NHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」は、靖国神社に繋がる・・・

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この動画は、NHKスペシャル「樺太地上戦~終戦後7日間の悲劇~」ではありません。当時、樺太から引き揚げた、引き揚げ船で、1704名の命の奪った「留萌沖の戦慄、1945」(音楽と墨絵で語り継ぐ)です。
	

敗戦後72年目の今夏、NHKは戦中に関わるドキュメント映像として、いくつかを放映した。それぞれ衝撃を受けたが、戦中から敗戦後を取りあげたものに少なくとも4つある。1は、旧満州開拓団の引き揚げの際、他の開拓団が集団自決(強制死)を行っているのに対し、黒川村開拓団が生き延びるため、女性等を犠牲にした行為の壮絶な悲劇「告白、旧満州開拓団の女たち」。2は、旧ビルマから、インド・インパールをイギリスから奪還するための作戦で、補給が断たれ、弾薬・食糧が尽きた日本兵が、戦闘よりむしろ、やっと出た作戦中止命令により帰還の際、飢餓死、自死及び病死によりほぼ全滅(食糧なく生き延びるため、コヒマでは、敵軍イギリス兵の食し、他の場では、友軍である日本兵を食べ、人肉の取引まで行う凄惨なもの)戦中最悪の無策・作戦と「戦慄の記録・インパール」(NHKはアーカイブとして1993年、2008年とそれぞれ1時間程度のドキュメント・インパールをNスペ映像で公開しているが、今回は約90分近くで長尺だ)。さらに3つ目は、旧満州ハルビンで捕虜3000名ものに人体実験を行い、だれひとりとして生きて返すことのなく、逃げ遅れソ連に捕まった医師らの証言から「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」の凄まじい証言記録テープがロシアで見つかり、実験実態を証言している(早々と日本に帰国したいわゆる石井隊長等エリートは、そのデータ資料引き換えに、アメリカが戦犯として起訴しなかった。そして日本の名門エリート大学、京都大学、東京大学も731に関与していた)。そして、4つ目、この「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」であるが、放映時間も40分足らずで、時間帯も20時前後だった。それぞれ壮絶な内容と全貌を伝えているが、樺太地上戦は証言含め初めての公開と思う。


ところが、前者3つのドキュメント映像に比べ、話題となるトーンが少し落ちている。ところが、この樺太戦は、日本の敗戦直後のたった7日間で、ちょうど沖縄戦で日本軍の配下に置かれた沖縄住民の多大な悲劇であったガマでの集団強制死(集団自決)と、まるで変わらぬことが、北の極、樺太で起きていたことが分かった。南の極、沖縄と北の樺太での市民強制犠牲死の同質性がある。そして、敗戦後、民主主義化された日本で、樺太地上戦での死が美化され政治利用もされている。それ等の事に触れてみたい。


現・サハリンである樺太で、敗戦後8月20日に人口40万に及ぶ樺太をソ連の官報射撃から始まり、3万5千のソ連兵が侵攻する。そして現地・住民を巻き込んだ闘いが7日間続き、その際の樺太戦で約6000名の犠牲が出た。この犠牲者の多くが民間人であること、子供たち、女性等も自害した。命令は、「樺太を死守せよ」であったから、樺太日本軍師団は、民間人を含め従わせて、ソ連軍と闘った。8月16日、玉音放送より敗戦後1日が経ち、樺太西海岸・恵須取に全く戦う気のないソ連兵が船で上陸。降伏したはずの日本軍は無抵抗のソ連兵を先制攻撃で殺害したため、ソ連軍は機銃等で応戦、ここから戦闘が始まる。恵須取では8月15日に停電で玉音放送を聞けず、敗戦を知らなかったという。「樺太死守せよ」と敗戦後の命令が、陸軍第88師団樺太師団の本部に届いていた。鈴木康参謀長は既に武装解除の準備を進めていた。大本営はやむをえない自衛を除いては直ちに戦闘行動を停止すべしと天皇の名で全軍に伝えたはずが、この命令を受けた札幌の第5方面軍は「樺太を死守せよ」と鈴木たちに命じていた。命じたのは、札幌の方面軍の司令官口季一郎中将だった。彼の回想では、ソ連の指導者スターリンは既にアメリカとの密約で樺太千島の領有を認めさせその上北海道北部の占領もひそかに求めていた。札幌の口司令官は北海道占領を阻むための防波堤として樺太死守を命じてしまった。しかし樺太師団にはそもそもソビエト軍に対抗できるだけの戦力はなく援軍も全くない。

ここで、樺太住民を交えた戦闘をソ連と行う命令が出る。この証拠しての文書が、樺太戦資料を保管してあるロシアの資料館より見つかる。これは、敗戦後ソ連に抑留された樺太日本軍の軍人、役人の調書等で、書き残された記録資料である。その中で、女性や子どもまで駆り出して国民義勇戦闘隊を組織し軍と共に戦わせる計画が書かれていた。


「在樺太の全日本人を兵員として第一線に使用せんと企図せり。

戦闘用具は槍・手榴弾・毒矢。玉砕全員戦死まで遊撃戦を行わんとする」


つまり、ここで日本軍が住民と共にどう戦うのかを念頭・想起したのが、あの悲惨な・沖縄戦・だった。沖縄住民を軍に協力させ、日本本土の決戦までの時間稼ぎを行った作戦の勝利として、沖縄戦を評価していた。

樺太戦は、日本軍とこの樺太住民とが協力した強制的戦闘計画の唯一の場となる戦場と化した。

実際、ご在命であり、16歳で少年兵として国民義勇戦闘隊に召集された金沢さんの証言もある。着の身着のままで戦闘に参加させられ、ろくな武器もない。容赦ないソ連の機関銃掃射犠牲で、住民の遺体が浮かぶ海。100名の義勇戦闘隊が命を落とす(つまり住民)。住民の死傷者は増えるばかりだった。

約450キロある樺太を戦火逃れるため、引き揚げ船を目指した住民は、ソ連戦闘機の標的となる。逃避行の際、自決する住民・家族もいる。

8月20日、最大のソ連上陸作戦では、当時の激しい艦砲射撃映像がモスクワで見つかる。10隻以上のソ連艦隊は砲撃を繰り返した。ソ連との停戦交渉に出た鈴木参謀長は、「樺太死守」から逃れられず、交渉は決裂。

ここから、より一層住民の犠牲・悲劇となる。「1億玉砕」、「生きて虜囚の辱めを得ず」を植えつけられていた樺太住民は、たとえば教員家族が、父の軍刀で家族を幇助殺害をして自害。背後に潜んでいた200名以上の武装・日本兵は、ソ連軍侵攻を防ぐための待ち伏せ命令を理由に、樺太住民を助けることなく、命令に従った。

ソ連兵の上陸では、女性らへの強姦・暴行、殺戮とやりたい放題となっていた。

樺太で自死する事実として、9人の電話交換手の女性等の行為がある。当時、電話のやり取りをしていた友人証言で、非常に緊迫したやり取りの後、電話口から聞こえてきたのは、うめき声だった。まさしく「生きて虜囚の辱めを得ず」の言葉通り、上官から指示され、職場で用意された自決用の青酸カリ飲んで、9人の女性全てが服毒強制死(自決)をした。別のソ連上陸した場所、真岡では1000名以上死亡。師団本部のある豊原も空襲を受ける。引き揚げ船の攻撃、集団強制自死、武器なき戦闘での住民等死者は、5000人以上。この戦闘指揮をした鈴木参謀は、12年間のシベリア抑留された後、住民の犠牲、樺太死守も出来ないことに後悔の言葉を残した。

この映像最後にノンフィクション作家・保阪正康氏がこう述べている。「終戦後も多くの住民が犠牲になった樺太戦。その責任所在は、今なお曖昧である」と。これは、冒頭での満豪開拓では住民置き去りにして関東軍逃走、同じくハルビンの731部隊も上級医師ら早々に日本へ逃げる。インパール作戦や、その他の軍事作戦も補給がない作戦慣行、無能、無策、無責任の極を代表し、責任の所在を明らかにしないか、開き直り正当化するのが、下士官や大本営、軍上層部であること、天皇ヒロヒトもその一人である。犠牲となるのが弱い方、弱い方に追い詰められた一般住民(子供、女性等)であり、準備もなく無謀・無策の兵站での戦場での戦闘参加、下級兵隊でもある(一般住民を置き去りにした)。


そして戦後、民主化した日本で、なお戦中を引きずる施設で、この戦争を正当化する行為がある。天皇、戦争神社である・靖国神社・だ。靖国は、戊辰戦争以来、明治天皇側が、幕府を倒す、倒幕として闘い亡くなった天皇側戦闘員の魂を・命・として祀る神社。敗戦後、国体護持、天皇制存続を訴えた政府側が、その訴えを、アメリカの天皇を傀儡とする日本の敗戦後利用のため、靖国も天皇制も残した。つまり天皇ヒロヒトは、連合軍アメリカ側の日本統治の際、天皇を処刑すると、日本一般市民巻き込んだ内戦状態になるのを恐れ、戦犯を免れ、同時にアメリカの配下となる。敗戦後日本のアメリカ型民主化と引き換えに、天皇制存続、そして戦中の戦犯として東条以下大日本帝国・大本営上層部の軍属に責任を全て被せ、処刑した。


しかし、戦後、靖国神社は、この東条等戦犯を戦中、日本ために闘って散った兵士等の英霊として、戦闘で亡くなった霊は皆平等という理由から・「命・神」として祀った。これは現在でもなぜ戦犯を靖国は祀るのか、日本政府要人の右派のほとんどが敗戦記念日に靖国を祀るか奉納すること自体、被害を受けた諸外国より歴史認識含め問題視されている。国内でもいわゆる分祀論が絶えない。靖国は戦前、明治天皇にはむかった西郷隆盛等は、当然の事ながら、英霊・命として祀ることはない。つまり天皇に対する敵軍だから。けれど、奇妙なことに、敗戦後日本での西郷隆盛人気のため、命から魂の階級を下げて・翁・として祀った(靖国神社 遊就館に行けば分かる)。


このように靖国神社は、加害・被害の関係にある歴史認識、つまり中国・朝鮮等を侵略し、闘った歴史認識の象徴である、天皇神社であり、戦前を引きずったまま、アマテラスを祀る神社(伊勢神宮もアマテラスを祀る)として敗戦後日本に残ってしまった、天皇戦争神社である。

ところが、戦後、ここに靖国神社存続と戦中遺族会らの意向(犬死させたくない)を巧みに受け入れ、しかも日本政府・厚生省の関連意向(遺族年金)もあり、一般人が命・神として戦争神社に魂を入れられる。つまり、戦中一般の人々が国のため(天皇のため)どれだけ素晴らしい死を迎えたかという、戦中民間人、犬死でない死の美化である。ここに、樺太戦で上官命令により「生きて虜囚の辱めを得ず」と服毒強制死を強いた樺太電話交換手の女性等9名が靖国に命として祀られる(12名とも記されている)。さらに付け加えると、戦中、敵軍潜水艦により沈没させられた「対馬丸」。沖縄から子供たちを乗せた疎開船「対馬丸」(1476人の犠牲死、内子供たち826人)は、子供たち犠牲者が総て靖国神社に・命・として祀られた。また、シンガポールから日本に向けた民間貨物船「阿波丸」(約2000人乗船者が犠牲)の犠牲者も祀られる。さらに、沖縄戦で亡くなった2歳の赤子。極めつけは、広島での原爆犠牲となり、亡くなった子供たちほとんど全てが靖国に・命・とされた。そして、朝鮮から徴用で連れてこられ、日本のために闘わざるを得なかった朝鮮の人々も・命・として祀り、しかも、靖国神社の勘違いで、韓国・台湾等で生存している人々も、死者と扱い英霊・命・として祀ってしまっている(これは靖国相手の訴訟が起きた。また元陸軍小野田寛郎さんの「私は一度靖国に祀られられた人間ですから」という靖国のいい加減な対応との軋轢もある)。また、キリスト教信者でありながら、無理やり靖国に祀られた例は、いくらでもある。では、東京等の大空襲や長崎での原爆で亡くなった方々・民間人はどうなのか?


靖国は先に触れたように、明治からの戦前、戦中含め、戦闘員の「靖国で会おう」という合言葉で分かる、天皇のために闘い散った、おぞましく、夥しい血の海に浮かぶ天皇のための戦争カルト神社だ(あるいは天皇制支持・天皇教とするカルト)。さらに、この靖国から逃れたい・命・となった魂を靖国から出してくれと願う人々に、靖国は「一度魂が、・命・となると儀式上ここから出すのは難しい」として、拒否する。こんないい加減な神社をなぜ時の政府要人等が支持するのか(政教分離の問題から訴訟がある)。このことは、戦後、日本国家の天皇制維持のため、戦前をも引きずる民間人・国民をまとめ上げる装置として、戦中の死、戦後のあらゆる有事の際、それぞれの死を・無駄でなかった・という政治性を持った死の・美化・に他ならない(美化は同時に、なぜ死ななければならないのか?の責任の所在も無化してしまう)。上記の樺太戦及び、先の大戦での犠牲者を祀る靖国は、我々に見えないところで、民間人をも悉く祀ってしまう。

ここに、戦前を引きずり、国がそれを支持・加担し、歴史を忘却、やすやすと修正してしまう、我々の背後に潜むこのカルト靖国があることをしっかり捉え、事実を見つめ、内に刻んでおかなければならない、と思う。この無数の多大な惨劇を2度と繰り返さないように・・・(では、現天皇アキヒトはどうか。皮肉なことに、戦犯を祀る靖国には決して行かない)。


電話交換手であったが青酸カリによる服毒自殺をした。自害という名の強制死である。

現在の樺太・サハリン

現在の樺太・サハリンの慰霊碑