天安門事件の死者数は一万人だった!?イギリスの公文書で判明。中国の公式死者数では319人だった!!
天安門事件とは
この出来事は、政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっかけとなった[5]。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に10万人の人々が天安門広場に集まった[6]。抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。統制がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声[7]に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平の決定により5月19日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。1989年6月4日未明、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して無差別に実弾を乱射し、武力弾圧と大量殺戮を決行した。
天安門事件の公式犠牲者数319人 実際は数万人ともいわれる
1989年6月4日、北京の天安門広場に民主化を求めて集まった学生や市民に対し、軍が発砲した天安門事件。中国政府は一貫して、「事件は一部の学生らによる『暴乱』であり、軍の出動は正しかった」と主張する。そして公式の犠牲者数は319人と発表している。中国政府の隠蔽体質から言えば、この犠牲者数が正確だと考える者はいない。この日、天安門広場に集まった学生や市民は10万人規模とされ、軍は無差別に発砲したので、死者は数千人とも数万人ともいわれている。
中国では今でも天安門事件はタブーで、中国のメディアでこの事件が扱われることはない。国内からインターネットで「天安門事件」「六四事件」を検索すると、しばらくネットにつながらない状態になる。本当に正しかったというのなら、なぜ堂々と情報を公開しないのだろうか。
英外交機密文書、天安門事件で死者1万人以上と記載
28年前中国の軍隊が北京の天安門広場で大規模民主化デモに参加した大学生や市民らを武力弾圧した「六四天安門事件」。中国政府は当初「死亡者は一人も出ていない」と発表し、その後「死者200人余り」と修正した。英国政府が最近、当時中国上層部の信頼できる情報源から入手した機密文書を公開した。それを閲覧した香港メディア「香港01」は、文書には死者は少なくとも1万人に達したとの記述があった、と報じた。イギリス政府の文書保管機関、英国立公文書館(TNA)が11月、同事件に関する数千ページの外交機密文書を解禁した。
イギリスの消息筋が中国国務院当局者から入手した情報によると、国務院の統計では死者は少なくとも1万人に達する。当時、最高指導部は瀋陽軍区部隊、山西省の第27集団軍を北京に派遣した。作戦は4段階に分かれて、第1~3段階は瀋陽軍区が市民と学生を分離させる。第四段階は第27軍が学生参加者全員を射殺する、というものだった。しかし、瀋陽軍区の軍人が市民と学生を分離させている最中、装甲車内の第27軍兵士はすでに銃射撃を開始、学生のほか、市民と瀋陽軍区の軍人も多数銃殺された。
同消息筋の身元を特定できる部分はすべて黒塗りされている。ドナルド駐中英国大使(当時)は外交電報で、過去に同中国当局者からの情報はいずれも正確で、今回の情報も高い信ぴょう性をもつとの見方を示した。
事件の直後、中国国防部は諸国の在中大使館の武官を招いて、軍の現場での行動を説明する場を設けた。欧米諸国のなか、米国とフランスは招待されず、英国の武官は予定ありの理由で欠席、豪州とカナダ両国のみが参加、日本は辞退した。
いっぽう、2014年、同事件に関する米公文書も解禁された。当時、香港誌・壱週刊は中国軍部の協力者はリリ駐中米国大使(当時)に、中国政府の内部統計では天安門事件の死者が1万454人、負傷者が2万8796人と伝えた、と報じた。
出典:英外交機密文書、天安門事件で死者1万人以上と記載 ニコニ... 天安門事件は許されない行為
天安門事件は中国共産党が起こしたおぞましい行為です。民主化運動をしていた人たちはデモをしていただけなのに一万人もの人が犠牲者になりました。決して許されるべき行為ではないのです。