「自宅に少女を9年以上監禁!」新潟少女監禁事件の佐藤宣行とは
新潟少女監禁事件
新潟少女監禁事件(にいがたしょうじょかんきんじけん)は、1990年11月13日に新潟県三条市の路上で誘拐された当時9歳の少女が、2000年1月28日に同県柏崎市の加害者宅で発見されたことにより発覚した誘拐監禁事件。監禁期間が約9年2カ月という長期に渡っていたことや、事件に関わる新潟県警の捜査不備や不祥事が次々と発覚したことなどから社会的注目を集めた。
裁判は犯人の量刑に重大な影響を及ぼす併合罪の解釈を巡り最高裁まで争われ、2003年7月に懲役14年の刑が確定している。
また、犯人が長期の引きこもり状態にあったことから、同様の状態にあった男が数カ月後に起こした西鉄バスジャック事件と共に、引きこもり問題の社会的認知度を大きく高めた事件ともなった。
少年時代の佐藤宣行
1962年7月15日生まれ。両親の年老いてからの子供ということもあり、「ボクちゃん」と呼ばれて溺愛されていた。(成人後も「ボクちゃん」と呼ばれていた。このあたりは大久保清にも通じる)小学1年の時、父親が家を新築し、2階の十畳ほどの洋間を自室として与えられる。
中学1年の時、「怖くて学校に行けない」と言うので精神科の診察を受けたところ不潔恐怖症と診断された。(会社でタクシーの洗車を日常的にしていた父親も不潔恐怖症だった。)虫を毛嫌いし、わずかな汚れを気にした。
中学生の佐藤から見て、70半ばを過ぎた父親は薄汚れて見えるうとましい存在になっており、「あんなのオヤジじゃない」とよく言っていた。
工業高校時代、体格は大きく175cmほどあったが、覇気がなくなよなよした話し方から”オカマ”と呼ばれていた。学校では目立たない存在だったと言う。この頃から、自分の殻に閉じこもるようになり、家の中で鬱憤をはらすようになっていた。
出典:新潟少女監禁事件
佐藤宣行被告が高校生の頃の画像
9年2ヶ月もの間監禁された新潟少女監禁事件【佐藤宣行】
少女監禁までの佐藤
高校を卒業した佐藤は自動車部品製造の工員となった。ある日、出勤する途中に立小便をしたとき「クモの巣にかかって汚れた」と家に引き返した。このような奇行が続き、わずか数ヶ月で退職し、そのあとまったく働いていない。1981年7月、19歳の時、父親を家から追い出す。そのあと母親と口論となり、「私も出て行く」と言われたことから激昂。家の仏壇に火をつけ、危うく火事になるところだった。良岡市の国立病院の精神科にて強迫神経症(不潔恐怖)と診断される。即日入院し、向精神薬を投与され、1ヶ月ほどで良くなり退院。
23歳のなった佐藤は母親に「僕もそろそろ自立しなければならない。お母さんにいつまでも甘えているわけにはいかないので、独立して生活できるように家を増築してほしい」と話す。
息子が就職口を見つけて真面目に働くと思った母親はただちに700万で家を増築する。しかし佐藤が2階の自室を工事業者に踏み込まれるのを頑なに拒否したため、増築は中途半端なまま中止となり、佐藤が就職するという約束も反固にされた。
佐藤は母親に対しては好きなアイドル歌手のレコードや、競馬新聞などを買いに行かせており、この母親は商店の人達のあいだで、ある種の有名人となっていた。競馬場の行きかえりも母親が車で送っており、レースが終わるまでベンチに腰かけて待っている母親の姿が、競馬場の常連の間でも知られていた。佐藤が競馬に勝つと、母親になじみの寿司屋で極上のトロのにぎり10個、8000円分を買わせたことが何度かあった。
1989年6月13日、佐藤はいたずら目的で下校途中の小学四年生A子を空き地に連れ込もうとしたが、別の児童の通報により学校事務員に取り押さえられた。
9月19日、新潟地裁長岡支部は佐藤に対し懲役一年、執行猶予三年を言い渡す。
10月5日、刑が確定。
裁判官は再犯の可能性は低いとして、保護観察処分ではなく、母親に監督・指導を任せた。ちなみにこの事件について柏崎署と新潟県警本部は強制わいせつで検挙した佐藤を「前歴者リスト」に登録しておらず、刑が確定したあとも登録漏れのまま放置していた。
出典:新潟少女監禁事件
少女の監禁生活の始まり
1990年11月13日、下校途中の少女をナイフを突き付けて脅し、車のトランクに押し込め、自宅に連れ込む。部屋に連れ込むと数十回に渡り少女を殴打した。「出られないぞ」「俺の言うことを守れ」と言いつづけ、ナイフを少女の腹部に突き付けて「これを刺してみるか」「山に埋めてやる」などと脅した。逃げられないように佐藤の外出中は少女を縛りつけていた。
出典:新潟少女監禁事件
佐藤は自分が出かける時には少女を厳重に縛(しば)って逃げられないようにし、また、1階の母親に気づかれないよう、大きな声を立てるなと少女に厳命した。少女が泣いたり反抗したりすれば容赦なく顔や頭を殴った。常にベッドの上にいるように指示し、部屋からは一歩も出さなかった。風呂にも入らせず、トイレにも行かせず、大小便はビニール袋の中にさせた。後に救出されるまで、少女がシャワーを浴びたのは、一回だけだった。
母親に買いに行かせたスタンガンを少女の身体に押し当てて放電したこともある。暴行を受けている時に悲鳴を上げるとまた殴られるので、少女は声を上げないように必死に耐えた。
また、競馬番組を録画しておくように命じられた時、少女がそれを忘れていたということで、激しく殴られたこともある。
着替えは1年か2年ごとで、服がボロボロになってようやく着替えを許された。着替えの服は、母親に買いに行かせるわけにはいかなかったので、佐藤が自分で万引きして調達していた。
食べ物は、最初の頃は母親が作ってくれた夜食を食べさせていたが、だんだんとコンビニのおにぎりしか食べさせなくなっていった。そのおにぎりも、最初は1日2個食べさせていたものを後に1日1個だけにした。
こういった生活を何年も強要した結果、少女は誘拐された当時、46kgあった体重が38kgにまで減った。また、ほとんど歩くこともなかったので脚の筋力は低下し、骨も十分に発育せず、自力で歩くことが困難な身体となっていった。
少女捜索の状況
少女が誘拐されたのち、当日13日の19時45分頃に少女の母親が「娘が帰ってこないので捜してください」と駐在所に捜索願を出した。これを受け、新潟県警察三条署と学校関係者100人以上、翌14日には200人以上が少女の捜索に当たったが手掛かりさえ見つけることができず、15日から三条署内に県警機動隊、機動捜査隊など107名で構成された「女子小学生不明事案対策本部」が設置された[7]。以後、捜索範囲は周辺市町村へも拡大され、ヘリコプターによる空からの捜索や、空き家やコンテナボックスの内部なども捜索され、夜間検問も実施された。新潟県警では少女の特徴を記した手配書を2万枚作成して県内全域に配布し、さらに24日に別の手配書1000枚を新たに配布したが、有力な情報はもたらされなかった。当時の警察担当記者によれば、事案発生から数週間後に車による連れ去り事件であるとの見方が支配的になり捜査一課が投入されたが、そうした見方が強まったことは却って捜査員達に諦念を抱かせた。なお、当時この事件を報じていた新潟日報の記事では、秋・夕方の下校途中に車で何者かに連れ去られたという部分が、1977年に新潟市で失踪し、後に北朝鮮工作員に拉致されたことが判明した横田めぐみの失踪事件に類似するとも指摘されていた。この事件に絡んでは、Sとは別の男が犯人を装って家族に電話を掛け、母親をファミリーレストランに呼び出し逮捕されるという副次的な事件も起きた。
捜索は11月19日に人員が80人規模に縮小され、12月25日には地元消防団などによる捜索が打ち切られた。以後は毎年11月13日に三条署員が学校や路上でチラシを配るといった活動が継続された。
佐藤の父親
東京の大会社の重役を送迎する運転手をしていたが帰郷し、柏崎市内でタクシー会社を設立、専務取締役61歳で再婚し、誕生した一人息子を溺愛する。父親81歳の時、息子に家を追い出される。以後、異母姉の家に避難。その後、老人介護施設に入所していたが、少女が佐藤宅に連れてこられる前の年に亡くなっている。
佐藤母親
若い頃、心中騒動を起こし、婚期が遅れて35歳で26歳年上の夫と結婚(初婚)。職業は保険外交員。45歳の時、息子を精神科に連れて行くために自動車免許を取得。営業成績が上がった。
1991年4月(当時64歳)、柏崎市内のホームセンターでスタンガンを購入。少女発見まで20年以上も息子の部屋には入っておらず、少女の存在も知らなかった。
この頃には母親の生保の外交員の仕事もほとんどなくなっていた。だが若いころに実績をあげていたため、60歳の定年を5年延長できたうえに、定年退職後も嘱託として仕事を続けることができたが、もう契約はほとんどとれなくなっていた。佐藤の暴力は激しくなり、心底おびえた母親は午前10時から午後4時まで500円で居つづけることのできる「カンポの宿」で時間をつぶすことが多かったという。
母親はもう限界だった。
「このところ息子の暴力がひどい。自分の意のままにならないと殴る蹴るのうえに、私を縛り付けて、トイレにさえ行かしてくれない」
1999年12月、73歳になった母親は息子の暴力が激しくなってきたことから市内の精神病院へ相談に行き「息子を入院させてください」頼んだが、「本人を連れてきなさい」と言われる。しかし当然、佐藤は拒否。医師は「これ以上同居させておいては母親の身が危険」と判断し、自宅に乗り込むことを決めた。
翌年1月28日午後1時半頃、精神病院の副院長、弁護士、保健所職員など7名が佐藤宅を訪れる。少女発見となった。
「靴はないの。外に出られないから」
保健所職員などに付き添われて、家を出ようとした際、少女はそうつぶやいたという。
少女、発見される
佐藤宣行は、少女が保護される数年前から、母親への暴力をエスカレートさせていきました。それに耐えかねた母親は、保健所に相談します。
そこで精神病院に強制入院させるという結論にいたります。
そして保健所の職員が、佐藤宣行の家に向かいました。
佐藤宣行の部屋に保健所の職員が入ると、佐藤宣行はベッドで寝ていました。
そして起こして連れていこうとしますが、佐藤宣行は暴れだします。
それをなんとか制圧して連れ出します。
この時、佐藤宣行は『もう終わりだ!うまくいってたのに!』と叫んでいます。
保健所の職員は、佐藤宣行を連れ出すと同時に、ベッドの上にある丸まった毛布が動いているのを見逃しませんでした。
そこで毛布を捲ると、被害少女がいたのです。
保健所が誰なのか尋ねても答えない為、佐藤宣行の母親を連れてきます。
そして母親が『あなたは誰?帰らないの?』と聞くと、少女は『ここにいてもいいですか?』と言うので、母親は『いいよ』と答えます。
しかし、保健所の職員はそんなんで納得せず、家は何処にあるのかと問いただします。
すると少女は、『もうないかもしれない』と答えたのです。
そこで名前など詳しく聞いたところ、9年2ヶ月前に行方不明になっていた少女だと分かったのです。
発見当時、少女はすでに19歳で、ひとりでは歩けない状態になってました。
ちなみに、毛布に包まっていたのは、佐藤宣行との約束の為です。
寝る時は、毛布に丸まり、髪の毛も出さないようにとのルールを9年2ヶ月もの間、守っていたのです。
少女の9年2ヶ月の生活は、テレビも見れない生活でした。
しかし、佐藤宣行はラジオを聞かせたり、新聞や漫画などを見せてたようです。
ちなみに、被害少女の行方不明の新聞報道なども見せていました。
佐藤宣行は、学校にも行かせられないので、知能の発達が遅れないように、新聞やラジオから流れるニュースのディスカッションを被害少女としていたようです。
保護された被害少女の趣味も、ある意味独特のものでした。
競馬、F1などのスポーツが好きだったのです。
これは、佐藤宣行の趣味でした。
少女についてなど
新潟県の地方紙である三條新聞(三条市)は少女の実名と本人写真、家族写真を報じたが、新潟市の市民グループから人権侵害であるとの抗議が寄せられ、2月12日の社告で「捜査協力を呼びかけてきた地元紙として被害者の名前を熟知する読者に匿名にする意味がなかった」と実名報道を行った理由を説明した上で、「他紙を併読する場合の影響を考え」同日より少女については匿名報道に切り替えた。一部では少女に対しても「9年2カ月もの間に逃げる機会はなかったのか」という疑問が呈され、少女が監禁状態にあるとき、犯人と運命共同体であるかのように錯覚し始め、やがて犯人への共感を示すようになるストックホルム症候群の状態にあったのではないかとの見方もあった。しかし、これは後にSの精神鑑定を担当した小田晋により否定され、精神鑑定書にも併せて記述された。少女は「縛られなくなってからも、常に見えないガムテープで手足を縛られているような感覚でした。気力をなくし、生きるためにこの部屋から出ない方がいいと思いました。男は気に入らないとナイフを突きつけるので、生きた心地がしませんでした。大声で泣きたかったけど、叫び声を押し殺しました。けっして男と一緒にいたかったわけではありません」と供述している。また少女は母親に対してSを評して「憎いとか怖いとか、そんな感情を出すのがもったいないほど、最低の人だ」と語っている。
事件そのものについての報道のほか、事件に関連する警察の捜査不備や不祥事についての報道も盛んに行われ、県警本部長が辞職、警察庁長官が国家公安委員会から処分を受けるという事態も起きた(
判決
地裁2002年1月22日、判決公判が開かれ、新潟地方裁判所の榊五十雄裁判長は、Sに対し懲役14年の判決を言い渡した。検察が言及した未決拘置日数(350日)は刑に算入するとされた。
判決文では、未成年者略取と逮捕監禁致傷の両件について「動機・態様は極めて悪質で、その発生した被害結果などはあまりにも重大であり、刑法が構成要件として想定する犯行のなかでも、最悪の所為」とし、また窃盗については「監禁の犯行を継続し、その犯行に資するがために敢行されたもので、その動機および様態などは相当に悪質であって、未成年者略取および逮捕監禁致傷の犯状を、いっそう悪化させている」と指摘。14年という量刑について「逮捕監禁致傷の法定刑の範囲内では、とうてい適性妥当な量刑はできないものと思料し、同罪の刑に、法定の併合罪加重をした刑期の範囲内で、被告人を主文の刑に処することにした」と説明された。弁護側の主張のうち、略取誘拐の公訴時効については「本件は全体として一個の行為が略取罪と逮捕監禁という数個の罪名に触れる刑科上一罪としての観念的競合の関係にある。さらに、逮捕行為及び監禁行為は包括一罪となるから、被害者が解放された時点まで犯罪として継続したことになる」などとしてこれを退けた。また心神耗弱についても「認められない」とした。
判決翌日、弁護人がSに控訴の意志を問うと、Sは「控訴します」と即答。弁護人が確認するとやはり「控訴します」と答え、24日に控訴手続きが行われた[62]。控訴趣意書では主に以下の5点について記述された。
未成年者略取罪と公訴時効
窃盗と併合罪加重
Sの人格障害等精神の病に対する無理解、考慮不足
監禁期間9年2カ月の評価と量刑判断の誤り
監禁態様の評価の誤り
一方、新潟地検は「判決の量刑が著しく軽きに失するとは断じがたい」として控訴を断念し、二審以降の量刑は最高14年以下となることが確定した。
高裁2002年12月10日、東京高等裁判所の山田利夫裁判長は一審判決を棄却し、佐藤に対し懲役11年の判決を言い渡した。
高裁は一審判決の併合罪解釈が誤りであるとした上で、その理由について次のように説明した。
併合罪に関する刑法の諸規定及びそれらの立法の沿革に照らせば、刑法47条が、最も重い罪につき定めた刑の長期にその2分の1を加えたものを併合罪全体に対する刑の長期とした(加重主義)のは、最も重い罪につき定めた刑の長期が併合罪全体に対する刑の上限になるという従前の制度(吸収主義)の不合理を克服しつつ、刑を併科する場合(併科主義)よりも併合罪全体に対する刑の上限を短く限定するためであって、それ以上の意味はない。
このような刑法47条の趣旨からすれば、併合罪全体に対する刑を量定するに当たっては、併合罪中の最も重い罪につき定めた法定刑の長期を1.5倍の限度で越えることはできるが、併合罪を構成する個別の罪について、その法定刑を越える趣旨のものとすることは許されない。
その上で量刑について「未成年者略取と逮捕監禁致傷については、法の許す範囲内で最も重い刑をもって臨むほかない。他方、窃盗については、逮捕監禁致傷との関連性を踏まえつつ、同種事犯における量刑との均衡も考慮しなければならない。上記の諸事情を総合考慮して、被告人を懲役11年に処するのが相当と判断した」と説明。つまりこれは、逮捕監禁致傷で最高刑の10年、窃盗で1年の計11年という足し算式の量刑であった。一方で「本件のような犯行が生じ得ることを考えたときに、国民の健全な法感情からして、逮捕監禁致傷の上限が懲役10年で軽すぎるとすれば、将来へ向けて法律を改正するほかはない」と言及し、山田裁判長は判決を読み上げたあと佐藤に向けて「判決は14年から11年に短縮されましたが、犯情がよいとか、情状酌量ということではけしてありません。一人の人間の人生を台無しにしたということを、十分に反省するよう、強く望みます」と説諭した。
この判決を受けた被害者家族は「9年2カ月15日に及ぶ長期監禁から無事保護されて、3年が過ぎようとしています。娘と私たち家族にとってこの時間の重さを今日の判決で求めることは到底できません。親として被告をこのような形でしか裁くことのできない現状に無念さを感じ、『許せない』という気持ちが高まるばかりです」とコメントした。10日後の12月20日、東京高検は「高裁判決は法令の解釈に重大な誤りがあり、破棄しなければ著しく正義に反する」として上告を決定した。一方、控訴審より担当となった佐藤の国選弁護人は判決を受け容れる方針であったが、佐藤は「二審判決は、一審の新潟地裁判決と同じように、事実誤認がある。また、二つの罪を合わせて懲役11年という判決も、不当に重いから不服である」とする自筆の上告書を提出し、こちらも上告することになった。
最高裁2003年6月12日、最高裁判所第一法廷で上告審の弁論が行われ、検察側、弁護側双方が併合罪の解釈について意見陳述を行った。検察は「複数の犯罪行為が一人の人間に対して行われており、処断刑は犯罪行為と犯人の人格とを総合評価すべきもの」とし、懲役11年の高裁判決は軽すぎると主張した。弁護側は「検察側の主張では、恣意的、技術的に刑が加重される危険がある」「法治国家が長年培ってきた罪刑法定主義の原則に立つべき」と主張した。
7月10日、判決公判が開かれ、最高裁判所第一法廷の深沢武久裁判長は、二審判決を破棄して一審の懲役14年を支持し、佐藤側の控訴を棄却する判決を下した。これにより佐藤の刑は懲役14年で確定した。最高裁は併合罪の解釈について次のように結論づけた。
刑法47条は、併合罪のうち2個以上の罪について有期の懲役又は禁錮に処するときは、同条が定めるところに従って併合罪を構成する各罪全体に対する統一刑を処断刑として形成し、修正された法定刑ともいうべきこの処断刑の範囲内で、併合罪を構成する各罪全体に対する具体的な刑を決することとした規定であり、処断刑の範囲内で具体的な刑を決するに当たり、併合罪の構成単位である各罪についてあらかじめ個別的な量刑判断を行った上これを合算するようなことは、法律上予定されていないものと解するのが相当である。また、同条がいわゆる併科主義による過酷な結果の回避という趣旨を内包した規定であることは明らかであるが、そうした観点から問題となるのは、法によって形成される制度としての刑の枠、特にその上限であると考えられる。同条が、さらに不文の法規範として、併合罪を構成する各罪についてあらかじめ個別的に刑を量定することを前提に、その個別的な刑の量定に関して一定の制約を課していると解するのは、相当でないといわざるを得ない。
これを本件に即してみれば、刑法45条前段の併合罪の関係にある第一審判決の判事第1の罪(未成年者略取罪と逮捕監禁致傷罪が観念的競合の関係にあって後者の刑で処断されるもの)と同第2の罪(窃盗罪)について、同法47条に従って併合罪加重を行った場合には、同第1、第2の両罪全体に対する処断刑の範囲は、懲役3月以上15年以下となるのであって、量刑の当否という問題を別にすれば、上記の処断刑の範囲内で刑を決するについて、法律上特段の制約は存しないものというべきである。
したがって原判決には刑法47条の解釈適用を誤った法令違反があり、本件においては、これが判決に影響を及ぼし、原判決を破棄しなければ著しく正義に反することは明らかである。
判決確定後
懲役14年の刑が確定した佐藤は収監されたが、公判中から減少していた体重がさらに減り、歩行に介助が必要な状態となり、医療刑務所に移され治療を受けたと伝えられる。また母親は佐藤の収監後に認知症が進み老人介護施設に入所したことから、2003年頃より面会を行っていないという。2005年1月1日、改正刑法が施行され、逮捕監禁致傷の懲役および禁錮の長期上限が10年から15年に引き上げられた。
なお、少女の保護から1年10カ月後の2001年12月1日に新潟日報が報じた記事では、被害少女は事件後成人式に出席し、運転免許を取得し、家族と新潟スタジアムへサッカー観戦に赴いたり家族旅行に出かけるなど、日常を取り戻しつつあると伝えられている。
事件、裁判の経緯
1990年11月13日、新潟県三条市で下校途中に、小学4年生だった佐野房子が連れ去られ、行方不明になる。 この後9年間に渡って監禁されていたことが後に判明する。2000年1月28日 柏崎保健所職員が、母親への暴力という相談を受けて佐藤の自宅へ入る。その際に被害者を発見し保護。男は精神不安定により入院。
2000年2月10日 佐藤宣行は1989年、当時9歳の女児を乱暴しようとして逮捕されていたにも関わらず、県警が佐藤の名前を容疑者リストからはずしていたことが明らかに。
2000年2月11日 佐藤宣行を逮捕。
2000年3月3日 佐藤宣行を、被害者を監禁し、よってけがを負わせた監禁致傷罪で起訴。
2000年5月23日 新潟地裁で初公判。佐藤宣行は罪を認めるものの、弁護側は精神鑑定を請求。
2000年6月26日 地元のデパートから女性用の下着を万引きした窃盗罪で男を追起訴。
2001年9月6日 「完全責任能力あり」と鑑定担当の医師が結果を提出。
2002年1月22日 新潟地裁、懲役14年判決(求刑15年)。
2002年1月24日 弁護側、判決を不服として控訴。
2002年12月10日 東京高裁、「第一審は併合罪の処理を誤っている」として懲役11年に減刑。
2002年12月24日 検察側、弁護側共に上告。
2003年7月10日 最高裁、「併合罪は個々の罪を別々に処理するのではなく、全体を統一し処理すべきだ」との初判断を示し、懲役14年判決(控訴棄却の自判)。確定。
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