伝説のロックバンドQueenのフレディ・マーキュリーとは
映画ボヘミアン・ラプソディが良かったのでフレディ・マーキュリーについてまとめてみました。
ロックバンドQueenとは
イギリス・ロンドン出身の男性4人組ロックバンド。1973年にデビュー。イギリス、アメリカ、日本をはじめ、世界中で成功したバンドの一つである。これまでに15枚のスタジオ・アルバム、その他多くのライブ・アルバムやベスト・アルバムを発表。現在の認定セールスでは、アルバムとシングルのセールスで世界第5位の3億枚を超え、「世界で最も売れたアーティスト」にも名を連ねている。
メンバー
フレディ・マーキュリー(リードボーカル 、ピアノ)ブライアン・メイ(ギター)
ロジャー・テイラー(ドラム)
ジョン・ディーコン(ベース)
全員が作詞作曲を行い、ギター・キーボード(ピアノ・シンセサイザー・チェレスタも含む)が演奏できるため、上記に当てはまらないケースも多い。
Queenのボディガードを務めた伊丹久夫さんのエピソード
「私は剣道をやっていて、インターハイの団体で優勝したことがあります。それを伝えたら、フレディさんは一目置いてくれました」と語るのは、警備会社の東京パトロール代表取締役・伊丹久夫さん。75年4月の初来日公演以来、公私7度の来日に際して、フレディのボディーガードを務めた。
「メンバーそれぞれに1人ずつボディーガードをつけて対応しました。フレディさんは大の買い物好き。招き猫の置物が欲しいと言うので店に案内したら、『違う! 私の欲しいのは芸術性の高いアンティークだ』と叱られました。青山の骨董通りや成城にいい品があると聞きお連れしたんですが、違うと言われ続けました。後に京都のある店で、『これだ!』と満面の笑みで購入されました。
日本の美術に精通していて、九谷焼や浮世絵に興味を持っていましたね。200万円の値のついた浮世絵を前にして『イターミ、これは本物か?』と聞くんです。私にわかるはずもないのに。
メンバーはボディーガードを大切にしてくれました。私たちと通訳だけが招かれて食事をすることも多く、おかげで京都の吉兆や博多の屋形船などでご馳走になりました。来日のたび、プレゼントもいただきました。カルティエの置時計、ライター、カフスなど。フレディさんは『イギリス人は、信頼を置く人にはカルティエを贈るんだ』と言ってました。離日する日に空港に向かう車で店に寄って『イターミ、腕時計を選べ』と言われ、一番安いのを指さしたら、『こっちにしろ』と一番高い時計を買ってくれました。
82年の西武球場公演でのこと。ビップルームに呼ばれて行ったら、豪華なケーキがありました。私の会社の設立10周年を祝うサプライズパーティーだったんです。『イターミには内緒だぞ』とスタッフに命じて、ホテルオークラにケーキを作らせ運んだそうです。
最後の来日となった86年には、真剣(日本刀)をプレゼントしてもらいました。ケンドーチャンピオンのことを覚えてくれていたんですね。胸が熱くなりました」
(取材・文/本誌・菊地武顕)
出典:QUEENフレディ・マーキュリーの大盤振る舞い 日本人ボディー...
7度の来日の際にボディガードを務めてくれた警備会社の設立10周年を祝ってくれるなんてとてもフランクですね!そしてフレディは日本の文化に非常に興味を持っていたようです。
フレディ・マーキュリーとは
フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury、1946年9月5日 - 1991年11月24日)は、イギリスのミュージシャン。ロックバンド、クイーンのボーカリスト。また、ソロ歌手としても活動した。本名はファルーク・バルサラ(グジャラート語: ફ્રારુક બલ્સારા、Farrokh Bulsara))。
フレディは、当時イギリス領だった、東アフリカ・タンザニアにあるザンジバル島のストーン・タウンで生まれました。両親はペルシャ系インド人であるパールシーで、パールシーとは、インドに住むゾロアスター教徒のことを言います。
フレディは、インドで幼少期の大半を過ごした。7歳の頃にピアノを習い始める。1954年、8歳でボンベイ(今のムンバイ)郊外のパンチガニにある全寮制の英国式寄宿学校、セント・ペーターズ・ボーイズ・スクールに通う。この頃から複数のロックバンドで活動し、ピアノとヴォーカルを担当した。ボリウッド歌手のラター・マンゲーシュカルが彼のミュージカル形式に影響を与える。12歳で、彼はスクールバンドの「ザ・ヘクティクス」、クリフ・リチャードやリトル・リチャードのカバー・ロックンロール・バンドを組織する。当時の彼の友人は、フレディは「ラジオを聴き、その後で聴いた曲をピアノで再現する、異様な能力」を持っていたと振り返る。1963年にザンジバルに戻り家族と一緒に暮らし始めたが、その翌年ザンジバル革命が起こり、アラブ人とインド人の多数の死傷者が出た。当時17才のフレディとその家族は、安全上の理由でザンジバルから逃れた。家族は、イングランドのミドルセックス州フェルサムにある小さな家へ移り住んだ。フレディはウェスト・ロンドンにあるアイルワース工業学校(現在のウェスト・テムズ・カレッジ)に入り、芸術を学んだ。その後、イーリング・アートカレッジへ進み、芸術とグラフィック・デザインの修了証書を受け取る。彼は後に、クイーンでこれらの技術を用い衣装をデザインしている。
卒業後、フレディはバンドに参加しながら、ガールフレンドであるメアリー・オースティンとロンドンのケンジントン・マーケットで古着を販売していた。彼はさらに、ヒースロー国際空港でも職に就いた。当時の友人は、彼を「音楽に対して関心を示す、静かで内気な若者」として記憶している。1969年、彼はレッケイジと改名し、バンドのアイベックスに参加する。しかし、このバンドは上手くいかず、サワー・ミルク・シーという別のバンドに加わる。しかし、このグループも、1970年前半には同様に解散した。
1970年4月、フレディは、ギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラーが所属するバンド、スマイルに加わる。メイやテイラー、それに当時彼らのマネジメントに携わっていたトライデント・スタジオが難色を示したものの、フレディの選んだ「クイーン」を新たなバンド名とした。このバンド名について、フレディは「間違いなく堂々としているし、響きもいい。それに力強さもあって、どこでも通用するわかりやすいネーミングだ。ゲイを思わせるような名前だとわかってはいたが、それはほんの一面にすぎなかった」と語っている。同じころ、フレディは名字をバルサラからマーキュリーに改めた。
私生活
フレディと親友のメアリー・オースティン
恋人だった2人は破局しますが、それでも友人関係は彼が亡くなるまで続きました。
1970年代初期から、メイの紹介によって知り合ったメアリー・オースティンと交際、1970年代中頃までウェスト・ケンジントンで共に生活するも、マーキュリーがエレクトラ・レコードの重役のアメリカ人と浮気したため破局。その後も二人は友人としての付き合いを続けた。1980年代前半、オーストリアの女優バーバラ・バレンタインと交際していたが、その後、破局。1984年より、ジム・ハットンと交際を始め、それ以後、死に至るまで約7年の間付き合う。ハットンはその穏やかな性格と純粋な人柄でマーキュリーを温かく見守り、死を迎える最期まで看病に奔走し、付き添った。そのためハットンは、マーキュリーの最後で最高の恋人だったと語られることも多い。ハットンは、マーキュリーによると思われる自身のHIV感染を、本人に知られぬよう最後まで口外しなかった。ハットンは2010年1月1日に死去。
公に明かす事はなかったが、マーキュリーは両性愛者であったと思われる。前述のように私生活では女性とも男性とも恋愛関係を持ち、また、多くの老若男女を招いて乱交パーティーをたびたび行っていたようである。また、1979年頃よりバスハウス(男同士の恋愛のための発展場・バー・サウナ・ディスコを兼ねた複合施設)にも足を運んでいたという。
また、インドで育ったという過去をロックのイメージに合わないからか、隠したがっていたようである。インド出身とからかうととても嫌そうにしていたと友人が語っている。またロジャー・テイラーによると、メンバー内でもその話は避けていたという。
フレディと恋人のジム・ハットン
フレディは愛猫家であったことも有名です。ディライラという名の猫のために歌を作ってしまうほど溺愛していたのです。
フレディ・マーキュリーも通った老舗ゲイディスコ「SAZAE」
バイセクシュアルで日本びいきだったフレディですが、訪日の際には新宿二丁目によく赴いていたようです。
客には国内外の有名人も多く、その中には三島由紀夫やクイーンのフレディ・マーキュリーの姿もあったという。「三島さんはグラスを手に、踊っている人たちを静かに見ているといった感じだった。フレディ・マーキュリーは、来日公演があるとかならず"ただいま"と言ってやって来たものでした」
親日家であり、来日公演時以外にも1986年秋にお忍びで来日し、骨董品などを買い求めて行った。伊万里焼コレクターであり、ロンドンの自宅には日本庭園を設けていた。また、新宿二丁目にあるゲイバー「九州男」には日本公演のある度に通っていたという。日本語にも通じており、来日公演時のMCの半分は日本語だった。アルバム『バルセロナ』に収録されている「La Japonaise」の歌詞の大部分は日本語で書かれている。
病気と死
彼のパートナー、ジム・ハットンによれば、フレディは1987年のイースター直後にエイズと診断された。このとき、フレディはHIVが陰性かどうかテスト結果を質問している。本人は対外的には噂を否定していたものの、英国のマスメディアは1990年頃より、フレディのやせた外観、クイーンのツアーへの不参加などから、エイズに感染しているのではないかと盛んに報じた。フレディが生前最後にステージに立ったのは、1990年2月18日にドミニオン劇場で行われたブリット・アワードの授賞式であった。日刊タブロイド新聞ザ・サンは、彼が重病だと主張する記事を掲載し、何人ものカメラマンがフレディの様子を撮影しに奔走した。1990年11月には、「これは公式だ。フレディは重病である」として一面にフレディのやつれた写真が掲載された。しかし、フレディ本人や同僚・友人などは、1991年4月29日にやせたフレディの写真が掲載された後も、絶えず噂を否定していた。
フレディの死後、ブライアン・メイは、彼がクイーンの他のメンバーに対し、早い時期に真実を知らせていたと、1993年のインタビューで証言している。1991年5月の、輝ける日々のミュージック・ビデオは彼が生前最後に出演した映像作品であるが、その写真からは見る影もなくやせ衰えたフレディの様子が窺える。
1991年6月、クイーンとの仕事を終えた後、フレディはケンジントンの自宅に戻った。死期が近づくにつれ、フレディの視力は衰え始めた。容体は急速に悪化し、ついにはベッドから出られなくなった。
1991年11月24日夜に、フレディはケンジントンの自宅で死去した。45歳という若さだった。死因は、エイズによる気管支肺炎である。彼の死を伝える報道は、11月25日の午前までに、新聞とテレビによって報じられた。フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬され散骨された。
フレディの死にともない、クイーンは活動を休止した。1992年4月20日には残されたクイーンのメンバーが中心となり、イギリス・ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートが行われた。また、「バルセロナ」を歌う予定だった同年夏のバルセロナオリンピック開会式では、ホセ・カレーラスがフレディの代わりを務めた。
死後、生前に残した遺言にしたがってクイーンでもっとも売れた曲である「ボヘミアン・ラプソディ」の印税がエイズ基金「テレンス・ヒギンズ・トラスト」に寄付された。また、それを受けて再発されたシングルCDはイギリス史上初の同一曲2度の1位を獲得した。
2006年10月21日には、ドキュメンタリー映画「フレディ・マーキュリー~人生と歌を愛した男」が公開された。この映画はDVDとして発売されている。
死後、FMA(フレディ・マーキュリー基金)というHIV感染症に関する治療費の寄付を募る団体がつくられたが、2008年12月末日にて活動を休止した。なお、FMAは日本独自で活動していた団体である。
他に、フレディ・マーキュリー追悼コンサートの収益を元に立ち上げられた財団、マーキュリー・フェニックス・トラストは、現在でも活動している。
映画 ボヘミアン・ラプソディ
【キャスト】ラミ・マレック:フレディ・マーキュリー
ルーシー・ボーイントン:メアリー・オースティン
グウィリム・リー:ブライアン・メイ
ベン・ハーディ:ロジャー・テイラー
ジョセフ・マッゼロ:ジョン・ディーコン
【監督】
ブライアン・シンガー
そんなフレディとQueen音楽が堪能できる映画だとおもいます。とくにキャストがご本人たちにそっくりなのと、ラストのライブの再現率は感動しました!
ラミ・マレックの歌唱力も素晴らしいかったです!
鑑賞後は是非ライブの映像を観てほしいです。
鑑賞前に予習していくのも良いかと思います!