凶悪・凄惨な少年犯罪「栃木リンチ殺人事件」とは?

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栃木リンチ殺人事件


栃木リンチ殺人事件(とちぎリンチさつじんじけん)は、1999年12月4日に日本の栃木県で発覚した、複数少年らによる拉致・監禁・暴行・恐喝・殺人・死体遺棄事件である。

無抵抗な被害者を加害者少年らが連れまわして暴行を加え多額の金を奪い、被害者家族が警察に相談していることを知ると被害者を殺害に及んだという凶悪・凄惨な少年犯罪である。また被害者の両親から9回もの捜査依頼を受けながらそれを拒絶し続けた栃木県警の不手際も世論に衝撃を与え、桶川ストーカー殺人事件とともに一部国民の警察不信の一因となった事件。事件発覚後、栃木県警は世論および裁判所から厳しく批判された。

出典:栃木リンチ殺人事件 - Wikipedia

	

被害者の須藤正和さん

栃木リンチ殺人事件
1999年9月下旬、萩原克彦は自分に暴力団関係の知り合いがいることをダシに、梅沢昭博に金を要求した。梅沢は消費者金融で借金をし萩原に20万円を 渡す。また、同じように萩原は村上博紀にも金を要求する。暴力団を恐れ2回にわたり50万円を渡した梅沢と、自宅から数十万円をもちだしていた 村上は、「もう勘弁してください」と萩原に泣きついた。すると、萩原は「知り合いから金の借りられそうな奴を探し出してこい」と梅沢、村上に 命令した。


 萩原の要求に対し、梅沢が目をつけたのは同期入社の須藤正和さんだった。梅沢が須藤さんを選んだのは須藤さんが大人しい性格だったためである。  1999年9月29日、梅沢は須藤さんをコンビニに呼び出し、萩原を紹介した。萩原は須藤さんに銀行口座から7万円を引き出させ、その金で3人は パチンコや飲みに出かけた。須藤さんもつき合わされ、一緒にホテルに止めさせられた。この日から、須藤さんは帰寮を許されず、頭髪を 剃り上げられたり、眉を剃られる等の暴行を受けるようになった。

 10月4日、須藤さんの両親のもとに会社から6日間も無断欠勤が続いていると連絡が入った。この時、須藤さんの両親は携帯電話に連絡を とり、注意をした。この日の夜勤には須藤さんは出勤している。

 10月12日から、須藤さんの無断欠勤は再び続くようになる。この時点で須藤さんが消費者金融や友人たちに借りさせられた金額は300万 円近くになっていた。


 10月18日、1週間続いた無断欠勤を不審に思った上司が部下の社員に尋ねると、「須藤さんに金を貸した」と言う社員が 現れた。事の重大さに気づいた上司は、須藤さんの両親に連絡。上司と須藤さんの母親は日産自動車栃木工場を管轄する 石橋警察署に赴き、捜索願いを出した。

 10月19日、須藤さんの父親が石橋警察署に相談に行くが、対応した生活安全課の巡査部長は、「息子さんの場合は自分が悪い。 金を借り歩いているというが、どうせ他の人間にも分け与えて、おもしろおかしくあそんどるんだろう。警察は事件にならんと動けない」と 返答しただけであった。

 10月22日、父親が相談に行くと、石橋警察署の巡査部長は3度目の訪問にうんざりした顔で 「またか。今日はなにしにきたんだ」と言った。 須藤さんの父親が息子の背後の男2人の存在と莫大な借金から、監禁されているのかもと相談するが、 「憶測でものを言うな!あんたの息子は麻薬でもやってるのとちがうか」と自身が憶測で言い放ったという。


 10月27日、同級生から2回にわけて借りた31万を須藤さんが返しにくる日だった。返済にやってくる須藤さんを一目見ようと、須藤さんの父親は離れたところで待機していた。 これはこの同級生が「親には絶対言わないでくれ」と須藤さんに言われており、「約束をやぶったら逆恨みが怖い」という同級生に迷惑をかけるわけにはいかないためであった。  午後9時頃、須藤さんと3人が車でやってくるが、父親は須藤さんを発見することができなかった。 この時の数十メートル隔てた距離が、親子最後の接近だった。この時は全額返済ではなく3万円のみの返済だったが、 この同級生が須藤さんの右手に包帯がまかれていたことを父親に伝えた。

 11月2日、この同級生の父親から、須藤さんが同級生に金を借りに来た際に3人が乗っていた車のナンバーを控えておりそのメモを 渡したいという連絡が入った。同級生の父親に促され、須藤さんの父親は石橋警察署に問い合わせを行った。応対したのは、例の生活安全課の巡査部長であったが、 車の割り出しはすぐに行われ、持ち主が村上である事がわかった。


11月30日、須藤さんの両親は梅沢、村上の保護者に直談判する為、梅沢の母親、村上の両親とファミリーレストランに集まり、須藤さんの父親は分かっている詳細を話、頭を下げて 協力を求めた。この時、村上の父親がもう一人は萩原でないかと話した。須藤さんの父親は梅沢と村上の親に協力を求め、梅沢と村上の親は同意し、その足で宇都宮東警察署へ向かったが、 須藤さんの捜索願いが石橋署で出ている為、石橋署が担当と理由から受け付けてもらえなかった。

 その為、3家族は石橋警察署に向かったが、またも生活安全課の巡査部長は動こうしなかった。この時、須藤さんから電話が入り、巡査部長が須藤さんの両親の友人を 装い須藤さんの状況を探り出そうとしたが、少年のうちの1人が電話を替わり、「あんた誰だ」と尋ねられた際に、この巡査部長は「誰だと?石橋の警察だ」と 答えてしまう。その瞬間、電話は切れ、巡査部長は「あ、切れちゃった」と携帯電話を両親に返した。


11月半ば頃から萩原は「須藤さんを殺しちまおう」と口癖のように言うようになっており、梅沢と村上はこの時は同意せず、萩原をなだめるような態度をとっていたが、巡査部長が警察官と名乗った事で、3人は激しく動揺し、 事件が発覚しそうなので、須藤さんを殺して埋めてしまおう」と考える。12月1日、3人は鬼怒川の河川敷に集まり、 萩原が須藤さん殺害を提案する。この時は3人の他に都内でであった現役高校生Dもいたが、Dはこの会話には参加していない。 萩原は梅沢と村上に「明日までに決めておけ」と言った後、宇都宮市内のガールフレンドのところに遊びに行った。

 12月2日、午後2時過ぎ、萩原,梅沢,村上の3人は市貝町の山中で穴を掘り始めた。Dはこの穴掘り作業を車の中から見ていたが、やがてDも穴掘り作業を手伝わされた。セメントの準備 ができると、梅沢はDからネクタイを受け取った。ネクタイを選んだのは「あとで焼却すれば証拠は残らない」との理由で萩原が提案したものである。須藤さんは全裸になり、地面に正座 をさせられ、梅沢と村上が須藤さんの両脇に立ち、左右から須藤さんの首をネクタイで絞めつけた。首を絞められたことで須藤さんは失禁し、血を吐くが、それにビビった村上は怖くなりネクタイを 放してしまうが、梅沢は村上の持っていた部分をとり、背後から絞め続け須藤さんを殺害した。殺害後、須藤さんの遺体をコンクリ詰めにして、穴に埋めた4人は、宇都宮市内のホテルに宿泊した。 ビールで乾杯しながら、「15年間なんとか逃げ切ろう」と話したという。


 12月3日、4人は須藤さんが生きている様に見せかける為、須藤さんの携帯電話から両親に電話をかけている。折り返し、須藤さんの父親は電話をかけているが、梅沢が鼻をつまみ、須藤さんの 声色を真似て短いやり取りを交わした。また、この日、須藤さんの両親と梅沢の母親が萩原宅を訪れている。村上の両親は須藤さん捜索を疎ましく思っていたのに対して、梅沢の母親は協力的な態度をとっていた。 この時に応対した萩原の父親は「たしかにうちの子は悪い。殺してやろうかとも思った」と言い、警察に提出するための書類を見せられると 「なるほど。事件になったら、さぞかし役に立つでしょうな」と他人事のように語っていた。

 12月4日、萩原は自宅に戻り、残る3人は東京に向かった。自宅にガールフレンドを呼び寄せた萩原は両親と4人で夕食をとっていた。現職の警察官で、須藤さんの失踪に関わっていることを すでに知っていた萩原の父親はこ晩餐で息子になにも問わなかった。しかし、同日港区の自宅に戻ったDが母親に事件のことを打ち明け、三田署に出頭したことにより事件が発覚した。 事件が終結するまで、萩原,梅沢,村上は須藤さんを2ヶ月以上監禁し728万円もの金を巻き上げていた。

出典:?010 栃木リンチ殺人事件 少年4名

	

萩原克彦

父親は警察官。かつては県警捜査1課の外国人犯罪対策室に籍を置いていたが、事件が起きた当時は氏家警察署の交通課に勤務していた。萩原が問題を起こすと、相手に謝罪してまわるのは決まって父親だった。母親の方は近所じゅうに萩原のトラブルが知れ渡っても、1度としてそれを信用しようとしなかった。萩原は幼稚園に通っていた時に、他の園児に無理やり草を食べさせたり、池に突き落とすというトラブルを起こしていた。小学生時代には近所の飼い犬に医師を投げつけたり、蹴飛ばしている姿が目撃されている。

 中学卒業後、専門学校に入るが中退し、鳶の会社に勤めたり、土木会社でアルバイトをした。ここでの勤務態度はお世辞にも良いものとは言えなかった。鳶の会社では、入社初日に「祖父が危篤だ」と嘘を言って早退し、その後も何かと理由をつけて早引けがあった。早退と無断欠勤を繰り返す萩原に社長は解雇しようとしたが、そのたびに母親が訪れて、「今度こそ真面目にやりますから」と頭を下げていったという。


 1997年、萩原は同じ宇都宮市内に住む同い年の少年から100万円もの大金を脅し取り、傷害と窃盗で検挙される。この件では父親が被害者宅へ赴き、100万円を弁済し、示談で済ませるように取り計らった。被害者が示談を呑んだこともあって、萩原の処分は保護観察のみで済んだ。

 1999年6月、萩原は当時無職だった村上に自分のいる鳶の会社を紹介している。その次の土木会社でも萩原と村上は一緒にアルバイトをした。やがて村上を通して、梅沢とも共に行動するようになる。

出典:栃木・リンチ殺人

	

梅沢昭博

実家は宇都宮市今泉町。兄弟は妹が二人。事件の1年前に両親が離婚し、母親との4人暮らしだった。父親の暴力に母親はずいぶん苦労してきたらしい。父親は給料のほとんどをギャンブルに使い、離婚時には養育費も母親に払っていない。梅沢一家が家屋の1階部分を薬局として貸し出すのも、生計をたてるためだった。朝は交通指導員、昼は花店、夜は工員、働き詰めのこの母親は萩原と梅沢の両親に比べると、須藤さん失踪中須藤さんの両親と警察に向かうなど、まだ人間らしい行動をとっている。

 Bは中学2年まで上級生にいじめられ、よく泣いていたという。それでも当時の同級生から見た彼の印象は、明るくてにこにこしている、気が強く喧嘩っ早いというものだった。


 進学した宇都宮学園でも先輩にいじめられたり、カツアゲされて現金を脅し取られていた。そんな彼の目に暴走族が魅力的にうつったのも不思議ではないのかもしれない。

 暴走族の仲間入りをした彼は、昼夜と働きに出ている母親が不在なのをいいことに、メンバーに自宅を溜まり場として提供していた。この頃、同じ暴走族のメンバーとなった村上と再び親しくなった。


 1999年4月、高校を卒業した梅沢は自分の父親も勤めていた日産栃木工場に就職する。須藤さんとここで出会った。

 6月、仕事帰りに交通事故を起こし、長期休暇をとる。会社に認められた休暇中に遊び歩ようになり、萩原と村上とつるむようになる。

出典:栃木・リンチ殺人

	

村上博紀

村上博紀

			
実家は宇都宮市岩曽町。大手製菓会社勤務の父親とピアノ教室を開いている母親がいる。兄弟は弟一人で、同じ敷地内に母親方の祖母が住んでいた。家での実権は婿養子である父親ではなく、母親の方にあった。

 甲子園を沸かせた江川卓の高校として有名な作新学院に進学した村上だったが、暴走族に所属していたことが判明し退学処分を受けてしまう。この時母親は「息子を立ち直らせたい」と車の運転免許を取らせた。教習費用はもちろん、新車で購入したら200万はくだらないホンダ・インテグラも村上専用の車として買い与えている。これはのちに須藤さんを連れまわした車である。


 免許を取得した村上は警備会社に一旦就職したが、入社早々家族での海外旅行を理由に休暇届を出した。結果、村上は1ヶ月も続かず、勤務態度を理由に馘首されている。

 失業した村上は萩原に紹介され、鳶の会社に入る。そしてそこを辞めたあと、土木会社のアルバイトにも萩原に同行した。そこでは萩原のそばを付き従うように離れなかったという。

出典:

	

逮捕後の少年たち、親は

須藤さんの葬儀が行われた。この時萩原の両親が列席していた。萩原の両親に対し須藤さんの母親は「見てください」と棺を開けた。顔が激しく腫れ上がり、火傷の跡がどす黒く爛れた痛ましい遺体だった。萩原の両親は黙って遺体を見つめていたが、まもなく萩原の父親はこう切り出した。

「家内の調子が悪くなったようなので、今日のところはこれで失礼させてもらっていいだろうか」

 この時、須藤さんの父親は激昂して叫んだ。

「ふざけるな。うちの息子は殺されたんだぞ。帰るならせめて火葬が済んでからにしたらどうだ」

 須藤さんの父親が大声を張り上げたのはこのときだけだった。


 須藤さんは会社の労組が窓口となった25年満期の生命保険に入っていた。須藤さんの死後、死亡保険金がおりたのだが、その受取人の名義欄には須藤さんの直筆で「未来の妻子」と書かれていた。それを見て須藤さんの両親は号泣したと言う。


 事件後、須藤さんの父親は「これは倅の会社の車だから」と日産ローレルを売り飛ばし、トヨタ車に乗り換えた。

出典:栃木・リンチ殺人

	

事件発覚後

全国紙は当初、警察報道を鵜呑みにして、被害者少年は「元暴走族仲間」という趣旨で報道したため、事件は「暴走族仲間の喧嘩で死亡」などとみなされて世論の関心をほとんどひかなかった。産経新聞宇都宮支局員が初公判を傍聴して、初期報道と乖離した事実関係と事件の凄惨さに衝撃を受け、栃木県版で「19歳の暴走 市貝町リンチ殺人事件」として4月7日から15回連載で県警の不手際を報じた。この段階では読者からの反応は鈍かったが、5月になって写真週刊誌フォーカスがこの少年犯罪の凄惨さと警察の不手際を報じるとと、他の雑誌やテレビのワイドショーも次々と取り上げるようになり、全国的な関心を呼ぶに至った。

なお、メディア世論の批判を浴びた栃木県警は2000年7月、Sの両親の訴えを無視し続けた警察官らを懲戒処分にしたが、最も罰が重い者で「停職14日間」であった。桶川ストーカー殺人事件では懲戒免職などの処分が下されたことを鑑みればあまりにも軽い処分であるうえに、トカゲの尻尾きりであるとも言われている(ただし桶川ストーカー事件では被害者の告訴状を改ざんすると言う明らかな違法行為が存在した)。

出典:栃木リンチ殺人事件 - Wikipedia

	

刑事裁判

自首によって事件解決のきっかけをつくったDは酌量が認められ少年院送致となった。萩原・梅沢・村上も事件当時、未成年だったが、東京家庭裁判所は刑事処分相当として逆送し、宇都宮地方検察庁は殺人・死体遺棄罪で萩原らを起訴した。須藤さんの遺族は強盗殺人罪で起訴するよう宇都宮検察審査会に陳述書を提出したが、棄却されている。

2000年6月1日、宇都宮地方裁判所は、「犯行は計画的で凶悪。極めて自己中心的で酌量の余地は全くない」として萩原・梅沢に無期懲役、村上に懲役5~10年の判決を下した。萩原は控訴したが、2001年1月29日、東京高等裁判所は控訴を棄却。その後、上告申し立て期限が切れ、萩原の判決が確定した。萩原は裁判中、リンチの際の須藤さんの様子を見てどう思ったかと言う質問に「楽しかった」と発言。また、一時は「死刑を覚悟している」と発言しておきながらその後「須藤君の分まで長生きしたいというのが正直な気持ち」と発言を覆した。

出典:栃木リンチ殺人事件 - Wikipedia

	

民事裁判

被害者須藤さんの両親は、栃木県警の捜査怠慢が息子を死に追いやったとして、国家賠償法にもとづいて栃木県と加害者、およびその両親に損害賠償・1億5000万円を求める民事裁判を起こした。栃木県警は、一旦遺族に捜査ミスを認め謝罪していたが、裁判になると「須藤さんからかかってきた電話に出た際、『警察だ』などと名乗ったことはなく、須藤さんの母親が騒いだために電話が切れた」「須藤さんが自ら捜索願を取り下げるよう連絡をしてきた」「警察の対応は適切で、当時事件を予見することは出来なかった」と発言を翻した。

2006年4月12日、宇都宮地方裁判所は「栃木県警の捜査怠慢と殺害の因果関係」を明確に認め、石橋署員の供述を「全く信用できない」として退けた。犯人が暴行や脅迫などで被害者を取り込むことはままあることであり、「いやしくも犯罪捜査に携わる者であれば当然わきまえておくべきである」と栃木県警の嘘と怠慢を厳しく非難、須藤さんの遺族の主張を全面的に認める判決を下した。捜査と殺害の因果関係を認めたこの判決は画期的なものとなった。


しかし、判決が被告保護者の監督責任を認めなかったことから、須藤さんの遺族は控訴、敗訴した栃木県も判決を不服として控訴した。栃木県が控訴した理由について、当時の栃木県知事福田富一は「『警察官の証言の信憑性』が全く認められなかった、警察官の言っていることは嘘っぱち、でっち上げ、という判決が下ったわけですから、このまま判決を受け入れるということになると、それを認めることになります。ついては、警察官の士気にも影響して、結果として、県民益を損なうことになるだろうと思います」と述べている。


2007年3月29日、東京高等裁判所(富越和厚裁判長)は、「栃木県警の怠慢がなくても、被害者を救出出来た可能性は3割程度」と判断し、栃木県の賠償額を約1100万円に大幅減額する判決をくだした。この判決は、栃木県警に大幅な配慮を示す一方、警察の怠慢がなくても被害者を救出出来た可能性が、なぜ「3割程度」なのか数値の根拠を示さず、被害者にも5割の責任があると判断する内容であった。被害者遺族は承服出来ずに上告した。


2009年3月13日、最高裁判所第2小法廷(古田佑紀裁判長)は、被害者遺族の上告を棄却し、捜査の怠慢を認め、1100万円の賠償を命じた2審・東京高裁判決が確定した。

出典:栃木リンチ殺人事件 - Wikipedia

	

裁判を傍聴した人から提供された萩原克彦の情報


ふてぶてしい態度で肩を揺らしながら、傍聴席を睨み付けた・・・

あくびもしてたみたいだよ~


返事も「はいはい」とふたつ返事。


イスにふんぞりかえってもいたらしい・・・

出典:liuhui-inter.net - 

	

主犯格の父、県警辞職


栃木県黒羽町出身の日産自動車栃木工場社員、須藤正和さん=当時(一九)=が少年グループにリンチを受けて殺害された事件で、一審の宇都宮地裁から無期懲役の判決を受けた主犯格の被告(二〇)=控訴中、事件当時(一九)=の父親で県警生活安全部通信指令課に勤務していた警部補(四八)が、県警に退職願を出し、受理されていたことが十二日明らかになった。辞職の理由は「一身上の都合」としている。警部補は最近は出勤しておらず、周囲には「やめたい」などと漏らしていた。

2000.07.12The Sankei Shimbun

出典:

	

【栃木リンチ殺人事件】栃木県警の対応・偽証疑惑


須藤さんの両親のたび重なる訴えにもかかわらず、捜査を行おうとしなかった栃木県警に対して、事件発覚後、世論から厳しい非難が寄せられた。今回の捜査怠慢の原因については「主犯格萩原の父親が当時、栃木県警 警部補(2000年7月に辞職[3])であったことから、身内の不祥事を隠蔽しようとしたのではないか」という説がある。

また、ジャーナリストの黒木昭雄は「須藤さんと梅沢が勤めていた日産自動車が社員の不祥事を隠すために、警察官出身の社員(同氏の著書に因れば、退職前には警視の地位、警察署長に匹敵するクラスに居た者としている)を通じて、栃木県警に事件の隠蔽を働きかけたのではないか」という説も発表している。また、全国的に見て1人の警察官がカバーする人口が多い栃木県警の実態や少年犯罪に関する手続きが複雑なことなど、警察を取り巻く環境を問題にする意見もある。


初期報道では須藤さんは「元暴走族」と報道され、「元暴走族同士の仲間割れ」とされていた。しかし須藤さんは非常に真面目で温厚な性格として知られており、暴走族との接点は皆無だった。桶川ストーカー事件で警察が被害者の服装をことさら扇情的に(ミニスカートやブランドバッグなど)発表し、間違った世論を植えつけたと批判されたことと類似したものを感じさせる。このことも合わせて、上述の黒木はマスコミを使っての印象操作は、警察の常套手段かもしれないと批判している。


因みに萩原の父親は息子の判決確定後、あろうことか賠償金の減額を要求するために須藤さんの自宅を訪れ、これを須藤さんの両親に「賠償の減額を認めてもらうまで何度でも来る」と毎日しつこく訪れて謝罪は一切しなかったという。

出典:栃木リンチ殺人事件 - Wikipedia

	
	

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