女子高生とその家族3人を惨殺!「 藤沢母娘殺人事件」藤間静波とは

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藤沢母娘殺人事件

藤沢母娘殺人事件(ふじさわおやこさつじんじけん)とは、1982年(昭和57年)5月27日に神奈川県藤沢市で、当時21歳の男が女子高生とその家族3人を惨殺した事件。この事件以外に、2人を殺害していたことが逮捕後に判明。一連の事件は警察庁広域重要指定事件112号に指定された。

出典:藤沢母娘殺人事件 - Wikipedia

	

母娘殺害

1982年5月27日夜、神奈川県藤沢市辻堂神台の会社員Kさん(当時46歳)が帰宅すると、居間で中学2年の次女R子さん(13歳)が、居間と台所の境で高校2年生の長女M子さん(16歳)の2人が刃物で刺されて殺害されているのを見つけた。Kさんは110番通報しようとしたが、電話線も切断されていたので、隣家に電話を借りた。

 午後9時前、藤沢署員が駆けつけ、勝手口外の隣家とのフェンス横で死んでいる妻H子さん(45歳)も見つけた。現場は新興住宅街で、隣家の人は悲鳴を聞いていた。室内ではTVがつけっぱなしになっており、夕食のアジの開きなどがそのまま残されていた。


 姉妹はともに心臓に達する傷が致命傷となっていたが、M子さんが7ヶ所なのに比べ、R子さんは20ヶ所近くをメッタ刺しにされていた。H子さんは刺された後、台所のドアから外に這って出て「奥さん!奥さん!」と近所の人に助けを呼んだらしいが、ここで背中に小刀を突き立てられていた。残されていた凶器は小刀だけでなく、R子さんの右腕に文化包丁が刺さっており、台所には未使用の刺身包丁が落ちていた。

 また母子はともに血液型A型であるが、玄関にO型の血液が付着していた。現場の状態から怨恨殺人と見られた。


 Kさんには心当たりがあった。長女にしつこく付きまとっていた男である。名前は山田等、平塚に住んでいると言っていた。

 

 その後、電話番号のメモなどから、「山田」と名乗っていた藤間静波(当時21歳)が浮上、6月14日に埼玉県大宮市で逮捕された。藤間は母娘殺害の共犯の元少年院仲間も兵庫県尼崎市で口封じのため殺害しており、前年にも別の少年院仲間を殺害していたこともわかった。

出典:藤沢・母娘ら5人殺害事件

	

静波の家

藤間静波は神奈川県平塚市に生まれた。父親は鉄工所の工員、母親は専業主婦、6歳下に妹がいる。幼児期は藤間もかわいがられていたが、妹が生まれると両親は妹ばかり溺愛するようになった。妹はこれに応え、藤間とは違い成績優秀だった。藤間は口癖のように「なんで差別するんだ」と言い、また後に「今まで一番面白くなかったことは?」と聞かれて「妹がピアノを買ってもらったこと」と答えている。

 小学生の時の藤間は自分よりも弱い子(女の子、下級生)をいじめる行為が目立ち、中学生になると母親を暴力をふるうようになった

 藤間は中学の卒業文集で、「僕のことを忘れないで欲しい」と書いていたが、事件が起こって彼のことを覚えている人は少なかった。影のうすい存在だったことが窺える。

 中学を卒業した藤間は旋盤工場に勤め始めたが3ヶ月で辞めてしまうと、鉄工会社、新聞販売店など1年半で9ヶ所の職場を転々とした。

 藤間はどこにでもいる不良にも見えるが、どこか印象が薄く、多くの仲間がいたとか、友人に慕われていたというエピソードが見当たらない。その一方、「酒、タバコ、コーヒー、薬物などは身体に悪いから絶対やらない」という自己愛的な一面もあった。


 1977年10月、市内の事務所に忍び込んだところを逮捕され、翌年6月にもひったくりで再び再逮捕された。

 1度目は試験観察で済んだが、今度は新潟県少年学院に入れられ、7ヶ月後に小田原中等少年院に移された。


 79年10月に退院した藤間だったが、翌年3月に再びひったくりで逮捕された。これは彼の家庭内暴力に耐えかねた父親が盗品のハンドバッグを警察署に差し出したためである。

 81年5月に久里浜特別少年院を退院した藤間だが、当初両親は彼の家の戸を開けずに受け入れを拒否した。結局、藤間は家に入れてもらうのだが、妹を理由もなく殴ったりと生活態度に改善は見られなかった。


出典:藤沢・母娘ら5人殺害事件

	

親子関係

藤間静波は5歳の時に交通事故に遭っています。そして、67年に妹が誕生しました。

この夫婦は少し変わっています。夫婦は役割分担を決め、父親が藤間静波、母親は妹を担当することになったようです。

母親は藤間静波を疎んじ妹ばかりを可愛がったそうです。母親は、藤間静波が悪さをしてもかばっていた時期もありますが、小4のころに「静波はもう当てにできない。見切りをつけることにした。」と言っていたそうです。藤間静波は、母親に見捨てられてしまったわけです。

なお、父親はおとなしく気の小さい人だったそうです。

出典:庚寅夜話 ストーカー殺人の理由

	

出会い

「いま何時?」

 

 1981年11月20日、M子さんが友人と自転車に乗っていたところ、50ccバイクに乗った男が2人を追い抜いて声をかけてきた。M子さんが答えると、男は「君達、どこの学校?」「電話番号は?」はしつこく聞いてきた。ここでM子さんは電話番号を書いたメモを渡した。この男こそ藤間静波である。


 電話がかかってきたのはその1週間後のことだった。藤間は「会おう」と言ってきて、12月11日にM子さんの高校近くで待ち合わせる約束をしたが、結局M子さんは行かなかった。しかし藤間はあきらめず、今度は15日昼に辻堂駅前で会う約束を取りつけた。

 

 15日、電車に乗って熱海に行った2人は、バスで「後楽園」に行き、レストランで食事をしたり、ゲームをして遊んだ。それから海岸沿いに駅まで歩いて別れた。しかし、M子さんはにとって、この日のデートは楽しいものではなかったと見られる。藤間が話題に乏しいことや、彼が本当に狙っているのは、初めて会った時に一緒にいた美人である友人の方であるらしいようにも思えたからだった。


 27日、藤間が突然M子さんの家にバイクに乗ってやってきた。しかし、M子さんは「今日は帰って!」と追い返した。この日は日曜日だったので、在宅していたKさんは少し離れた路上で話す2人を見て、「M子が憧れてるという先輩かな」と思ったという。


 年が明けても、藤間のアタックは続いた。

 学校に「M子の従兄弟の者ですが・・・」と言って、M子さんが好意を抱いていた同級生のことを聞き出そうとした。この電話があって以来、M子さんははっきりした態度で藤間を避けるようになった。学校への電話はその後も続き、事務職員は「またあの男か」と覚えるまでになっていた。


 藤間はM子さん宅を訪れ、「デートに使った金を返せよ」と言った。藤間は別の日にも訪れ、R子さんが加勢することもあった。

 学校帰りに接触することも考えたが、常に友人が周りについていたので藤間は遠くから眺めるだけだった。これは教諭のアドバイスだった。


1月下旬、藤間は両親のいる夜にM子さん宅に電話をかけた。やがてKさんが電話に代わり、「娘さんに金を貸したが、返してくれないので、あんたが代わりに払ってくれ」と伝えた。Kさんは「いい加減にしてくれ!」と電話を切った。


 2月のある日、藤間が家を訪れた。しばらく玄関前で話していたが、大声を出すので家に入れた。この時は藤間は本名ではなく「山田」と名乗っている。M子さんは「おごってもらったのだから、借りたことにはならない」と主張していたが、Kさんは折れてその代金3,500円を出した。これ以上、この男と関わりになりたくなかったからだった。Kさんは加えて「うちの子とはもう会わないでくれ」と言い、藤間も「金さえ返してくれれば・・・」と了承した、かに見えた。


 だが藤間からの電話は続いた。

 3月、辻堂駅前でM子さんと会い、「金なんかどうでも良かった。好きなんだよ」と言ったが、M子さんがこれを拒絶すると、平手打ちした。しかし、仲直りし、同月中に2人は再び会っている。

 その後M子さんは藤間からの電話に対して「私があんたのこと好きだと思ってんの?」と拒絶するようになり、ある時は代わったR子さんも藤間のルックスについて厳しいことを言ったようだ。何度目かの電話では、藤間は再び「貸した3,000円を返せ」と言ってきた。この金は4月初めに偶然会ったM子さんに渡したものである。貸したと言うより、押しつけたものだった。この頃からM子さん宅には真夜中に無言電話が頻繁にかかってくるようになった。こうした藤間の仕打ちについてKさんは怒り心頭した。

 一方、藤間の方も、M子さんとその家族に対して逆恨みの殺意を覚えるようになった。4月中旬、横浜駅西口のダイヤモンド地下街スーパーで刃渡り18cmの包丁を購入し、その後兵庫県尼崎市の阪神尼崎駅前の金物店から刺身包丁を万引きした。さらに5月中旬には平塚の自宅近くのスーパーで小刀を1本購入していた。


 5月8日に藤間が家を訪れた時には、あまりのしつこさに110番通報した。藤間は逃げたが、家族は羽鳥派出所から駆けつけた警官に「長女がつきまとわれて困っている」と相談し、藤沢署は「民事上のトラブル」として処理した。この事件は17年後に起こる「桶川女子大生ストーカー殺人事件」と酷似しているが、この当時はまだ「ストーカー」という言葉はなかった。M子さんは藤間の妹と同じ年頃だが、前述したような妹への嫉妬も、この執着に関係しているのかもしれない。


 5月27日、M子さん方で母子3人が夕食をとっていたところ、突然玄関チャイムが鳴った。

「新聞屋ですけど!」

 実はこの日の昼、新聞の集金人が同家を訪れていた。当時は中間テストを終えて早めに帰宅していたM子さんしかおらず、「母がいないので、また来て下さい」と言っていたため、この新聞屋の訪問は誰も不審に思わない。

 しかし、母親がドアを開けると、そこに立っていたのは藤間で、もう1人男がいた。

 2人の男は手に包丁を持ち家に押し入った。母子は悲鳴をあげて家の奥へ逃げたが、まずR子さんが刺され、次に母親、最後にM子さんが刺された。

「このやろう!バカにしやがって・・・・!」

 男達は近所に助けを求めようとしたH子さんの背中に小刀を刺し、玄関から逃走した。

出典:藤沢・母娘ら5人殺害事件

	

少年院仲間殺し

少年院仲間殺し

M子さんと出会う1ヶ月前の1981年10月6日、藤間は少年院仲間だったA(20歳)を殺害していた。

 Aは藤間より一足早い3月19日に退院して、配管工の仕事をしていた。藤間が退院したのは5月で、左官屋の仕事を数日で辞めた後、Aの会社寮に転がり込んだ。藤間もこの会社で働き始め、会社の借りたアパートでAとの共同生活を始めた。

 2人はすぐにひったくりをするようになり、2件で17万円を奪った後、会社を辞めてしまった。ひったくりはおそらく藤間が持ちかけたものと見られる。その後も茅ヶ崎や横浜のアパートを転々としながら犯行をかさねた。


 しかし8月5日、Aは藤間の財布から現金を抜き取り、姿をくらました。藤間は必死になって彼を探し、8月下旬に鎌倉市のA方に上がりこんで、ようやく見つけ出した。そして、Aが取った20万円の返済を迫った。


 返済期限が迫っていた10月5日、藤間は知り合いの中学生を使ってAを呼び出そうとしたが不在だった。これに腹を立てた藤間はショルダーバッグに包丁と小刀を入れ、バイクでA宅に向かい、大船駅方向へバイクで走るAを見つけた。

 Aは借金返済には応じなかった。覚せい剤に手を出し、別に7、80万円の借金を作っていた。この時も覚せい剤を打った直後であり、気分の大きくなったAは言った。

「藤間とは、もう付き合いたくないね。あんまりガタガタ言うと、こっちにも知り合いのヤクザがいるんだ。どうなるかわかってるだろうな」

 藤間は裏切られたと思い、「最後のドライブだ」と言ってAとバイクで横浜方面に向かった。

 着いたのは横浜市戸塚区のキャベツ畑。もうこの時には間違いなく殺害することを決めており、バイクのタイヤ痕が残ることを恐れて、現場の1km前でAのバイクの後ろに乗った。そして包丁と小刀で11ヶ所をメッタ刺しにして殺害した。


 この事件ではすぐに藤間もリストアップされ、道路交通法違反容疑で逮捕されたが、殺害については物証となる凶器なども捨てており、ポリグラフでも「シロ」と出た。アリバイについても、彼の母親が「自宅で寝ていた」と申し立てた。このことから彼は釈放され、次の犯行を重ねることになった。


出典:藤沢・母娘ら5人殺害事件

	

5人目の標的

藤間静波

			
藤間がM子さんから拒絶され苛立っていた1982年5月23日、新宿歌舞伎町をうろついていた彼は小田原中等少年院で同部屋だったB(19歳)に声をかけられた。Bは4月にシンナー乱用で検挙されており、都内の更生施設に入れられていたが、抜け出して歌舞伎町に来ていた。藤間は金を持っていないBに飯をおごってやった。

 Bが切り出す。

「藤間君、俺、犯罪で食っていきたいんだ。俺と組まないか?」

 藤間はそれに対して即答しないで地元平塚に彼を連れて来て、知り合いの露天商の仕事をBに紹介してやった。


 26日、藤間は平塚駅前の喫茶店で、M子さんとその家族殺害をBに持ちかけた。Bは躊躇したが、結局この誘いに乗った。


 5月27日。藤沢・母娘殺害事件の当日。藤間の自宅に戸塚署員が訪れた。 しかし、藤間は前夜からBと市内の旅館に泊まっていて不在だった。

 しばらくして藤間は帰宅、だがすぐにまた出ていってしまった。その1時間後、平塚署から呼び出しの電話があった。交通違反の件で呼び出しがあったのである。もし藤間の帰宅が、もう少し早くても遅くても、母娘殺害事件は起こらなかった可能性が高い。その点においては彼はツイていた。


 夜、藤間とBは藤沢市のKさん方に押し入り、3人を殺害する。全員藤間が刺し、Bは脅えて立ち尽くすだけだたった。藤間はその際、左手首と右親指を負傷し、手袋が血で染まっていた。同家の玄関に付着していたO型の血痕がそれである。


 逃げた2人は茅ヶ崎市内へ出た後、タクシーで大磯駅へ行った。駅のトイレで血のついた手袋を流した2人は、再びタクシーに乗りこんだ。やがてタクシーは藤間の自宅に戻り、母親に傷の手当てを受けた。

「人をばらしてきた。やったよ。3人ともやってきた」

 傷の理由を尋ねてきた母親に藤間はあっさりそう答えた。やがて父親も起き出してきて、2人に自首をすすめたが、返ってきたのは「警察にバラしたら、皆殺しにするぞ」という返答だった。

 治療を終えると、自宅にタクシーを呼んでもらい、駐車場に置いてきたバイクを回収。再びタクシーに乗って小田原駅まで行き、電車を乗り継いで翌朝の10時前大阪駅に降りた。自宅に電話をしたところ、母親から早くも刑事たちが訪れたと聞かされた。

 夜になって、「できるだけ遠いところに逃げた方がいい」ということになり、新幹線に乗り、終点の博多駅で降りた。九州には6月4日まで滞在したが、その間あちこちをぶらぶらしたり、ポルノ映画などを見て過ごした。遠い所では熊本まで行ったこともあった。


 藤間があてもなく、ぶらぶらしていたのはある計画があったからだった。事件を知る共犯者Bを殺害するためである。母娘殺害の時に立ちつくしていた気の弱いBは、必ず自分を裏切ると思い、その口封じに適した場所を探していた。しかし、ずいぶん歩き回ったので、ここでは顔を覚えられてしまったかもしれないと思って、また大阪方面に戻った。


 大阪駅で降りた2人は「三菱銀行北畠支店猟銃強盗殺人事件」をモデルにした映画「TATTOO <刺青あり>」を観た。その後、強盗に押し入るのに適したマンションはないかと市内を歩き回ったが、めぼしい建物がなかったので、兵庫県尼崎市まで移動した。

 

 藤間は尼崎に土地鑑があった。1979年秋に1週間ほど寝泊まりしたことがあったし、1週間ほど前に大阪を訪れた時も尼崎まで足を伸ばしていた。

 阪神尼崎駅を出た藤間は、西大物町のマンションの前で立ち止まって、このマンションで強盗をやることをBに持ちかけた。

 2人は一旦屋上へ出ようとしたが、閉められていたので、ドアの前の踊り場でBに所持品の指紋を拭き取らせた。その直後、藤間は持っていた2つの小刀でBをメッタ刺しにして殺害した。6月5日土曜日の夜のことである。


 藤間はまた博多へ逃げようとしたが、もう新幹線が終わっていることをタクシーの運転手に聞かされ、名古屋に向かった。

 翌朝、名古屋で返り血のついた服を着替え、電車で静岡市に行った。以前ひったくりで集めた数十万円の所持金はもう残り3万円ほどになっていた。

 この後、東京まで行き、池袋の少年院仲間の家を訪ねたが留守で(その母親が居留守を使った)、8日に西口公園のベンチに座っているところを手配師に声をかけられ、埼玉県大宮市の工事現場宿舎に連れて行かれた。これ以後、逮捕に至るまでこの宿舎に寝泊まりしながら、群馬県前橋市の工事現場で働いた。

出典:藤沢・母娘ら5人殺害事件

	

法廷でVサイン

藤間の奇行は自ら法廷で曝け出す。弁護人には一切心を開かず「無罪のみを主張」するだけだった。当初弁護側は「捜査段階での自白に任意性が無い」と主張したが、公判から3年後、彼は反省しているとして「起訴事実を認める」情状酌量の作戦に方向転換している。この公判中、藤間は報道陣に対して「Vサイン」を送るなど奇行が目立った。

昭和63年3月10日横浜地裁は藤間に対して死刑を言い渡した。この時、判事が「最後に言いたいことがあるか」と問いかけたところ、藤間は「最後に言いたいことがあります」と言って暴力団幹部の名前を挙げて傍聴席にVサインを送った。


平成3年収監中の拘置所から「控訴取り下げ書」を自ら提出。一旦、死刑が確定しかけたが、「まともな精神状態ではない」として弁護側の異議申し立てを最高裁が認めて、改めて控訴審で審理開始。平成12年1月24日高裁は控訴を棄却し一審の死刑判決を支持。平成16年6月15日、最高裁の浜田裁判長は「わずか8ヶ月間に5人を刃物でメッタ刺しにするという執拗、残忍な行為で社会に与えた衝撃は大きい」と述べ藤間の上告を棄却した。これにより藤間の死刑が確定した。

出典:

	

藤間静波死刑囚

少年院時代の藤間静波の性格分析では次のよう言われています。

○対人関係では協調性が見られず、言動はほとんど自己中心的である。

○問題を自分で解決できないことがあると、解決方法を他人に頼ろうとするが、受け入れてもらえない場合、攻撃的な態度をとることがある。

○抑制力に乏しく、考え方が幼稚である。欲求不満に対する耐性が培われておらず、捨てばちになって見境なく行動することがある。

死刑執行

2007年(平成19年)12月7日、死刑執行。享年47歳。

出典:

	
法務省は7日、東京、大阪両拘置所で計3人の死刑を執行し、執行された死刑囚の氏名や犯罪事実を公表した。法改正の必要はないが、これまでは死刑囚の家族や、ほかの死刑囚への配慮を理由に実施しておらず、大きな方針転換となる。執行が適切に行われていることを国民に周知することで、死刑制度への理解を進める狙いもあるとみられる。

 死刑が執行されたのは、▽藤間静波(ふじませいは)(47)=東京拘置所収容▽府川博樹(42)=同▽池本登(74)=大阪拘置所収容=の各死刑囚。死刑は8月23日以来で、鳩山邦夫法相の下では初の執行命令。


 法務省は長い間、「死刑確定者の心情の安定、被害者の遺族感情などへの配慮」を理由に、執行の事実すら公表せず、問い合わせにも答えることはなく、報道機関の独自取材や市民団体の調査によって明らかになるケースも少なくなかった。


 90年代に入り、「聞かれれば執行の事実と人数は答える」とする法相が続き、中村正三郎法相当時の98年11月以降、「本日、死刑確定者○名に対し死刑を執行した」という形で公表されるようになった。


 しかし、「誰が、どこで執行されたのかを明らかにしないのはおかしい」との批判は強く、情報公開の是非は常に議論されてきた。今年8月就任した鳩山法相は省内の勉強会を設置し、死刑廃止団体の意見を聞く機会を設けるなど、制度改善にも前向きな姿勢をみせていた。今回の氏名公表も、勉強会で大きなテーマとして検討を進め、方針変更を決断した。

出典:死刑確定に笑顔でVサインした藤間死刑囚の死刑執行

静波の家―ある連続殺人事件の記録