裁判官も泣いた「京都認知症母殺害心中未遂事件」とは
京都認知症母殺害心中未遂事件
2006年2月1日未明、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職片桐康晴(当時54歳)被告が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった。
出典:伏見・介護殺人
父の言葉
京都市中京区の職人の住む一画で生まれた片桐康晴の父は西陣織の糊置き職人をしていた。口よりも先に手が出るような厳しい人物であったようだが、康晴は父親を尊敬していた。康晴は高校卒業後、父の弟子となった。しかし呉服産業の不況により、35歳の時に職人をやめてホテルの警備員や電気製品の製造工、システムキッチンの組み立てなどに仕事を変えた。結婚はしていない。父親は1995年に80歳で亡くなり、この頃から母親に認知症の症状があらわれはじめる。事件から11年前のことである。
2001年頃、母子は伏見区のアパートに引っ越した。親類の好意で、家賃6万円のところを半額にしてもらった4畳半と6畳間の部屋だった。
母親の認知症は2005年4月頃から症状が悪化し、おにぎりの包み紙を食べたり、「キツネがいる」と言って天井を叩いたりした。真夜中に外出しようとしたり、康晴が仕事に行っているあいだに徘徊して警察に保護されたりしたことも2度あった。昼夜逆転の生活になっているため、母親は真夜中の15分おきに起き出し、康晴も疲れ始めていた。
そんなことがあってか、夏ごろには介護保険を申請し、アパートの近くの施設でデイケアサービスを受け始めたが、昼夜逆転の生活は戻らなかった。康晴は献身に介護し、7月頃には仕事を休職している。
9月頃、工場勤めをしながらの介護に限界を感じた康晴は仕事を辞め、自宅で介護しながらできる仕事を探したが見つからなかった。12月には失業保険の給付もストップしている。区役所にもすでに3度相談していた康晴だったが、良いアドバイスは得られなかった。「生活が持ち直せるしばらくの間だけでも生活保護を受給できないか」と相談したこともあったが、「あなたはまだ働けるから」と断られている。(事件後、康晴は唯一この社会福祉事務所の担当者にだけは恨み事を述べた)
同じ頃、カードローンの借入も25万の限度額になった。生活費に窮するようになった康晴は、自分の食事を2日に1回にし、母親の食事を優先した。
こういった苦しい状態になると、人は普通親類なり友人なりに頼るものである。しかし康晴はそうはしなかった。康晴の心にはいつまでも父親が生前言っていた言葉が去来していたからだ。
「人に金を借りに行くくらいやったら、自分の生活をきりつめたらいいのや」
「他人に迷惑をかけたらあかん」
「返せるあてのない金は借りたらあかん」
出典:伏見・介護殺人
母子の悲しい旅
2006年1月31日、この日までに払わなくてはならないアパートの家賃3万円はどこにもなかった。手持ちの現金はわずか7000円ほど。康晴は親族に相談することもなく、自分たちに残された道は「死ぬこと」しかないと思った。康晴は自宅アパートをきれいに掃除をして、親族と大家宛ての遺書と印鑑をテーブルに置いた。その間、康晴は何度も母親に「明日で終わりなんやで」と話しかけている。
最後の食事はコンビニで買ってきたパンとジュース。電気のブレーカを落とすと、康晴はリュックサックに死ぬためのロープ、出刃包丁、折りたたみナイフを詰めて、車いすの母と2人アパートを出た。
2人が向かったのは、三条の繁華街だった。康晴がどこに行きたいかと尋ねて、母親が「人の多い賑やかなところがいいなあ」と答えたからだった。1人300円の運賃を払って淀駅から京阪電車に乗り、三条京阪駅に着いた。
駅を出ると鴨川が流れている。2人はしばらくこの川のそばで時間をつぶしている。やがてにぎやかな新京極通りをに向かった。この通りの入口にそば屋がある。康晴がまだ子どもの頃、親子3人で食事をしたことのある店だった。しかし手持ちの金が多くないため、食事はしなかった。
出典:伏見・介護殺人
冷たい雨
夜、母子は伏見にいた。もう戻ることのできないアパートの近く、桂川の河川敷。次にどこへ行きたいかと聞かれて、母親が「家の近くがええな」と言ったからである。午後10時のことだった。
2月1日。厳しい冷え込み。康晴は車椅子の母に防寒具をかけてやった。それから何時間か過ぎた。
「もうお金もない。もう生きられへんのやで。これで終わりやで」
康晴は泣きながら目を覚ましたばかりの母に語りかけた。母親は「すまんな」「ごめんよ」と泣きじゃくる息子の頭を撫で、「泣かなくていい」と言った。
「そうか、もうアカンか、康晴。一緒やで。お前と一緒やで」
「こっち来い。こっち来い」
母に呼ばれた康晴が近づいたところ、額がぶつかった。
「康晴はわしの子や。わしの子やで。(お前が死ねないのなら)わしがやったる」
その母の言葉に康晴は「自分がやらなければ・・・・」と思った。
そして意を決し、車いすのうしろにまわってタオルで母親の首を絞めた。絞め続けた後、苦しませたくないために首をナイフで切った。
康晴は遺体に毛布をかけた後、包丁と折りたたみナイフで自分の首、腕、腹を切りつけ、近くにあったクスノキの枝にロープをかけ首を吊ろうとしたが失敗した。「土に帰りたい」と走り書きしたノートの入ったリュックサックを抱いて、冷たい雨の降るなか虚ろな表情で佇んでいた。
通行人によって2人が発見されるのは午前8時ごろのことである。
地裁が泣いた -認知症母殺害事件初公判-
06年1月31日に心中を決意した。「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、
2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、
刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
励ましの言葉
「痛ましく悲しい事件だった。今後あなた自身は生き抜いて、絶対に自分をあやめることのないよう、母のことを祈り、母のためにも幸せに生きてください」裁判官が最後にこう語りかけると「ありがとうございました」と頭を下げた被告。判決後、弁護士に「温情ある判決をいただき感謝しています。なるべく早く仕事を探して、母の冥福を祈りたい」と語ったという。
伏見・認知症の母親殺害事件 介護者SOS見逃さないで
ケアマネジャーに頼りがちな行政にとって、制度のはざまで暮らす人たちの実態把握は難しい。自分から助けを求められない介護者にも目が行き届かないのが現状だ。京都市上京区の「呆け老人をかかえる家族の会」京都支部の荒綱清和代表も認知症の母を介護した。言うことを聞かない母に憎しみを込めて尻をたたいたことがある。その後、排せつ物の世話のたび、尻に浮かぶピンク色の手形を見て自分を責めた。「むなしさで涙がこぼれた。こういう悩みは他人には話せない」。
親身に耳を傾けて
2000年4月に介護保険制度が始まり、従来の措置制から契約制に変わった。利用者に選択の自由がある一方、公的責任は後退していないだろうか。制度開始後も「介護殺人」は絶えず、日本福祉大の加藤悦子講師によると、1998年からの6年間で200件近くあるという。
人を殺すことは許されない。ただ、今回の事件は、誰かが親身に耳を傾けていれば命を救えたと思えて仕方ない。周囲が受け身のままでは悩みを抱え込む介護者のSOSを見逃してしまう。心を閉ざす前に変化を読み取り、積極的に救いの手を差し伸べる必要がある。
事件発生当時のニュース映像
京都認知症母殺害心中未遂事件 漫画
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