど激しく苦悶した後、絶命した。
遠藤安亘方に戻って遠藤安亘の遺体を車に積んだ後、3人は2台の車に分乗し、片品村の山崎方へ向かった。山崎方に運び込まれた遺体は、風呂場で遠藤安亘、和久井の順に解体された。関根と風間が共同で解体し、山崎は包丁を研ぐなどして協力した。関根は山崎に解体作業を見せつけて脅し、また、風間は演歌を鼻歌交じりに歌いながら解体していたという。22日早朝、解体が終わると、風間は熊谷へ戻り、関根と山崎が骨や所持品の焼却に取り掛かった。肉片や骨灰などは、川場村の薄根川、片品村の塗川や片品川に遺棄した。
D事件 滝口良枝さん(54歳)行田市に住む主婦・滝口良枝さんは、次男が「アフリカケンネル」で働くようになったことから関根と知り合い、肉体関係を持った。しかし、新犬舎の建設や、遠藤の強請などにより、「アフリカケンネル」が経営難に陥っていたことから、関根は自分に信頼を寄せる滝口良枝さんに「アフリカケンネル」の株主になるよう持ちかけ、出資金を詐取することを画策した。だが、いずれ株主話の嘘は露見し、そうなれば出資金ばかりでなく、過去に販売した犬の代金(アラスカン・マラミュート6匹、計900万円)の返還をも求められかねないことから、金を詐取した後で滝口良枝さんを殺害することを決意した。また、滝口良枝さんとの交際を煩わしく思うようになっていたことも、動機の一つとされる。
1993年8月26日午後、関根は行田市内で滝口良枝さんを車に乗せ、出資金の名目で、当時のD家のほぼ全財産である270万円を詐取した後、硝酸ストリキニーネ入りカプセルを服用させ殺害した。滝口良枝さんは最後まで関根を信じていたという。関根から(A事件と同じ熊谷市の)ガレージに呼び出された山崎は、後から車で現れた関根にまたしても遺体を見せつけられ、迫られて遺体を片品村の自宅に運搬した。関根は川崎らと同様に滝口良枝さんを解体したが、山崎の著書によれば、その際関根は屍姦を行ったという。解体後は骨や所持品を焼却。27日未明、全て同村の塗川に遺棄した。
この事件では、全面自供した山崎永幸には滝口良枝さんと面識がなく、遺体となった滝口良枝さんと初めて対面した。そのため、山崎が被害者と面識があり、殺害の直前・直後に現場に居合わせたA事件、B・C事件と比較すると、立証が難しかった。また、風間が関与していた疑いは強いものの、山崎の目撃証言からは立証できず、関根の単独犯行とされた。
遺体なき殺人一連の事件で特筆されるのは、関根が「ボディを透明にする」と呼んだ残虐な遺体の処理方法である。被害者4人の遺体は山崎方の風呂場で解体された。骨・皮・肉・内臓に分けられた上、肉などは数センチ四方に切断。骨はドラム缶で衣服や所持品と共に、灰になるまで焼却され、それらは全て山林や川に遺棄された。関根は、遺体を埋めても骨は残ることから、焼却してしまうことを考案。しかし、遺体をそのまま焼くと異臭が発生するため、解体して骨のみを焼却したという。燃え残りが出ないよう、1本ずつじっくり焼くという念の入りようであった。
このことについて、山崎永幸は、Xが『面白い・楽しい』と供述したと、話しており、快楽殺人ともとれる。
事件発生から被疑者逮捕まで
川崎失踪翌日の1993年4月21日、家族から埼玉県警行田警察署に捜索願が出された。当初は単なる家出人と見られていたものの、30日に八重洲地下駐車場で乗り捨てられた川崎の車が発見されたことから、県警が事件性を察知して捜査に乗り出した。家族の話から、川崎が関根とトラブルを抱えていたことがわかり、また関根の周辺ではその9年前にも連続失踪事件が起きていたことから、県警は関根や山崎に対し、監視や尾行を行うようになった。ところが、関根らは捜査の目をかいくぐって、B・C事件、D事件を起こすに至った。いずれの事件も、不明者が関根と会った直後に失踪していることから、同年秋頃からは県警が本格的な捜査に着手した。関根らの監視を強化し、関根の知人に対しては、1人で関根と会わないよう忠告した。しかし、物証が発見できないために、関根らを逮捕することはできなかった。新犬舎建設をめぐって、建設業者へ支払う代金を踏み倒したとの詐欺容疑で、捜査二課が関根の別件逮捕を試みたこともあったが、この時点では殺人事件の立証は困難と判断され、見送られた。1994年1月26日、大阪愛犬家連続殺人事件の被疑者が逮捕された。本事件とは無関係であるが、同じ愛犬家の失踪事件として埼玉の事件の噂が広まり始め、2月中旬にはマスコミが「アフリカケンネル」に押しかけた。一気に事件が表面化し、ワイドショーなどで連日報道。関根が身の潔白を主張する一方、失踪者の家族らは事件性を訴え続けた。しかし、証拠が無い状態では疑惑の域を出なかった。
9月22日、埼玉県警は関根の知人で、群馬県山田郡大間々町(現・みどり市)に住む元自衛官を詐欺容疑(前述の詐欺容疑とは異なる)で逮捕した。元自衛官は、関根に代わって「アフリカケンネル」に押しかけたマスコミの対応を引き受け、疑惑を否定するなどしており、事件について何か知っているものと見られていた。取り調べの中で元自衛官は、1984年の事件についての関与を一部認めたほか(後述)、1993年の事件については山崎の関与をほのめかした。
10月17日、県警は山崎を事件解決の突破口にしようと事情聴取を行ったものの、山崎永幸は事件への関与を否定。その後山崎は妻(後妻)と共に行方をくらました。県警は山崎永幸の妻に対し、詐欺容疑(前述の2つの詐欺容疑とは異なる)で逮捕状を執って山崎夫婦の行方を追っていたところ、11月24日、都内の病院に現れた山崎夫婦のうち、妻を逮捕。山崎永幸には逃走されたが、前月に事情聴取を行った捜査員に対し、山崎永幸自ら電話を掛けて話すうちに、出頭を決意。12月3日から山崎永幸に対する事情聴取が再開され、やがて山崎永幸は犯行に関与したことを自供した。同13日、山崎永幸は片品村に捜査員を案内し、川崎Aの遺骨や遺留品の発見に至った。
年は明けて1995年1月5日、県警は関根と風間を川崎さんに対する死体損壊・遺棄容疑で逮捕。8日には山崎も同容疑で逮捕された。
物証の捜索
1995年1月から2月にかけ、埼玉県警と群馬県警の合同捜査本部は山崎永幸の自供を元に、熊谷市と片品村を中心に広く捜索を行った。捜索箇所は群馬県片品村・川場村・白沢村(現:沼田市)・利根村(同)、埼玉県熊谷市・江南町・川越市・新座市などに及ぶ。
片品の山林からは骨片・歯片・お守り・腕時計などが、塗川からは骨片・携帯電話の基板・家や車の鍵・義歯など(いずれも焼け残ったもの)が発見され、小さいながらも重要な物証となった。骨片は高温で焼かれていたためDNA鑑定が不能で、身元確認の手掛かりになったのはその他の遺留品であった。多数の捜査員が厳寒の川に浸かり、川底の砂利を採取してふるいにかけ、数ミリ~数センチの遺留品を捜し出す懸命の捜査が功を奏した。
河川の捜索にあたっては、事情に詳しい群馬県警捜査員から「金属などは意外と水に流れず、現場にとどまっている」との助言があったという。事実、事件発生から1年半~2年近く経過していたにも関わらず、物証が遺棄現場の川底から発見された。
愛犬家殺人事件 公判と展開
殺害した4人の遺体は骨が粉々になるまで損壊させたため身元の確認ができなかった。このため、自供による証拠固めを中心に捜査を続けていた。逮捕後、関根は4人の殺害を認めたが風間の主導であったと主張。一方、風間は関根の主導で犯行に至ったと主張した。平成13年3月21日、浦和地裁は「いずれも身勝手な理由で、次々と虫けらを殺すように毒殺などを実行した。世上まれに見る重大凶悪事犯」として、関根・風間2人に死刑を言い渡した。両被告は控訴。
尚、志麻は犯行を認め服役。平成10年8月に出所後、本事件を執筆し「愛犬家連続殺人」というタイトルで本を出したことで注目を集めている。
平成17年7月11日東京高裁は、関根、風間の控訴を棄却。2人はただちに上告した。
関根元 風間博子 死刑確定
平成21年6月5日、最高裁は「猛毒を飲ませて中毒死させ、死体を切断して山や川に捨てた犯行は冷酷で悪質極まりない。不合理な弁解を繰り返し、真摯な反省の態度も見られない」として、関根と風間の上告を棄却した。これにより2人に死刑が確定した。
関根元の言葉
気に入らない奴は全部透明にしちまえばいいんだ
お前もやってみろよ。冷んやりして気持ちいいぞ。
埼玉愛犬家殺人事件被告夫婦の娘 両親逮捕以後の人生を告白
埼玉愛犬家連続殺人事件──1993年に起きたこの事件は、ブリーダー夫婦がペット詐欺を働き、それが明るみに出る前に次々と愛犬家を殺していたというもので、当時、その残虐な手口が日本中を震撼させた。主犯として逮捕された元夫婦の関根元被告と風間博子被告は2009年に死刑判決が確定し、現在も収監されている。夫婦の間にいた子供は、当時小学2年生。その彼女も、現在28才となった。“死刑囚の子”という十字架を背負って生きたこの20年の過酷な日々と、知られざる母娘の交流、そして断ち切ることができない親と子の絆を、初めて語った。関根と風間の間に生まれた長女・希美さん(仮名・28才)は、小学校3年生だった逮捕当時のことをこう語る。
「その時は逮捕ということがわからなくて、連れて行かれちゃうとだけ思ったんです。警察官は『お母さんは、すぐ帰ってくるから』と言うし、お母さんも『大丈夫だから』と言うけど、私だけ取り残されてしまうという事実がショックだった」
突如、両親を失った希美さんは、祖母と一緒に、東京の叔母のワンルームマンションで暮らすことになる。
「引っ越すことを学校の友達に伝えようとしても、電話に出た親が『いないわよ』と言ったり、『ちょっとごめんね』って切られたり。友達が電話に出ても、後ろから『切りなさい』という声が聞こえてきたりしました」
明るかった希美さんには友達も多かったが、別れを惜しむことさえできなかった。
「学校の編入では校長室に呼ばれました。担任に『やっていけますか』と聞かれて、それしか答えようがないんで、私は『はい』と言いました。学校が始まってからは、先生が私にだけ、妙に優しかったのを覚えています。その頃、同じクラスの男子のお母さんが旦那さんを殺してしまうという事件が起きて、学校中が騒然としていました。自分のことがバレたら、さらに大変なことになるんだろうなって、不安でしかたがありませんでした」
周囲の大人たちは気遣って、事件のことを希美さんには話さなかった。しかし希美さんは、程なくして事件の詳細を目にすることになる。
「小学校高学年になって、祖母が隠していた週刊誌を見てしまったんです。母が歌を歌いながら、亡くなったかたを切り刻んでいたっていうのを読んでしまって…それを信じてしまい、ああ、何も知りたくない、何もなかったことにしてしまいたい、と祈り続けていました」
その残虐さから大きく報じられていたこの事件。そのなかでも、3年の刑期を終えて出所した共犯者・山崎永幸の告白は、共犯者のものだけあって、迫真性があった。そこには、博子が「鼻歌交じり」に「主婦が刺身でも切っているみたい」に被害者の遺体を「スライス」したとあったのだ。
すべてを忘れたい──そんな希美さんの気持ちとは裏腹に、世間はいつまでも事件のことを忘れなかった。中学に進むと、希美さんは重度の障がい者を介護するボランティアに出かける。
「世間話で『ずっとこっちに住んでるの?』って聞かれて、『いえ、埼玉です』と言うと、次は『どこ?』って聞かれて、『熊谷』って答えると、『熊谷って事件のあったとこだよね』って話になるんです。同じ風間姓だし、私は母に似てるので、もしかして? って話題になりますよね。それで、楽しかったボランティアにも行けなくなってしまいました」
思春期には、さらにつらい思いを味わった。
「高校生の時、おつきあいを始めたかたに、母の話をしたんです。すると、『人間、一度罪を犯したら直らない。悪人は悪人のままだ』って。誰に話しても、私は受け容れてもらえないんだって、両親のことは一生隠して生きていかなきゃって思いましたね」
誰にもわかってもらえない苦しみ。それは自然と両親を責める気持ちを膨らませていった。そこにさまざまなことが積み重なり精神を病んだ希美さんは、すべてを投げ出して死んでしまいたい──そう願うこともあったという。
博子に浦和地裁(現・さいたま地裁)で死刑判決が下ったのが、2001年。関根も同様である。殺人と、死体損壊・遺棄の罪。希美さんが15才の時のことだ。19才、専門学校生だった2005年には、東京高裁で控訴棄却。再び死刑の判決を聞かされる。その度に、事件のこと、逮捕の時のことなどを思い出し、希美さんは涙が止まらなかった。
それまで事件のこと、両親のことを封印しよう、忘れようと思っていた希美さんの心に変化が訪れる。成人となった希美さんに言った、叔母のひと言がきっかけだった。
「何があっても、お父さんがいたからこそ、あなたがいるんだよ」
その言葉が、希美さんの心を開いたのだ。
「産んでくれてありがとう、っていうお礼の手紙を書いたんです。すると、会いにきてほしい、って父は書いてきた。でも、逞しかったあの父が、変わり果てていたらどうしようって心配で、結局、行けませんでした」
希美さんは今に至るまで、父とは一切会っていない。
「数年後に母に面会に行った時に、父にお金を差し入れたんです。でも後日、東京拘置所の差し入れ係から電話があって、受け取り拒否ということでした。私が会いに行かなかったから、怒っていたのかもしれません。それからは交流はないです。父からの手紙には、『お母さんを帰してあげる』って言葉もあった。今となっては、意味は定かではないんですけど、父には事件の真相を、ちゃんと話してほしい。被害者のためにも、そうしてほしいと思います」
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