毛沢東は日本軍に対して感謝していた!?

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毛沢東とは?

中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中国大陸に中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。

出典:毛沢東 - Wikipedia

	

毛沢東の経歴を簡単に紹介

毛沢東の経歴を簡単に紹介していきます。

生い立ち

1893年、湖南省湘潭県韶山村(毛沢東故居参照)にて、父・毛貽昌、母・文素勤の5人兄弟の三男として生まれる。ただし、長男と次男は夭逝したため、事実上の長男扱いであった。


毛沢東はその才覚で地主までなりあがった厳格な父によって、子供のうちから労働に従事させられつつ、勉学にも励んだ。1907年、14歳で羅一秀と最初の結婚をするも、1910年、年上の妻は赤痢のため、わずか20歳で死去した。


従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋、故郷の韶山を離れ、湘郷県立東山高等小学校に入学。この学校では康有為や梁啓超らの思想を学び、影響を受けた。1911年春、毛は長沙に赴き、湘郷駐省中学への入学を希望した。この年に勃発した辛亥革命では、湖南の革命志願軍に入隊する。半年後、清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻った[3]。1912年、長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学。中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。

出典:毛沢東 - Wikipedia

	

第一次国共内戦、日中戦争

国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソビエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年12月7日、朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築。翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。


出典:毛沢東 - Wikipedia

	

南京陥落を祝福

毛沢東は裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた。また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた。中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次大将総本部隷属の人物であった

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その後

日本が敗戦してからは中国国民党と内戦を繰り広げ、勝利して1949年に中華人民共和国を設立。その後、毛沢東は独裁化し、大躍進政策というあまりにも急進すぎな政策を実行して3000万人ぐらいが餓死したといわれる。その後、劉少奇との権力闘争に勝利するために文化大革命を起こし中国は混乱状態となった。

毛沢東が日本軍に感謝していた証拠

 一. 1956年、元陸軍中将の遠藤三郎氏との会談では、毛沢東は「あなたたち(日本皇軍)はわれわれの教師だ。われわれはあなたたちに感謝しなければならない。あなたたちがこの戦争で、中国国民を教育してくれ、撒かれた沙のような中国国民を団結させることができた。だから、われわれはあなたたちに感謝しなければならない」と話した。

出典:日本に感謝していた毛沢東「侵略で共産党が強大に」公開文献...

	
二.1960年6月21日、日本文学代表団と左派文学家の野間宏氏などと会見したとき、毛沢東は「一部の(日本人)友人は『日本が中国を侵略したから、よくない』と話した。私は『侵略は当然よくないが、しかしこの悪い一面だけを見ないでほしい。別の面から見ると、日本は中国に大きな助けをしたのだ。もし日本が中国の大半を占領しなかったら、中国国民は目を覚ますことができなかっただろう。この点からいうと、われわれは日本皇軍に感謝しなければならない」と述べた。

出典:日本に感謝していた毛沢東「侵略で共産党が強大に」公開文献..

	
 三. 1961年1月24日、毛沢東は日本社会党所属国会議員の黒田寿男氏と会見した。毛は1956年に日本の日中輸出入組合理事長の南郷三郎氏との会談に触れて、「日本の南郷三郎氏は私と顔を合わせた途端、『日本が中国を侵略したので、お詫びを申し上げなければならない』と話したが、しかし私は彼に、『われわれはそうは思わない。日本の軍閥が過去において中国の大半の土地を占領した。このため、中国国民は教育を受けることができた。そうでなければ、……われわれは今まだ山の中にいて、北京で京劇を見ることさえできなかった。……だから日本の資本壟断と軍閥はわれわれに好いことをした。感謝が必要であれば、むしろわれわれが日本軍閥に感謝しなければならない』と答えたのだ」と話した

出典:日本に感謝していた毛沢東「侵略で共産党が強大に」公開文献...

	

なぜ感謝をしたのか

これは推測にすぎないのですが、中国共産党は日本軍が中国国民党と戦っているときに国力を強めようという意図だったのでしょう。到底、共産党は国民党と一対一で勝てるはずがなかったのです。そのため日本軍がなかったら国民党が新たな国家を作っていたでしょう。
	

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Sharetube