みどり荘事件(大分女子短大生殺人事件)とは

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みどり荘事件(大分女子短大生殺人事件)

みどり荘事件(みどりそうじけん)は、1981年に大分県大分市で起こった殺人事件である。発生地の地名と被害者から、大分女子短大生殺人事件とも呼ばれる。

「みどり荘事件」冤罪被害者●輿掛良一さん

出典:司法改革/冤罪被害者の輿掛良一さん

くつかけりょういち。1956年、大分県生まれ。1981年の大分・女子短大生殺人事件(みどり荘事件)で不当逮捕された冤罪被害者。1審で無期懲役判決、2審で逆転無罪判決を勝ち取った(確定)。事件前まではホテル勤務。逮捕後に解雇。現在はダンプカーの運転手をしている。「当番弁護士の無料救急活動を支援する市民の会・大分」メンバー。労働組合「大分ふれあいユニオン」書記次長。

概要

1981年6月27日から28日にかけて(死亡推定時間が不詳のため確定できず)、大分県大分市のアパート「みどり荘」で女子短大生(当時18歳)が殺害された。血液型B型の唾液が検出され、被害者の血液型と異なったため犯人のものとされた。

事件から半年後の1982年1月14日に、血液型B型だった隣室の男性(当時25歳)が被疑者として逮捕された。被疑者は捜査段階や地裁公判の初期において被害者の部屋にいたことを供述していたが、裁判途中から無罪を主張。1989年3月に1審では被疑者の自白と科警研の毛髪鑑定を重視して無期懲役の有罪判決が出された。

出典:「みどり荘事件」とは (ミドリソウジケンとは) [単語記事] - ...

	

無理な取り調べ延々と


輿掛 任意の時にも、なんでこんな取り調べを受けなければいけないのかという思いがあったのですが、逮捕されてからは一段と厳しくなりましたよ。1月は大分も寒いのですが、北側2階の取調室の窓を換気のためだとしてちょっと開ける。それで風邪をひいて熱でご飯も食べられない状態だったのに、それでも朝から晩まで取り調べが続きました。薬をくれと言ってもくれない。

 ──ほとんど嫌がらせというか拷問みたいですね。被疑者の体や精神状態が弱っているのを利用して、自供に追い込もうとしているとしか考えられませんね?


 輿掛 熱があるような感じがしたと、裁判になって警察はようやく認めましたよ。そういう状況が分かっていながら、医者にも見せないで薬もくれない。きつい状況が分かっていて朝から晩まで取り調べるわけです。家族にも面会させてくれないし電話もかけられない。逮捕の時にあれだけ野次馬がいたから家族へも余計に心配するじゃないですか。家族に会わせてほしいと言うと、お前も警察の言うことを聞けと。それで供述調書を取られたんです。署名と指印をして。それと引き替えに家族と面会できました。


 しばらくしたら、別の2人が取調室に入って来ました。違う刑事かと思ったら検察官と検察事務官でした。普通ならこっちが検察庁に行くのに向こうから来たんですね。裁判になって検察官が「検察官と名乗った」と言ったので分かったけど、その時はそんなことは全然知らない。聞かれることは警察の調書と同じでしたからね。

出典:司法改革/冤罪被害者の輿掛良一さん

	

宣誓しながら刑事偽証

──1審の裁判はどんな感じで行われましたか?

 輿掛 もう全部が敵で自分の味方は家族と弁護士だけでした。孤立している状態です。大分で、しかも殺人事件の犯人で、おまけに被害者が女子大生ですから「極悪非道」ということになっているわけですよ。その中で弁護団が、検察側の主張・立証を一つずつ崩していく弁護をしてくれました。


 自分の手に古い傷があったのですが、検察側は事件の夜にできた新しい傷だと主張しました。新しくできた傷だと言うのなら、なぜ証拠として記録を残さなかったのかと弁護士が質問したら、刑事は「マスコミがいて、カメラを取調室に持ち込めなかったから写真が撮れなかった」と言い訳するのです。そんな証言を1審の裁判官は信用して有罪判決を出すんですね。刑事が取調室にカメラを持ち込んで何が悪いんですか。堂々と持ち込めばいいじゃないですか。


 さらに「任意だから写真撮影を待つように上司に言われた」と言い出すんです。任意取り調べの段階で自分にポリグラフまで受けさせたというのに。警察も古い傷だと認識したからこそ、写真に残す必要がないと考えたわけです。それを裁判になってから新しい傷だと言い出した。法廷で宣誓しているのに平気でうそをつくんです。裁判官も曇った目で見ているから、こっちの言うことは全然聞いてくれない。

出典:司法改革/冤罪被害者の輿掛良一さん

	

無罪

控訴審では事件現場の遺留品であった犯人の毛髪は直毛であり事件当時パンチパーマだった被告人と一致しないなどの鑑定書に多くの矛盾が指摘され、1994年8月に殺人事件では異例の保釈がされた。1995年6月30日には無罪判決が出され、同年7月13日に検察も上告を断念して確定した。事件発生から14年が経過していた。

無罪判決において被告人以外による真犯人の存在が示唆されており、殺人罪(当時は15年)の公訴時効(1996年6月28日)が成立するまで約1年あり、犯人の毛髪という重要な遺留品も存在したが、捜査機関である大分県警は再捜査を一切行わなかった。

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間違いだらけの鑑定書

──2審は1審とは違って、まともな裁判だったのでしょう?

 輿掛 控訴して福岡に行ったんですけど高裁も、1審で有罪判決が出たんだから決まりじゃないか、弁護団や被告は何を言うことがあるんだという感じでしたね。いつ結審して控訴棄却されるかという状況でした。裁判官なんか腕を組んで目をつぶって…。寝ているのか、本当に聞いてくれているのかと不安になりました。そういう状況で控訴審が始まりました。


 弁護団が3人加わって5人に増えたんですね。1審判決を聞いて「これはおかしいじゃないか」と地元の弁護士が名乗りを上げてくれたんです。弁護団が控訴趣意書を出して刑事の再尋問がやっと認められました。この刑事が1審の時と同じことを聞かれたら2審では違う証言をしたんです。


 自分を犯人にするために1審でうそを言っていたわけですよね。うそというのは1回ついたらもう忘れるじゃないですか。本当のことだったら何回聞かれても何年たっても答えは一つ。それで裁判所もこれはおかしいなと感じたんですね。弁護団の主張通りに証人採用され、科警研の毛髪鑑定はおかしいという九州大学の先生による鑑定書も採用された。過去の捜査が誤っているという雰囲気になってきたんです。九大の先生は「科警研の毛髪鑑定は科学の名に値しない」と証言もしてくれました。指紋も毛髪鑑定も傷の問題も、検察側の主張は全部崩れてしまいました。


 ──でも、まだ裁判は終わらない?


 輿掛 さあ無罪判決だという時に、裁判所が職権でDNA鑑定をすると言い出して筑波大に鑑定依頼しました。2年経って、現場から採取された毛髪の中の1本から、自分のDNAと同じものがあったという鑑定が出た。それでマスコミも裁判所も再び自分はクロだと変わってしまいました。


 そんな鑑定が出るはずない。同一とされた毛髪を弁護団が調べたら、長さが全然違うんですよ。16センチくらいある。自分が提出した毛髪は一番長いのが7センチで平均5センチ前後。さらに形態からして違う。当時はパンチパーマをかけていましたが、同一とされた毛髪は直毛なんです。


 鑑定書の中身もおかしかったんですよ。それは自分が発見したのですが、写真に出ているDNA鑑定の数値と文章の中に出てくる数値が50数カ所も間違っているんですね。こんな鑑定が出るわけがないという思いで、拘置所に差し入れてもらった鑑定書を朝から晩までずっと見ていて、おかしい部分の数字を便箋に書き出して写真と見比べてみたんです。どう見ても何回見てもおかしい。

出典:司法改革/冤罪被害者の輿掛良一さん

	

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Sharetube