犯人が連続殺人者(シリアルキラー)に該当すると思われる事件
殺害行為を主目的に行う連続殺人者(シリアルキラー)及び犯人がシリアルキラーに該当すると思われる事件一覧です。
出典:悪人のイラスト「黒いシルエット」 別々に起きた殺人がほぼ同様の手口で行われている場合や同傾向の人物が狙われている場合には、捜査上でシリアルキラー事件(連続殺人)と判断する重要な根拠になりえる。
重度の精神汚染に陥っている連続殺人者はサイコキラーと呼ばれ区別されることもある。また、快楽殺人犯は早期に発覚・逮捕されなかった場合、その性向から連続殺人になりやすい。金銭目的で犯行に及んだ連続殺人犯はシリアルキラーから除外されることもあるが、被害金額が少なかったり拷問殺人が発覚した場合などでは明らかに殺害に主眼が置かれているため、シリアルキラーに含まれる。
セオドア・ロバート・バンディ Theodore Robert Bundy
セオドア・ロバート・バンディ(Theodore Robert Bundy、1946年11月24日 - 1989年1月24日)はアメリカの犯罪者、元死刑囚。
シリアルキラーに該当しないもの
シリアルキラー事件の場合には犯人の主眼があくまでも殺害行為に置かれており、テロリズムや犯罪組織に所属しているなどの理由で継続して殺人を犯す場合とは明確に分けて考えられる。また、連続殺人は複数の殺人事件の間隔に潜伏期間があるが、一度に多数の人間を殺害する場合(FBIの定義では一日以内に4人以上)は大量殺人に分類され、その犯人を大量殺人犯、大量殺人者(Mass murderer)という。さらに、津山事件のようなケースや街頭および学校内などでの無差別銃乱射・殺傷・通り魔事件(付属池田小事件など)のように短時間内に不特定多数を殺害する犯人はスプリー・キラーと呼ばれている。ただし、犠牲者が多いケースなどでは分類が重複する場合もあり、必ずしも明確に区分できるものではない。
尼崎事件(角田美代子)
尼崎事件(あまがさきじけん)とは、25年以上にわたって、尼崎市を中心に兵庫県、高知県、香川県、滋賀県、岡山県京都府の5府県で、複数世帯の家族が長期間虐待、監禁され、複数名が殺害された連続殺人事件。2011年11月に主犯が逮捕され、2012年10月に別件で逮捕されていた従犯が全面自供した事により、事件が発覚した。なお事件の主犯は事件発覚後に自殺している。
本項では、主犯の仮名を主犯X、被害者一家の仮名をそれぞれ居住していた地名に由来するイニシャルであるT一家、M一家とする。
角田美代子
この事件の主犯は事件発覚時64歳の女(以下、主犯X)で、従犯とされる親族の、2012年当時38歳の男やその他数名の取り巻きを従えて、標的とした複数の家族を暴力的に支配して、家庭に居座る、裸で外を歩かせる、などあらゆる虐待を繰り返し、結果死亡した女性をドラム缶に詰める、などした。主犯Xらによって暴力的・精神的に支配された被害者家族らは家ごと乗っ取られ、互いに殴打し合わされたり、監禁され暴行されたり、全財産を奪われたりしたが、主犯Xの手口は巧妙で、自ら手を出すことは控えめだった。主犯Xらは、些細なことに難癖をつけては弱みを見せる相手を脅迫し、多数の無法者を引き連れて家庭に侵入し、金品をむしり取ることを生業としており、夜の街で獲物を探し歩いていた。主犯Xは普段から飲み仲間に、「交通事故に遭ったら金になる」など当たり屋の指導をするなどし、うっかり隙を見せて食い物になってしまった家族らのその後は凄惨で、高松市のある家族(以下、T一家)は2003年5月頃、餓死寸前になり、服も着させて貰えず、父親が全裸で長女をおんぶして親族の元に「何か食べさせてほしい」と、助けを求めてきたこともあった。
またある時は夫婦揃って全裸で泣きながら親族に金を借りに来ることもあり、やがては親族までもが呼び出され、長女が「お父さん、ごめんね」と泣きながら両親を顔が腫れるまで殴らせられている光景を目の当たりにし、「情けなくてつらくて、ノイローゼになるかと思った」とショックを受けた。
しかし、警察(兵庫県警尼崎東署、香川県警高松東署、高松南署)は再三親族や、T一家の父親、親族など17人から被害相談や通報が36件もあったにもかかわらず、全く対応することはなく、「事件ではないので動けない」などと繰り返し、2003年2月以降、T家の父親が主犯Xらから「家に火つけるぞ」と脅されたり、軟禁されたりしたなどとする相談を寄せた時も、2004年に娘らからの暴行に被害申告をした時も、被害届の受理さえ拒んでいた。結果的に長年の間、被害者たちはなすすべもなく主犯Xらの暴力、虐待の前に見殺しにされ、2011年管轄外の大阪府警へ被害者女性が駆け込み、その連絡を受けた兵庫県警が捜査を行ったことで、ようやく事態が公になった。被害者たちは、何度も逃げたが、そのたびに連れ戻されていた。
また中には、保険金目的に万座毛から転落を強要されて殺された者もいるが、この時も警察は現場の聞き込みや生命保険契約有無の確認さえ怠り、主犯X達の主張を受け入れ事故として処理していた。また、兵庫県警は主犯X逮捕後も主犯X宅の現状維持さえ怠り、競売に出されるがままになっており、逮捕一年後、2012年10月になってようやく家宅捜索を行うが、既に一味残党に証拠隠滅のため、監禁小屋を撤去されてしまうなど捜査の遅れが目立った。2012年11月7日、上述の主犯Xや、その内縁の夫など8人が再逮捕、または逮捕された。2012年12月1日から、高松市にて行方不明者の一人である、かつて床下から遺体が発見された民家に住んでいた88歳の女性(T一家の祖母)の遺体の捜索が行われた。12月2日の捜索では倉庫の床下から多数のコンクリートの破片が見つかり、12月3日に遺体が発見された。女性は行方不明後、主犯Xらの住むマンションで死亡したとされ、警察は殺人容疑で捜査している。12月5日にも親族数人が殺人容疑で再逮捕された。
主犯の自殺
12月12日午前6時20分頃、兵庫県警本部の留置所にて、主犯Xが布団内で長袖のTシャツを首に巻き自殺を図っているのが見つかり、病院に搬送されたが死亡が確認された。主犯Xは10月以降、弁護団や留置所を巡回する警察官に「生きていても意味がない」「死にたい。どうすれば死ねるのか」など自殺をほのめかす発言を複数回にわたりしていたという。逮捕後、主犯とされる容疑者が死亡したことにより、この事件の真相解明は極めて困難な状況になったと見られる。
大久保清連続殺人事件(大久保清)
「教員だという男の人に、絵のモデルになってくれと頼まれたの。ちょっと行ってくる」1971年5月9日、日曜日の夕方、群馬県藤岡市のOL・G子さん(21歳)は、こう言って家を出たきり自宅にもどらなかった。
彼女はそれまで無断外泊をしたことはなく、日付が変わっても戻らないのを心配した家族は警察に届け、徹夜で捜索を始めた。
10日早朝、近くの信用金庫前で、G子さんの兄が妹の自転車を発見。そばには中年の男がいて、軍手をはめた手で拭うようにしているので、兄が声をかけると、男はそばに停めてあった車で逃走した。兄は車種とナンバーを覚えており、ここで県内に住む大久保清(当時36歳)という男の名が浮上した。彼は強姦致傷、恐喝など前科4犯を重ね、この年の3月に府中刑務所を出所したばかりだった。
5月13日夕方、大久保は前橋市の路上で、家族の私設捜索隊によって取り押さえられた。
逮捕されてしばらく、大久保は「絵のモデルになってくれと言って誘い出したことは事実だが、モーテルに連れ込もうとしたら怒って逃げられた。その後のことは知らない」などと、G子さんの行方については何も話さなかった。
5月21日、榛名湖畔で若い女性の遺体が発見された。警察が最近2ヶ月のあいだに捜索願が出された女性のなかから、大久保が狙いそうな女性をピックアップした中の1人、行方不明となっていた女子高生(17歳)のものだった。
5月26日、大久保は厳しい取調べを受け、G子さんの殺害死体遺棄を全面自供。翌日には供述とおり、妙義山北面の桑畑に埋められた女性の遺体が発見された。取り調べでは、他の家出人女性についても聞きだそうとした。
このあと大久保はすんなり自供を始めた。以後、被害者の遺体は次々と掘り出された。遺体の捜索は自供のままだとしても、自動車を使った広範囲の事件であるから、なかなか見つからない。ちなみに群馬県警は、この翌年も山中の死体を掘り出すはめになる。(→連合赤軍リンチ事件)こうしたことから「死体発掘が上手な県警」という評判をたてられることもあった。
大久保事件の被害者は8人にも及ぶ。16歳から21歳までの若い女性が狙われており、ナンパして関係を迫り、抵抗されたりすると殺害した。
1973年2月22日、前橋地裁、大久保に死刑を言いわたす。大久保は控訴しなかったので、刑は確定した。控訴しなかった理由について、知人にこう話している。
「生きながらえたとしても、かえって被害者の遺族を苦しめることになり、自分も苦痛から逃れたい」
1976年1月22日、東京拘置所で死刑執行。
出典:大久保清連続殺人事件
大久保清
北九州監禁殺人事件(松永太)
これら大量殺人の主犯である松永太は、1961年4月に小倉北区で生まれた。父親は畳屋であったが、松永が7つの時、実父(松永にしてみれば祖父)の布団販売業を継ぐため一家で福岡県柳川市へ引っ越した。松永の生い立ちについては特に語られるべきことがないのか、あまり情報がない。だが経済的に不自由はなく、母親と祖母にべたべたに甘やかされ、ほとんど叱られることのない幼少期を過ごしたようだ。
高校卒業後、松永は父親の営む布団販売業を手伝うかたわら、19歳で結婚し翌年には子供をもうけている。
さらにこの年、布団販売業の有限会社を設立し、代表取締役としておさまった。だが、中身は粗悪品を訪問販売によって高値で売りつける詐欺まがいの会社であった。
なお、のちの一家殺害事件にも使われた「通電リンチ」(電気コードの電線を金属のクリップに付け、腕などにテープで固定して通電する)は、この頃からすでに社員への虐待方法として使用されている。
対する緒方純子は、1962年2月に久留米市に生まれた。
兼業農家で土地をかなり所有していた緒方家は由緒もあり、地元の名士とも言うべき存在であったようだ。純子は村会議員の祖父や兼業で会社員の父のもと、何不自由なく育っている。
そんな彼女のもとへ松永から連絡があったのは、短大を卒業し保育士となって半年ほど経った頃のことであった。
しかし妻子ある男との交際は、じきに純子の実家にバレた。松永は緒方家を訪れ、
「妻子とは別れます。緒方家の婿養子になります」
としおらしく宣言し、その場で『婚約確認書』なるものを提出した。
俗に「口約束」と言うが、その反面どんないい加減な話でも書面にされた途端、人はなぜかそれに信憑性があるような気になってしまうようだ。そしてこの手の無意味な書面を作って嘘に説得力を持たせるのは、松永のもっとも得意とするところだった。
松永は純子に「莫大な利益を上げている会社だが、お前の婿養子になって緒方家を継ぐからにはつぶさなくちゃいけない。芸能界の話も、残念だがお前のために諦める」と言って、彼女に自責の念を抱かせた。
純子の母はこの『婚約確認書』なるものをあまり信用しなかったようだが、この会見によって父の誉(たかしげ)さんはすっかり松永が気に入ってしまったようであった。 彼をそこまでにしたのは、むしろ真逆の「保護者による甘やかしと絶対肯定による、エゴイズムの肥大・全能感」のように見受けられる。
なお昨今の若年犯罪者に「おじいちゃん子、おばあちゃん子」が多いという事実も、これにまったく無関係とは言えないであろう。
1994年、松永は新たな金蔓を見つけた。
今度は男で、不動産屋の営業をしていた虎谷久美雄さんである。虎谷さんはやってもいない犯罪にまで『事実関係証明書』を作られ、それが弱みとなり、がんじがらめになっていった。
しかしそれも1996年1月あたりまでであった。もう虎谷さんに金を作れるあては尽き、一目見てもわかるほどの栄養失調になっていた。
しかし、虎谷さんは生き延びることはできなかった。
虎谷さんが受けたリンチは凄惨なものである。
食事は一日一回で、インスタントラーメンもしくは丼飯一杯。10分以内に食べ終わらないと通電を加えた。また、つらい姿勢や直立不動を長時間強要し、少しでも動けば通電。季節は真冬だったが、一切の暖房器具も寝具も与えず、ワイシャツ1枚で風呂場で寝かせていた。
栄養失調のため嘔吐や下痢を繰り返すようになると、その吐瀉物や大便を食べることを強要した。その他にも裸にして冷水を浴びせる、殴打する、空き瓶で脛を長時間にわたって執拗に殴るなど、飽かず虐待を加えたという。もちろん「通電」はもっとも頻繁に行なわれた。
2月20日頃になると、虎谷さんは腕を上げることもできなくなるほど衰弱した。この頃、松永は虎谷さんの実娘である少女に、歯型がつくほどきつく父親の体を噛ませている。
2月26日、虎谷さん死亡。
松永は少女に、
「お前がつけた歯型のことがあるから、お父さんを病院へ連れていけなかった。病院へ連れていったらお前が殺したことがすぐにわかって警察に捕まってしまうからな」
と言い聞かせ、まだ小学校5年生の少女に『事実関係証明書』を書かせた。内容は「私は、殺意をもって実父を殺したことを証明します」というもので、長い間少女はこの書面に縛り付けられることとなる。
松永は死体の処理を、純子と少女に一任した。二人は包丁、のこぎり、ミキサーなどを使って死体をバラバラにし、鍋で煮込んだ上、塊は海へ、肉汁は公衆便所へ廃棄するなどして処理した。
なおこの死体解体の直後、純子は第二子を出産している。
供述によると、静美さんと理恵子さん母子を並べて仰向けに寝かせ、同時に性器へ通電するというリンチまで行なっていたそうである。
母と娘2人を犯し、その関係をそれぞれの夫の面前で吹聴し、なおその性器へ電流を流す。松永は彼らの上に絶対的に君臨し、それを誇っていた。まさにローマ皇帝並みの暴君ぶりだったと言えよう。
8月、緒方家は誉さん名義で、農協から3000万を借り入れた。担保はもちろん祖父名義の土地である。
主也さんはこの借入書の保証人になっているが、その前に松永に「これ以上、緒方家の奴隷になっていることはない」と唆され、住民票の住所を変えていた。それを忘れてもとの住所のまま書類を作成してしまったことを松永は「文書偽造だ」と責め、それを何度も何度も明け方まで眠らせずに繰り返す得意の手口で、彼を追い詰めていった。
発端は些細な、くだらないことでかまわないのだ。とにかく責める糸口さえあればいい。あとは思考能力を奪ってしまう一手だった。
睡眠不足と心労により、主也さんは9月以降、職場へ出勤できなくなった。そして主也さんへの通電も、ほぼ同時期に始まっている。
彼らは自由に外出することも禁じられ、完全に松永へ精神的に隷属した。彼の促すままに農協から金を借りては渡し、まだ残っている水田を売却すべく手続きに奔走した。
その一方、松永は例の「書面作成」の腕前を発揮し、彼らに
「我々が失踪したのは土地の売却を親族に邪魔されたせいである」
「私(主也)は妻の首を絞めて殺害をもくろんだ事実を認める(※松永みずからが理恵子さんとの肉体関係を暴露し、彼の嫉妬心を煽った果ての行為である)」
など何通もの書類を作らせては署名させた。精神的に支配されきっていた緒方家の人々は、これに法的拘束力があるとたやすく信じた。
しかし祖父や親族が簡単に土地の売却にうんと言うはずはない。
親族に強硬につっぱねられ、警察が動き始めたことも知らされた松永は、緒方家はもう金にならないと判断した。なおそれまでに彼が緒方家から搾り取った金は、6300万円にのぼるという。
1997年12月、松永は言いがかりをつけて緒方家の大人たちを並べて正座させ、その場で純子に命じて父・誉さんを通電によって殺させた。死体は残された緒方家の面々が処理せざるを得ない。虎谷さんの死体と同様の手段で、解体し海に捨てたという。
翌年1月、通電と心理的負担によって精神に異常をきたした静美さんが殺害される。もちろん松永が手を下すことはない。しつこく何度も殺害をほのめかされ、追い込まれた被害者たちの中から主也さんが暗に指名されて絞殺させられたのである。遺体は同じく解体されて処理された。
2月、度重なる通電によって難聴になっていた理恵子さんを「頭がおかしくなった、邪魔だ」と言い、夫である主也さんに絞殺させる。
4月、主也さんを虎谷さんの時と同じく、浴室へ監禁し食パンだけを与え、1ヶ月半かけて栄養失調で死亡させる。
5月、理恵子と主也の子供2人(姉弟)を絞殺。弟を絞殺する際は、わずか10歳の姉に手伝わせたという。
松永はこうして緒方一家を皆殺しにしてしまったのちも、純子に向かって
「お前が由布院へ逃げたせいで、全員を殺す羽目になった」
と、この期に及んでさえすべてを彼女のせいにするのを忘れなかった。
しかし2002年に少女が逃げ出し、警察へ駆け込んだことで一連の事件はようやく明るみに出ることになる。
祖父母宅へ少女を連れ戻しにやってきた松永と純子を、張り込んでいた捜査員が緊急逮捕。また、少女が長らく世話をしていた四人の子供が児童相談所に保護される。このうち2人は松永と純子の実子であり、残る2人は、母親から養育費を巻き上げるため松永が言葉たくみに預かっていたものであった。
2005年3月、福岡地裁において検察は松永、純子の両名に死刑を求刑。
同年9月、死刑判決。
小平事件(小平義雄)
昭和21年8月17日午前9時30分頃、東京の芝・増上寺境内の奥まった雑木林に、若い女性が手拭を首に巻かれて死んでいるのを雑木を拾いに来た近所の男が発見した。直ちに警察が調査すると、推定20歳前後の女性が全裸で死んでおり死後10日と推定された。また、この現場から約10m離れた所で、白骨化した女性の死体も発見され、死後推定1ヶ月と見られた。この事件は、翌日の18日の朝刊で報道されたが、早速行方不明の家族が名乗り出た。母親が全裸死体を確認したところ、三女の緑川柳子さん(当時17歳)であることが確認された。柳子さんは8月6日午前9時30分頃、知人に会うといって家を出たのを最後に行方不明になっていた。そこで、警察はその知人の特定を急いだ。
柳子さんは7月10日頃、勤務先の銀座4丁目にある喫茶店の仕事を終えて帰宅途中、品川駅で小平義雄(当時42歳)に「安くお米を買うことができる」とか「就職を斡旋する」などと声をかけられた。食料難の時期に《この言葉は魅力》である。また小平はこの時期、進駐軍専用の洗濯工場で勤務しており羽振りが良かったことで柳子さんは途端に騙されてしまった。
犯行当日の8月6日、小平は柳子さんに「進駐軍の仕事を斡旋する。食べ物にも事欠かない」と言って品川駅に呼び出した。品川駅で合流すると小平は、「まだ時間があるから散歩しよう」と言って増上寺に連れだし乱暴・殺害したのだった。
柳子さんは、小平の住所を母親に告げていた。この事が決め手となり19日の夕方、渋谷の妹宅で同居している小平を殺人容疑で逮捕したのだった。
小平は子供の頃から粗暴で、戦前に結婚した妻が実家に戻った際、妻の父親を鉄棒で殺害し6人に重傷を負わせている。その後、二度の特赦で僅か6年で仮出所している。昭和19年、小平は再婚した。東京の空襲が激しくなってきたため妻を富山県に疎開させ、小平は軍需工場で働く女性勤労者の女性寮の雑用をしていた。戦後、この寮は女子寮として残り、小平はボイラー係りとして勤務していた。
8月19日の逮捕後の事情聴取で、小平は10件の婦女暴行を自供。戦前、戦中、戦後にかけて同様の手口で女性を殺し、その後に関係を持つという異常な行為であった。小平は取調べ中、終始反省する態度を見せず警察官からもらうタバコを美味しそうに吸いながら、楽しそうに供述したという。
①昭和20年5月25日大森駅で声をかけた女性(当時21歳)に言葉巧みに小平の宿舎に誘い出し暴行殺害。
②同年6月9日国民小学校の少女(当時15歳)に「ビスケットをあげる」と運送会社の自動車置き場で暴行殺害。
③年6月23日疎開先の栃木県清瀬村で食糧に困窮していた主婦(当時31歳)に「知り合いの農家を紹介する」と言って山林内で暴行殺害。
④同年7月12日渋谷駅で声をかけた女性(当時22歳)に「知り合いの農家に行けば米を買える」と栃木県真名子村の山林に連れ出し暴行殺害。
⑤同年7月15日池袋駅で声をかけた女性(当時21歳)に「食糧を買えるところに連れて行ってやる」と言って栃木県清瀬村で暴行殺害。
⑥同年9月28日東京駅で声をかけた女性(当時21歳)に「イモを買えるところを紹介する」と言って栃木県清瀬村で暴行殺害。
⑦同年11月1日渋谷駅で声をかけた女性(当時17歳)に「暖かい場所にきなさい」と言って渋谷駅前の東横デパート地下室に誘い暴行殺害。
⑧同12月30日東武浅草駅で声をかけた女性(当時21歳)に「知り合いの農家に行こう」と言って栃木県下西村の山林で暴行殺害。
⑨昭和21年7月22日前述の白骨化女性。
⑩同年8月6日前述の柳子さん。
小平は以上の10件を自供したが、さらにその後の犯行を仄めかすと警察は慌ててこれ以上の犯行を追求しなかった。それほど、前代未聞の異常な事件だった
「私が女達を殺害した理由は、死に顔を見たいとか、死の苦しみを見て喜ぶとかいったことではないのです。女は殺さなければ言うことを聞かない。殺してからゆっくり楽しんでやろうと思うからです。普通のやり方より死姦の方がいいです。自由になりますから。
女を殺した後、陰部を見ながら、今まさに関係しようとする瞬間が何とも言えないのです。殺されてもよいと思うときがあります。日本刀で後ろから首を斬られてもかまいません。そんなによいのです」。これは、小平の供述の一つである。
小平は、10件の犯行を認めたが裁判で2件が不起訴となった。が、8件の婦女暴行、殺人、遺体遺棄の罪で昭和22年6月18日東京地裁は小平に死刑判決。昭和23年2月27日東京高裁は小平の控訴を棄却。同年11月16日最高裁は上告を棄却して小平に死刑が確定した。昭和24年10月5日、宮城刑務所で死刑執行された。
佐賀女性7人連続殺人事件(未解決事件)
佐賀女性7人連続殺人事件(さかじょせいななにんれんぞくさつじんじけん)とは、1975年から1989年までに佐賀県で7人の女性が殺された事件。その内、6人が水曜日に失踪している事から「水曜日の絞殺魔事件」とも呼ばれる。1989年に3人の女性(5人目から7人目の犠牲者)が遺体で発見された殺人事件は、訴追され「北方事件(きたがたじけん)」と呼ばれている(遺体発見現場が北方町だったため)。しかし、無罪判決が出ており、未解決事件となった(1件目から4件目に関しては、公訴時効が成立)。
1975年から1989年までに、佐賀県北方町、白石町、北茂安町、武雄市の半径20キロの地域で7件もの女性の殺人事件が発生した。事件の特徴として、以下の点があげられている。
被害者女性の失踪が水曜に集中していること(7件中、6件)
夕方から夜にかけて失踪していること
5件の死因が絞殺であったこと(残り2件は、白骨化しており死因が不明)
4件目までは、捜査機関が犯人を起訴できずに公訴時効が成立。残り3件は起訴されたが、無罪が確定し、7件とも未解決事件となった。
なお、北茂安町は、中原町とともに2005年3月に三根町と合併し、みやき町となっている。また、北方町も2006年3月1日に武雄市と合併(編入)された。
自殺サイト殺人事件(前上博)
2005年2月23日、若い女性の遺体が大阪府河内長野市加賀田川の砂防ダム付近で見つかった。遺体は下着姿で、豊中市の無職・M子さん(25歳)と判明。M子さんは2月19日から行方がわからなくなっていた。同年8月5日、同府堺市の人材派遣会社員の前上博(当時36歳)が殺人・死体遺棄の容疑で逮捕された。
M子さんとはある自殺サイトで知り合い、2004年12月から20回近くメールのやりとりをしていたのだという。そして「練炭で自殺しよう」とM子さんを誘い、2月19日夜に合流。その際、証拠隠滅のためM子さんにやりとりしていたメールを削除するように求めていた。
レンタカーのライトバンの後部座席でM子さんの手足を縛ったうえで、シンナーを嗅がせたり、鼻と口を手で押さえて数回にわたって苦しませた末、殺害した。
「男でも女でも、口をふさいで苦しむ姿に性的興奮を覚えた。苦しむ顔が見たかった。自分は自殺するつもりはなかった」
自宅からは、女性を縛った上で口や鼻を圧迫して窒息させる映像が映った市販のわいせつビデオが多数押収された
前上はさらに「自殺サイトで知り合い、5月中旬に中学生、6月上旬に若い男性も殺した」と供述。「大阪府南部の和歌山県境付近の2ヶ所で崖から落とした」と話した
6日夕、和歌山県との境に近い和泉市の山中で捜索が行われ、神戸市北区の中学3年・X君(14歳)の遺体が発見された。
X君は5月21日に家出、行方がわからなくなっていた。同月4日にも置手紙を残して家出をしており、岡山県内で保護されていた。2度目の家出の直前には、「自殺サイトで知り合った大阪の男性と会うことになっている」と携帯メールを友人に送信している。
7日午前には河内長野市加賀田の林道斜面で、近畿大3年の男子学生・Yさん(21歳)の白骨化した遺体が発見される。
Yさんは三重県出身で、東大阪市で1人暮らしをしていたが、6月初め頃にアパートから姿を消して、家族から捜索願が出されていた。
X君とYさんとはやはり同じ自殺サイトで知り合ったのだという。X君は手足を縛られながらも抵抗し、命乞いをしたが、失神と覚醒を繰り返させて殺害した。
すべての犯行を自供し終えると、前上はこう語った。
「もう、すべて終わらせたい。自分で自分の欲望を止められないのなら、死刑になって、幕引きしたかった」
出典:自殺サイト連続殺人事件
清水定吉
清水 定吉(しみず さだきち、1837年 - 1887年9月)は、「日本初の拳銃強盗犯」として知られる明治時代の日本の元死刑囚である。また「日本初の劇映画」である『ピストル強盗清水定吉』(1899年)、および『清水定吉』(1930年)として映画化された映画作品のタイトル、および登場人物名である。1837年(天保8年)8月13日、江戸・浅草清島町(現在の台東区東上野6丁目)に生まれる。
職業は按摩師であった。当時の「按摩師」のスタイルは清水の犯罪にとって、格好のカモフラージュとなった。東京市本所区相生町(現在の東京都墨田区両国から緑までの地域)に住んでいた。
1882年(明治15年)から、覆面をして拳銃を使用、東京市(現在の東京都)で80件以上の強盗を行い5人を殺害した。拳銃を使用した強盗事件は日本犯罪史上初めてのことであり、当時の首都は震撼した。
日本橋区馬喰町(現在の中央区日本橋馬喰町)の商家に押し入った直後、1886年(明治19年)12月3日未明に同区浜町(現在の中央区日本橋浜町)で逮捕、その際に、清水に不審尋問をした久松警察署小川佗吉郎巡査[3]が清水の発砲で重傷を負い、その後回復し2階級特進で警部補に昇進するが、4か月後に傷が悪化し翌1887年(明治20年)4月26日、24歳で死亡した。同年9月、清水は死刑に処された。50歳没。
殉職した小川警部補を悼み、当時の浜町川に架かる橋は「小川橋」と名づけられ、川が埋められ橋が撤去された現在、1974年(昭和49年)4月26日、小川警部補の命日に建てられた石碑が建っている。
関東連続少女殺人事件(吹上佐太郎)
吹上佐太郎(ふきあげ さたろう、1889年2月 - 1926年9月28日)とは京都で強姦殺人を行い、その後関東連続少女殺人事件で関東八県で27人以上を強姦しうち6人を殺害したシリアルキラー・連続強姦犯。後に獄中で膨大な自伝を書き残した。佐太郎は1889年2月、京都市西陣生まれ。父親は大の酒好きで、酔うと寝ている子供たちに構わず性交を行っており、それを見ていた佐太郎は7歳頃から妹の性器を弄繰り回していた。9歳の時には家から追い出され奉公に出された。彼は職を転々とした。奉公に出された場所では金を持ち逃げし首になる。別の西陣の工場も逃げ出した。
その次に西陣の機屋で働いた。11歳になる頃には17,8歳の女中二人がいたが、そこでは一緒の部屋で寝る事が行われていた。そのため、毎晩のように一人の色好みの女中に無理矢理少年姦をされていた。毎晩18歳の女中の慰めになったり慰められていたりしたのであるが、その性遊戯がばれ首になった。次のところでは5円を盗み、12歳で監獄に入る。だが、監獄の方がいい生活であった。
それ以来西陣の機屋で働いたが前科がばれクビ。大阪で浮浪者、野宿生活となり泥棒集団の仲間に入るが逃げ出し、京都で泥棒をして13歳で再び監獄に戻される。この13歳の時期男色に耽った。刑務所を出ると家族は四国で乞食をしていたが、泥棒の金で家を借り一家を住まわせた。15歳の秋には初めて少女の味を知った。だが、名古屋に向かう途中自転車を盗んだ罪で刑務所に戻る。
その後出所し京都に戻った彼は17歳の時に出会った女性に一年間性的関係を強いられ、今までの主に年上の女性に玩具にされた生活が一転した。その女性の娘である11歳の娘に手を出し、近所の娘や女工を強姦した。
その後、徴兵検査を受ける直前、京都の金閣寺裏山で少女を強姦して殺害。無期懲役の判決を受け10年弱拘置されたが恩赦により減刑される。
仮釈放後はトンネル工事作業員や田舎廻りの劇団員などになったがいずれの職も長続きせず、仕事を求め流れ歩いた旅先で関東連続少女殺人事件を起こした。
佐太郎は関東連続少女殺人事件で死刑判決を受け刑死した。死刑囚となった彼は西洋の哲学書や文学を読破するなどの猛勉強で原稿用紙3000枚という膨大な自伝『娑婆』(大正15年、厳松堂書店)を残したが、『娑婆』は発売と同時に発禁処分となった。
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤)
この事件は、4歳から7歳という低い年齢の女児が被害者となり、犯行声明を新聞社に送り付ける・野焼きされた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなどの、極めて異常な行動を犯人が取ったことから、欧米を中心に多発する児童への性的暴行を目的とした誘拐・殺害事件などとの比較も行われ、戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入が検討された。特異性が強い事件であったため、事件発生当初から激しい報道合戦が繰り広げられ、後に犯人の父親が自殺したことで「メディアスクラム」をはじめとする報道のあり方が疑問視された事件でもあった。
1989年7月23日、この事件の犯人である宮崎勤が別件のわいせつ事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、現行犯で逮捕された[1]。取り調べが行われる中で、8月9日に連続幼女誘拐殺人事件の一部の事件への関与を認める供述を始める。8月10日に供述どおりに遺体が発見され、その日の夕刊とテレビから大々的な実名報道が始まる。8月11日に誘拐と殺人の容疑で再逮捕され、以後9月にかけて4つの事件への関与を次々と供述する。なお、逮捕される前から宮崎が過去の性犯罪者リストによって捜査線上に浮かんでいたとも言われている。
宮崎が自室に所有していた「5,763本もの実写ドラマなどを撮影したビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、これらを分析するために74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。2週間の調査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像を発見した。そして1989年9月2日に起訴に踏み切り、後に宮崎の供述により遺体が発見されたため、一連の事件犯人として追起訴した。
宮崎は公判において、「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「俺の車とビデオを返せ」など、不可解かつ身勝手な発言を繰り返していた。
1997年4月14日に東京地方裁判所で死刑判決が下る。判決の朗読では冒頭で主文の死刑判決を言い渡された(通常、死刑判決では判決理由を朗読した上で主文を後回しにする)。控訴するも、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。弁護側は、宮崎が東京拘置所で幻聴を訴え、継続的に投薬を受けていることなどを挙げ、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日に最高裁第3小法廷は、弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。この自身の死刑確定について宮崎本人は著書の中で「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」と述べており、面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していたことが明らかになっている。
死刑確定後、手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望していた。これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。また同書の中で自身の最高裁判決が大きく報道されたことを「やっぱり私は人気者だ」と語り、殺害した被害者や遺族に対しての思いのほどを問われ「特に無い。いいことが出来て良かったと思う」と答えたことは遺族をはじめ世間から強い非難を浴びた。
2008年6月17日、鳩山邦夫法務大臣の下により東京拘置所に於いて死刑執行。宮崎の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られることはついに最期まで無いままであった。
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