【サイコパス】ミルウォーキーの食人鬼 ジェフリー・ダーマー【シリアルキラー】

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ジェフリー・ダーマーとは

ジェフリー・ダーマー、世界を震撼させたミルウォーキーの食人鬼。

一度はその名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。

分かっているだけでも17名が彼の犠牲になっています。

ジェフリーは犠牲者たちを使っておぞましい実験を行いました。

硫酸を使って肉や骨を溶かしたり、ロボトミー手術を試みました。


同性愛という苦悶を抱え、両親に捨てられたことでひどく傷ついていったジェフリー。

人が犯罪に手を染めるようになるのは人生のどんなきっかけだったのか、

ジェフリー・ダーマーをより知ることで人生の過渡期を知ることができるでしょうか。

ジェフリー・ダーマー

ジェフリー・ライオネル・ダーマー(Jeffrey Lionel Dahmer、1960年5月21日-1994年11月28日、以下ジェフリー)

アメリカ合衆国の連続殺人犯。ミルウォーキーの食人鬼との異名を取る。

1978年から1991年にかけて、主にオハイオ州やウィスコンシン州で17人の青少年を絞殺し、その後に屍姦、死体切断、人肉食を行った。その突出した残虐行為は、1990年代初頭の全米を震撼させた。またこの事件では、ミルウォーキー警察当局の無能と、人種的および性的マイノリティに対する偏見がジェフリーの蛮行を許したとして厳しく非難されることになった。

ジェフリー・ダーマーの生い立ち

1960年5月21日、ジェフリーはミルウォーキーで、父ライオネルと母ジョイスのダーマー夫妻の長男として生まれた。4歳になるころ、ジェフリーはオハイオ州アクロンに引っ越す。父親のライオネルは当時、マーケット大学で電子工学を学ぶ学生で、生活は不安定だった。このため、夫妻はウィスコンシン州ウェストアリスにあるライオネルの実家に身を寄せていたが、母親のジョイスは情緒不安定気味で、妊娠中は激しいつわりに悩まされ、医師からバルビツールやモルヒネなどの投与を受け、妊娠中にもかかわらず一日あたり26錠の錠剤を服用していた。ジェフリー出産後も彼女の精神状態はひどくなる一方で、ささいなことで夫と衝突を繰り返し、次第に夫婦仲は険悪なものとなっていく。その後、分析化学で博士号を取得したライオネルは、化学企業の研究員として就職、仕事の都合で一家は各地を転々とするようになった。ジョイスは次男となるデイヴィッドを身ごもった時も薬物依存に陥り、ほとんど寝たきりになってしまっていた。妊娠中における大量の薬剤服用や投与の影響に加え、精神状態が悪化してかんしゃくを起こす母親と、研究にかまけて家庭を顧みなかった父親との間で幼いジェフリーは、精神的な安定を欠いた少年として成長することになる。ジェフリーが6歳の時、ジョイスが次男を出産する準備に入ると、ジェフリーは1日中ぼさっと座って動かなくなるという不思議な行為を見せる。彼は幼少時からほとんど笑わなかった。8歳のころに、小学校の同級生から性的な虐待を受けている。この時、双方の両親が話し合い、今回は警察には不問ということになった。

学校時代には物静かでふさぎこみがちな一匹狼として知られ、一人で森をぶらぶらして過ごすことが多かった。父から昆虫採集用の科学薬品セットをもらったジェフリーは夢中になり、猫や鼠の骨をホルマリンの瓶に採集して回った。小動物の死骸を強酸で溶かし、白い骨を取り出すのが面白く、事故で死んだ動物の死骸を集めて回ったという。犬や猫のほかに、シマリスやアライグマ、さらにはゴキブリやクモのような虫の死体も集め、それらの死体をホルマリン入りの瓶に詰めて保存していた。死んだ動物の首を木の枝に突き刺すという残忍な行為も行っている、ジェフリーは多くの連続殺人犯とは違い、生きた小動物や昆虫に対する虐待は行わなかったが彼自身のネクロフィリアの兆候はここに始まっていた。父親は事件発生後まで自宅の裏庭にあった骨塚の存在を知らなかった。かなり大きな骨塚にもかかわらず気付かなかったのは不自然でもあるが、愛情を注がなかったジェフリーの両親ならあり得た話だった。バス・タウンシップのリビア高校に入ると、知能指数の高さで注目された(IQ145を示した)が、情緒不安定と集中力の欠如から成績はまったく振るわず、授業中にヤギの声真似をして鳴いて授業妨害をしたり、知恵遅れの子供の物真似をしたり、挙げ句の果てにスーパーマーケットで試食品のアルファルファをかじり、アレルギー発作の真似をして騒動を起こすなど、趣味の悪い悪戯を繰り返す問題児として評判は芳しくなかった。

両親の不仲は年々悪化した。ジェフリーが高校生になった頃には、家の中をロープで二分して住み分けるまでになっていた。ジェフリーはますます内気になり空想を膨らましていった。ピッツバーグのPPGインダストリーズの科学者として働いていた父ライオネルは、「耐えがたい虐待と、完全な義務の放棄」という理由で提訴されていた。翌年の7月24日、サミット郡裁判所のリチャード裁判官は、「これ以上、2人が夫婦であり続けることは難しい」として、母ジョイスに、ジェフリーの弟デイヴィッドの引き取りを許可し、1978年に協議離婚が成立した。父ライオネルは姿を消し、母は弟を連れて出て行った。母はジェフリーも連れて出ようとしたが、彼は無反応であったと言われる。当時18歳のジェフリーは「成人」と見なされ、裁判所も両親も、ジェフリーのことについてはまったく触れないまま姿を消した。実質的に、ジェフリーは見捨てられたのであった。

出典:ジェフリー・ダーマー - Wikipedia

	

最初の殺人から連続殺人に至るまで

1978年、ジェフリーは高校卒業を控えていたが、離婚を巡り家庭裁判所で泥仕合を続けていた両親は、それぞれに家を出て別居しており(弟は母親の元に引き取られていた)、家には彼一人だけが取り残されていた。この頃に自分が同性愛者であることに気付き、その苦悩と孤独を紛らわせるため、アルコールに逃避することも覚えていた。高校在学中に、登校前に酒を飲んだことで教師から叱責を受けたり、ロッカーからジンのボトルが発見されたことで停学処分を受けたこともあった。

高校卒業を孤独のうちに迎えたジェフリーは、その数日後、町外れでロックコンサート帰りの19歳のスティーブン・ヒックスというヒッチハイカーを拾った。音楽の趣味が合い、また彼好みのタイプだったことから、酒とマリファナで自宅へ誘った。両親が離婚して以来、空き家となっていた自宅にヒックスを連れ込み、住んでいたころの思い出を語り聞かせた。ジェフリーは、人と打ち解けることの喜びを初めて味わったが、彼が父親の誕生日祝のために帰宅すると言い出した。彼を帰したくないジェフリーは、手近にあったダンベルでヒックスを背後から殴って、気を失ったところを絞殺。死体の衣服をはぎ取って肛門を犯し、ナイフで腹部を切り裂くと、鮮血をすくって体に浴びた。その内臓を床に広げて血だらけにし、その上を転がって射精した。その後死体を床下へ運び込み、バラバラに解体した。しばらくは手元においていたが、腐敗しだしたため、首以外の部分はゴミ袋に詰めて近くの森に埋めた。これが、ジェフリーの初めての殺人である。この殺人は衝動的なものであり、長くジェフリーのトラウマとなることとなった。この事件以後、彼はますますアルコールに依存することとなる。彼は逮捕後、この事件を「もっとも思い出したくない出来事」として語っている。

その後、再婚した2番目の妻、シャリを伴って帰宅したライオネルの勧めで、ジェフリーはオハイオ州立大学へ進学する。経営学を専攻したものの、重度のアルコール依存症に陥っていたジェフリーは授業をまともに受けられる身ではなかった。大学での彼の日常は講義に出席する代わりに、飲み代を稼ぐために血液銀行で売血し、その金で大学の寮の自室で浴びるように酒を飲むというものだった。結局、1学期終了と同時に大学から退学勧告を受けた。その後、アメリカ陸軍への入隊手続きをとったジェフリーは、アラバマ州のフォート・マクレラン基地に配属となり、憲兵になるための訓練を受けるが挫折。テキサス州サンアントニオのフォート・サム・ヒューストン基地に転属を命ぜられ、そこで新たに衛生兵としての訓練を受ける。訓練が終了すると、旧西ドイツのバウムホルダーにある、駐独アメリカ軍第8歩兵師団68連隊第2大隊に配属された。入隊当初は勤務成績も良く、順調に昇進もしていたが、ドイツ勤務となり基地内の免税店で酒が安く買えるようになると再び酒浸りの日々を送るようになり、任務がこなせなくなったため、1981年に兵役満了を待たずして除隊となる。このとき、陸軍はジェフリーの将来に配慮して不名誉除隊にはせず、健康上の理由による名誉除隊とした。なお、ドイツ駐留時代、バウムホルダー基地周辺で5件の未解決殺人事件(被害者のうち一人は女性)が発生している。ジェフリーはこれについて自白しておらず、犯人も不明のままだが、その手口からジェフリーの犯行だとする声が根強く残っている。

陸軍除隊後、ジェフリーはフロリダのリゾート地で日銭仕事をしながらぶらぶらしていたが、やがて帰郷するための交通費をライオネルに無心してオハイオへ舞い戻り、祖母の元に身を寄せることになる。ここでも相変わらず酒浸りの生活は改まることはなく、学生の時と同じように血液銀行で頻繁に売血を繰り返したためブラックリストに載せられたり、バーで問題を起こしては警察の世話になったりしていたが、その一方、経済的な安定を得るためにミルウォーキーのアンブロシア・チョコレート社の工場作業員として就職し、家族を安心させるという面も見せた。

就職してほどなく、ミルウォーキーのゲイバーやクラブに通うようになったが、そこでも無愛想で孤独な一匹狼、という評判が立った。ジェフリーは目をつけた男に睡眠薬を混ぜた酒を飲ませるようになったが、暴行目的というよりは薬の量や薬効を調べるための実験に近かった。しかし、ある日、「クラブ・バス・ミルウォーキー」という店で飲み仲間の一人が意識を失って病院へ担ぎ込まれたため、同店から出入り禁止を言い渡され、それから間もない1986年9月8日、12歳の少年ふたりにマスターベーションを見せたとして、1年間の保護観察処分を言い渡された。

出典:ジェフリー・ダーマー - Wikipedia

	

連続殺人のはじまり

1987年9月15日、保護観察期間が終わったばかりのジェフリーは、ゲイバー「クラブ219」でダイナーの見習いコックである24歳の白人青年と出会い、ホテルで一夜をともにした。ところが翌朝、目が覚めると青年は口から血を流して死んでいた。のちのジェフリーの供述ではこのとき泥酔しており、一切の記憶はなく、ショックに打ちのめされたとしている。自分が絞殺したことは間違いなかったため、事態を打開するため、クローゼットに死体を隠すと、大急ぎでスーツケースを購入、ホテルに戻って死体を詰めこむと、タクシーで祖母の家へ戻り、地下室で解体。いくつかのビニール袋に分けてゴミ収集場所に出した。この事件に関して十分な物証を得られなかった警察は告発を断念している。

1988年1月16日、「クラブ219」近くのバス停でインディアンの血を引く少年に目をつけると、ビデオのモデルのアルバイトをしないかと持ちかけて、祖母の家に連れ込んだ。そこで睡眠薬入りの飲み物を飲ませて絞殺。解体したあとは酸で肉を溶かし、骨を砕いて周辺にばらまいた。3月24日、「フェニックス」というゲイバーでヒスパニック系の青年を、やはりモデルにならないかと口説いて祖母の家に連れ込み、同様の手口で殺害している。以後、飲み物に溶かした睡眠薬で眠らせて殺害し、遺体を解体するというジェフリーのルーティンワークが確立した。ただ、このころになると、地下から漂ってくる異臭に、祖母はいいかげん耐えられなくなっていた。ライオネルに電話し、地下室を調べさせたところ、どす黒い血だまりのようなものをみつけてジェフリーを問い詰めたが、子供のときのように、動物の死骸を酸で溶かしていたと弁解するばかりだった。しかし、そろそろ一人立ちさせる頃合だと思ったライオネルは、ジェフリーに独立を促した。

1988年9月25日、ミルウォーキーの北24番街808番地のアパートに引っ越したジェフリーは、引っ越してから24時間も経たないうちに問題を起こしてしまった。翌日、ラオス人少年を自室に連れこみ、睡眠薬を飲ませたのだ。しかし少年はなんとか逃げ出して警察に駆けこみ、ジェフリーは未成年に対する性的暴行のかどで逮捕、1週間拘置された後、保釈金を積んで仮釈放となった。ジェフリーの早期仮釈放申請について、父ライオネルは、治療プログラム終了前の息子の釈放に反対する手紙を書いたにも関わらず、ジェフリーは釈放されたのであった。

4ヶ月後の1989年1月30日、ジェフリーは少年に対する性的暴行の罪で有罪判決を受けたが、判決公判が4ヶ月後に開かれることになった。判決日を待っていた3月25日、ゲイバー通いを再開していた彼は、レストランのマネージャーを務める26歳のハンサムな黒人青年と知り合った。祖母の家に連れ込むと、睡眠薬入りの飲み物、絞殺、解体、ゴミ袋に詰めるという陰惨なルーティンワークがいつものように繰り返された。祖母の家で犯行に及んだのは、警察が自分のアパートを監視していると思い込んだからである。このときジェフリーは、記念に頭蓋骨を取っておくことにした。5月23日、判事はジェフリーに1年間の刑務所外労働と5年間の保護観察処分を言い渡した。この寛大な判決により、ジェフリーは日中は勤務先で働き、夜や週末は刑務所で過ごすことになった。

出典:ジェフリー・ダーマー - Wikipedia

	

ジェフリー・ダーマーの神殿

オックスフォード・アパートメント213号室

後に「ジェフリー・ダーマーの神殿」として世界にその名を轟かすことになるオックスフォード・アパートメント213号室である。 
1990年3月、ジェフリーは仮釈放となり、新たに北25番街924号にあるアパートに居を構える。ここはミルウォーキー有数のスラム街である。のちに、「ザ・シュライン・オヴ・ジェフリー・ダーマー(ジェフリー・ダーマーの神殿)」として犯罪史に不朽の名を残すこととなるオックスフォード・アパートメント213号室である。

新居に移って間もない5月、ジェフリーは犯行を再開する。犠牲になったのはイリノイ州の刑務所を出所して間もない青年だった。6月24日にはイスラム風に頭にターバンを巻いた、「シャリフ」という愛称で親しまれたゲイの青年がジェフリーのルーティンワークの犠牲になった。7月にヒスパニック系の少年に手を出して失敗、危うく殺人が発覚しそうになったため、約2ヶ月の自粛期間を置いて9月3日に行なわれた殺人は、ジェフリーの犯行に新機軸を打ちたてることとなる。ミルウォーキーの本屋の前で出会ったダンサーの黒人青年は、ジェフリー好みの筋肉質なハンサムな男だった。いつもの手際でアパートへ連れ込み、睡眠薬を与えると2ヶ月間封印した破壊衝動を押さえきれなかったのか、喉を掻き切った。そして、いつものように解体しただけでは飽き足らず、食人行為におよんだのである。さらに2週間後、行き当たりばったりで拾った23歳の黒人青年も、ダンサーと同じ運命をたどった。

1991年2月18日、19歳の黒人青年がジェフリーのルーティンワークの材料になる。さらに2ヶ月後の4月7日、やはり19歳の黒人青年をオックスフォード・アパートメント213号室へ招待したが、このときはロボトミー手術を施そうとしている。動機は殺して写真と死体の一部を残してもさみしさだけが募るから、それよりは自分の言いなりになる理想の恋人を自分の手で作り出そうというものだった。しかし、頭蓋骨に穴をあけて塩酸を流し込むというおぞましい手術は失敗に終わり、結局いつものルーティンワークに立ち戻っている。

5月24日には31歳の聾唖者がオックスフォード・アパートメント213号室に消えたが、それから数日と経たないうちに、14歳のラオス人少年を毒牙にかける。このときはいつもの手順を踏まず、彼に睡眠薬を飲ませて性的暴行を加えた後、再びロボトミー手術を試みている。その後、少年はジェフリーがビールを買いに出かけたすきをねらって脱走したが、意識がもうろうとしていたため全裸のままアパートのそばでへたり込んでしまい、一時はアパート周辺は騒然となった。しかし、駆け付けた警官がジェフリーの、これは恋人同士の痴話喧嘩だという説明を信用して引き上げてしまったため、少年は助からなかった。

6月30日、シカゴでおこなわれたゲイ・プライド・パレード見物に訪れたジェフリーは、そこで新たな犠牲者を誘った。それから5日後には再びシカゴを訪れ、23歳の黒人青年をミルウォーキーのオックスフォード・アパートメント213号室に誘った。このとき、青年の友人はジェフリーの誘いを受けるべきかどうか相談されて、「行けよ。彼、まともそうな感じじゃないか」と答えたが、後にこの友人は後悔の念をにじませながら、「連続殺人者が、どんな顔か知っている奴なんかいないよ」と語っている。

7月15日、ジェフリーは6年間勤務したアンブロシア・チョコレート社を解雇された。理由は頻繁な欠勤と遅刻、それにともなう勤務成績の急激な悪化だった。また、家賃の滞納が続いたため、7月いっぱいで部屋の立ち退きを迫られていた。このころになると、もはや普通の人としての仮面をかぶり続けることすら不可能になりつつあった。犯行も終盤を迎えると、かなり行き当たりばったりに犠牲者を手にかけるようになり、ただでさえ手狭な部屋はこれまで手にかけてきた犠牲者のバラバラ死体であふれかえり、異臭はもはやアパート全体を覆いつくすほどだった。解雇通知を受け取ったジェフリーは、その日のうちに24歳のトラック運転手に声をかけ、いつも通りの犯行におよぶ。7月19日、ミネソタ州から仕事を探すためにミルウォーキーを訪れていた失業中の白人青年をオックスフォード・アパートメント213号室へ招待した。17人目の犠牲者だった。

出典:ジェフリー・ダーマー - Wikipedia

	

逮捕・家宅捜索

1991年7月22日午後11時30分。北25番街を定時巡回していたラルフ・ミュラー巡査とロバート・ロース巡査は、「助けて!」という悲鳴を聞きつけ、すぐさまパトカーを急停車させると、前方から左手首に手錠をぶら下げた黒人の男がパトカーの方に走ってきた。男は、近所のアパートに住む頭のおかしい白人の男に殺されかけたと訴え、ふたりは半信半疑ながら、男の案内でそのアパート──オックスフォード・アパートメントへ向かった。問題の男の住む213号室のベルを鳴らすと、ブロンドのハンサムな白人青年が顔を出した。男は礼儀正しく警官に応対したが、背後から強烈な悪臭が漂いだし、さらによく見るとアルコール依存症特有の症状が出ていた。男はジェフリー・ダーマーと名乗り、失業したばかりで酒を飲んだくれていたことや、悪ふざけで手錠をかけたことを申し訳なさそうに話した。警官が手錠の鍵を部屋に取りに行こうとすると、何かを思い出したように捜査を拒絶し激しく暴れ出したため、その場で手錠をかけられた。

巡査の一人がジェフリーの前科照会をおこなったところ、1989年に少年に対する性的暴行の廉で有罪判決を受け、5年間の保護観察下に置かれていたことが判明した。直ちに部屋の中を捜索すると、黒人青年の手錠の鍵とともに、大量のバラバラ死体のポラロイド写真が発見された。さらに冷蔵庫から肉片や内臓などを入れたビニール袋、切断された複数の頭部が発見された。その後の家宅捜索で、容量260リットルのポリ容器からは酸で溶解された3人分の胴体をはじめ、着色された頭蓋骨が複数、キッチンの鍋からは切断された手が数本と男性器が1本発見された。床には引きはがされた皮膚や切断した指などが無造作に捨てられていた。また、被害者のものと見られる運転免許証や社会保障カードなどの身分証明書のほか、死体の解体に使われたチェーンソーや解剖器具などが押収された。検死官が最終的にまとめた報告書によれば、発見された人体は全部で11人分だった。また、捜索にあたった刑事たちの何人かは黄色い防護服に身を包み、防毒マスクをつけたまま捜索と証拠物件の押収に当たった。凄惨さを極めた部屋の家宅捜索では、数々の犯行現場に立ち会った刑事の中にすら気分を悪くする者がいたり、中でも人肉がぎっしり詰まった冷蔵庫が運び出されたときはあまりの悪臭に周囲の野次馬が後ずさりし、嘔吐するほどだったという。

出典:ジェフリー・ダーマー - Wikipedia

	

「なんてこった! 人間の頭が入っているぞ!?」

玄関に置かれた樽状の青いポリ容器は塩酸で充たされ、中では3つの胴体が溶解されている。

冷蔵庫の中には人肉の他に食料らしいものは冷凍のフライドポテトくらいで、あとはステーキソースとマスタードソースが1瓶づつあるだった。

ミルウォーキー警察の失態

ジェフリーの事件でとりわけ悲劇的だったのは、犠牲者の一人、14歳のラオス人少年のケースである。この少年の兄は、1988年にジェフリーに性的暴行を加えられた被害者だったのだ。この事実に加え、さらに、みすみす少年をジェフリーの手に返した3人の警官が、先刻解決したつもりでいたゲイ同士の痴話喧嘩を笑い話のネタにしたのだが、たまたまテープレコーダーのスイッチがオンになっていたため、会話がしっかりと録音されていた。ジェフリーがラオス人少年殺害を自供後、このテープが外部に流出し、ラジオとテレビで放送され、ミルウォーキー警察は米国中から非難されることとなった。その後、この3人の警官に対し、職務怠慢のかどにつき懲戒免職処分が発表されたが、警察に対する怒りは収まらず、ミルウォーキー警察本部長フィリップ・アレオは世論からの全方位からの集中砲火にさらされたあげく、警察組合から部下を守らなかったとして不信任案を議決された。ミルウォーキーの黒人やアジア系住民からは、警官たちは明らかに白人のジェフリーの方を信用し、有色人種の少年の方を無視したと見なされた。ジェフリーの事件で、ミルウォーキーの人種間緊張が高まった。8月にはミルウォーキー市内で一連の事件の犠牲者の追悼集会が開かれ、その際、怒りで興奮した群衆による暴動が懸念されたが、ジェシー・ジャクソン師ら黒人運動指導者の働きかけにより、これは回避された。

出典:ジェフリー・ダーマー - Wikipedia

	

裁判・その後

1992年1月27日から2月15日にかけて、ジェフリー・ダーマーの公判がセイフティ・ビルディング5階の法廷で開かれた。容疑事実は既にジェフリーが認めていたため、弁護側は精神異常による無罪を申し立てた。しかし、1992年2月15日、陪審は10対2の過半数で弁護側の主張を退け、オハイオ州でおこなわれた最初の殺人事件と、告発を断念した2件目の殺人事件を除く15件の殺人事件について有罪を評決した。2月17日、ローレンス・グラム判事は15件の殺人事件に対して、累計で936年の禁固刑に相当する終身刑を宣告した。ジェフリーは死刑を望んでいたが、ウィスコンシン州では1853年に死刑制度が廃止されていたため、その望みはかなわなかった。のちに、死刑存置州であるオハイオ州で行われた裁判でも終身刑が宣告されている。

1994年11月28日、ウィスコンシン州ポーテージにあるコロンビア連邦刑務所のシャワールームで、黒人収容者クリストファー・J・スカーヴァーに撲殺された。ジェフリー、スカーヴァーともう1人の囚人でシャワールームを清掃する職務に従事していたとき、スカーヴァーはトレーニングルームより持ち出したベンチプレスの鉄棒で2人を殴打した。まもなくスカーヴァーは看守に逮捕され、ただちにジェフリーは救急車で病院へ搬送されたが、搬送中に死亡が確認された。スカーヴァーは、自分は「神の息子」で、「父」から2人を殺すよう命令され、信用できる相手とできない相手とを教えてくれたと供述しているが、スカーヴァーもまた有罪となった。しかし、人種の隔たりがこのような事態を引き起こしたとも考えられている。

父のライオネルは、息子の事例研究には協力的であった。しかしジェフリーの死後、科学捜査のために彼の遺骸を解剖することに対して同意拒否をした。宗教的な理由によるものであった。

出典:ジェフリー・ダーマー - Wikipedia

	

クリストファー・J・スカーヴァー

浴室の清掃作業を命じられていた、25歳の黒人で精神異常者クリストファー・スカーバーで、凶器は運動部屋のトレーニング機材の一部分だった。

スカーバーは「自分は神の子であり、父である神の命に従いダーマーを殺害した」と主張したという。

ジェフリー・ダーマーの事件を題材とした書籍

息子ジェフリー・ダーマーとの日々 - ライオネル ダーマー

死体しか愛せなかった男 ジェフリー・ダーマー - ブライアン・マスターズ

ジェフリー・ダーマーの事件を題材とした映画

ジェフリー・ダーマー ミルウォーキー連続虐殺食人鬼

【監督・脚本】 デヴィッド・R・ボウエン 

【キャスト】

キャシディ・フィリップス

ジェーン・バスコム

ランド・セントクレア

アンドリュー・イングリッシュ

ジェフリー・ダーマー

【監督・脚本】デヴィッド・ジェイコブソン

【キャスト】

ジェレミー・レナー

ブルース・デイヴィソン

アーテル・カヤルー

18歳で初めて殺人を犯した彼は、死体と交わることに快感を覚え、ついには人肉を食べることを思いつく。合計17人を殺害した殺人鬼の残忍な手口が蘇る。

出典:ジェフリー・ダーマー (映画) - Wikipedia

	

ジェフリー・ダーマー ライジング

【監督】リッチ・アンブラー

【脚本】ウッド・ディキンソン、クリストファー・ライアン

【キャスト】

ボー・スヴェンソン

スコット・コーズ

キャシー・バーネット

ジャニーン・ハッチングス

アメリカ犯罪史上、もっともおぞましい猟奇殺人者、ジェフリー・ダーマーの凶行を、父親の視点から描いた実録サイコスリラー。高校を卒業したばかりで最初の殺人を行い、数々の凶行を続けた息子を阻止できなかった親の葛藤を赤裸々に綴っていく。

出典:Amazon

ジェフリー・ダーマー・ライジング [DVD]
【脚本】ダーフ

【キャスト】

アン・ヘッシュ

ヴィンセント・カーシーザー

アレックス・ウォルフ

ロス・リンチ

ダラス・ロバーツ

著者プロフィール
Sharetube