保険金殺人まとめ<国内編>
保険金殺人とは
保険金殺人(ほけんきんさつじん)とは、ある人物が死亡することにより、当該人物に対し掛けられている生命保険の保険金を得ることを目的に殺人を犯すこと。
保険金詐欺という要素も存在するため、金銭的動機の計画的殺人として悪質性が高くなる。金銭的動機のために保険金をかけていることは外見上から解明されやすい。また保険金を得るためには、犯人本人、または共謀する第三者が保険金の受取人として指定されている必要があるため、犯人が発覚しやすい殺人といえる。保険金の掛け金が収入や資産に対してあまりにも不自然な場合などは、一層動機として注目されやすくなる。
刑事訴訟では合理的な疑いを超えて証明されないと無罪判決となる疑わしきは罰せずが原則であるため、事件が殺人罪として有罪にならないこともある。しかし、保険会社が保険金支払いを拒否する一方で犯人が保険金支払いを求めて民事訴訟となった場合、証拠優越が原則の民事訴訟では保険金殺人の可能性を認めて、保険金が下りないことを認める判決が出て、結果として犯人が経済的利益を一切得ることができない事態が発生することがある。
一部の事件ではマスコミがセンセーショナルな報道をして世間の好奇の目を集めることになり、マスコミが先行する形で警察が捜査に乗り出す劇場型犯罪のような事件もある(例:別府3億円保険金殺人事件、ロス疑惑、トリカブト保険金殺人事件、本庄保険金殺人事件)。
また、捜査機関が動機的視点での捜査に固執してしまうと物証がほとんどなく状況証拠だけの状態での立件になってしまい、無実の可能性が高い人間を殺人罪で起訴してしまい、裁判では無罪判決が出て冤罪として扱われてしまう事例もある(例:ロス疑惑)。
波崎事件
1963(昭和38)年8月26日0:15頃、茨城・鹿島郡波崎町の農業・石橋康雄さん(36)が同町の魚類・野菜を入れる木箱の販売業(箱屋)・富山常喜(46)宅から帰宅後、急に苦しみだしたため石橋さんの妻が救急隊に通報。波崎済生会病院に運ばれたが1:30に死亡。死因に不審な点が見られることから同日14:00から司法解剖を実施。茨城県警は胃の内容物を科学警察研究所に鑑定依頼をだした。その結果、10月18日「胃内容物に青酸反応を認める」という鑑定が出た。石橋さんが、帰宅後苦しみ出したとき妻に「薬を飲まされた。箱屋にだまされた」と言っている事、富山が石橋さんに保険を掛けていることなどから茨城県警は10月23日、富山を別件逮捕。11月9日、石橋さんの殺人容疑で逮捕した。
富山は犯行を終始否認。無罪を主張したが、石橋さんの妻の証言と状況証拠のみで「本人の自白も無いまま」1966(昭和41)年12月24日、水戸地裁で死刑判決。1973(昭和48)年7月6日、東京高裁は控訴棄却。1976(昭和51)年4月1日、最高裁は上告棄却で富山に死刑が確定した。
富山は1949(昭和24)年にシベリアから復員。茨城・那珂湊市で箱屋とラジオ修理業を始めた。商売柄、隣町の波崎町に通ううち同町に住むM子さんと知り合い内妻となる。M子さんの従弟にあたるのが石橋さんであった。石橋さんは大規模な田畑・山林を所有していたが博打にのめり込み数百万円の借金を抱えていた。富山も博打仲間として石橋さんと金銭の貸し借りを行っていた。このため、石橋さんの妻は「夫が博打にのめり込んだのは富山のせいだ」と思っていた。
この頃、石橋さんは無免許で車やオートバイを乗り回していた。事故を起こした時、無免許がバレるのを恐れた石橋さんが富山に身代わりを依頼している。このような背景で富山は石橋さんに25万円を貸していたこともあり、「万一のことを考えて石橋さんに保険を掛けた」。
一方、石橋さんは博打の借金返済のため方々に金を借りるため出歩いていた。事件1日前の8月25日、石橋さんは富山の大家にオートバイを担保に金を借りることを交渉した。その後、石橋さんは担保のつもりだったのが、大家はオートバイを転売してしまった。これに激怒した石橋さんは富山宅で怒りをぶちまける。そこで富山は鎮静剤だと言って青酸化合物入りのカプセルを飲ませた(富山は、そんなことはしていないと終始一貫無実を主張している)とされた。
前述の通り、本事件は物的証拠が皆無、本人の自白がないままに死刑が確定したのは異例。富山は死刑確定後、再審請求を行うが2003(平成15)年9月3日、東京拘置所で高血圧症、慢性腎不全のため獄死した。享年86歳。
出典:波崎事件
別府3億円保険金殺人事件
1974年11月17日午後10時頃、大分県別府市の国際観光港第三埠頭で、時速40kmほどで走ってきた日産サニーが海面に転落。47歳の不動産経営者Aは海面を泳いでいるところを救助されたが、彼の妻(当時41歳)、長女(当時12歳)、次女(当時10歳)は溺死した。死亡した3人には月々の掛け金は十数万円(当時の国家公務員の初任給の2倍に相当)をして3ヶ月の掛け金だけで計3億1000万円と高額の保険契約が結ばれていたことから、保険金殺人の疑惑が浮上。Aは1950年に家屋に保険金をかけて放火した保険金詐欺で最高裁で懲役8年(恩赦により6年)の有罪判決を受けて服役した過去があり、他にも恐喝罪(1949年に内縁関係にあった女性を医師に頼んで堕胎させておきながら、その医師を医師法違反などで恐喝した)や傷害罪(服役後に不動産業を友人で共同経営したが、その友人の妻をめぐってトラブルを起こした)で度々服役していたため、「九州一のワル」と呼ばれていた。また、死亡した3人の他に長男(当時15歳)にも保険金をかけておきながら、自分の死亡に関しては保険金を全くかけていなかったことも発覚した。Aは妻とは3ヶ月前に結婚したばかりのため、保険金がかけられていた長女や次女や長男の3人はAと血縁関係はなかった。なお、長男の証言から3人が死亡したドライブを提案したのはAだったこと、長女がドライブを断ろうとするとAが怒ったことが判明している。長男もAからドライブに誘われたが、受験勉強を理由に断ったため難を逃れた。
Aは「自分と妻が交互に運転していたが、妻の運転中に自分が助手席で目を瞑っていた際に、運転していた妻が大きな悲鳴に目を覚ました時には既に自分は海中にいて、割れたフロントガラスから夢中で抜け出した」と主張。Aは妻の運転による事故であるとして保険会社に保険金を請求するが、保険会社は「警察の交通事故証明がなければ支払えない」と拒否。警察は「事故が作為的かどうか判然としない限り出せない」と交通事故証明交付を拒否した。その頃から、保険金殺人の疑惑があるとしてマスコミが報道して劇場型犯罪の様相を見せていた。カラーテレビ普及後の日本において、警察が逮捕する前から保険金殺人疑惑をセンセーショナルに先行報道した最初の事件と言われている。
また、Aは運転していたのは妻だと主張していたが、実際にはA自身が運転していたのではないかと思われる疑惑が浮上。警察は逮捕前から、Aを取り調べ同然の事情聴取をし続けた。
Aは保険金殺人疑惑を報じるマスコミを巻き込んで、「死ぬかもしれない危険を冒してまで保険金殺人をするわけがない。できるというのなら、お前もやってみろ」と保険金殺人を否定した上で、自分に保険金が入ることの正当性を主張した。
12月11日、Aはワイドショー番組「3時のあなた」に生出演。背景には死亡した3人の大きな写真が飾られたセットで、司会者の寺島純子、ゲストの作家戸川昌子や大谷羊太郎を相手にAは身の潔白を主張するも、ゲストの発言にAは激怒し、席を蹴って退場した。この番組収録終了後の同日午後5時40分にテレビ局裏でAは殺人罪容疑で逮捕された。
裁判
海中から引き上げた乗用車の調査や裁判での証人から以下のことが明らかになった。
●車の鑑定で妻の膝に付いた傷と助手席ダッシュボードの傷跡が一致
●車に付いている水抜き孔のゴム栓が全て取り外されていたこと
●運転席前のルームミラーが固定式のものから脱落式のものに取り替えて、外れやすくなっていた。
●車のダッシュボードに窓ガラスを割るために用意したとされる金ヅチが入っていた。
●事件当夜に事件現場の手前の信号機で停まっていた日産サニーの運転席にAが座っていたとする鮮魚商の男性の証言
●「チャパキディック事件をヒントに家族に保険金をかけて車ごと海に飛び込み自分だけ助かる手法で保険金を手に入れること」をAから打ち明けられていた刑務所仲間の証言
しかし、これらは重要な証拠ではあるが、決定的直接証拠とまでは言えなかった。
また、保険金がかけられながらも死を免れたAの長男が証言台に立った際に「あの男を死刑にして欲しい」「お前がやったんだ!」と発言した。
1980年3月28日、大分地裁はAに死刑判決を言い渡す。
控訴をするも、1984年9月、福岡高裁は控訴を棄却し、死刑判決を維持。
1987年、Aは癌に倒れ、医療刑務所に移送。
上告中の1989年1月13日にAは癌性腹膜炎で死亡し、公訴棄却。享年61。
状況証拠しかなかったが、Aに一審・二審と死刑の有罪が出たのは、不可解な保険金という金銭的動機が容易に予想されたことだけでなく、短気な性格だったAが裁判中にAに不利な証言をした証人を罵倒するなどして、裁判官の心証を限りなく悪くしたためと言われている。
愛知連続保険金殺人事件
昭和54年5月2日、愛知県豊川市の愛知宝運輸社長・長崎正恭(当時40歳)と同社専務・小谷良樹(当時35歳)は、保険金目当てに社員や知人を殺害し保険金を騙し取った疑いで警察が内偵しているのを知り、日本から台湾経由でブラジルのサンパウロ市へ逃走潜伏していたが、地元警察隊に発見され、銃撃戦の末、ピストルで自殺した。長崎は26歳の時、小さな運送会社を設立。その後、経営不振の運送会社を次々と買収し昭和44年頃には従業員30人を抱える運輸会社に発展させた。ところが、昭和48年におきた第一次石油ショックの影響で、会社はたちまち経営不振に陥り、財政は火の車となった。
そこで、長崎は交通事故の保障という名目で各従業員に5000万円から1億円の生命保険金を掛けた。また、資金繰りが苦しい零細企業者や個人に融資する際、担保として生命保険に加入させていた。勿論、受取人は長崎本人で、あとは会社の腹心、兄弟や知り合いの暴力団に保険加入者の殺害を委託していけば会社経営は順調に行くと計画した。
最初の犠牲者は、融資先の食品会社経営のAさん(当時43歳)で、昭和52年10月4日、酔っ払い運転による事故死に見せかけて1億3000万円の保険金を騙し取った。翌年の昭和53年7月30日、長崎が経営する愛知宝運輸・運転助手のBさん(当時18歳)を海水浴場で溺死させ1億円の保険金を騙し取った。
計画がうまくいったことで、長崎は犯行をエスカレートさせた。知人で共犯者のスナック経営・C子(当時55歳)の殺害である。長崎はC子に1億8000万円の保険金を掛けて、スナックを放火。スナックは全焼し、焼け跡からC子の焼死体が発見された。
さすがに、この段階になって保険会社が長崎に対して不審を抱き、警察と連携を取った。警察は長崎に対する内偵を開始した。だが、保険金目当ての連続殺人につながる物証、裏付けは取れなかった。
捜査は意外なところから急展開を見せた。昭和53年8月警視庁は株券偽造の詐欺容疑でD(当時67歳)を逮捕した。この取調中、Dは「自分は保険金を掛けられ2回も殺されそうになったことがある」と供述した。警視庁は愛知県警に本件問い合わせをしたところ、長崎が事件に絡んでいることが判明した。
そこで、警視庁と愛知県警は合同捜査を開始した。その結果、翌年の昭和54年4月に長崎から殺人を委託され、殺害を実行した暴力団関係者や知人ら8人を逮捕した。だが、主犯の長崎と小谷は、逮捕される直前に知人で台湾人のFを頼りに台湾へ逃亡した。しばらくF宅に潜伏していたが、国際手配されていることを知った長崎はFに勧められブラジルへ逃亡した。
長崎らは、パラグアイ経由でブラジルのサンパウロ市に着いた。その後、郊外に潜伏していたが、地元住民の通報でサンパウロ州政府警察隊が潜伏先の隠れ家を急襲。激しい銃撃戦の末、観念した長崎らはピストルで自殺し事件は終幕した。
名古屋保険金殺人事件
昭和54年11月19日午前零時頃、運送業・長谷川敏彦(旧姓・竹内、当時32歳)は従業員の井田正道(当時37歳)と共謀して同店の客であるAさん(当時20歳)を殺害して保険金を騙取しようと、言葉巧みに夜釣りに誘い出して愛知県武豊町の沖合い1キロメートルの海中で釣り舟から突き落として溺死させた。だが、警察は自殺と断定したため保険金の騙取は失敗した。さらに長谷川と井田は従業員であるBさん(当時30歳)を同様に保険金騙取目的で殺害を計画。昭和58年1月24日午前零時30分頃、Bさんと井田が京都府加茂町を走行中、一旦停車して休憩した後、井田が「鍵を落とした」と言ってBさんが鍵を探している隙に井田が鉄棒でメッタ打ちして殺害。車ごと谷底に落として事故を装った。警察は事故と断定し長谷川らは保険金2000万円を騙取した。
同年12月25日、長谷川は事業資金のため融資してもらった闇金融業のCさん(当時39歳)から、毎日のように借金返済を迫られていたため、Cさんを殺害することを計画。言葉巧みにハゼ釣りに誘い出し、愛知県半田市の岸壁で隙を見てCさんを2人がかりで鉄棒でメッタ打ちして殺害。遺体に錨を付けて海中に遺棄した。
Cさんの遺体は、殺害から数日後、海面を浮き沈みしていることろを発見され警察が身元確認を行った。その結果、Cさんから多額の融資を受けていながら返済していない長谷川に容疑がかかり逮捕された。
昭和60年12月2日名古屋地裁は2人に死刑判決を言い渡した。昭和62年3月31日名古屋高裁は一審判決を支持して控訴を棄却。井田は上告せず死刑が確定した。平成5年9月21日最高裁は長谷川の上告を棄却し死刑が確定した。
身内を殺された遺族は犯人に対して極刑を望むのは当然であると思われるのだが、本件で被害者の遺族が「死刑を望まず生きて被害者に償って欲しい」と当時の高村法務大臣に嘆願書を提出した。この遺族は加茂町で殺害されたBさんの実兄であった。
Bさんの兄は、事件が発覚した当時は長谷川等に極刑も当然と思っていた。が時間の経過とともに長谷川からの謝罪の手紙を読み極刑だけが罪の償いではないと思うようになった。そこで拘置所を訪ねて直接、長谷川に面会した。その後の文通などで長谷川の謝罪の気持ちを受け入れられるようになったという。だが、Bさんの兄の願いも虚しく長谷川は平成13年12月27日に名古屋拘置所で死刑執行(共犯の井田は平成10年11月19日死刑執行)となった。
日建土木事件
昭和52年1月7日、暴力団幹部の西尾立昭(当時39歳)は、配下の組員4人と共謀し、名古屋市内の日建土木株式会社、取締役尾関博澄さん(当時48歳)を浜松市内で絞殺。保険金を騙し取ろうとしたが、保険会社から不審を抱かれ失敗した。そもそも事件は、前年の昭和51年4月頃、日建土木の実質的経営者のAが、会社の資金繰りに困窮していたため、西尾立昭に相談したことから始まった。2人は、同社の役員や従業員に保険金を掛けて殺害して多額の保険金を騙し取ろうと共謀した。
そこで、名目上の社長のBさん、従業員のCさん、それと尾関さんの3人に保険を掛けた。その後、西尾は配下の者と共謀してBさんを一泊旅行へ行こうと長良川や恵那峡ダムへ誘い出したが、Bさんが不審を抱いたので失敗。
また、従業員のCさんには交通事故を装って全治2ヶ月の傷害を負わせたが、いずれも殺人には至らず保険会社から傷害として630万円を受け取った。その後、昭和52年になって尾関さんの殺害に至るが、結局保険金の騙取は630万円を受け取っただけであった。
昭和55年7月8日、名古屋地裁は西尾に死刑を言い渡した。これに対して西尾は、首謀者はAであり、自分は手伝ったにすぎないと主張。だが、昭和56年9月10日、名古屋高裁は西尾の控訴を棄却。平成元年3月28日、最高裁は西尾の上告を棄却して死刑が確定した。平成10年11月19日、名古屋拘置所で死刑執行。享年61歳。
Aは、一審、二審では死刑判決だった。だが、平成8年9月20日、最高裁は、殺害されたのは1人であり、殺害の実行には関与していないなどの点を酌量し、一審・二審判決を破棄して無期懲役を言い渡した。最高裁が、量刑不当を理由に死刑判決を棄却したのは戦後2件目。
佐賀替え玉保険金殺人事件
替え玉保険殺人事件とは、多額の借金を負った北九州市の水産会社社長S(当時42歳)が自らに掛けた数億円もの生命保険金をだまし取ろうと、妻・K美(同41歳)や愛人・T子(同43歳)と共謀、無関係の第三者を身代わりとして殺害したというものだ。競艇場で知り合った男をバットで殴って失神させた後、車ごと海に転落させて殺害するという荒っぽい手口。捜査に当たった佐賀県警も交通事故を偽装した殺人だと即座に見抜いたが、被害者の身元については、まんまとだまされた。所持品の中にSの名刺があり、連絡を取ったK美が夫だと認めたため、それ以上の確認をしないまま「S殺害事件」として福岡県警と合同捜査を開始した。間もなくSの会社の従業員であり、愛人でもあったT子が逮捕され、殺害を自供したが、もう一人、重要参考人として事情聴取を受けたのが妻のK美だった。本来は相いれないはずの女二人が手を組んでSを殺害した疑いが浮上し、地元は騒然となった。だが、事件にはさらなるどんでん返しが待ち受けていた。連日の事情聴取にK美がついに、事件を計画し、実行したのがS本人であり、遺体は別人であることを自供したのだ。潜伏中だったSはこれを知って逃げられないと悟り、国鉄新下関駅で列車に飛び込んだ。S自殺の急報が警察に入ったのは、替え玉殺人だったことを発表する記者会見の直後だったと当時の新聞は伝えている。
ここで佐賀県警の致命的失態が問題となった。K美の「遺体は夫」との言葉を鵜呑みにし、指紋照合さえ怠っていたことが明らかになったのだ。遺体の身元さえきちんと確認していれば、最初から替え玉殺人としてSの関与が疑われ、結末は違っていた可能性があるだろう。哀れなのは身代わりで殺害された男性とその遺族で、男性はすでにSとして弔われていたため、本来の葬儀の際には遺骨さえなく、遺族は「警察がしっかりしてさえいれば…」と泣き崩れたという。
佐賀県警はこの後も“仕事が捌けない”ことを相次いで露呈し、地元で「さばけんけい」と揶揄されることになる。代表的なのが女性7人連続殺人事件を未解決に終わらせたことだが、佐賀・長崎連続保険殺人で第一の事件を見逃し、結果として第二の事件を招いたことなど類例は他にも多い。逮捕され裁かれるべき犯罪者が野放しになり、また凶悪事件を起こしているのだから、捜査能力の低さは犯罪的と言っていい。
夕張保険金殺人事件
1984年5月5日、北海道夕張市鹿島の炭坑下請け「日高興業所」作業員宿舎から出火、6人の焼死体が見つかった。当初は失火と見られたが、火をつけた作業員・石川清(当時24歳)の供述により、保険金目的の放火殺人ということがわかる。8月、興業所経営の暴力団組長・日高安政(当時41歳)と妻・信子(当時38歳)が逮捕された。1984年5月5日午後10時50分頃、北海道夕張市鹿島の炭坑下請け「日高興業所」の作業員宿舎から出火、宿舎と隣りの元旅館を焼いた。焼け跡からは4人の作業員と炊事婦の子ども2人の計6人の焼死体が見つかり、1人が2階から飛び降りて両足を骨折する重傷、消火作業にあたった消防士(52歳)も命を落とした。
宿舎では火災前にジンギスカン鍋を囲んだ飲み会が行なわれており、出火原因ははその際使用した石油ストーブか電熱器の不始末によるものと見られた。
7月18日、火災で両足を骨折して入院中だった作業員・石川清(当時24歳)が突如失踪し、8月15日に青森市内から「火事のことで話がある。俺は追われている」と夕張署に通報。それによると、宿舎火災は保険金目的の放火殺人だったという。
「子ども2人が死んだことがずっと気にかかっていた」
石川はそう漏らした。
8月19日、暴力団「初代誠友会日高組」組長で、「日高興業所」社長・日高安政(当時41歳)、その妻・信子(当時38歳)が逮捕される。夫妻は犯行を否認していた。
石川の供述によると、4月下旬、夫妻は自宅で「分け前をやるから寮に火をつけろ。食堂から火が出るようにやれ」と指示。石川は作業員たちに酒を振舞ったうえで、食堂にあった新聞紙にライターで火をつけた。
「報酬は500万やる」と言っていた日高だったが、石川に手渡したのは結局見舞金20万と退院時に70万だけだった。
夫妻は5月から7月にかけて、火災保険と従業員にかけていた2~3000万円の生命保険で1億3800万円を手にしていた。
1981年10月16日に93人もの死亡者が出た北炭夕張炭坑事故が起こったが、下請け作業員だった日高興業所の作業員も7人が死亡しており、日高は多額の労災保険給付金を手にすることになった。当時、日高は服役していたが、出所すると高級車を購入したり、海外旅行に行ったり、2年ほどで保険金を使いきってしまった。
日高安政は1943年に様似町で生まれている。7人兄弟の6番目で、一家はまもなく夕張に移った。
兄たちの影響を受けて店舗荒らし、賽銭箱荒らしをするようになったのは小学校中学年の頃からで、小学6年の時に遠軽町の「北海道家庭学校」に入れられ、そこで義務教育を終えた。
その後はトラック運転手、土木作業員、炭坑員などの職を転々として、17歳の頃にヤクザの世界に入り、暴行事件を数回起こした。69年に結婚、一女をもうけている。
一方、信子は1946年、炭坑員の家庭で生まれた。小学校は3歳年上の日高と同じ学校である。道立夕張高校在籍時には「女番長」として知られていた。
高校卒業後、上京して山野愛子高等美容学校に入学。1年間学んで夕張に帰ってきた。暴力団構成員と結婚して一女をもうけたが、夫は死亡し、バーのホステスとして働く様になった。日高はそのバーに客として来て知り合い、やがて同棲生活を始めた。日高はこの頃、妻と離婚している。
1970年頃、日高は「日高班」という炭坑員を現場に派遣する会社を起した。これは76年には有限会社「日高工業」に発展した。しかし、日高は知り合いの女性と上京、怒った信子も従業員と駆け落ちし、77年に「日高工業」は倒産した。
やがて相手と別れて夕張に戻ってきた2人は縁りを戻し、有限会社「鹿島工業」を設立。同じく炭坑員を派遣する仕事である。日高はこの頃、暴力団総長と知り合い、初代誠友会日高組組長を名乗り始めた。
1978年、日高覚せい剤に手を出し、執行猶予付きの実刑判決を受けたが、猶予中に再び覚せい剤をやり、銃刀法違反と合わせて懲役2年6ヶ月を言い渡された。
主がいなくなって危機的状況になった「鹿島工業」だが、信子はこれをたたみ、新たに「日高班」という派遣業務を女手ひとつで始めた。その頃、「北炭夕張炭坑事故」が起こった。
やがて出所した日高は莫大な給付金で金融業を始め、自宅兼事務所を新築した。しかし、前述した通り、2人は金を有効利用することもなく、すぐに使いきってしまった。
「夕張は不景気でどうにもならん。札幌に出てデートクラブでもやろう」
そんな時、日高は信子にそう持ちかけた。しかし、商売を始めるにはまとまった金が必要だった。その時、以前の突出事故で手に入った保険金のことが頭に浮かんだ。従業員に多額の生命保険をかけ、会社の寮に火をつけて殺すようにと石川に指示したのである。
1987年3月、札幌地裁は日高夫妻に死刑、石川に無期懲役を言い渡した。日高夫妻は控訴。
第4回控訴審の後の1988年10月、日高夫妻はなぜか控訴を取り下げ、死刑が確定した。
夫妻が控訴を取り下げたのは、昭和天皇の逝去による恩赦を狙ってのものだった。昭和天皇の危篤が続いていた頃で、「天皇逝去の大喪の礼や新天皇の即位の礼に伴う恩赦の対象に死刑囚も含まれる」という噂があったのである。刑が確定しないことには対象とならないため、夫妻は控訴を取り下げた。しかし、この噂はデマに過ぎなかった。
1996年5月、日高は「恩赦があると勘違いして控訴を取り下げた」として、審理再開の申し立てを特別抗告した。しかし、札幌高裁は錯誤はないと審理再開を却下。
1997年8月1日、札幌刑務所で午前10時に日高が、12時には信子の死刑が執行された。(この日、永山則夫の執行も行われた)
出典:夕張・保険金殺人事件
青森実子保険金殺人事件
青森実子保険金殺人事件(あおもりじっしほけんきんさつじんじけん)とは、1972年(昭和47年)に青森県青森市で発生した、生命保険の詐取を目的としてひき逃げ事故を装った殺人事件である。またこの事件の首謀者は被害者の実父であり、実行犯に委託殺人を依頼して犯行に及んだ。首謀者の実父は板金塗装会社を経営していたが、経営が不振に陥り、多額の借金を抱え保険金詐欺の計画を立案するに至る。
1972年(昭和47年)8月28日午後8時12分頃、青森県青森市三内稲元の市道で、近くに住むA男(首謀者)が、実娘の長女B子ちゃん(被害者、小学4年生)と二女C子ちゃんの手を引いて、道路左側を歩いていたところ後ろから来た乗用車にB子ちゃんがはねられ即死した。
しかし青森署が捜査したところ、現場にブレーキをかけた気配が全く認められなかったのと、A男の家庭事情を調べた結果、事故より少し前の8月10日にA男がB子ちゃんに400万円の簡易保険をかけてたほか、それ以前の5月22日には他社に1700万円の生命損害保険を契約していたことが判明、ひき逃げ事故に見せかけた委託殺人の疑いが出てきた。 同署は刑事一課を総動員してA男の身辺捜査とともにA男の友人関係を内偵した結果、D男(実行犯)とE男の2人が浮かんだ。さらにD男が酒に酔って知人に「子供をひき殺した」と口をすべらせた事を聞き込んだ。このため同署は9月3日午前10時過ぎにA男とD男を呼んで調べたところ犯行を自供し事件が明るみに出た。 当時の青森県史上最悪の事件となった。
供述によるとA男は100万円以上の借金をかかえ倒産。事業立て直しを図るため、B子ちゃんに多額の生命保険をかけて殺そうと計画、失業して労働者として働いてたときにD男とE男と知り合い、殺人を依頼した。 そして3人で計画を立てた8月23日にD男が同市長島3丁目の路上に駐車してあった乗用車を盗み同市三内の第二中央自動車学校裏に隠しておいた。そして28日にD男が犯行を実行し、現場から約4キロ離れた市営ゴミ焼却場裏の農道草むらに車を乗り捨て、近くに待機してたE男のバイクに相乗りし自宅に帰った。
被害者である当時小学4年生だったB子ちゃんを悼んで事件現場の近くにある青森市三内稲元の三内共同墓地の入口付近に供養地蔵が建立されている。
ロス疑惑
1981年に米国ロサンゼルス市内で妻(当時28)を銃撃して殺害、多額の保険金をだまし取ったとして、当時雑貨輸入販売会社の三浦和義元社長が85年9月、警視庁に逮捕され、殺人などの罪に問われた。当初三浦元社長は「被害者の夫」として同情を集め、米軍機で妻を日本に移送させるなど、その献身的看護が美談となっていた。しかし「週刊文春」が84年初め、事件は元社長による保険金殺人の疑いがあるとして、「疑惑の銃弾」と題して連載、大スキャンダルとなる。元社長のメディア露出と併せて世間の耳目を集め、「疑惑」という言葉は同年の流行語にもなった。事件は、物証や自白など犯行を裏付ける直接証拠がなく、実際に銃撃をしたとされる「共犯者」は誰かが、焦点になった。検察側は88年の起訴以来、「共犯者は(元社長の取引業者だった)元駐車場経営者だ」と主張。これに対し、一審・東京地裁は元経営者を無罪とする一方、共犯者は「氏名不詳の第三者」であるとして元社長を無期懲役とした。
しかし、元社長は控訴審の東京高裁で逆転無罪に。検察側が上告したが、最高裁第三小法廷は2003年3月、上告を棄却する決定をした。同法廷は「元社長が氏名不詳者と共謀して元妻を殺害したと認めるには、なお合理的な疑いが残るとした高裁判決は是認することができる」と述べた。事件発生から20年以上を経て、元社長の無罪が確定した。
逆転無罪判決を受けて元社長はいったん釈放されたが、銃撃事件の3カ月前に、知人の女性に妻を襲わせ、殺害しようとしたとされる「殴打事件」に絡んだ殺人未遂罪で1998年9月、懲役6年の実刑判決が確定。同年11月に収監され、未決勾留(こうりゅう)日数を差し引いた約2年2カ月の服役を経て2001年1月に宮城刑務所を出所した。
08年2月、ロサンゼルス市警は妻の殺人容疑で元社長を滞在中のサイパンで逮捕。日本の刑事裁判で無罪が確定している元被告を、他国の警察が同じ事件の容疑者として発生から27年後に逮捕する異例の展開となった。元社長は容疑を否認したまま10月にロサンゼルスに移送されたが、同月10日、自ら命を絶った。61歳だった。この死をめぐって元社長の弁護側から他殺説が唱えられるなど、最後まで「疑惑」がつきまとった一件となった。
トリカブト保険金殺人事件
平成3年6月9日警視庁は自称経営コンサルタントの神谷力(当時47歳)を横領罪容疑で逮捕した。だが、逮捕の目的は明らかに「トリカブト保険金殺人」であった。同年7月1日、神谷を殺人と詐欺未遂の容疑で再逮捕した。「トリカブト保険金殺人事件」とは、どのような事件であったのか経緯を振り返る。昭和61年5月20日午後1時30分頃、神谷力の3人目の妻で利佐子(当時33歳)さんは女性友達3人と沖縄県石垣島のホテルにチェックインした。当初は元気だった利佐子さんは、友人と部屋に向かう途中から急に苦しみだし、友人等が抱きかかえるようにして部屋に運んでベットに寝かせたが容体は益々悪くなる一方だった。
そこで、ホテル側が救急車の手配をして利佐子さんを八重山病院に搬送したが、その途中に心停止状態となり午後3時4分に死亡が確認された。八重山病院では、死因が確定できず警察に連絡。警察は直ちに司法解剖を行ったが、その結果、「急性心筋梗塞」と診断した。
その間、利佐子さんの友人達は、夫である神谷を呼び寄せるため那覇空港に連絡し構内放送で神谷を呼び出した。神谷は妻の訃報を聞きつけて急遽、那覇空港から石垣島行きの飛行機で駆けつけたが、既に利佐子さんは死亡していた。
ここまでは、不幸ではあるが日常的には、ままあることである。ところが、神谷の生い立ちや利佐子さんの突然死における状況は余りにも不可思議なことが多く、その後「トリカブト保険金殺人」と呼ばれるようになる。
-3人の妻の不審死-
神谷は昭和14年に宮城県仙台市で出生。父親は東北大学の教授で知的水準の高い家庭に生まれ育った。神谷が小学校5年生の時、母親が目の前で服毒自殺するというショッキングな経験をしている。その後、東北大学の受験に失敗し神谷は上京。東京の池袋にある書店に勤めた。
それ以降、神谷は職を転々としながらも結婚を3回繰り返し、全て妻が突然死するのである。
①昭和40年2月
看護婦の山下恭子さんと結婚。昭和56年7月、「心筋梗塞」で死亡。
②昭和58年10月
山田なつ江さんと結婚(昭和47年から神谷となつ江さんは不倫の関係にあった)。昭和60年9月、「急性心不全」で死亡。保険金1千万円受け取り。
③昭和61年2月
工藤利佐子さんと結婚。同年5月、石垣島のホテルで発作を起こし死亡。「急性心筋梗塞」と診断される。
-利佐子さんとの出会い-
利佐子さんは、池袋にある高級クラブに勤務していた。そこへ、紳士風の神谷が店に顔を出すようになった。昭和60年11月頃である。なつ江さんが死亡して2ヵ月後、利佐子さんと初めて会って僅か6日後に神谷は利佐子さんにプロポーズした。
利佐子さんは、優しい紳士である神谷に一目惚れし、周囲の反対を押し切って12月には大阪にアパートを借りて同居した。池袋に住んでいた神谷が突然、仕事の関係で大阪に赴任すると言い出したことも不可思議だった。
翌年の2月13日に神谷と利佐子さんは結婚した。その2ヶ月後の4月上旬までに総額1億8500万円の保険に加入する。受取人は勿論、神谷自身である。
5月になって、神谷は慣れない大阪暮らしが可哀相だと言って、利佐子さんの女性友達3人を石垣島に招待する旅行を企画をした。利佐子さんは、有頂天となった。運命の日の前日、5月19日に神谷と利佐子さんは那覇で1泊。翌日、羽田から来る友人3人と那覇空港で待ち合わせして、南西航空で石垣島に行く予定だった。
神谷は急遽、仕事ができたからという理由で、3人を空港で出迎えた後、午後の飛行機で大阪へ戻るということになった。利佐子さんと3人の友人が合流したのは、11時55分頃で南西航空の機内であった。それから2時間後に利佐子さんは突然死するのである。
-疑惑発覚-
利佐子さんの知人は突然死に不審を抱いた。そこで、知人の1人が手当たり次第に保険会社に本件の内容を連絡した。保険会社でも、3人の妻の突然死に不審を抱いたこと、利佐子さんの保険金額が常識では考えられないことから警察に相談した。
神谷は、利佐子さんの死亡から6ヵ月後の12月に加入している保険会社4社に保険金支払い請求を行った。保険会社は死亡には疑義があるとして支払いを拒否。民事裁判となった。
一審では、神谷側が勝訴したが、保険会社側が不服として控訴。平成2年10月の控訴審で、保険会社側は爆弾証言を行う。というのは、石垣島で司法解剖したA医師が、念のため利佐子さんの臓器や血液を保存していた。これを大学病院で分析した結果、「トリカブト毒による中毒である」と証言した。これに驚いた、神谷は突然、保険金支払い請求を取り下げてしまった。完全に不利と思ったのであろう。
この頃から、マスメディアもスクープ合戦が始まった。このため世間で広く知れ渡り、「トリカブト保険金殺人事件」の名称が踊った。だが、神谷が主張するように、那覇空港から別れて2時間後に利佐子さんが死亡したことで、自身のアリバイがあること、仮に自分が利佐子さんに服毒させたとしても、2時間も遅効性のある猛毒など考えられないと主張した。
-不審-
捜査本部は神谷を逮捕したものの物的証拠は乏しかった。動機は十分に立証できても、死因が特定できなかった。そこで、再度、A医師が保存していた利佐子さんの心臓や血液を再検査を行った。すると民事裁判で証言したのと同様の結果、即ち血液からトリカブトの毒やフグの毒が検出された。
これを裏付けるように、福島県の植物店の主人から警察に、「神谷に゛トリカブト゛を何十鉢も販売したことがある」と連絡があった。また、東京の日暮里にある神谷のアパートの畳からトリカブト毒が検出された。
だが、神谷はトリカブトの毒は即効性があり、利佐子さんと別れてから「2時間後」に急死することはありえないと主張した。
しかし、その後の調査で遅効性のあるフグの毒をトリカブトの毒に相乗させることで時間調整が可能であるということが判明した。また、利佐子さんは神谷から滋養強壮剤をもらったと言って、しばしば友人の前で二重になった白いカプセルを飲んでいることを目撃していることから、トリカブト毒をカプセルに入れて利佐子さんに飲ませても、胃で分解され毒が体にまわる時間は2時間前後であることを解明した。
平成12年2月21日に最高裁は神谷被告の上告を棄却、無期懲役が確定した。
名古屋実娘保険金殺人事件
1986年6月24日夜、名古屋市のパチンコ店員Yさん(20)が婚約者宅前で、二人組の男に木製バットで乱打され、二日後に死亡した。翌年1月13日、愛知県警は実父でホテル従業員のI(57)が実の娘の生命を対象に保険金の詐欺を狙った嘱託殺人と断定し、犯行否認(後に認めた)のまま、殺人と6000万円の保険金詐欺未遂の疑いで逮捕。Iの依頼を受けてYさんを撲殺したY(53)とA(48)を再逮捕し、殺害に使った木製の野球バットを現場近くの民家で発見し、押収した。Iは農家の末っ子に生まれ、甘やかされて育った。結婚したはいいが、自分の言うことを聞いてくれないという理由で離婚。二人の娘を自分で引き取ったものの、育てる能力はなかったらしい。離婚後は些細な理由から34回も転職をしている。自分が悪いのに、「娘はいうことを聞かない」という理由から、保険金殺人を計画。最初は就職後に家を離れた長女を狙ったものの、危険を感じて家出同然に父親の元を去った。パチンコ屋の店員になっていた次女の所に、毎月5万円を無心していたが、ついに次女Yさんをターゲットとした保険金殺人を計画。Yさんは中学時代非行に走ったという負い目から、どんなに苦しい目にあってもくじけないことを示そうと必死だった。そのことが徒となり、とうとう殺害された。
1998年3月24日、名古屋地裁でIに求刑通り無期懲役、YとAに求刑通り懲役20年が言い渡された。Iだけが控訴。1998年10月27日、名古屋高裁で控訴棄却。1990年4月21日までに、被告側上告が棄却され、確定した。
高知連続保険金殺人事件
昭和62年1月17日夜半、高知県室戸市のスナック経営・坂本春野(当時60歳)は、妹の芳野とその夫、寺岡和寿と共謀し、坂本の夫のAさん(当時54歳)を保険金目当てに殺害した。犯行当日、坂本はAさんを泥酔するまで酒を飲ませた後、庭でAさんの頭を漬物石で殴打して意識朦朧にさせ、更に自室に運んで顔を枕で押し付けて窒息死させた。その後、転倒事故に見せかけて保険会社から5000万円を騙し取った。
更に、平成4年8月19日、坂本は知人の保険代理店経営の浜田忠男と共謀し、自分が経営しているスナックの店内で寝ていた従業員の女性Bさん(当時60歳)を石で殴打した後、路上に引きずって交通事故を装った。この時は、保険会社が不振を抱き保険金3500万円は支払われなかった。
平成5年6月19日に坂本等4人は逮捕されたが、その供述の中で坂本は、Aさん殺害は結婚当初(昭和61年9月に結婚)からの計画であったことを自供した。
-死刑確定-
平成10年7月29日、高知地裁は「被告の自白は具体的で、体験者でなければ言えないような具体性があり信用性が高い」として坂本に死刑を言い渡した。これに対して、坂本はAさん、Bさんの殺害は否認し無罪を主張し控訴。
平成12年9月28日、高松高裁は坂本の控訴を棄却。平成16年11月19日、最高裁は一審を支持して坂本の上告を棄却。坂本に死刑が確定した。尚、寺岡夫婦には無期懲役、浜田に懲役15年がそれぞれ確定している。
熊谷養鶏場宿舎放火殺人事件
熊谷養鶏場宿舎放火殺人事件(くまがやようけいじょうしゅくしゃほうかさつじんじけん)とは、1989年4月5日に埼玉県熊谷市に発生した保険金を目的とした放火殺人事件。1989年4月5日午後9時20分頃に熊谷市内の養鶏場のプレハブ平屋宿舎が放火され住み込み従業員の妻(当時48歳)が死亡、住み込み従業員(当時53歳)が全治4ヶ月の火傷を負った。火元の宿舎約20平方メートルは全焼した。従業員F・D(当時65歳)に犯行を依頼した経営者N・S(当時49歳)に保険金2773万円が入り、Fに報酬として300万円を支払った。当時の警察が住み込み従業員への事情聴取で「出火した際はおじちゃん(F)がおり、火を付けた」と証言するもその後「覚えていない。ガスの不始末かもしれない」と変遷した。2002年に「Fが室内に油をまいているのを見た」再び当初の証言に戻り同年7月11日にFを、同月22日経営者を逮捕した。
事件発生から13年経った2002年8月1日、容疑者2人を殺人、殺人未遂及び現住建造物等放火の罪でさいたま地裁に起訴した。
経営者は無罪を主張するが2003年5月12日にさいたま地裁(川上拓一裁判長)は、死刑求刑に対し無期懲役判決を下す。検察側は量刑不当として控訴、経営者側も控訴した。
Fは逮捕後の警察の捜査では罪を認めていたが公判では無罪を主張。証言をした従業員は軽度の知的障害があったため信用性が焦点になるが川上裁判長は警察の心理学者の意見書を採用し「(従業員は)境界線知能の水準だが、長期記憶の保持能力に劣るところはない」として検察側主張を認めた。また報酬として受け取った300万円が養鶏場の記録にあることなどから2003年7月1日のさいたま地裁、求刑通り死刑判決を下す。Fは控訴した。
二審で経営者側は警察での自白は虚偽だったとして無罪を主張。2005年5月26日の東京高裁(田尾健二郎裁判長)は自白は信用でき事実誤認無しであるが矯正可能性が無いとまではいえないとして双方の控訴を棄却した。経営者側は上告した。
2005年11月29日、最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は経営者側の上告を棄却。無期懲役が確定した。
Fは二審のでは状況証拠が無いことや自白に信用性が無いとして改めて無罪を主張。2006年9月26日の東京高裁(池田修裁判長)は、一審判決を破棄し無期懲役判決を下す。判決で池田裁判長は経営者の無期懲役が確定していたため「無期懲役とは歴然とした差異のある極刑は、共犯者間の刑の均衡を失する懸念をぬぐい難い」としたほか「経営者に利用され、巻き込まれた面があるのは否定できない。年齢(当判決時82歳)[1]などを考えると極刑はいささか躊躇を覚えざるをえない」と述べた。Fは上告した。
2007年5月28日、Fは病死した。享年82。同年6月12日付で最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は公訴棄却した。
本庄保険金殺人事件
本庄保険金殺人事件(ほんじょうほけんきんさつじんじけん)とは、埼玉県本庄市で発生した殺人事件。単に「本庄事件」「さいたま本庄事件」と呼称されることもある。金融業を営む主犯が自身が経営する飲食店のホステス3人に対して、偽装結婚させた常連客に保険金殺人をした疑惑として報道される。
状況証拠は限りなく黒に近かったが、捜査は、当初は物証がなく難航する。しかし、最終的にホステス3人の証言をきっかけに、主犯とホステス3人を殺人罪や詐欺罪などで起訴し、4人の有罪判決が確定する。主犯は死刑となった。しかし、ホステスの証言が警察に誘導されたとして冤罪であると主張する支援者もいる。
主犯は有料の会見を203回催し、受け取った金額はおよそ1000万円である。第1の事件の殺人事件では、保険会社が主犯とホステス3人に対し保険金返還の民事訴訟を起こし、返還を命じる判決となる。
第1の事件
1995年6月、元工員の45歳男性をトリカブトが入ったあんパンを食べさせて殺害。その後、利根川で水死体で発見。保険金3億円が偽装結婚相手のホステスに払われた。
第2の事件
1999年5月29日、元パチンコ店員の61歳男性を風邪薬と酒を大量に飲ませて殺害。偽装結婚相手のホステスを受取人とする生命保険として保険金1億7000万円がかけられていた。
第3の事件
1999年5月30日、元塗装工の38歳男性が薬物中毒で重体。偽装結婚相手のホステスを受取人とする生命保険として9億円の保険金がかけられていた。
2008年に死刑が確定しており[2]、2014年現在は東京拘置所に収監されている。即時抗告中。
久留米看護師連続保険金殺人事件
-経緯-平成10年1月24日、看護師の吉田純子(当時33歳)は、看護学校の同級生だった堤美由紀、池上和子、石井ヒト美と共謀して、池上の夫で平田栄治さん(当時39歳)を騙して睡眠薬入りのビールを飲ませて熟睡させ、静脈に空気を注射して殺害した。吉田らは、この殺害で保険会社から保険金3500万円詐取した。
この殺害がうまくいったことに吉田はエスカレートしていく。翌年の平成11年3月27日、吉田は石井の夫で久門剛さん(当時44歳)を同様に殺害することを計画。石井に命じて久門さんに睡眠薬入りのウイスキーを飲ませて熟睡させた。そこへ、吉田、池上、堤が部屋に上がりこみ、大量のウイスキーをチューブを使って鼻から注入。更に静脈に空気を注射して殺害した。この殺害で保険金3200万円を詐取した。
-発覚-
平成13年8月になって石井は犯した罪を後悔し警察に自首した。警察は、石井の自供に基づく裏づけ捜査を行った結果、平成14年4月28日、主犯の吉田、堤、池上、石井の4人を逮捕した。逮捕後の取調べで、平成12年5月に堤の母親宅に侵入しインスリン注射で眠らせてから絞殺し、金員を奪おうとした未遂事件も発覚した。更に、吉田を徹底的に取り調べた結果、平成9年に同僚の看護師から500万円を搾取したのをはじめ、数々の余罪が発覚。2人の殺害保険金詐取をはじめ総額で約2億円を不当に得ていた。
-4人の関係-
吉田は、久留米市内の高級マンションの最上階に3人の娘と住んでいた(夫とは別居中)。堤、池上、石井も同じマンションに居住していた。吉田は、「人間は嘘をつくが、金は裏切らない」と公言し、金・モノへの執着が異常に強く物欲の権化のような女で自己顕示欲が人一倍強い性格だった。
このため、堤ら3人に対して女王と奴隷の関係を強要し吉田のことを、「吉田様」と呼ぶように強制していた。実生活では、吉田の世話はもとより、3人の娘達の面倒も3人に負わせていた。更に、吉田と堤は同性愛の関係だったという。堤に毎日のように関係を迫り、拒絶されると過去の男関係などをあげつらって激しく罵倒したという。
-公判-
平成16年8月2日福岡地裁は、吉田が一連の事件の主犯であると認定し死刑、堤に無期懲役、石井に懲役17年を言い渡した。池上は、一審判決前に病死したため公訴が棄却された。平成18年5月16日福岡高裁は吉田、石井の控訴を棄却。同月18日には、堤の控訴を棄却した。石井、堤は上告せず刑が確定。吉田は、福岡高裁の死刑判決を不服として上告した。
平成22年3月29日最高裁は吉田の上告を棄却して死刑が確定した。
長崎・佐賀連続保険金殺人事件
-経緯-平成10年10月27日午前0時頃、「次男の姿が見えなくなった」と看護助手で母親の山口礼子(当時40歳)から110番通報があった。警察は、長崎県小長井町の港に駆けつけ周辺の捜索を始めた。その結果、午前3時頃、漁港内の岸壁で佐賀県鹿島市の高校1年生の次男(当時16歳)の遺体を発見した。
警察は、母親の山口に事情聴取したところ、「次男や妹と一緒にイカ釣りに来たが、気がつくと次男の帽子が海面に浮かんでいたので110番通報した」と言うことだった。が、この時期にイカ釣りは不自然であること、次男は水泳が得意であること、外傷が無いことなどから不審を抱いた警察は次男の遺体を司法解剖した。
司法解剖の結果、次男の胃から睡眠薬が検出された。そこで、警察は山口を軸とした周辺捜査を実施。その結果、次男には3500万円の保険金が掛けられていることが発覚。さらに、山口の夫で次男の父親であるAさん(当時38歳)も平成4年9月に水死していたことが判明した。このAさんにも多額の保険金が掛けられており、保険金の受け取りも山口、第一発見者も山口であったことが明らかになった。
平成11年8月30日、長崎県警捜査1課は山口と愛人で共犯の古美術商・外尾計夫(当時51歳)の2人を殺人容疑で逮捕した。山口は以前、保険外交員をしていた経験から保険知識が豊富であること、また犯行当時は看護助手をしていたことで病院から睡眠薬が簡単に入手できる立場にあったことなどが決め手となった。
-残忍な母親-
山口と外尾は逮捕後の取り調べで犯行を認めた。これによると、山口の夫であるAさんは家庭を顧みず交遊関係で派手な生活をしていた。一方、Aさんに不満を抱いていた山口は外尾と知り合い、深い関係になった。その頃、外尾は事業やギャンブルで多額の負債を抱えており、保険金目的でAさんの殺害を持ち出した。
そこで、山口は病院から入手した睡眠薬をカレーに混入しAさんに食べさした。深い眠りに入ったAさんを山口、外尾が車で海岸へ運び、外尾がAさんを海に投げ込んだ。結局、Aさんは誤って海中に落ちたということで9000万円の保険金を山口は受け取った。
9000万円の保険金の殆どは山口から外尾に渡っており、外尾は事業の借金返済やギャンブル、派手な遊行費で使い果たしてしまった。そこで、外尾は山口の子供達に保険金を掛けて同様に殺害を山口に要請した。山口は、それまでにも相続した田畑の売却金5000万円、消費者金融で1000万円の借金をしてまで外尾に貢いでいた。が、外尾は全てギャンブルで使い果たしていた。
さすがに、自分の子供を殺害することには難色を示していたが、外尾の脅迫に近い指示で次男を殺害したのだった。犯行当日は、次男に睡眠薬を飲ませた後、外尾が海に投げ入れた。ところが、次男は泳いで岸壁にたどり着いた。この時、山口は次男の頭を押さえつけて「水中でもがくのを押さえつけた」という。
山口は次男のほか、長男(当時19歳)に4000万円、長女(当時10歳)にも2500万円の保険金を掛けていた。その後の警察の調べで、長女に何回か睡眠薬を飲ませるなど、殺害を計画していたことが判明した。
平成16年5月21日、福岡高裁は一審の長崎地裁で死刑判決を受けた山口と外尾に対して、山口に一審判決を破棄して無期懲役。外尾に対しては情状酌量の余地無しとして一審判決を支持して死刑を言い渡した。尚、山口は二審の無期懲役を不服として上告した。平成20年1月31日、最高裁は外尾の上告を棄却して死刑が確定。山口は無期懲役で確定した。
福岡スナックママ連続保険金殺人事件
福岡スナックママ連続保険金殺人事件(ふくおかスナックママれんぞくほけんきんさつじんじけん)とは、2004年(平成16年)に発覚した連続保険金殺人事件である。1994年10月22日、A子は長男の家庭教師だったBと共謀し、夫Cに睡眠薬入りの酒を飲ませて眠らせたところを、包丁で割腹自殺に見せかけて殺害。Cは建設会社の社長だったが、9月に取引先の倒産で1600万円の焦げ付きが発生し、これが原因で1億3000万円の負債を抱えて倒産。A子は殺害現場に借用書をばらまくなどして偽装工作を行い、自殺とされて保険金2億1000万円を得る(会社の債務処理などもあり、実際に得たのは1億ほどとされる)。
1995年9月、A子は福岡市中洲にスナック店を開業。
1999年6月、スナック店の常連だったDと結婚。しかしA子は派手な生活を続けていたためにすでに資金が底をついており、結婚1ヵ月後にDに対して生命保険を2件かけたため、保険金目的と推測される。
2000年1月にDに対して2000万円の保険金をかける。10月にも8000万円と3000万円の個別の保険をかける。
2000年11月12日、Dを風呂場で溺死に見せかけて殺害。事故死として処理されるが、契約していた保険金約1億3000万円の内、保険金は2700万円しか支払われず。理由は保険の多重契約による告知義務違反。
2004年、不倫相手の男性から100万円を脅し取る。7月22日、脅迫容疑などにより福岡県警によって逮捕。これが原因で過去2件の夫殺しも露見(以前から県警に疑われていたという)。裁判では検察から「女王蜂が働き蜂に命懸けの奉仕を求めるように、2人が自分のために死ぬのを当然と考えた」と批判される。
2007年7月19日、福岡地裁において無期懲役の判決(求刑、無期懲役)が、共犯のBには殺人ほう助罪で懲役3年6月(求刑懲役12年)が下る。
2008年4月22日、福岡高裁でBに対し「証拠がない」として逆転無罪の判決。上告せず確定。
2008年12月18日、福岡高裁が弁護側の控訴を棄却。
2011年4月26日、最高裁第一小法廷が上告を棄却、無期懲役が確定した。
犯人像
A子は石炭の町といわれて栄えた福岡県志免町の裕福な靴製造販売会社社長の娘。福岡女学院を経て武蔵野音楽大学ピアノ科を卒業した。
子供の頃はピアノが上手でかわいかったため、白雪姫と呼ばれたという。
1979年にEと結婚して2児を生むが、Eの母と仲が悪くなって別居。さらにEもギャンブルによってサラ金に多額の借金を作り、1985年10月に離婚。しかもEの作った借金はA子の父親が肩代わりしたという。このことで男性不信となり、金銭に異常な執着心を抱くようになり、生活も派手になったという。
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