【雑学】黒船来航の際、アメリカ側とオランダ語で会話をした
オランダ語を話せる乗組員に通訳させた。
オランダ語を話せる乗組員に通訳させた。
乗組員が話したオランダ語を、堀達之助という通訳が日本語に訳し、幕府の役人に伝えた。
注目すべきは、両者の会話がオランダ語で行われたことです。
鎖国中の日本に「英語」を話せる文化など殆どないはず…。一体どうやって会話したんでしょうか?結論から言うと「オランダ語」で会話したんです!
ペリー側の英語での発言を艦隊の通訳がオランダ語に訳し、それを森山ら日本側の通訳が日本語に訳す。幕府側が発言する時はその逆、という流れだった。
ペリーの旗艦サスケハナ号に番船を横付けした堀が発した第一声は、「アイ キャン スピーク ダッチ」(私はオランダ語を話すことができる)。その後の交渉も主にオランダ語で行われました。
通訳、堀達之助がオランダ語で話したという記述があった。
出典:ペリー来航の時、交渉にオランダ語が使用されていたことを確...
『日本遠征記』 2 ペルリ提督著 ; 土屋喬雄,玉城肇訳 岩波書店 , 1948 (岩波文庫 青-422-2)p.189-190
その他情報
鎖国していたのに、なぜオランダ語は話せた?
日本は鎖国中でも長崎県の出島を通じて、中国、朝鮮、そしてオランダなどの一部の国との交易をしていました。全くもって交易をやめてしまうと世界情勢がわからなくなってしまうからなんです。
日本側に英語を話せる人材は、いました。しかし敢えて英語を使わなかったのだと、思われます。理由は、相手国の言葉をしゃべることが、相手国の土俵に乗ることだと考えたからでしょう。
江戸時代末期のペリーの黒船来航以来、わが国は英語による外交の必要性に迫られました。 それまでは、海外の科学や文化、政治などを学ぶのにはオランダ語が中心でした
ペリーはお土産を持ってきていた
ペリーは交渉の時、幕府に贈り物をした。ペリーからは小型蒸気機関車と電信装置が来た。
出典:歴史伍の巻