尖閣、竹島、北方領土…日本とどこが、どこで何を揉めてるの?
いまひとつわからなかった領土問題
日本の領土はこうなっていました
出典:日本の領海等概念図
「海上保安庁」のサイトから。日本は半分以上が海のようですね。
なんで「領土」を取り合うの?
国連海洋法条約という国際法では自国領土の沿岸から200カイリの範囲を排他的経済水域(EEZ)と定めていて、この水域内では石油や天然ガスなどの天然資源の採掘や漁業を行う権利がその国だけに認められています。そのため、たとえ小さな無人島であっても自国の領土として大きな意味を持ち、国家同士で争うきっかけになっています。
「がんばれ国公立大学受験生!!」というサイトです。受験用はわかりやすいです。
この後よく出てきます。サンフランシスコ平和条約って何?
1951年9月8日、サンフランシスコ講和会議の結果として締結された第二次世界大戦の連合国諸国と日本の講和会議である。連合国のうち、48ヵ国が署名して日本の主権の回復が認められた。
出典:サンフランシスコ平和条約
「世界史の窓」より。
やっとわかりました、サンフランシスコ平和条約
●領土問題の話になると「サンフランシスコ平和条約」とよく聞きますし、この後も時々出てきます。1951年9月、戦争状態を終わらせようといった条約です。この条約で日本は主権を取り戻したのですが、同時に「日米安全保障条約」も締結されました。そのためソ連は拒否。
ここで日本の賠償責任などと一緒に、領土についても色々と決められました。このときから日本は「西側」として扱われます。
どこで揉めているの?
出典:竹島 | 外務省
1・竹島
17世紀初めには、日本の町人は幕府の許可を得て、鬱陵島(うつりょうとう)に渡る際、竹島を航路の目印として、またアシカなどの漁獲地として利用していました。遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。さらに、1900年代初期、島根県の島民から、アシカ猟事業の安定を図る声が高まり、政府は、1905(明治38)年1月、閣議決定で竹島を島根県に編入し、同年2月22日、島根県知事は、この旨を告示しました。
出典:竹島は日本の固有の領土です - 竹島|領土・主権対策企画調整室
内閣官房の「領土・主権対策企画調整室」から。
いきなりの「李承晩ライン」
●流れとして、17世紀から漁のため使っていた日本が先で、島根県に編入もしています。1951年のサンフランシスコ平和条約でも、日本が放棄するのは「済州島,巨文島及び鬱陵島を含む」とあるので、竹島は入っていません。ところが何故か翌年、いきなり李承晩韓国大統領によって「李承晩ライン」が一方的に引かれ、竹島も韓国領に…。
そして実際に、灯台などの建物を建てたり警備隊を置いたりと、今現在まで「実効支配」を続けているのです。
海上保安庁による李承晩ラインです。
65年に日韓基本条約や請求権・経済協力協定、日韓漁業協定が締結されるまでの間、韓国の不法拿捕により抑留された日本漁民は3929人、拿捕時の攻撃による死傷者は44人、物的被害総額は当時の金額で約90億円にも上る。
出典:李承晩ラインで日本漁民が味わった塗炭の苦しみ 射殺、餓死…
「iRONNA」の記事から引用です。
悲しい過去も…
●初めて知りましたが、ラインの外にいる日本の漁船を捕まえ、漁に出た日本人達にかなり酷い扱いをした過去があったとの事。65年に上記の条約が結ばれたことによって一旦落ち着いたようです。ところで竹島について調べてみたところ、今のままでは日本は分が悪いようです。
この場合、決着をつける方法は国際法になりますが、今の国際法だと、実行支配している方が有利になる傾向があるとのことです。
過去に日本は国際司法裁判所に訴えを起こしてますが、韓国が拒否して裁判はできず。もしかして、その国際法で決着したら、実行支配している韓国が有利になる可能性も高いと考えられるようです。
画像は隠岐の島町久見地区にあるアシカの像。隠岐の島のサイト内の竹島の対策ページに載っています。
2・尖閣諸島
戦後、1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約において尖閣諸島は日本が放棄した領土には含まれず、日本の南西諸島の一部として米国の施政下に置かれました。尖閣諸島の一部は米国が射爆撃場として使用されていましたが、当時、中国はそれらの措置に一切異議を唱えておらず、逆に中国共産党の機関紙や中国の地図の中で、日本の領土として扱われてきました。
出典:サンフランシスコ平和条約の下で尖閣諸島は日本の南西諸島の...
内閣官房の「領土・主権対策企画調整室」より。歴史的な詳細が書かれています。
1895年の尖閣諸島の日本領への編入以降,日本人が移住し,アホウドリの羽毛の採取や鰹節の製造などを行っていた。最盛期には,200人以上の日本人が居住していた。
外務省のサイトにもあります。
物騒なニュースが多いこの場所
●一番ピリピリと緊張感が走るのは、ここのような気もします。こちらも流れです。尖閣諸島は、まず1895年に日本領に。サンフランシスコ平和条約でも「沖縄の一部」なって中国も日本として扱っていたようです。1972年の「沖縄返還協定」でも日本に返されて、しっかり管理もされているそうです。
何故その後、中国が進出してくるのか調べると、1970年代に石油が埋蔵されている可能性があるとわかった時から。やはり資源の奪い合いが領土問題に発展するようです。
ただし竹島と違うのは、日本が実行支配している所です。それでも、漁船が体当たりしてくるなど、物騒なニュースに事欠きませんよね。沖縄の基地問題も絡み、複雑です。
画像は東南アジアのサイトですが、中国船が大量に航行しています。
グラフは海上保安庁のサイトからです。尖閣諸島の回りの海域での、中国公船等の動向です。
中国漁船が激突してきた映像。覚えてる人も多いのではないでしょうか。
3・北方領土
千島のことが日本に知られるようになったのは、今から300年以上前の江戸時代のことです。もともと千島には、アイヌの人々が住んでいました。北海道の松前藩の記録に、「1615年に北海道の東に住んでいるアイヌの人々が、ラッコなどを松前藩に納めた」とあります。ラッコは千島の近くの海でしかとれないので、この当時から松前藩と千島の交流があったことがわかります。さらに、松前藩は、1644年に家来の村松広儀(むらまつひろよし)に命じて、「正保御国絵図(しょうほうおくにえず)」という地図を作りました。この地図は、千島の島々を描いた世界で最も古いもので、松前藩が千島の島々を知っていたことがわかります。ロシア人が千島のことを知ったのは1697年のことです。
「その先の、道へ。北海道」北海道のサイトのようです。
長々と揉めています
●竹島や尖閣諸島のような物騒さより、長い間、外交で揉めている印象の北方領土です。こちらも、元々アイヌの人達が住んでいて「1615年に北海道の東に住んでいるアイヌの人々が、ラッコなどを松前藩に納めた」とありますから、かなり古いですね。その後、日本から移る人も増えて統治したとあるので、やっぱり日本が先ですね。
1855年の日魯通好条約(下田条約)でも、自然と出来上がった国境を確認するもので、その国境も択捉島とウルップ島の間になっています。
ところで、また出てくるサンフランシスコ平和条約では「千島列島と樺太の南半分に対するすべての権利、権原、請求権を放棄する」となりましたが、ソ連は第二次世界大戦の終り頃に4島を占領、日本人を追い出し、この条約に同意せず。そのため北方領土は今でも解決していないのですね。
ちなみに同意しなかったのは、日本とアメリカが同盟関係になったのも理由の1つのようです。戦争は終わっていないと感じます。
国際司法裁判所とは?
国際司法裁判所は国連の主要な司法機関である。オランダのハーグにおかれ、国連の主要機関でニューヨークに所在しない唯一の機関である。
出典:国際司法裁判所 出典:国際司法裁判所 あちこち調べてみると、基本的には対立する2国の間で結ばれた条約を元にします。さらに国際法になります。ところが国際法って、明文化されてない「一般的に世界での慣習になっていること」なので、あやふやさが不安になってきました。 判事は15名で世界各国から選ばれていますが、どの国が判事を務めるかでも結果は変わってきそうですよね。 常任理事国が連合国ばかりの国連の機関なのも、日本にあまり有利な気もしないですが、考え過ぎでしょうか。 国連広報センター 「 国連広報センター」から引用です。