「四大死刑冤罪事件の一つ」島田事件とは
島田事件
島田事件(しまだじけん)とは1954年3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人、殺人死体遺棄事件である。被告人が死刑の確定判決を受けたが再審で無罪になった冤罪事件。四大死刑冤罪事件の一つ。
お遊戯会にて
1954年3月10日日曜日。この日、静岡県島田市の快林寺境内にある中央幼稚園で「卒園記念お遊戯会」が開かれていた。園には父兄や近所の人が来場し、屋台も出るなどかなりにぎやかだった。
正午過ぎ、午後の出番待ちで園内で遊んでいたH子ちゃん(6歳)が若い男に誘い出され、行方不明となった。すぐに大掛かりな捜索が行なわれたが、12日になっても発見できなかった。
連れ去りの目撃者は9人いた。H子ちゃんの友達、通行人、そして蓬莱橋の橋番である。蓬莱橋は大井川にかかる木造歩道橋。今では数少ない賃取橋である。事件当日、目撃者の橋番は、通りかかった少女を連れた男に橋銭を要求したが、「後で払うから」とそのまま行ってしまった。これが最後の目撃証言である。
こうした目撃証言はいずれのものも、ほぼ一致しており、H子ちゃんを連れ去った人物として「若い勤め人風で、ネズミ色の洋服を着た男」というのが浮かんできた。
13日早朝、隣村の大井川沿いの通称「地獄沢」の雑木林で、H子ちゃんは絞殺死体となって発見された。遺体はパンツ一枚で、シュミーズで顔を覆われており、左胸部の傷、外陰部裂傷のため血まみれで、左頬にもカラスについばまれたと見られる無惨な傷があった。
警察医・鈴木完夫による遺体解剖の結果、犯人はまず首を絞め、半死半生の状態で陰部に加傷、H子ちゃんの胸を強打したということがわかった。姦淫があったかどうかは不祥だった。
警察は目撃者の話をもとに痩せ型で色白の、七三分けの髪型のサラリーマン風の男のポスターを作成した。だがそれでも、犯人にたどりつく証言は得られず、5月に入って捜査は行き詰まりを見せた。
当時、静岡県下では少女暴行事件が頻発していた。
警察は地元の不良や猥褻常習者、ヒロポン中毒者、浮浪者、精神障害者を中心に230人を取り調べたが、それぞれにアリバイがあり、犯人はあがらなかった。
出典:島田事件
放浪の果て
5月24日、岐阜県鵜沼町の町外れを放浪していた住所不定・赤堀政夫さん(当時25歳)が職務質問され、逮捕された。破れた黒の学生服、裾の切れたカーキ色のズボンというボロボロの風体の赤堀さんは、そのまま島田署に移された。赤堀さんは市内の出身である。警察の不審者リストにも名前が挙がっていた。
3歳の頃に脳症にかかって軽度の知能の遅れがあり、学校でも仲間はずれにされた。小学校の学績簿には「精神的に劣る。何事も原始的の観あり、永続性なし。性温良なり、教師の命によく服従す」とある。次第に学校をさぼって仲間1人と空き巣をしたりした。
卒業後は川崎市の工場へ旋盤工の見習として勤務したが、3ヶ月で島田市に戻り、そこで終戦をむかえた。失業すると、友人と野菜や鶏を盗んで捕まり、46年11月、懲役1年以上3年の不定期判決を受け、松本少年院に送られた。1ヶ月後、八王子少年院に移され、防火用水に投身自殺を企てたが未遂、刑の執行停止によって実家に戻った。
それからはしばらく土木会社、土建会社に勤めるが、またも窃盗をはたらき懲役8ヶ月の刑で静岡刑務所に送られた。ここでも自殺未遂で刑執行停止となるが、分裂症とされて精神病院に1年間入れられた。退院後は静岡刑務所に戻され、府中刑務所に移され服役。53年7月、つまり事件の起きる8ヶ月前に釈放された。
「バカ」の他に「前科者」というレッテルをはられた赤堀さんは定職にも就けず、家を出て各地を放浪するようになった。
逮捕の翌日、赤堀さんはなぜかいったんは釈放された。これは犯人のモンタージュとはとても似つかなかったからであろうと思われる。新聞報道にも「赤堀はシロか」とあった。
赤堀さんはそのまま帰宅となるはずだったが、警察から「職を世話してやる」と言われ「金谷民生寮」に送られた。赤堀さんはこの寮で農家の仕事や寮の掃除をして過ごしていた。兄・一雄さんが迎えに来ても、警察は所在を教えなかったという。
5月28日、お賽銭を盗んだとする窃盗の容疑で別件逮捕。この逮捕は多数のカメラマンが待ち構えるなかで行われた。
ここで激しい拷問を加えられたとされる。この時の県警スタッフは幸浦、二俣、小島、丸正事件を捜査指揮したメンバーだった。
事件当日のアリバイについて聞かれた赤堀さんは、――流浪の身で、あの日どこにいたかを思い出すのは難しいのだが――神奈川県平塚あたりの神社でボヤ騒ぎを起して警察に調べられたことを思い出した。ところが平塚署に照会したところ、「そのような事実はない」とされた。
5月30日、ついに赤堀さんは幼女殺しを自白。
「H子ちゃんの上に乗りかかって姦淫し、その結果同女に外陰部裂創等の傷害を負わせたが、同女がなおも泣き叫んで抵抗し、意のままにならないのでひどく立腹し、同女を殺害して犯行の発覚を免れようと決意し、付近にあった拳大の変形三角形の石を右手に持って同女の胸部を数回強打し、両手で同女の頚部を強く絞めつけ、窒息死させた」
出典:島田事件
赤堀政夫(当時25歳)の逮捕と自白強要・裁判の経過
赤堀政夫は、幼いときに脳膜炎を患い、精神医学では「魯鈍」といわれる軽度の精神薄弱者で定職がなく、この事件の当時は放浪生活をしていました。事件後3か月近く経過した5月24日、彼は岐阜県美濃太田から犬山方面に向かっていたところを警察官に職質され、氏名や本籍などを正直に答えました。島田警察が全国手配している者の中に赤堀の名前があることを記憶していた警察官は、彼を鵜沼の派出所に同行し島田署に連絡、“殺人犯人”として逮捕されるなど夢にも思わない彼は、警察で飯を食わしてもらいながら「島田に帰りたい」と、島田署員が迎えに来るのを心待ちにしていました。赤堀は、事件当時のアリバイから追及され、事件前後は放浪生活をしていて、神社のお賽銭を盗んだことなど正直に供述し、5月25日、窃盗の容疑で逮捕されましたが、久子ちゃん殺しについては「白」として釈放されました。
しかし警察は、彼を自宅に帰すのではなく、金谷の民生寮に泊るように手配し、「有力容疑者つかまる」との報道に心配した兄の赤堀一雄には、そのことを教えなかったのです。何も知らない赤堀は、寮の掃除などして楽しそうに過ごしていました。
そして3日後の5月28日、警察は彼を「お賽銭泥棒」の犯人として再逮捕したのです。典型的な“別件逮捕”です。取調べは島田署や署長官舎の8畳間などで行われました。彼は、「羽切平一、相田兵市、山下馨、秋山三郎、飯田宙一、清水初平、稲葉定信といった刑事たちが、私の目の前で子供を連れ出すところやごうかんする格好を、手まねや身振りで教えてくれるのです(一審の上申書)」。「私が知らないというと、かんかんに怒り、両手で首を絞めつけたり、両腕をつかんで逆にねじったりしたんです。便所にも行かせてくれず、調べ中に一回小便をもらしてしまって、下着がグジョグジョになってしまったんです(再審請求出張尋問)、と厳しい拷問を訴え続けました。
こうした拷問でウソの自白を強制、作り上げた警察官調書は16通、検察官調書は6通に上り、赤堀は殺人犯人として起訴されました。
裁判は次のような経過を経て彼は無実の死刑囚とされ、差し戻し審で無罪判決を獲得するまでの32年におよぶ間、死の恐怖におののきながら獄中生活を強いられたのです。
33年5月23日 静岡地裁で死刑判決
35年2月17日 東京高裁で控訴棄却
12月15日 最高裁で上告棄却
37年2月28日 第1次再審請求棄却
39年10月3日 第2次再審請求棄却
41年6月 8日 第3次再審請求棄却
52年3月11日 第4次再審請求棄却
58年5月24日 東京高裁が第4次請求棄却決定を取り消し静岡地裁に差し戻し
61年5月30日 静岡地裁再審開始決定
平成元年1月31日 無罪判決・検察側控訴せず確定
赤堀は無罪獲得のため34年8ヶ月を要した。
その他
この事件では、男性の犯罪の証拠とされたものは上記の事件の犯行を認めた供述調書であり、事件への関与を証明する物証に乏しかった。男性に供述を強要して虚偽の供述をさせた調書の殺害方法は、鈴木医師が被害者を司法解剖して鑑定した結果と異なっている。複数人の目撃証言が一致する、被害女児を誘拐して犯人と推測される男の人相・体格と、男性の人相・体格は著しく異なっているが警察は無視した。
無実の男性を犯人視して以降はそれ以外の捜査を行わなかったので、殺害事件の真犯人を探し出すことはできなかった。
四大死刑冤罪事件
四大死刑冤罪事件
免田事件
出典:e_menda_
1948年12月29日深夜、熊本県人吉市で、Sさん夫婦{夫(76歳)、妻(52歳)} が殺され、娘さん2人(当時14歳と12歳)も重傷を負う事件が発生した。警察は、この事件について興味深げに話していた免田栄さんの事を聞きつけ、怪しいとにらみ、1949年1月13日夜に連行、翌日未明に別件の逮捕状を執行した。
強盗殺人罪等により起訴された免田さんは「死刑判決」が確定した。
無実を訴え続けた免田さんは、第6次再審請求が認められ再審裁判が開始となり、1983年7月15日に熊本地裁において本件につき無罪の判決を受け、日本 の裁判史上初めての”死刑確定者の再審無罪による生還”となった。
財田川事件
財田川事件(さいたがわじけん)は、1950年(昭和25年)2月28日に起きた強盗殺人(刺殺)事件とそれに伴った冤罪事件である。日本弁護士連合会が支援していた。なお、地名の「財田」ではなく川の「財田川」と呼称する由来は、1972年に再審請求を棄却した裁判所の文言で「財田川よ、心あれば真実を教えて欲しい」と表現したことである。
松山事件
出典:松山事件紹介
1955(昭和30)10月18日、宮城県松山町で、幼児を含む一家4人が殺害され、住まいに放火された事件。近在の斎藤幸夫さん(当時24歳)が逮捕・起訴されました。1960年(昭和35)11月、最高裁で死刑判決が確定。斎藤さんは無実を訴えて再審請求を繰り返しました。再審段階で検察側から裁判不提出記録が開示され、昭和59年7月に無罪判決。29年ぶりに死刑台からの生還を果たしました。
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